新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ

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最高裁は違憲訴訟に向き合え

2015年09月20日 | 政治

 


 安全保障政策に見解を示せ

2015年9月20日


 安全保障政策を大転換する法律が国会で成立しました。これを違憲とする超大型の訴訟が予想されています。与野党が国会で激しく対立し、さらに憲法学者の圧倒的多数が違憲だとしてきました。かれらの多くが原告団に加わると、戦後最大級の法廷闘争に発展しましょう。


 最高裁は司法の判断を超えるとして、門前払いをしてはなりません。さらに多くの内閣法制局長官経験者も違憲だとの見解を表明しました。これも前代未聞、異例中の異例のことです。世論調査によると、有権者の過半数も新しい安保法制に反対でした。立法府が割れ、学会、司法関係者が猛反対した憲法問題を、最高裁は堂々と取り上げ、司法の場からの見解を示さなければなりません。


敗訴なら憲法学者は職を辞せ

 

 最高裁が合憲とした場合、特に違憲論を唱えた憲法学者は「最高裁は間違っている」と批判してはなりません。自分たちが口先だけの存在であり、最高裁を納得させられるだけの理論闘争の力量がなかったことを率直に認め、職を辞し、以後、消えていくべきです。ほとんどの憲法学者が束になっても、司法に勝てなかった責任をとるべきです。


 そんなことにならないように、憲法学者は学問、学説の蓄積、成果を最高裁にぶつけることです。最高裁は国家の中枢を揺るがす憲法判断は苦手で、違憲訴訟に顔を背ける傾向が強いのです。今回は、逃げてはなりません。最高裁も十分な準備体制で訴訟に臨み、「司法の判断はこうだ」と言うべきです。「合憲か違憲か」の判断を示す時です。


訴訟には関門がいくつも


 違憲訴訟には、いくつもの関門があります。まず、司法が訴えを受理せず却下、つまり門前払いです。具体的な損害や不利益、権利の侵害(たとえば具体的な被害、損害)が生じていない場合、あるいはそれが生じていない原告が訴えても、無視しうるのです。すでに昨年7月の集団的自衛権行使に道を開く閣議決定を違憲とする訴訟があり、司法に却下されています。


 つくづく妙だと思うのは、法律そのものの違法性、違憲性を直接、問えないことになっています。それをどうかいくぐって、法廷闘争の場に持ち込むのか。憲法学者はすでになんらかの戦術を用意しているのでしょうか。違憲を主張した学者は今後、自己の見解を主張していかねばなりません。


司法が判断の回避も


 次は法廷闘争にこぎつけたとしても、国家安全保障のように「国家の統治の基本に関する高度な政治的行為は司法の範囲外とする」という関門(国家統治論)です。この扱いを受けることも十分にありえます。要するに「政権、政治の考えるべきことで、裁判にはなじみません」として、司法は判断を回避するのです。


 ただし、重大な論点から司法は逃げることはできないと思います。重大な論点とは砂川判決(1959年)の扱いです。安倍政権は今回の安全保障法制の合憲性の根拠を砂川判決に求めました。「この判決は自衛権の限定的容認が合憲とする」とし、安倍政権はさらに「自衛権の延長線上に、必要最小限の集団的自衛権の行使が含まれる」と解釈を拡大し、違憲論の批判を退けました。


安保法制の重大な弱点


 これは相当に無理がある論法だと思います。当時は集団的自衛権の問題意識はなく、問題意識が頭になかったことについて、「集団的自衛権の行使までも容認」とするのは、こじつけだとの批判があるのです。安保法制の最も脆弱な部分でしょう。安倍支持派の人たち、新聞は「砂川判決、その後の政府見解と、論理的な整合性を維持している」と主張します。そう単純に割り切れません。


 法廷闘争で安倍政権はこの部分を突かれ、最高裁が「論理的整合性はない」との法律的な判断を示す可能性はあります。安保法制(集団的自衛権の行使)の合憲性の根拠を砂川判決に求めた戦術が誤りだったかもしれないのです。国連憲章や、憲法の複数の条文をもとに、国家安全保障基本法のような法体系を堂々と用意すべきだったとの議論は以前からありました。わたしはこの考えを支持します。


 合憲性の根拠が失われれば、安保法制の根幹の部分が一気に崩壊しかねません。一連の法制の他の部分は合憲とされても、集団的自衛権の部分に「待った」がかかったら、どうなるか。これからも重大な局面が続きます。


 


 

 



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