共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はユーディ・メニューインの誕生日〜14歳の時の録音《ラ・カンパネラ》

2024年04月22日 19時00分50秒 | 音楽
朝から降っていた雨も、昼過ぎには上がりました。ただ、日差しが一切なかったこともあって、気温は低いままでした。

ところで、今日はメニューインの誕生日です。



ユーディ・メニューイン(1916〜1999)は、アメリカ合衆国出身の音楽家、ヴァイオリン奏者、指揮者です。幼い頃から演奏界の神童として活躍した20世紀で最も偉大なヴァイオリン奏者の一人で、愛奏していた楽器は『ロード・ウィルトン』という愛称の、1742年製のグァルネリ・デル・ジェスです。

メニューインは1916年に、ニューヨークでリトアニア系ユダヤ人の家庭に生まれました。4歳からヴァイオリン教育を受け、7歳でサンフランシスコ交響楽団と共演して初舞台を踏みました。

第二次世界大戦中は、他の多くのユダヤ系ヴァイオリニストと同じく、連合軍のために慰問活動に取り組んんでいました。1945年4月にはイギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(1913〜1976)とともに、解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所において慰問演奏を開いています。

第二次大戦中、アメリカに亡命していたハンガリーの作曲家バルトーク・ベーラ(1881〜1945)を深く尊敬し、貧困と病気に苦しむバルトークへの援助を兼ねたり、無伴奏ヴァイオリンソナタの作曲を依頼したりしました。バルトークはこれに応えて『無伴奏ヴァイオリンソナタ(Sz. 117, BB 124)』を作曲し、この作品をメニューインに献呈しています。

1947年からドイツを再訪して、20世紀の大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)と共演しました。メニューインは、かつてナチスと良好な関係をもって戦後に批判の矢面に立たされたフルトヴェングラーを養護すべく

「ヒトラーのドイツは滅びたのです」

と言ってドイツとの和解を呼びかけました。

ところが、メニューインのこうした姿勢はかえってユダヤ人社会の憤激を買ってしまったため、ユダヤ系音楽家が支配的なアメリカ楽壇から事実上追放されてしまいました。そのためメニューインは移住したイギリスを拠点に活動するようになり、最終的に帰化することを決意しました。

メニューインは戦後間も無い1951年に、アメリカの親善大使として日本を訪れました。初来日当初はアメリカ人として日本に悪感情を持ち、日本の新聞記者に向かって

「ジャーナリストなら、真珠湾攻撃を知っているだろう?」

と詰問したこともあったといいます。

しかし、この来日中にメニューインの日本に対する感情が大きく変化し、後には大の親日家となりました。この来日中に出会った靴磨きの少年にヴァイオリンを贈ったという美談は朝日新聞に掲載されていて、この逸話から



『少年とバイオリン~音楽の神様からの贈り物』という創作童話が発行されています。

そんなメニューインの誕生日である今日は、彼の演奏によるパガニーニの《ラ・カンパネラ》をご紹介しようとと思います。

このSP盤音源は1930年、メニューインが14歳の時の録音です。このSP盤はかつて私の祖父も所有していて、私も幼少期に祖父の家の蓄音機で聴かせてもらっていたので、個人的に懐かしいものです。

お聴きいただくと分かりますが、これを14歳、現在でいうと中学生男子が演奏していると思うと、その技術と演奏力の高さには舌を巻きます。メニューインのその後のキャリアを彷彿とさせるような、輝かしく華やかな演奏です。

そんなわけで、今日はメニューインによるパガニーニの《ラ・カンパネラ》をお聴きいただきたいと思います。14歳とは思えない、堂々たる演奏をお楽しみください。



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