学校に責任をなすりつけるな
2015年11月6日
名古屋市で中学一年の男子生徒が「いじめが多かった」という遺書を残し、飛び込み自殺をしました。あまりにも痛ましく、悲しい事件です。事件の報道を見ていますと、おなじみの光景が繰り返えされています。
昨夜のテレビニュースでは、市教育委員会の委員長らが生徒宅を夜、弔問した場面にライトを集中的に浴びせ、放映していました。通学していた学校の校長は記者会見し、学校側は「思い当たる節はなかった」とか、すでに説明していました。学校側がいじめを見過ごしていたことが後に分り、批判の対象となりました。
こうした事件が起きると、決まったように「学校はなぜ見過ごしていたのか」、「教育委員会は何をしていたのか」という非難が起きます。生徒を対象としたアンケート調査では「いじめを見聞きした」が80人、うち「現場を直接見た」が20人もいたそうですから、学校や元締めの教育委員会に対し、見過ごしていた責任を問う必要はあります。
叩きやすいところに焦点
それだけでいいのでしょうか。メディアの報道で共通しているのは、ひたすら学校、教育委員会の追及に重点を置いており、親は責任を果たしているのかという本質的な問題を取り上げないことです。外部から伺いしれない家庭の内部事情もあるでしょう。親とはいえ個人を批判しにくいのも事実でしょう。そこで叩きやすい学校、教育委員会にもっぱら焦点をあてるのです。
学校、教育委員会側にも非があることは間違いないので、いくら叩いても、かれらはひたすら耐え、文句を言ってくることはまずありません。だから叩きやすいところを叩くのです。これは安易なジャーナリズムです。
家庭で親が子供ときちんと接し、子供の様子を観察し、悩みを聞きだし、異変があれば早期に学校側に連絡する。そうした共同作業をしていれば、今回の悲劇を未然に防げたかもしれないのです。そうしたケースがあまりにも多いのです。
共働きの家庭も多く、勤務時間も不規則で、子供と過ごせる時間が少ない。子供の数も減り、兄弟も少ない。昔のようにいじめられた弟を伴い、兄が敵討ちに出かけることもなくなりました。いじめにあった生徒は自分で悩みを抱え込んでいるのでしょう。
子供の異変を察知しない親
だからこそ親が子供にとって身近な存在にならなくていけないのです。今回の場合、同居していた祖母が異変に気づき、遺書めいた文章がノートに書きつけてあるのを発見し、父親に連絡しました。父親からの携帯電話に生徒は「大丈夫、大丈夫」と答えた後、自殺を図ったそうです。日ごろから子供の様子を観察し、危険信号を察知していれば、そこで安心しないで、緊急措置を取れたかもしれないのです。
父親は記者会見で「犯人を捜すのは、望んでいない」と語りました。立派な言葉です。その一方で、「気がついてやれなかったのは、本当に悔やんでいる」と述べたそうです。ここに最も大事な問題が潜んでいると、思えてなりません。
学校、教育委員会に対する責任追及以上に、子供に対する家庭のあり方を改めない限り、悲劇がなくなることはないでしょう。学校ばかり責めるのは止めましょう。
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