富士重工に勤務していた作家、黒井千次=写真=の『五月巡歴』(1997年河出書房新社)を読みました。
久しぶりに主人公に感情移入ができ日本小説の繊細さを感じ取れる作品でした。
職場での「人事部御指名労働組合」(本文より)にあき足らない先鋭的な婦人部系女子社員たちと、本社人事部との対立に巻き込まれる主人公、館野杉人。
闘争的で一途な女子社員たちとは対照的に、群れから離れひたすら自由奔放で性的な元部下との不倫、情事。
主人公は40歳、1952年の血のメーデー事件に学生運動家として参加していた過去を持つ。その時逮捕され今も公判中の元学友には、証人になってほしいと依頼を受けている。しかし内心では、今は大学同級で同志的だった妻との間には2人の小学生の子があり、過去のことは忘れ去りたい気持ちが強い・・。その思いとは裏腹に事態がそれを許さず彼の闘争本能に無理やり火をつけようとする・・。
活動家だった過去の自分を伏せて会社生活を送っている場面は、島崎藤村の出自を隠して教師生活をしていた『破戒』の丑松(うしまつ)の心の動きにも似たものを感じさせられた。
黒井の作品が、「内向の文学」と言われるゆえんを早くも理解できた。
主人公の不倫を知った妻、美緒子の怒りの言葉がいい。
「貴方は嘘をついたわね。私をだましたわね。貴方は自分自身も裏切っているのよ。あの頃の貴方はどこに行ってしまったの。貴方の民主主義なんて誰が信じられるの!」民主主義とは何かと問うと、妻は叫ぶように言い放った。
「私たちの民主主義よ。黄金の民主主義よ。学生時代も就職するときも結婚する時もそれがあったじゃない。世の中がどんどんおかしくなっても、まだ私たちのところにはそれがあったじゃない。でももう、貴方を守る民主主義なんて誰が信じられるの!」
【偽りの心】Your Cheatin' Heart - Elvis Presley (1958)
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