村上春樹さんといえば、今や世界的にも有名な作家(2006年フランツ・カフカ賞受賞)だが、実は知る人ぞ知るジャズ愛好家、オーディオ愛好家でもある。
なにしろ、作家になる前にはジャズ喫茶を経営していて、それこそ、朝から晩まで好きなジャズを聴いてじゅうぶん楽しんだとのこと。
オーディオにしてもJBLの愛好家で、お金はたんまりとある(想像だが)のに、費やす時間がもったいないという理由で旧型のユニットによる3ウェイシステムでアンプはたしかアキュフェーズだったと思う。
その村上氏が、音楽について書いた著作が「意味がなければスイングはない」(文芸春秋)。これはオーディオ専門誌「ステレオサウンド」2003年春号~2005年夏号に連載していたものを、まとめたもの。
タイトルの「意味がなければスイングはない」はもちろん、デューク・エリントンの名曲「スイングがなければ意味はない」のもじりである。しかし、ただの言葉遊びではなく、このフレーズはジャズの真髄を表わす名文句として巷間に流布している。
「スイング」とは、どんな音楽にも通じるうねりのようなもので、クラシック、ジャズ、ロックなどを問わず、優れた本物の音楽として成り立たせている「何か」のことであり、その何かを自分なりの言葉を使って追いつめてみた結果が本書になった。
読んでみて、この本は実に分りやすくて面白かった。作家が書いた音楽評論はどうしてこんなに共感できるのだろうか。
たとえば五味康祐氏の「西方の音」を嚆矢(こうし)として、小林秀雄氏の「モーツァルト」、石田依良氏の「アイ・ラブ・モーツァルト」、百田尚樹氏の「至高の音楽」そしてこの本である。
まず共通して感じることは、
1 語彙が豊富で表現力が的確
2 ストーリー並みの展開力がある
3 音楽体験の出発点と感じ方、語り口に一般的な読者と同じ匂いを感じる
といったところだろうか。
しかも内容がジャズばかりと思ったら、10の項目のうちクラシックの評論が3項目あった。
Ⅰ シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」 ソフトな今日の混沌性
Ⅱ 「ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト」
Ⅲ 「日曜日の朝のフランシス・プーランク」
まず、Ⅰでは世評において目立たず、芳しくないシューベルトのピアノ・ソナタ群のうちでも最も地味なこのソナタがなぜか大好きとのことで、結局15名のピアニストのレコード盤、CD盤を収集したこと、そのうち、ユージン・イストミンというこれまたたいへんマイナーな名前のピアニストがお好きとのこと。
Ⅲの近代作曲家プーランクもお気に入りだそうだが、これもまたやはりマイナーと言わざるを得ない。
全体を通読して感じたことだが、村上氏はどうも既存の権威とか概念を否定しあるいはしばられない傾向がことさら強く、一方で目立たず、まったく評価されない、あるいは過小評価されている作曲家、演奏家、曲目に陽を当てるのが随分とお好み。
その流れで、著者独自のクラシック論が以下のとおり展開されている。(76頁~77頁)
「クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは、場合によっては世間の評価とは合致しないかもしれない。
でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。
シューベルトのニ長調ソナタは、その一例として、僕の大事な「個人的引き出し」になっており、おかげで超一流ではないイストミンのようなピアニストたちが紡ぎだす優れた音楽世界にめぐり会えることができた。それはほかの誰の体験でもない、僕の個人的体験なのだ。
僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きているのだ。」
自分だけかもしれないが、村上さんには「寸鉄人を刺す」言葉が多いと思うが、さしずめこの言葉は最右翼だろう。
50年近く「音楽とオーディオ」に親しんできたものの、いまだ道遠しで随分と峰が高くて奥行きのある世界だと実感しているが、いたずらに権威や評判に振り回されず主体性を持つという面で十分考えさせられる本だった。
最後にピアニスト「ルービンシュタイン」の自伝からの逸話が記載されていたので紹介しよう。ルービンシュタインといえばコルトー、リパッティと並ぶショパンの弾き手として一世を風靡した往年の大ピアニストである。
結局、この逸話も、著者流のナチュラルの流れに位置し、赤裸々な人間像に共鳴したエピソードなのだろう。
ルービンシュタインがガイドに勧められるままに、スペインで訪れたとある高級娼家での話である。
「ドライすぎるシェリーと、夏の暑さと、もわっとした空気と、言葉がうまく通じないせいで私の性欲はどうしても盛り上がらなかった。
しかし、私の生来の虚栄心は、こんなに若いのにインポテントだと女たちに思われる(かもしれない)ことに耐えられなかった。
彼女たちを感心させるには、ここはひとつ音楽を持ち出すしかない。私はそこにあったピアノの蓋を開け、即席のコンサートを開いた。
スペインの音楽、「カルメン」の中の曲、ウィンナ・ワルツ、なんでもかんでも手あたり次第にばりばり弾きまくった。それは目ざましい成功を収めた。黙示録的な大勝利と呼んでもいいような気がするくらいだ。
女たちはいたく興奮し、群がって私を抱きしめ、熱烈にキスの雨を降らせた。宿の主人は、私の飲み代はただにする、好きな女と寝てよろしいといった。私はその申し出をもちろん丁重にお断りした。
しかし、ピアノにサインをしてくれという申し出は断れなかった。
私はいくらかの自負とともに、そこにサインを残した。心愉しい夏の午後の証人として、まだ同じ場所にそのピアノが置いてあればいいのだが」(同書149頁)。
このサイン入りピアノの実在を是非確認したいものだが、場所柄が場所柄だけに未来永劫にわたって「拝見した」という何方(どなた)かからのメッセージがとても届きそうにないのが残念!(笑)
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