今日は一段と寒くなりました。雨も降っていることもあってなのか朝よりも昼過ぎにかけて気温がどんどん下がり、最終的には13℃にまで達したのには驚きでした。
ところで今日は、ヨハン・ネポムク・フンメルの祥月命日です。
誰?と思われるかも知れませんが、ヨハン・ネポムク・フンメル(1778〜1837)はハンガリー(現在はスロヴァキアの領地)出身のオーストリア系作曲家、ピアニストです。
誰?と思われるかも知れませんが、ヨハン・ネポムク・フンメル(1778〜1837)はハンガリー(現在はスロヴァキアの領地)出身のオーストリア系作曲家、ピアニストです。
フンメルはプレスブルク、現スロヴァキアのブラチスラヴァ)に生まれ、指揮者で弦楽器奏者でもあった父・ヨハネスに音楽の手ほどきを受けました。8歳の時にはアウフ・デア・ヴィーデン劇場の指揮者に就任した父に従ってウィーンへ移り、モーツァルトの家に住込みで2年間に渡ってピアノを師事しました。
1789年から父ヨハネスと共にヨーロッパ各地を巡演し、神童として喝采を浴びました。1793年にウィーンへ戻ったフンメルはウィーン音楽院で作曲家、オルガニスト、音楽教育者であり、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770〜1827)の師の一人として、またウィーンのシュテファン大聖堂の楽長としても知られていたヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガー(1736〜1809)に対位法を、現在ではモーツァルトのライバルとしてすっかり有名になったアントニオ・サリエリ(1750〜1825年)に声楽作品を、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)にオルガンを学び、若きベートーヴェンと親交を結びました。
1804年にはハイドンの推薦でエステルハージ家のコンサートマスターに就任しました。ハイドンが引退すると宮廷楽長となり、1811年までこの地位にあって劇作品や礼拝堂用の宗教作品を手がけ、少年聖歌隊の指導や楽団の指揮にあたっていました。
辞職後ウィーンに戻ったフンメルは1814年には妻の後押しもあってピアノ奏者として復帰し、1816年からシュトゥットガルト宮廷、1819年からはヴァイマル宮廷の楽長を歴任しました。一方で作曲のみならず出版、演奏など活発な活動を展開して、詩人のヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749〜1832)と共に芸術の街ヴァイマルの発展にもん貢献しました。
1834年のウィーン旅行を最後に病のため演奏活動に終止符を打ち、3年間の闘病生活の後の1837年の今日、任地であったヴァイマルで息を引き取りました。葬儀では師匠モーツァルトの《レクイエム》が演奏され、遺体はヴァイマール歴史的墓地に埋葬されました。
生前のフンメルはヨーロッパ最高の作曲家、ピアノ奏者としてベートーヴェンと並び称される巨匠の一人として音楽界に君臨し、フランツ・シューベルト(1797〜1828)やフェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809〜1847)、ピアノ教則本の作者として有名なカール・ツェルニー(1791〜1857)や『ピアノの詩人』と謳われたフレデリック・フランソワ・ショパン(1810〜1849)といった名だたる名作曲家たちと交流を持ち、多大な影響を彼らに与えました。作曲の形式的にはウィーン古典派の最晩期に属していて、彼の作品にはホモフォニックな構造とイタリア風の装飾的な旋律が随所に見られます。
残念ながらフンメルの名は死後から忘れ去られてしまい、20世紀になるまではトランペット協奏曲等の一部の曲を除いて知られていませんでした。しかし近年その作品の研究が進んで演奏や録音の機会も増えてきていて、古典派からロマン派にかけての時代の重要な作曲家のひとりとして人気を勝ち得つつあります。
数あるフンメルの作品の中で、ヴィオラ弾きとして是非紹介したいのが《ヴィオラ・ソナタ 変ホ長調》です。
フンメルは1798年に、ウィーンでヴァイオリン2曲とヴィオラ1曲の3つのソナタを出版しました。そのうち2つのヴァイオリン・ソナタは現在では忘れ去られてしまったものの、軽やかで美しい旋律に満ちたヴィオラ・ソナタだけはライプツィヒやパリ、ロンドンと各国で単独で再版され、今日ではヴィオラの貴重なレパートリーとして受け継がれてきています。
如何にも古典派らしい明るい旋律に満ちたヴィオラ・ソナタは聴いていても弾いていても楽しくて、私の好きなヴィオラのためのオリジナル作品のひとつとなっています。この優しい響きの作品が、もっと世に知られてほしいと願わずにはいられません。
そんなわけで、一気に寒くなった今日はフンメルの暖かなメロディに耳を傾けていただきたいと思います。ウィーン古典派音楽の最後の煌めきとも言える、フンメルの優しい世界観をお楽しみください。