山形城
2018年06月14日 | 旅
最上義光騎馬像 ―出羽山形藩の初代藩主―
山形城は、1357年に斯波兼頼が築城した輪郭式平城。
最上家の先祖は、清和源氏足利家の一族である斯波氏からの分家で、室町幕府より地名の役職を与えられて最上氏を称し1357年に初期の山形城を築いた。
そして、関ヶ原の戦いの功績で最上義光(よしあき)は57万石の大々名になると、実質100万石の城下町として繁栄した。
別名が霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)なのは、関ヶ原の合戦の際、義光は東軍に組したため、直江兼続(上杉軍)の侵攻を受けた。兼続は山形西の富神山に登り、山形城を望んだが霞がかかって所在が分からなかったためといわれる。
右は、二ノ丸東大手門で櫓門と続門、右端の北櫓で構成される。
東大手門で大手を広げて毛づくろいする猫。
城の住所は「山形市霞城町1番7号」で公園の駐車場は無料。
蔵王の伏流水で打ったソバがおいしかった。
上の1.5人前と2人前の板蕎麦。たっぷり。
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山形城は、1357年に斯波兼頼が築城した輪郭式平城。
最上家の先祖は、清和源氏足利家の一族である斯波氏からの分家で、室町幕府より地名の役職を与えられて最上氏を称し1357年に初期の山形城を築いた。
そして、関ヶ原の戦いの功績で最上義光(よしあき)は57万石の大々名になると、実質100万石の城下町として繁栄した。
別名が霞城(かじょう)、霞ヶ城(かすみがじょう)なのは、関ヶ原の合戦の際、義光は東軍に組したため、直江兼続(上杉軍)の侵攻を受けた。兼続は山形西の富神山に登り、山形城を望んだが霞がかかって所在が分からなかったためといわれる。
右は、二ノ丸東大手門で櫓門と続門、右端の北櫓で構成される。
東大手門で大手を広げて毛づくろいする猫。
城の住所は「山形市霞城町1番7号」で公園の駐車場は無料。
蔵王の伏流水で打ったソバがおいしかった。
上の1.5人前と2人前の板蕎麦。たっぷり。
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画像の記憶はありますが・・・
「最上義光騎馬像」だったのですね
凛々しいです
Kさんも山形城を訪ねてましたか。最上川は次の俳句などで名高いですが、最上氏はイマイチな印象です。
「五月雨を 集めて早し 最上川」芭蕉
山形観光は、いい勉強になりました。
城の住所「霞城(かじょう)町」が読めなくて、カーナビに入力できず、カ行でやっと探し当てて案内されました。
歴史の勉強になります。
スッゲー (笑)
そうでしたか、最上氏は山形城主だったのですね。
「もがみ」は、「さいじょう」ですものね。
>「もがみ」は、「さいじょう」ですものね
うまい~!!
ちなみに 自分は
最上 より 最中(もなか)が 好きです
すみません
やはり、あの合歓の木(ねむのき)の仲間なのですね。
美しい羽根の絶滅危惧種を目にすると、パワーをさずかった気になります。
> 最上 より 最中(もなか)が 好きです
「さいじょう」な「もがみ」で、食べる「もなか」もなかなか好いですね。
きょうの拙宅は、山形城のつづきに「山形旧県庁舎」を しました。
板蕎麦は、越後のへぎ蕎麦のように小分けしてませんが、二人前を食べて満腹でした。この後に、山寺に向かいました。
前に山形市に行っていましたが、せっかくの機会ですから「寄ったろう」と思い山形城にははじめて訪ねました。
時間があれば、上杉謙信巡りもよさそうです。
ついふらりと一人旅に出たくなります。