このところ、日経新聞の文化欄に連載されている「流れるシリーズ」を興味深く読ませてもらっている。いつものように日経の文化欄は他の新聞と一味違う。
掲載の趣旨はといえばこうである。
「音楽や映画は「時間芸術」と呼ばれる。作品の時間を支配するのは作り手だ。
絵や小説はと言うと、時間は鑑賞する側が握っている。静止する絵画の中に「流れる」ものを見つけ、自分だけの時間を味わうのも楽しいかも!と選んでみた。(脚本家 東多江子)
「時間芸術」という言葉は初めて聞いたが、音楽は鑑賞側の受け入れ態勢にお構いなくひたすら終幕まで突っ走っていく。主導権は終始「作り手」側にある。
これに因んでジャズ史上で最も有名な言葉がある。
「音楽を聴き終わったらそれは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」(エリック・ドルフィー)
その一方、絵画は静止したままの状態でどれだけ時間をかけようとゆっくり鑑賞者を待ってくれる。逃げも隠れもしない「やさしい芸術」である。
4月11日付(木)の掲載は「紳士とワインを飲む女」(フェルメール)だった。
解説は次のとおり。
「この女性、いけるクチと見える。ワイングラスには一滴も残っていない。
傍らの男性は、ボトルに手をかけ、「どう、もう一杯」と言い出しそうだ。女性へ注がれる視線が、そのタイミングを伺っている。
かつて絵画には「寓意(ぐうい)」があったそうだ。この絵なら、椅子の上のリュートは「愛」を、テーブルの上の楽譜は「調和」を象徴し、さらにステンドグラスに描かれている手編みを持つ女性は「節制」を意味するのだという。
つまり目の前できゅんきゅんするメロディなんかつま弾かれて、にわかに気持ちが近づいていくのはわかるけど、軽々しく貞操を破っちゃいけませんよ、といった大人の警告が仕込んである? しかし、戒めがきついほど、若い子の好奇心は膨らんでいくものだし!
絵を凝視すれば描かれた男性の視線は、この絵の中で唯一「流れる」エネルギーだとわかる。その視線を、女性は無視しようとしているが、グラスを置いたとたん、きっと言うにちがいない。
「もう一杯、いただくわ」
(1659~60年、油彩、カンバス、66.3×76.5センチ、ベルリン絵画館蔵)
文中にある「寓意」(ぐうい)とは・・。
聴き慣れない言葉だがその意味は「他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと。」(広辞苑)
意図する側もされる側も「知恵」が要りそうでたいへんですね(笑)。
現代はとかく忙しくなってストレートな物言いが当たり前で間接的な言い回しは敬遠されるばかりなので「寓意」はますます縁遠くなっている。
この絵画で面白いのは「楽器」が「愛」を表し、「楽譜」が「調和」を表し、「手編み」が「節制」を表していること。
「楽譜=音楽」⇔「調和=ハーモニー」というわけで、当時の音楽のイメージはハーモニーというわけですかね。
最後に我がオーディオ機器の寓意を記してみよう。
前段機器の「CDトラポやDAコンバーター」は「(どんな色にも染まらない)沈着、冷静、精巧」、増幅段であるアンプは「(愛情を注ぎこんでくれる)情熱」、そして変換系であるスピーカーは「楽器」みたいなものですから当然「愛(に包んでくれる)」ですかね(笑)。