じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

脱「ゆとり教育」

2010-03-31 02:43:48 | Weblog
★ 寺脇研著「21世紀の学校はこうなる」(新潮OH!文庫)を懐かしい想いで読んでいる。

★ これを読むと、2002年度から始まったいわゆる「ゆとり教育」が、単に学習内容の3割縮減にとどまらず、教育のコペルニクス的転換を目指したものであることがわかる。

★ 著者の「想い」は結局夢に終わってしまいそうだが、「ゆとり教育」は成熟社会における教育、とりわけ学校教育のあり方を追求した歴史的実験としては意義深いと思う。

★ 確かに誤算もあった。知識ではなく学び方を教えようとして、学習内容を厳選し、ミニマムエッセンシャルを誰もが理解できるようにしたいという「想い」は画餅であることがはっきりした。

★ どんなに「知識」を教科書に詰め込んでも、子どもたちは結局は消化不良に終わってしまうから、いっそのこと量を減らし内容を平易にし、学校教育は必要最小限のことを完全習得させればよい、という「想い」はよくわかる。

★ しかし、内容を軽くし平易にしても、子どもたちは完全習得などできなかった。

★ 易しくしてもわからない子はやはりわからないし、今までなんとか内容にしがみついてきた層の子どもたちの学力低下が顕著になった。

★ 小泉改革の自由化路線で経済的な中間層が没落していったように、学力の中間層が没落していったように思える。

★ もちろん学習指導要領や教科書の内容だけに問題があるわけではない。週5日制や振替休日の実施によって、学習の中断が頻繁に起こり、学習の定着が悪くなったように思う。

★ 「ゆとり教育」の意味は、「教えられる教育」から「主体的に学ぶ教育」への大転換であったように思う。「知識の習得」から「学び方の習得」への大転換であったように思う。

★ 工業化をめざす社会では、良質で均質な労働者の育成が求められる。国民を一定の水準に高めることが公教育の大きな目的であった。

★ しかし脱工業化社会、成熟社会では、よりクリエイティブなエリートが求められる。

★ 単純労働は機械が取って代わるから、人間にはより創造的な価値の創出が求められるようになる。これを実現するためには旧来型の「学校」を中心とした詰め込み教育ではダメだと考えられた。この点は実に先見性に富んでいる。

★ ただ社会にこの先見性を受け入れるゆとりが欠如していた。

★ ところで、脱「ゆとり教育」は何を目指しているのだろうか。単に過去への回帰でよいのだろうか。今更所得倍増、高度経済成長を目指して昭和30年台や昭和40年台の指導要領に戻しても、先詰まりは目に見えている。

★ どのような国家を目指すのか、どのような未来を目指すのか、真の社会変革は教育よってのみ実現される。改革と反動の繰り返しは歴史の常だが、展望なき教育改革は時間の浪費に留まらず、未来に禍根を残す。

★ いかなる改革でも結構だが、何をめざすのかを十分に検討して欲しいものだ。
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