奇跡の戦犯赦免の物語
2017年6月21日
渡辺はま子が歌った「モンテンルパの夜は更けて」は、昭和27年に20万枚の大ヒットとなりました。それから65年経ち、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本兵戦犯の赦免物語を知らない若い世代が増えてきました。けん命に釈放活動を続けてきた島根の洋画家の歴史的資料をユネスコの世界記憶遺産に申請し、戦争における赦しとは何かを検証する運動が起きています。
(序文)「燕はまたも来たけれど、恋しわが子はいつ帰る、母のこころはひとすじに、南のそらに飛んでいく」。はま子の鎌倉の自宅に、楽譜、歌詞、手紙の入った封書が届けられました。モンテンルパ刑務所に収容されていた旧日本兵による作詞、作曲です。はま子はほぼ無修正のまま、レコード会社に持ち込み、自ら歌って大ヒットとなりました。
さらにモンテンルパ刑務所を慰問し、旧日本兵の前で歌い、最後は全員が自然に立ち上がり、感動の大合唱となりました。望郷の念が一気に高まり、涙涙です。奇跡の物語は一昨年も、五代路子主演の演劇が上演されています。戦争の虚しさ、残酷さ、敵に対する裁きと和解のあり方など、一つ一つが心を打つと同時に、上滑りした美談、誇張も多いのも事実です。
大統領の決断で105人に恩赦
(浪花節的な神話)フィリピンの大統領は当時、キリノ氏(1948-53)です。マニラ市街戦で市民10万人が日本軍の犠牲になったとされ、キリノ氏も妻子4人を失いました。日本の敗戦後、フィリピンBC級戦犯裁判で死刑や有期刑を言い渡され、モンテンルパ刑務所に収容されていました。反日感情が強いなかにもかかわらず、キリノ氏は53年、旧日本兵105人に恩赦令をだし、帰国を許しました。
はま子の歌った歌曲の旋律をオルゴールにして、日本人教誨師がキリノ氏に手渡し、事情の経緯を知った同氏が感動し、戦犯釈放を決意したという浪花節美談が演劇の筋書きにもなっています。「そんな単純な解釈をするのは止めてもらいたい」と、憤慨している一人が私の知人です。「釈放運動を11年も心血を注ぎ続けてきた島根の洋画家(加納莞蕾)の貢献が大きい。氏の平和運動記録を美術振興会が保管しており、ユネスコに遺産登録を申請中。ぜひ真実を知って欲しい」。
(天皇とお孫さんの対話)天皇、皇后両陛下は2016年、フィリピンに大戦の慰霊の旅に出かけました。その時、両陛下はキリノ氏の孫娘2人とお会いし、「63年前に特赦を与えて下さったことを忘れません」と、丁重にお礼を申し上げました。孫娘さん側からも感動的なお話あり、深い罪に対する許しとは、どういうものかを考えさせるものでした。
「癒しというのものが始まるために、まず許すということが必要である。大統領はこう考えていました」。「戦争は確かにありました。けれども戦争には勝ち負けというものはありません。勝者というものはありません」。「大統領が困難な中で下した決断から3年後に、国交が正常化されたのです。恩赦を与えたことが実を結び、いい結果を生んだのです」。孫娘さんたちのお話です。
メディアの上滑りした報道
知人はここでまた憤慨します。「この最も感動的かつ重要な場面を日本のメディアは報道しなかった。日本から同行した旧日本兵や遺族の報道ばかりに熱心で、戦後の和解、赦しという本質的な問題に目を向けようとしなかった」。
(赦免の声明文から)旧日本兵の赦免にあたり、キリノ氏は声明文を発表しています。「われわれの友人となるかもしれない国民に対し、私の子どもや私の国民が、私から憎悪、憎しみを受け継いでもらいたくない。要するに運命,天命がわれわれを隣人にしてくれた」と結びました。知人は「同氏は熱心なカソリック信者で、赦しの背景にはキリスト教思想がある」と、指摘します。
さらに「運命が私たちを隣人となさしめた」は、聖書のルカによる福音書10章にある「良き隣人サマリヤ人の話」を引用したのではないかと、知人はいいます。強盗にあってひん死の旅人を通行人が見て見ないふりをする中で、介抱し、宿屋に連れていったサマリア人がいました。イエスは「その人こそ良き隣人だ。その如くせよ」と教えます。つまり「報酬を期待しないで人を助ける心」の大切さです。恩赦に至る思想的な背景です。
(結び)天皇の訪問でキリノ大統領の貢献を再評価したフィリピンは3月、英雄に昇格させ、遺骨を英雄墓地に移転、日本も日比谷公園や加納美術館に、キリノ氏を称える顕彰碑を建てました。4月からは島根県の中学校の副読本にこれらの話が掲載されるようになりました。「本当の和解とは何かを考えよう」と知人は強調します。
キリノ氏は、日本人と会う前に
『まず、ひたすら土下座して窮状訴えるから見てみろ』
と、側近に話していたエピソードを
週刊誌の中の、どなたかのコラムで読んだ覚えがあります。