村上春樹氏に関する新刊「村上春樹研究」を一読したところ、ご本人のジャズへの傾倒ぶりがひとしきり記載されていた。
肌合いが違う作家なので小説の方はあまり読む気がしないが、エッセイなどにおける「音楽についての的確な表現力」については、一目を置かざるを得ないので常に気になる存在ではある(笑)。
そして、この人はいったいクラシック派なのか、ジャズ派なのかずっと気になっていたが本書により氷解した。
圧倒的なジャズ派なんですねえ~。
手持ちのレコードはジャズが7割を占めているそうだし、文章を書く時にも一にリズムを重視し、次がハーモニー、そして即興性を盛り込むようにして完結させているとのこと。
クラシック愛好家として言わせてもらうと、音楽の3要素の一つとして欠かせないメロディ(旋律)ではなくて即興性というところに良きにつけ悪しきにつけ彼の本質が垣間見えるような気がする・・。
仮にクラシックが「ウェット」でジャズを「ドライ」だとすると、彼の小説も本質的には「ドライ」なので肌合いが違う原因がようやく分かった・・、もちろん私見ですよ~。
(以下、クラシック愛好家を「ウェット派」、ジャズ愛好家を「ドライ派」と呼称しよう)
さて、ときどき、このブログの読者層が「ウェット派」か「ドライ派」かを想像してみることがある。
現在の読者を1日当たり仮に1000人だとするとそのうちウェット派は200人ぐらい、ドライ派が500人ぐらい、そして音楽なら何でも好きという日和見タイプが300人といったところかな。つまり「2:5:3」というわけ。
もちろんあくまでも想像の域を出ないが、搭載しているブログの内容に応じたアクセス数から推し量ったものだから全然根拠が無いわけでもない。
言い換えると、このブログのセールスポイントは「実践的なオーディオ実験」にあるとみている・・、もちろん、大した内容ではありませんよ~(笑)、で、ドライ派はウェット派に比べて圧倒的にオーディオ愛好家が多いのでこの5割説の根拠にもなろうというものです。
そういうドライ派の中で息の長い交流をさせていただいているのが「I」さんである。
折にふれ、ブログのネタにさせてもらいたいへん感謝しているが、このたびジャズのアーチストについて興味深い情報を得られたのでご了解のもとに掲載させてもらおう。
実を言うと、これまでジャズは芸術よりも娯楽に近い存在だと思っていたが、少なくとも認識を改めようと思った次第(笑)。
それでは以下のとおり。
「ジャズの話題に便乗して、好みのジャズ(奏者)について白状させてください。
学生運動最後の時代が自分の大学時代と重なり、その頃にジャズを聴き始めています。思想的にジャズが扱われる時代でしたが、そのようにジャズを聴いたことはありません。もっと個人的な芸術表現として聴いてきました。
娯楽でなく芸術として聴いていますので、ジャズ奏者に求めるものは、けっして偉そうに言うわけではないのですが「創造性・・探求性?」そして「矜持」です。
好きな(リスペクトする)奏者
<ピアノ>
バド・パウエル(比類なきドライブ感)
セロニアス・モンク(笑みがこぼれます)
ウィントン・ケリー(最高のハードバップピアニスト)
ビル・エバンス(ジャズピアノの・・・何と言ったらいいかわかりません)
<トランペット>
マイルス・デイビス(ウエイン・ショーターが参加する前までが帝王)
ブッカー・リトル(夭折が本当に惜しい)
ウィントン・マルサリス(批判にめげず頑張ってほしい)
<アルトサックス>
エリック・ドルフィー(早死にが悔しい。少なくともあと数年だけでも生きていてほしかった)
オーネット・コールマン(1964年のヨーロッパ・ツアーまでが眩しい)
<テナーサックス>
スタン・ゲッツ(うまい!それだけで凄い)
アーチー・シェップ(70年以降もいい演奏をしている稀有な存在)
<ベース>
ポール・チェンバース(はずせない)
(以下3人は白人。表現力が尋常ではない)
スコット・ラファロ、ニールス・ヘニング、ウルステッド・ペデルセン ジョージ・ムラーツ
<ドラム>(ドラムには関心が薄いのですが、強いて言えば)
フィリー・ジョー・ジョーンズ(上質な縁の下の力持ち)
ジミー・コブ(上に同じ)
トニー・ウイリアムス(超人なのに縁の下の力持ち)
偏ってますねえ(笑)
時代は1950、60年代がほとんど。楽器はアコースティック。ジャズ史的にいうと、ハードバップ・モード・フリー・ウルトラモダンになります。
ジョン・コルトレーンとソニー・ロリンズが入っていないのが不思議に感じられると思いますが、この二人へのコメントは不遜になりますので差し控えます。
以上のとおりだが、「I」さんのジャズとオーディオへの熱意にはいつも敬意を抱いている。
ところで、クラシックの場合は作曲家をはじめ指揮者や演奏家など好みの対象が広範囲に広がるが、ジャズともなると演奏家だけに収斂されていくのが特徴のようだ。
それだけ許容範囲が狭くなるというのか、ジャズファン同士の「口角泡を飛ばす」議論の要因にもなりそうな気がしている(笑)。
ちなみに、我が家ではときどきコルトレーンを聴いてみるのだが、どうもサッパリで皆が言うほどピンとこない。
素人なりに、この疑問を率直に「I」さんにぶつけたところ次のような返信があった。
以上、ドライ派は「演奏家」に対する熱の入れ様が一段と「ヒート・アップ」しているような気がします~。
最後に、「村上春樹研究」を通じて、ウェット派はとうていドライ派になれそうもないことを改めて痛感した・・、音楽における「旋律」だけはどうしても譲れないところだからね~、小説だってホロリと琴線に触れる ところがなくちゃねえ・・、と思うんだけどどうかな~(笑)。
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