毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
ふっと・・
小中学生のいじめを苦にした自殺が相次いでいる。生徒の相談に真摯に対応しなかった教師、いじめを誘発するような発言を繰り返した教師、生徒の自殺後もいじめがあったことを認めようとはしなかった学校の対応など、新聞をはじめとしたマスコミは舌鋒鋭く連日追及している。自殺を選んでしまった生徒の悲しみ・苦しみを思い、残された家族の慟哭を耳にするたび、こうした悲劇が二度と起こらないようにと願うばかりである。
また、必修科目の履修不足問題が、全国各地の進学高校などで相次いで発覚する中、 茨城県の公立高の校長が「右願い、一命を副えてお願い致します」との遺書を残して自殺した。履修不足などずっと昔から当然のごとく行われてきたと思っていた私など、報道に何をいまさらと思わないでもなかったが、それを苦に一人の校長が自殺してしまったのには、正直驚いた。私などには分からない葛藤があったのだろうが、何故それくらいのことで?という気持ちがぬぐえない。
教育の末端にぶら下がる者として、こうした自殺の報に触れるたびに暗澹たる気持ちに襲われる。「そんなに簡単に死ぬなよ」と言いたいが、「お前は当人じゃないからそんなことが言えるのだ」と反論されるかもしれない。確かにそうだ、私は今まで生きてきて、死のうなどと思ったことはない。「もう、死んでしまいたいよ」と半ばやけに思ったことは何度かあるが、次の瞬間には忘れている。物事を深く考えないせいなのかもしれない。いい加減な気持ちで生きているからかもしれない。大した不幸に襲われたことがないからかもしれない。しかし、死なずに生きることが生きることの根本であるとするならば、私は曲がりなりにも何とか無事にそれを全うしていると言えなくはないだろう。
辛いことがあると、どうしても心はそれに集中してしまう。何とかそれを乗り越えようと必死に頭を働かせる。あれこれ心を砕き、ふらふらになりながらも何とか越えられればいいのだが、押しつぶされるときもあるだろう。そうしたときにふと死の誘惑に駆られてしまうのかもしれない。困難に真剣に向き合おうとする人ほど、それを乗り越えられないときの絶望は大きいように思う。私のように「別にどうでもいいや」などと開き直れるいい加減な奴のほうが、自らの置かれた状況を少しでも楽観視でき、とことんまで己を追い込まずにすむのかもしれない。それは現実を直視せず、逃避することに過ぎないのかもしれないが、直球勝負の正攻法ばかりでは、壁は簡単に乗り越えられない、必死で何度か試した後に力の限界を感じたならば、そこでふっと力を抜き、いったん休むことも必要だと思う。ピンと張り詰めた糸は容易に切れてしまう。はちきれんばかりに空気が充填された風船は少しの刺激でも破裂してしまう。そうした限界状況に達する手前で、糸を緩ませ、風船の空気を抜くような、「力の抜き加減」というものを身につけることができたら、生きることは少しでも楽になるように思う。
斎藤茂太の『「心の掃除」の上手い人、下手な人』という本が家にある(新講社)。受験の重圧に負けそうになる息子に読ませようと妻が買ってきた本だが、私も時々手にとって読んでいる。その中で、第2章の『「力を抜く」と力が生まれる』、第3章『がんばる人は、がんばり過ぎない』という表題が、心の掃除のコツを言い表しているように思う。--がんばり過ぎてにっちもさっちも行かなくなる前に、ふっと力を抜いてみる--それができたら、そうするようにアドバイスできる者が傍にいたならば、現在の自殺の連鎖を断ち切ることができるかもしれない。
だが、現実にはそういうことができず、そうしたアドバイスをしてくれる人も傍にいないからこそ、自らの命を絶つ人が後を絶たないのだろう。しかし、それだからこそ、「今生きることが苦しくてたまらない人たちが、ふっと力を抜いて、もうどうでもいいや」、と思ってくれたならば・・・などと言いたくなるのは、私が修羅の巷で生きたことのない軽佻浮薄の徒だからなのだろうか。
また、必修科目の履修不足問題が、全国各地の進学高校などで相次いで発覚する中、 茨城県の公立高の校長が「右願い、一命を副えてお願い致します」との遺書を残して自殺した。履修不足などずっと昔から当然のごとく行われてきたと思っていた私など、報道に何をいまさらと思わないでもなかったが、それを苦に一人の校長が自殺してしまったのには、正直驚いた。私などには分からない葛藤があったのだろうが、何故それくらいのことで?という気持ちがぬぐえない。
教育の末端にぶら下がる者として、こうした自殺の報に触れるたびに暗澹たる気持ちに襲われる。「そんなに簡単に死ぬなよ」と言いたいが、「お前は当人じゃないからそんなことが言えるのだ」と反論されるかもしれない。確かにそうだ、私は今まで生きてきて、死のうなどと思ったことはない。「もう、死んでしまいたいよ」と半ばやけに思ったことは何度かあるが、次の瞬間には忘れている。物事を深く考えないせいなのかもしれない。いい加減な気持ちで生きているからかもしれない。大した不幸に襲われたことがないからかもしれない。しかし、死なずに生きることが生きることの根本であるとするならば、私は曲がりなりにも何とか無事にそれを全うしていると言えなくはないだろう。
辛いことがあると、どうしても心はそれに集中してしまう。何とかそれを乗り越えようと必死に頭を働かせる。あれこれ心を砕き、ふらふらになりながらも何とか越えられればいいのだが、押しつぶされるときもあるだろう。そうしたときにふと死の誘惑に駆られてしまうのかもしれない。困難に真剣に向き合おうとする人ほど、それを乗り越えられないときの絶望は大きいように思う。私のように「別にどうでもいいや」などと開き直れるいい加減な奴のほうが、自らの置かれた状況を少しでも楽観視でき、とことんまで己を追い込まずにすむのかもしれない。それは現実を直視せず、逃避することに過ぎないのかもしれないが、直球勝負の正攻法ばかりでは、壁は簡単に乗り越えられない、必死で何度か試した後に力の限界を感じたならば、そこでふっと力を抜き、いったん休むことも必要だと思う。ピンと張り詰めた糸は容易に切れてしまう。はちきれんばかりに空気が充填された風船は少しの刺激でも破裂してしまう。そうした限界状況に達する手前で、糸を緩ませ、風船の空気を抜くような、「力の抜き加減」というものを身につけることができたら、生きることは少しでも楽になるように思う。
斎藤茂太の『「心の掃除」の上手い人、下手な人』という本が家にある(新講社)。受験の重圧に負けそうになる息子に読ませようと妻が買ってきた本だが、私も時々手にとって読んでいる。その中で、第2章の『「力を抜く」と力が生まれる』、第3章『がんばる人は、がんばり過ぎない』という表題が、心の掃除のコツを言い表しているように思う。--がんばり過ぎてにっちもさっちも行かなくなる前に、ふっと力を抜いてみる--それができたら、そうするようにアドバイスできる者が傍にいたならば、現在の自殺の連鎖を断ち切ることができるかもしれない。
だが、現実にはそういうことができず、そうしたアドバイスをしてくれる人も傍にいないからこそ、自らの命を絶つ人が後を絶たないのだろう。しかし、それだからこそ、「今生きることが苦しくてたまらない人たちが、ふっと力を抜いて、もうどうでもいいや」、と思ってくれたならば・・・などと言いたくなるのは、私が修羅の巷で生きたことのない軽佻浮薄の徒だからなのだろうか。
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