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もう君は・・

 城山三郎の遺作「そうか、もう君はいないのか」(新潮社)を読んだ。以前城山三郎についての記事を書いた時に「読みたい」と書いた作品をやっと読めたわけだが、正直思ったほど心を打たれなかった。
 この本は、城山三郎の死後見つかった、妻について書き溜めた断片を編集して一巻にしたものであるため、城山自身の推敲が十分なされていないということもあり、完成した作品とみなして評価してはいけないのかもしれない。だが、本書の帯に「こんな夫婦でありたい・・。全国から読者の声大反響!」などと書いてあるような世評を少しばかり見聞きしてから読んだだけに、思ったほどジーンとする場面も少なく、一度も涙が浮かんでこなかったから、評判ほどではないと思ってしまったのも仕方ないように思う。(ただ、亡くなった妻との日々を断片的に綴ったものだけに、TVドラマの原作とするには好都合だったかもしれない。今年の1月にTVドラマが放映されたらしいが、あいにく私は見ていない)
 老境に差し掛かった男が長く連れ添った妻に先立たれてしまったときの悲哀は、ちょうど20年前に母と死に別れた父のその後をともに暮らしてきた私には、痛いほど分かる。もちろん父の心の奥底の悲哀を十分に分かっているなどとは思わないが、共有してきたものもいくらかはあるだろうから、何分の一かは感じ取ってきたように思う。そんな私であるから、城山の悲しみは何も特別なものではないし、城山夫妻が理想の夫婦だなどとも思ったりしなかった。妻を当たり前に愛して生きて来た普通の男が、妻に先立たれて味わう悲しみを当たり前に描いた話であり、当たり前に悲しいし、当たり前に美しい話だ、と率直な感想をもっただけである。それは何も城山夫妻を貶めようというつもりではなく、ともに長い時を歩んできた二人の男女が、いつかは直面せねばならない別れとどう向き合ったかを忌憚なく語ったのが本書であるという意味であり、彼らの生き様を指して、「素晴らしい」と評するのはどこかおこがましいのではないか、そんな気がするのだ。
 妻との別れを迎えてどう対処するか、それを乗り越える必要があるかどうかも私には分からない。もちろん社会的、家庭的に責任のある立場だったら、事はそう簡単ではないかもしれないが、老境に達し、子供たちは独立し、社会的にも十分働いた後であるなら、もう己の気持ちに殉じてもいいのではないか、そう思う。妻の死に萎れて一気に朽ち果ててもいいだろうし、もう一度生き直してみようと思い立つのもいい、どんな選択をしようが本人の勝手だし、他人がとやかく言うことではないように思う。
 夫婦の関係が千差万別であるのと同じように、連れ合いに先立たれて残されたもう一方がどう生きるかは、夫婦が培ってきた時間が決めるものだと私は思う。私の父が母とどんな時間を過ごしたかは、その後の父の生き方を見てきて何となく分かる気がする。確かに肉体は死によって滅び、二度と触れることはできないが、心の中では思い出として生き続けることができる。父が母との心の対話を今もしているかは分からないが、母の死後20年間毎月命日には必ず墓参していることからも、父の中で母の思い出は生き続けているのだろう・・。それは死という圧倒的な力を持ったものでも消し去ることができないものなのだ。
 本書の中に描かれた城山夫妻の姿を私の父母とダブらせてしまうのは少々的外れかもしれないが、ほぼ同じ時代を生きてきた人間として、通底するものがあるように思う。そう考えると、妻が存命中に城山が書いた詩は、同じようなことを私の父も考えたことがあるのだろうか、などと思いを馳せてしまう・・。

  「おい」と声をかけようとして やめる。
  五十億の中で ただ一人「おい」と呼べるおまえ
  律儀に寝息を続けなくては困る


確かに息が止まっては困る。困るが、止まるものは仕方ない。仕方ないから余計悲しい。夫婦の別れとはそんなものかもしれない。 


 

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