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ヤンキー

 春先から、定期購読している雑誌を市内の小さな書店が家まで配達してくれることになり、毎週一回は書店に行っていた習慣がなくなってしまった。そのため、書店に行く回数が激減してしまい、面白い本を見つける楽しみから最近はずいぶんご無沙汰している。仕方なしに、「読みたい」と思う本はアマゾンで注文しているが、それでもやはりたまには書店に足を運ばねばまずいな、と思って少し離れた書店に出かけた2週間ほど前に見つけたのが、難波功士「ヤンキー進化論」(光文社新書)だった。別に私はヤンキーのシンパでも、いわゆる「元ヤン」でもない。だが、長年塾をやっているとヤンキーもどきの生徒に接することもたびたびあったので、ヤンキーの生態に関しては少しばかり興味がある。近年は「不良=ヤンキー」という図式は崩れてきているが、ヤンキーは決して死滅した種族ではない。しばらく見ないうちに、見事にプチ・ヤンキー化した元塾生に会ったりすることもよくあるから、ヤンキーに関する論考を見つけたなら、読んでみたくなるのもごく自然なことだ。また京大-博報堂-東大大学院-関西学院大学教授という華々しい経歴を持つ筆者が、白眼視されることの多いヤンキーにどんな考えを持っているのかも知りたくて、読んでみることにした。
 
 筆者はヤンキーを次のように定義する。
「階層的には下位と目され、旧来型の男女性役割(と性愛)になじみ、地元・自国志向を帯びた若者たち」(P.77)
これには私も異論はない。過不足ない見事な定義であるとさえ思う。しかし、この定義に当てはまるヤンキーたちの生の声を筆者がまったく聞いていないのはどういうことだろうか。彼らの肉声を聞きながら、彼らの考えや感覚などを分析していった結果が本書に収められている、と勝手に思い込んでいた私が悪いのかもしれないが、筆者は膨大な資料の中からピックアップした箇所を引用しながら、ヤンキーの過去から現在に至る歴史を振り返っているだけで、実際にヤンキーたちと話し合った形跡はまったく見られない。果たしてこれでいいのだろうか?
 筆者が常日頃相手をしている関学の生徒の中には生粋のヤンキーなどという者はいないであろう。自らの生活でまるで接点のない集団に関して研究をするのに、その集団と接触しないまま、他人の調査資料や研究資料に依存してばかりいては、その論考は机上の空論になりはしないのだろうか?筆者自身はその点に関し、
「もちろんヤンキーについて語る以上、フィールドに入る必要もあったのだろうが、資料だけに頼るアームチェアなやり方がどこまで可能かをトライしたつもりである」(P.241)
と開き直っているのには恐れ入るばかりだが、筆者が書いた何冊かの本を決して読むことのない者たちこそがまさにヤンキーであろうから、筆者の方から近づかなくては、決して交わることなどないだろう。それは私が一度も行ったことのないパリに関して膨大な資料を読みこなし、ここぞと思う文章や写真を引用しながら、パリ・ガイドブックを作って得意顔をしているようなものであり、魂の入っていない上っ面だけの本となってしまうのは必然のことのように思う。
 事実、本書を読み始めてしばらくしたら、退屈で仕方がなかった。確かによく勉強はしている。「マンガ喫茶でヤンキー・マンガを通読したり、レンタル店で借りたVシネやOVAをチェック」した量とそれにかけた時間は相当なものであっただろう。だが、だからと言ってそこから生まれた本が面白いというわけではない。目の付け所はなかなかよかったとは思うが、それを論じ切れていないのは、やはりヤンキー諸君と「魂が通じ合うような」会話をしていないためなのではないだろうか・・。
 
 私としては、ヤンキーの時代的変遷を知るには、本書の中にも紹介されている、嘉門達夫が歌う「ヤンキーの兄ちゃんのうた」「絶滅・ヤンキーの兄ちゃんのうた」の歌詞を比べた方が、ずっと分かりやすいと思うのだが・・。
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