イエス・キリストのもとには、収税人や罪人がイエスの証しする神の王国の良いたよりの真理を聞くために近づいていました。しかし、そのため、偽りの宗教指導者のパリサイ人も書士たちも、しきりに不平をならしました(ルカ15:1,2)。そうした中で、イエスは、次の例えを話されました。その一つは、百匹の羊飼いがその中の一匹が迷い出た場合、九十九引きを残し、迷い出た一匹を捜し、その一匹を見つけるとそれを自分の肩に載せて歓び、さらに友人や隣人を呼んで一緒に歓ぶ話です(ルカ15:3~7)。この憐れみ深い羊飼いはエ神を表わしています。二つ目の例えは、十枚のドラクマ硬貨を持った女性がその内の一枚を無くし、注意深く捜す話です。その女性が無くした一枚のドラクマ硬貨を見つけると友人や隣人を呼んで共に歓ぶ話です(ルカ15:8,9)。これらの例え話をし、イエスは「悔い改める一人の罪人については、神(エホバ)のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」と、ご自身の行っている言動は、それと同じであることを教えられました(ルカ15:10)。そして、イエスは三つ目の話しに、悔い改めたほうとう息子を快く許し、迎える父親の話をしました。その内容が以下の通り記されています。快く許した父親はエホバ神を表わしています(コロサイ3:13)。イエスのほうとう息子の話しから、エホバ神はどのような方かを理解できますので、優しい愛情のエホバ神に近づきたいと思われるに違いありません。
「それからイエスはこう言われた。「ある人に二人の息子がありました。そして、そのうちの若いほうの者が父親に言いました、「父上、財産のうちわたしに頂く分を下さい」。そこで彼(父親)は自分の資産をふたりに分けてやりました。その後、何日もたたないうちに、若いほうの息子はすべてのものを取りまとめて遠い土地に旅行に出、そこでほうとうの生活しをして自分の財産を乱費しました。すべての物を使い果たした時、その地方一体にひどい飢きんが起こり、彼(ほうとう息子)は困窮し始めました。彼(ほうとう息子)はその地方のある市民もにとに行って身を寄せることまでし、その人は彼を自分の畑にやって豚を飼わせました。そして彼は、豚が食べているいなごまめのさやで腹を満たしたいとまで思っていました。彼に何か与えようとする者はだれもいませんでした。
本心に立ち返った時、彼は言いました、「わたしの父のところでは実に多くの雇い人に有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢きんのために死にそうなのだ。立って父のところに旅をし、こう言おう。「父上、わたしは天(エホバ神)に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」。そこで彼は立って父親のもとに行きました。彼がまだ遠くにいる間に、父親は彼の姿を見て哀れに思い、走って行ってその首を抱き、優しい口づけをしたのです。その時、息子は言いました、「父上、わたしは天(エホバ神)に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」。しかし父親は自分の奴隷たちに言いました、「さあ早く、長い衣、その一番良いものを出して来てこれに着せ、その手に輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい。それから、肥えさせた若い雄牛を連れて来てほふるのだ。食べて、楽しもうではないか。このわたしの息子が、死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのが見つかったのだ」。こうして彼らは興じ始めた」(ルカ15:11~24)。
上の聖句を熟読してくだされば、幸いです。本心に帰り悔い改めたほうとう息子が、父親のもとに帰った時、まだ遠くに息子の姿を見た、父親は哀れに思い、走って出て迎えに行き、優しい抱擁をしています。父親は悔い改めた息子に上等の衣を与え、かつ、宴を設けました。そして、父親は「死んでいたのに生き返った」、とその喜びを言い表しました。この父親の姿はエホバ神を表わしています。善良で、慈しみに富むエホバ神は惜しみなく許して迎えてくださるのです(コロサイ3:13)。このような愛情深い父親のエホバ神にあなたも近づいてみたいと思われるに違いありません(ヤコブ4:8)。
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立冬や 穏やかな陽の 朝の庭 今日の一句
道の駅の前から見た「宇和島城」