「火の用心鶏」と「諫鼓鶏」は型を起こすのが遅いほうだったので急いで素焼きした一番窯分がぎりぎり塗りあがった「火の用心鶏」です。「諫鼓鶏」はまだ塗りあがっていません。二番窯の素焼き分も遅れて焼き上がり、塗りに入っていますが、一番窯分はぎりぎり「羽子板市」に間に合うかな、、というところです。
以前にもお伝えしたかと思いますが、この人形は伏見人形由来の「与市兵衛」(浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」五段目「山崎街道」に出てくる「お軽」の父親で、婿である「早野勘平」(実録では萱野三平)のため娘「お軽」を祇園大文字屋に身売りさせた代金「五十両」を調達して山崎街道にさしかかる、、、、。という役。)または相良人形では「火の用心」と呼ばれている型で、東京でも文京区本郷の「真砂遺跡」から江戸在地系の土で作られ色の落ちたものが出土しています。
「とさか」の形状が炎に似ていることから、鶏は火伏の神様である「荒神様」のご眷属のようなイメージで鶏=火伏せ という迷信が昔から伝わっているので、「火の用心」の人形を鶏の姿に置き換えてみたというわけです。火伏の神様である「荒神様」のご眷属が「火の用心」の夜回りをしているという「見立て」のつもりです。画像は室内が薄暗いせいか、全体が青みがかって写っていますが、実際はもう少し赤味を帯びた感じです。
鶏の顔は正面から見ると平ったく見えるので側面や斜めからみないと何だかわかりにくいですが、当世風な「緩キャラ」みたいに顔を不自然に丸くしたりするのは好きではないのでこんな感じになりました。
背中にあるのは何に見えますか?ちょっとおバカかもしれませんが、ミカンのつもりです。お正月だから「橙」(だいだい)だと思ってもらってもよいですが、自分としては「ミカン」を背負わせたかったのです。なぜかというと、東京の下町には昔(今でも執り行っている家があるかどうかわかりませんが)、鍛冶屋、銅壺屋、鋳掛屋、錺屋さんなど仕事場で鞴(ふいご)を使って作業する家では必ず仕事場に「荒神様」をお祀りする棚があり、11月には鞴祭(ふいごまつり)を家内で執り行ったようで、そのときには鞴や神棚に「ミカン」をお供えし、町内や横丁の子供たちに「ミカン」を配ったそうです。個人的な思い出になってしまいますが、今戸焼の土人形を作ってみよう、、と始めて間もない頃、湯島にHさんという錺職人さんがいらっしゃって、この方は戦前から郷土玩具を愛好されていて、最後の今戸人形師であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになった本物の今戸人形をお持ちでした。そして「作るならお手本にしなさい」と仰って何体かお借りして作らせてもらったことがありました。お宅にお邪魔してお話していると、やはり「鞴祭」(ふいごまつり)をやっていたということでした。
「ミカン」の下に「松葉」を3つ散らしました。「荒神様」の神棚には松をお供えすることが多く「荒神松」とか呼ばれてます。どこで聞いたか忘れてしまいましたが、「荒神様」には「3」という数字が縁起がよいとか???品川の「千体荒神」さまで授与されている御幣は3本の御幣ががひとつにつながっていて、これもそれに関係するのだと思います。
とんだ売り口上のようになってしまいました。
一番窯分の「火の用心鶏」はぎりぎり「羽子板市」に向け、二番窯分はこれから塗ります。