今日は朝から曇天模様の一日となりました。その割りには気温は高く、暑いことに違いはありません…。
さて、今日8月24日は作曲家瀧廉太郎の誕生日です。
瀧廉太郎(1879〜1903年)は、明治時代の日本における西洋音楽黎明期を代表する音楽家の一人です。上の写真は、現在上野公園内にある東京音楽学校(現東京芸術大学)旧奏楽堂前にある銅像です。
瀧廉太郎は1879年(明治12年)の今日8月24日、江戸時代に豊後国日出藩の家老職を代々務めた上級武士の家柄である旧日出藩士瀧家の長男として生まれました。父・吉弘は廃藩置県後に上京、大蔵省から内務省に転じて大久保利通や伊藤博文らの下で内務官僚として勤めた、なかなかのエリートでした。
1894年(明治27年)年に東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学し、ピアノを橘糸重、遠山甲子に学びました。1898年(明治31年)には本科を卒業して研究科に進み、作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばしていきました。
明治時代の前半、文部省の音楽教育政策として多くの翻訳唱歌ができました。しかし、その殆どが西洋から輸入してきたメロディに日本語の訳詞を無理嵌め込んだぎこちない歌が多くて子どもたちに歌わせるには不向きだったこともあって、日本人作曲家によるオリジナルの歌を望む声が高まっていました。
その中で、瀧廉太郎の代表作である《荒城の月》は、《箱根八里》と並んで文部省編纂の『中学唱歌』に掲載されました。また、人気の高い曲の一つである《花》は1900年(明治33年)8月に作曲された組曲『四季』の第1曲で、現在でも教科書に掲載されているので日本人で歌ったことのない人はいないでしょう。
1901年(明治34年)には日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、5月18日にドイツのベルリンに到着しました。しかし、わずか5か月後の11月に肺結核を発病してしまい、現地の病院で入院治療したものの病状は改善せず、帰国を余儀なくされてしまいました。
1902年(明治35年)横浜に到着後は父の故郷である大分県で療養していましたが、1903年(明治36年)6月29日に大分市の自宅で亡くなりました(享年25)。現在では考えられないことですが、瀧廉太郎が結核に冒されていたことを理由に彼の死後多数の作品の楽譜が結核拡大予防の名の下に焼却されてしまい、残念ながら現在はっきりとその存在が確認されている作品は34曲と決して多くはありません。
歌曲で有名な瀧廉太郎ですが、ピアノの才能にも恵まれていた彼はピアノ曲も遺しています。その一つが《メヌエット ロ短調》です。
《メヌエット ロ短調》は瀧廉太郎が明治33年(1900年)に作曲した、日本人作曲による初のメヌエット作品です。この曲は近代日本で初めて作曲されたピアノ曲であり、3年後に作曲された絶筆《憾(うらみ)》と共に、ほぼ唯一の器楽作品です。
実際に聴いてみるとメヌエットというよりはブラームスやショパンのワルツに近い感じですが、そんな中にもどこか和風な雰囲気が漂う趣深い小品です。全音社から楽譜も出版されているので、音楽教室の発表会やコンサートのアンコールピースに採り上げられることも少なくないようです。
そんなわけで瀧廉太郎の誕生日の今日は、彼が遺した日本初のメヌエット作品の動画を転載してみました。《花》を作った瀧廉太郎ならではの、流麗な三拍子をお楽しみください。