私は筑後生まれの筑後育ち、高校卒業後は肥前の国に移り、その後の江戸生活を経て、現在肥前の国に定着致しております。肥前に定住して、四半世紀が経ちますが、まだまだ理解できないお国言葉があります。私も今でも筑後弁をしょっちゅう使います。ですから我が家は、筑後弁と佐賀弁のチャンポンですが、標準語もどきが基本言語となっております。子供達も友達同士では、佐賀弁丸出しで話していても私の前では標準語に近い言葉使いをしていました。
といいますのも以前やっていたアマチュア無線に関連していると思います。まさか筑後弁丸出しで交信できませんから、とりあえず学校で教わった標準語に近い言葉を喋るように気をつけておりました。しかし、如何せんアクセントだけはどうにもなりません。未だに「橋」、「端」、「箸」や「牡蠣」、「柿」などの区別がつきません。上京して先ず戸惑ったのが、やはり言葉です。標準語と思っていた言葉が、全く違った意味だったりとカルチャーショックを受けてしまいました。反面、全国各地から入社した方々のお国言葉のバラエティーに富んでいることに興味を覚えました。出張で日本各地を訪れて、土地土地の食べ物、酒などを味わうのも楽しみでが、私にはそこで生活している方々を観察することも興味深いものがあります。お国言葉もその一つです。
私の生まれ育った筑後地方では「筑後」を「チクゴ」とは言わず「チッゴ」と言います。「水田(ミズタ)」を「ミッタ」などと、せっかちな人が多いのでしょうか、やたらと途中が詰まってしまいます。また「さしすせそ」が「しゃしぃしゅしぇしょ」のようになります。例えば、「先生(センセイ)」が「シェンシェイ」みたいになります。さすがに今時の人達はそのような発音をすることは少なくなっているとは思いますが、年寄りには顕著な特長です。
一口に筑後といっても広いものです。私が生まれ育ったところは、久留米藩と柳河藩の藩境にありまして、数百メートル行けば柳河藩です。同じ筑後弁のカテゴリーに属していてもかなり異なっております。柳川から行商に来ていた八百屋や魚屋さんの言葉は語尾に「のも」とか「かんも」がついていました。高校は旧柳河藩内に通いましたが、たったの4キロしかないにも関わらず、言葉がかなり異なっておりました。明治維新後100年以上たっても徳川幕府の影響は、そこかしこに残っているものです。
佐賀と筑後は40キロ位しか離れておりませんが、言葉としては似ているところもあれば異なるところもあります。第一印象は、何となく「ぎーぎー」と小うるさい言葉だなーとい言ったものでした。話言葉の中でやたら「そいぎー」という言葉が挟まれます。それも色々な意味に使われます。別れの挨拶に「そいぎー」、話の合いの手に「そいぎ」などなどやたら多用されます。佐賀に来た当初、佐賀人から別れ際に「そいぎー」と言われたので、「そいぎー」=「さようなら」と理解していたのですが、店で支払をしたとき「そいぎー」といわれたので「おつりはないから早く帰れ」とでも言われたのかと一瞬戸惑ってしまいました。
その後も、多くのお国言葉体験をして参りましたが、特に印象に残っているのが、とある結婚式でのことです。新婦の友人がした神戸弁のスピーチです。話の内容自体はよくある話で、取り立てて言うべきことはなかったのですが、その言い回しの優雅というかエレガントというか、細やかな心遣いを的確に表現できる言葉を始めて耳にしました。確かに結婚式という場の雰囲気も手伝ってのことかとも思いますが、大変感動したことを思い出します。もし私がこのような言葉で言い寄られたら一たまりもないなーと思った次第です。その後、神戸に単身赴任したこともありますが、残念ながらそのような機会に恵まれることはありませんでした。
細かな感情を巧みに表現できるのが方言の特長なのではないかと思ってしまいます。感情の昂ぶりを標準語で表現していたら、それこそ醒めてしまいそうです。標準語で喧嘩などしていた日には、馬鹿馬鹿しくなって笑ってしまうことにもなりかねません。それはそれで良いことでもありますが・・・。