「第三高等学校(現京都大学)では明治26年に初めて琵琶湖周航が行われ、以後学生たちによる恒例行事になっていました。昭和15年ころまで行われていました。三保ケ崎から西岸を北上する時計回りのコースで、4泊5日、もしくは3泊4日の日程。使われたボートは、フィックス艇といい、固定座席で、漕手6人、舵手1人、他1~2人でチームを組みました。」(高島市HPより抜粋)
滋賀県高島市が「琵琶湖周航の歌」発祥の地ということで、資料館が作られている。6月は開示95周年特別展示が行われていた。大正6年に生まれたこの歌には色々なエピソードがある。
作詞は、小口太郎氏。高島市のHPによれば、次のように紹介されている。
「大正6年6月、第三高等学校(現京都大学)二部クルーは学年末(当時7月卒業)の慣例によって琵琶湖周航に出ていました。小口太郎ら一行は大津の三保ケ崎を漕ぎ出て、1日目は雄松(志賀町近江舞子)に泊まり、2日目の6月28日は、今津の湖岸の宿で、疲れをとっていました。
その夜、クルーのひとりが「小口がこんな歌をつくった」と同行の漕友に披露し、彼らはその詞を、当時彼らの間で流行していた歌の節に乗せるとよく合ったので、喜んで合唱したということです。「琵琶湖周航の歌」誕生の瞬間でした。」
その後、歌詞は時とともに変化してきている。では、作曲者はだれか?
高島市のHPによると、次のように紹介されている。
「歌詞はその後、補完され、翌大正7年に6番までの全歌詞が完成しました。そして三高の寮歌として、学生たちの愛唱歌として広まっていきました。また幾多の歌手がレコードに吹き込み、昭和46年夏、加藤登紀子の大ヒットへとつながっていきました。
このころの歌集には、作詞作曲小口太郎、または三高ボート部となっていましたが、小口太郎の人物像すら不詳で、熱心な研究者の手で究明が始まります。そして冒頭のような事実が判明していきました。曲は「ひつじぐさ」のメロディを借りたものとわかり、昭和54年には「作曲者は吉田千秋」と名前まで特定できましたが、身元は不明のまま。
平成5年6月に、今津文化会館で開催された「琵琶湖周航の歌開示75周年記念イベント」の準備のさなか、実行委員会は「吉田千秋は大正4年に東京から新潟県に転居している」との手がかりで、新潟県の地元新聞に消息探しを依頼したところ、偶然にも関係者の目に止まり、ついに作曲者の詳細な人物像が判明したのです。大海から針を探すにも等しい吉田千秋探しは、急転直下の展開をみせたのでした。」
しかし、6拍子の曲というのは珍しいですね。以下のURLで曲が聴けますヨ。
http://www.city.takashima.shiga.jp/www/contents/1134976319645/files/biwakoshuko.wma