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加賀藩ゆかりの地を訪ねる(No.517)
◇富山県南砺市五箇山①
今回は金沢ボランティアガイド「まいどさん」の同期生
グループ「よるまっし16会」で加賀藩のゆかりの地南
砺市の井波、五箇山を訪ねた。
□五箇山の由来
五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の
旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの谷から
なるので「五箇谷間」となり、これが転じて「五箇山」
の地名となった。この名称が、文献に出てくるのは約
500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最
初である。これ以前には、荘園時代に坂本保、坂南保、
坂上保、坂下保、坂北保の5つの領に区別し「五箇荘」
とも呼んだ。
平家の落人伝説が「五箇」が多いとの所以は、「五箇」
が山間地に多いことや落人が山間に逃げることから源
平合戦の近隣の地域に伝説が多い。
■写真は南砺市地図
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■写真は祖山大槻伝蔵の碑
◇大槻伝蔵流刑の地
大槻伝蔵(おおつきでんぞう)は加賀藩の弓持足軽大槻
七左衛門の三男として生まれる。ほどなく叔父大槻長兵
衛の嫡子として養子に出され、13才で6代藩主前田吉
徳(よしのり)の御部屋附御居間方として出仕すると、
持ち前の美貌と明晰な頭脳を生かして藩主の寵愛を得つ
つ仕事の実績も重ね、17年間で実に21回もの加増を
受け、藩主の覚えもめでたい伝蔵は、ついに3,800石の
禄高となり、地位と立場を最大限に利用して藩政をも牛
耳ってしまいます。
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■写真は伝蔵碑の傍の熊野神社
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飛ぶ鳥落とす伝蔵の権勢も藩主吉徳の後盾あってのこと。
吉徳が延享2年(1745)に急死すると、待ってましたと
ばかりに土佐守ら反大槻派が大槻らを排斥しようと工作
を開始。そして「吉徳の看護不届き」というよく分から
ない罪で伝蔵は捕らえられ、越中五箇山(ごかやま)に
ある加賀藩の配流所へ流刑となってしまいます。
■写真は田向の流刑小屋
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■写真は流刑小屋の内部人形
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■写真は上梨の拾偏舎(蕎麦屋)
そば拾偏舎紹介ページ
http://hakusan-no-megumi.jp/hyakuzen/hakusan/463.html
(つづく)