人ごとのような発言を断罪する
2015年9月2日
東京五輪のエンブレムが白紙撤回されたドタバタ劇を拝見していまして、だれも責任を取ろうとしないのに驚きました。これは、自分こそが責任者だ自覚している人が不在であることを証明しています。責任者が不在だから、盗作同然の作品をつかまされたのに、関係者は知らんぷりを続けてきたのでしょう。
大会組織委員会のトップは森組織委会長(元首相)です。事務局が働いてくれるから、自分は御輿に乗っていればいいや、くらいの気軽な気持ちで会長職を務めきたのでしょう。撤回が決まった昨日、記者団から「残念な結果になりましたが」と問われ、「何が残念なんだ」と、声をあらげて噛みつく様子をテレビでみました。
まず森・元首相は謝罪を
顔はひきつり、これ以上、不快な表情はないというほど、不快そうでした。不快なのは国民の側です。ですから真っ先に「皆様にご迷惑をおかしたことをお詫びします」と、謝るべきポストのひとです。国立競技場の白紙撤回問題では、最後まで撤回に抵抗し、首相も困り果てたそうですね。こんな人物が日本の首相だったと、思うと悲しくなります。人選の誤りでした。
遠藤五輪担当相も、このひとのセンスは相当におかしいのではないでしょうか。今回の失態の責任がある人なのに、「禍を転じて福となす」との迷言を吐きました。こんな状況で語る言葉ではありません。世界的な恥さらしをまず謝罪すべきです。「禍を転じて」とは、恐らく事態の深刻さが分っていない証拠ですね。
遠藤、下村氏の言語感覚に失望
さらに「責任は3者3様。組織委員会、審査委員会、デザイナー」と、おっしゃいました。「3者それぞれ」との意味でしょうか。3者の責任の次元、質はまったく異なります。要するに「みんなが悪かったのさ。自分だけが悪いのではない」という認識なのです。下村文科相の「今後、国民が明るい展望を持てる施策を進めることが重要だ」もひどい発言です。自分たちが混乱を招いておいて、「明るい展望を」ではないですね。
この政治家3人の言語感覚の乏しさ、表現能力の貧困さ、それを招いている責任感のなさには、失望します。政治家で、比較的まともなのは舛添都知事ですか。競技場建設では「きちんとした説明を受けていない。いきなり都に500億円を出せなんて話にならない」と明言し、一連の騒ぎを予感させる発言をしました。エンブレム撤回では「佐野氏に裏切られた感じだ」と、率直でした。
事務総長は官僚の悪しき特技
武藤事務総長は財務次官経験を買われ、緻密に舞台裏を仕切る役割でした。2度にわたる失態の責任は重いでしょう。記者会見の説明では、長々と経緯を語り、真相の追及をはぐらかすつもりと見て取れました。こうしたやり方は官僚の特技なのです。
盗用、転用を見逃した事務局、審査委員会の責任は重大です。それなのに「佐野氏がエンブレムの取り下げを申しでた」ではないですよ。事務方の失態が追及されないように、自主的に取り下げを申し出るよう仕向けたか、説得したというのが常識的には、真相でしょう。
一方的な却下こそ正解
本来なら、徹底的に調べ上げ、一方的に作品を却下すべきです。事務総長は「作品は模倣でなく、オリジナルである」と述べました。自分らがだまされたのではないという言い訳になる表現です。「使い続けることに国民の理解が得られない」も、ずるい理由です。国民の側に問題を転嫁しています。「事務局側に失態はない。国民がそう望むのですから、そうしましょう」と、つまり一件落着と、逃げているのです。国民はそんなことを見透かしていますよ。
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