解釈改憲か、解釈の適正化か
2014年7月2日
集団的自衛権が行使できるようにした新憲法解釈を政府は1日、閣議で決めました。政府は「解釈改憲ではない」としており、その表現をめぐって、見解が真っ二つに割れ、今後、国会の議論で時間を空費することでしょう。細部にこだわる日本の安全保障感覚は世界の非常識というか、世界の孤児みたいな感じですね。
2日の新聞を読み比べていて、なんでこんなに、記事の本記の表現も、社説における解釈も違うのかと戸惑いました。というよりそれを通り越して、驚きましたね。朝日新聞の1面は「集団的自衛権、閣議決定」の見出しのもとに、「集団的自衛権の行使を認めるために、憲法解釈を変える閣議決定をした」と書きました。読売新聞は「集団的自衛権、限定容認」の見出しで「集団的自衛権の行使を限定容認する新たな政府見解を決定した」とあります。
ざっと読むと、同じようなことをいっているのだろう、と思いたくなります。それがよく読んでいくと、全然、違うのですね。読売は「新たな政府見解の決定」、朝日は「憲法解釈を変える決定」です。なぜ読売はわざわざ「政府見解」と書き、朝日はストレートに「憲法解釈の変更」としたのでしょうか。深いわけがありそうですね。
読売は解説特集で「解釈の再整理という意味で一部変更だが、憲法解釈の論理的整合性、法的安定性を維持しており、解釈改憲ではない」(政府の想定問答集を引用)と、持ってまわった言い方をしています。社説でも「解釈改憲とは本質的に異なる。従来の抑制的だった憲法解釈を適正化した」と、くどい説明していますね。安倍政権は公明党への配慮、さらに今後、予想される違憲訴訟などをすり抜けるには、「憲法解釈の適正化」という曖昧な表現にしておいたほうがいい、と考えたのかもしれません。
そうだったとしても、新聞が政府の表現を踏襲するのはどうでしょうか。どう考えても、今回の決定は「政府見解の変更」です。読売がそこまで政府と一体になってしまうのは残念なことです。こう書いてしまうと、今後の議論展開に中立的な立場から加われないことになります。ひとこと「これは実質的な憲法解釈の変更である」と踏み込まなければなりません。
朝日の表現に触れる前に、集団的自衛権の行使の支持派で、読売と同じ立場の産経新聞の社説は「集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈の変更を閣議決定」です。これが正しいと思いますよ。ただでさえ、賛否が対立して、議論が迷走しがちな今回の問題が、こんな言葉遣いの次元で混乱するようでは、先が思いやられます。
朝日は社説で「できないと繰り返してきたことを、できることにする。まごうことなき解釈改憲だ」と決め付けています。その通りでしょう。次の問題は「解釈改憲だからいけないのか」どうかです。朝日は「憲法の基本原理である平和主義の根幹を曲げてしまった。日本の政治にとって極めて危険な前例となる」とし、いけない決定だと指摘しています。これはどうでしょうか。戦後の「一国平和主義」の幻想をいまだに抱いています。この点では、読売の「米国など国際社会との連携を強化し、日本の平和と安全を確かなものにするうえで、歴史的な意義がある」との主張が素直で、正確だと思います。
もうひとつの大きな違いは、集団的自衛権の行使の範囲です。閣議決定文には「受動的かつ限定的な必要最小限の武器の使用を自衛隊が行える」とあり、読売は本記でも社説でも「必要最小限の実力行使」、「限定的容認」と、素直に書いています。
それに対し、朝日は肝心の1面本記に読売のような表現は見当たりません。社説は「この暴挙を超えて」と怒り、「極端な解釈改憲」「権力を縛る憲法がその本質を失う」と指摘しています。まるで全面的に集団的自衛権の行使がなされ、暗黒の時代に入るとの認識なのでしょうか。「限定的か否か」は重要な境界線です。「邦人輸送中の米輸送艦の防護」、「武力攻撃を受けている米艦の防護」など8つの事例を挙げ、これらが今後ができるようになると、政府は説明しています。
ここで世論調査を振り返りましょう。朝日、毎日では「集団的自衛権の行使に反対」が50%を超え、読売では逆に支持が60%に達しました。なぜ世論は二分されたのでしょうか。読売は「邦人輸送の米艦防護」など具体的な事例を挙げて「どうですか」と賛否を聞き、さらに「必要最小限の行使」への賛否という順番で聞きます。すると「それならいいのではないの」という人は多いでしょうね。朝日はいきなり「限定的」、「必要最小限」という文言もなく、「集団的自衛権の行使」への賛否」を聞いていますから、さらに「分らない」という項目を設けていませんから、反対が多くなるのでしょう。はじめから、そう仕組んでいるのです。
そうした経緯もあるため、閣議決定の時の本文、社説の表現にこだわるのでしょう。とにかく国の基本である安全保障政策で国論が真っ二つに割れ、どちらが正しいのか、国民は戸惑っていることでしょう。そのひとつの理由が世論調査のやり方にあるとすれば、複数の世論調査結果を比較、分析する専門機関があってもいいですよね。
「解釈改憲論」にここで触れます。「解釈改憲は抜け道であり、憲法の条文そのものを改正すべきだ」との主張が聞かれます。本当はそのほうがすっきりしますね。解釈改憲より、憲法改正のほうがハードルが高く、なかなか実現しないだろうと知ったうえで、「解釈改憲」でなく「憲法改正」をやらせようとしているのでしょう。「ではあなたは、集団的自衛権の行使を容認する条文改正に賛成ですか、反対ですか」と聞けば、そういう人たちは「反対」なのです。いずれにせよ、反対なのですよ。それならそう書けばいいのです。「憲法改正をせよ。その時もわたしは反対する」と。そうなら「憲法改正」を提唱すべきではありません。
もうひとつ。集団的自衛権の行使をすぐ「戦争」に結びつけたがる人たちがいます。自衛のための最小限の権利行使と、「戦争」とは違います。「戦場」をすぐ「戦争」に置き換えるのも問題ですね。憲法が禁止している「戦争」は「侵略戦争」のことであり、今の日本がどこかの国に対して軍事力を行使し、領土や資源を奪う、あるいは政権を転覆させるということは、まずありえません。「自衛」といいつつ「戦争」に進んだとか、その区別がつかなくなるとか、いう人もいます。それに歯止めをかける役目を負っているのが国会であり、有権者でしょう。安倍首相ひとり頑張っても「侵略戦争」などできる時代ではありません。
また、あるオピニオン誌に「大江健三郎氏は、戦争の準備をすれば、戦争に近づくといっている」として「お主、正気かい」と詰問する対談が載っていました。すぐ「戦争だ」、「戦争だ」と騒ぐほうも問題なら、感情論にすりかえて反発するほうも問題ですね。同じ雑誌に、保守派で著名な京大名誉教授の「大宰相の道を歩み始めた安倍総理」という記事が載りました。もう大宰相との評価をくだすのですかね。気が早いですね。とにかく、安全保障の問題を戦争にすりかえ、国民を反対に誘導するのはやめにしようではありませんか。厳しさをます国際環境を念頭に、もっと冷徹に考えるべきだと思います。
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