何度読んでも分らない
2015年5月14日
安倍政権は安全保障政策の強化のために、自衛隊の任務の海外活動を大幅に拡充し、米国など関係国との連携を進めることなどを閣議で決め、法案化する予定です。新聞紙で何ページにもわたる特集、解説を書かねばならないほど、膨大な内容です。読めば読むほど、こんがらかってきて、難解で、「要するによく分らん」という人がほとんどでしょう。
朝日新聞が「憲法改正に匹敵するような改変だ。その手続きを経ないで、戦後日本の歩みを踏み外そうとしている」と、最大級の表現で警告を発しています。戦後最大の安全保障法制の転換になることは間違いないのに、その中身の理解が国民にとって難しいというのは、本当に困ります。
朝日の好きな欺瞞的主張
それでは、その朝日新聞は「今からでもいいから、まず憲法を改正して今回のような安保法制の大改革をせよ」というのかな、と思うと違うのでしょうね。憲法を改正しようとしたら「そんな改悪はするな」というに決まっています。要するに安保法制の大改革そのものに猛反対なのです。そうなら「憲法を改正しても、しなくても反対だ」と、正直に言えばいいのです。朝日新聞はこうした欺瞞的な主張をするから議論が混乱するのです。
毎日新聞でしたか、解説記事で「自衛隊員が死ぬことになりかねない」というようなことをいっていました。これが結構、反対派に受けるのですね。考えてみれば、自国の安全保障論議で、「兵士に死者がでかねない」ことを理由に、最初から国防政策の基本を左右させる国はあるでしょうか。「兵士は命をかけても国を守る」というのが国防の第一歩です。
犠牲者が何千、何万人になると、大きな戦争を何度も遂行してきた米国におけるように、政権がもたなくなります。それと「隊員、兵士に犠牲者をだすな」というのとは、次元が異なります。自公政権を支えている公明党が強く「隊員の安全確保に必要な措置」を求めました。これは学会員に隊員も多く、そうでもいわないと、自民党への協力で党がまとまらなかったためです。メディアも始めからこうした情緒論を絡ませるから、議論を混乱させるのです。
「戦争法案だ」とする欺瞞的反対
国防政策に対する情緒的な反対論としては、「安倍政権は戦争するための法案を用意した」というのも、反対派の野党、識者、メディアにはよくみられます。国の安全保障を守るために武力の行使を回避できるほど、国際情勢の現実は甘くありません。紛争抑止のために正当化できるはずの武力行使を、だれもが嫌う「戦争」という表現を使って、反対運動を盛り上げるという手法は感心しません。外交交渉では結局、解決できない紛争はいくらでも起きます。その時、どうするかが問題なのです。
一方、読売、産経などは、今回の安全保障法制をほぼ全面的に支持しています。そのため、どこに問題があるのかないのか、という指摘を鋭くしていません。両紙とも「複雑、膨大な法制なので丁寧な説明を」を口ぐせにしています。果たして「丁寧な説明」で済むのでしょうか。
選挙を避けてきた安保法制議論
安倍政権は選挙に何度か大勝し、選挙に強い政権ではあります。どうなのでしょうか。選挙に自信があるなら、今回のような戦後最大の改革の構想をもっと早くまとめ、有権者の判断を問うべきところでした。二度にわたる衆院選、今春の統一地方選という政治的な節目を意図的に避けてきたように思います。選挙が終わり、当分、国政選挙がないころを見はからって「丁寧な説明」を受けても、有権者はどうやって自らの意思表示をするのでしょうかね。「選挙に強い」理由の半分は、選挙の際に国民的争点を必ずしも明示しないことの結果でしょう。
改革案そのものも難解です。「平和安全法制整備法案」と「国際平和支援法案」の二本建てになっています。似たような名称の法案で、どこがどう違うのかで、ほとんどの人は頭を抱えます。前者が「日本の平和と安全」(自衛隊法の改正、集団的自衛権の限定行使など)、後者が「国際社会の平和と安全」(多国籍軍への後方支援、PKO法の改正など)だと、いわれても、なかなか飲み込めませんね。メディアはもっと問題提起すべきです。
専門的すぎる概念区分
もっと訳が分らないのは、「存立危機事態」、「重要影響事態」、「武力攻撃事態」という3つの基本的な概念が登場することです。この3つはどこかで重なり合っているはずです。防衛の専門家集団は、法的に区分しないと気がすまないのでしょう。武力攻撃がどこかで発生するから、日本にとっての「存立危機事態」や「重要影響事態」が発生するのでしょう。「存立危機事態」と「重要影響事態」も同じ意味か、同根でしょう。区分が専門的すぎて、われわれはついていけません。
新しい安保法制下の運用面でも、分らないことがたくさんあります。日本にとっても緊急事態の際、どうやって情報を掌握するのでしょうか。日本独自に把握できる事態もあれば、米軍の情報力に依存しなければならない事態もあります。米国を全面的に信じていいのでしょうか。イラク戦争では、大量破壊兵器の存在が喧伝され、フセインを攻撃する口実にされました。ふたを開けてみれば、そんなものはないことが分り、その後、イラクの混乱が現在の混迷する中東情勢の重要な一因を作りました。
情報の対米依存の危険性
イラク戦争を当初、全面的支持した日本政府もメディアも冷静に自己検証したかといえば、そうではないでしょう。当時はフセインが極悪非道の大統領というイメージが定着し、それに異議を唱えることは国内的にも国際的にもできにくいという雰囲気でした。国際紛争が起きると、流れには抗しきれないという空気ができてしまうものです。ここは要注意ですね。
政治、経済のボーダーレス化、相互依存の深まりの中で、一国の安全保障を一国だけでやり遂げることは難しくなりました。米国の力の低下、中国の膨張、それに乗じた国際紛争の複雑化の中で、日本も国際協力の新たな枠組みを用意すべきです。その場合、紛争に絡む正確な情報収集、情報に対する冷静な判断能力、それを踏まえ日本の国益をどう保っていくかが、法整備以上に大切だということです。
人が死ぬほうが重要だろ