いしかわの観光スポットレポート(No.1978)
◇天徳院巡り2021
金沢城・兼六園研究会29期の勉強会に参加した。ガイドさんに初めて解説していただきました。
〇天徳院概要
金龍山(きんりゅうざん)天徳院は曹洞宗の寺院。元和9年(1623)に加賀三代藩主前田利常公は正室珠姫菩提のため、金沢城の東、小立野台に4万坪の広大な敷地を定めて天徳院を創建した。寛永元年(1624)初代将軍徳川家康公が崇敬した巨山泉滴和尚を千葉県長安寺よりお招きし、天徳院第一世開山とした。寛文11年(1671)珠姫(天徳院殿)の遺骨は天徳院境域より野田山に改葬された。 元禄6年(1693)五代藩主綱紀公は四代藩主光高公50回忌供養のために、親交の深かった明(中国)の僧、黄檗宗五代管長高泉和尚に委嘱して着工から10年の歳月を要して天徳院の全堂宇をすべて明朝式に造営建築した。明和5年(1768)に山門、総門、御霊堂、宝蔵などを残して本堂、庫裡その他多くの講堂を焼失した。現在は山門を残すのみである。明和6年(17年度69)12月には、十代藩主重教公がわずか70日間の突貫工事で本堂、庫裡などを再建した。(天徳院ホームページより)
〇珠姫さま略伝
珠姫さまは、加賀藩三代藩主前田利常公の正室で、慶長4年(1599)三月江戸幕府第二代将軍徳川秀忠公の次女として生まれ、名前は珠子、幼名を子々姫といった。同年、前田家では藩祖利家が亡くなり、二代藩主利長公が加賀の国へ戻り藩政を治めていた。その間には、前田が徳川を討つという噂が流れ、将軍家康公は大変驚き軍勢を集めて前田を攻めようとした。この情勢を聞いた利長公はすぐに国家老を派遣して、前田家が徳川幕府に刃向かう計画は一切無いことを説明、その証としてやむなく利長公の母、お松の方(芳春院)を人質として江戸に送り代わりに珠姫を嗣子利常の嫁として受けることを約束した。 慶長6年(1601)姫さま3歳のとき加賀の国へお輿入れになり14歳で結婚、その後10年間に3男5女を立派に育てられた。珠姫さまは利常公の妻として、将軍秀忠公の娘として前田、徳川両家の融和のために心を尽くされたが、元和8年(162)春、夏姫出産後7月3日に亡くなられた。御歳24歳であった。その年の8月8日、城外小立野の地で荘厳に葬儀が行われ、遺骨を金沢と高野山に分骨して各に一寺を設け、戒名の「天徳院殿乾運淳貞大禅定尼」にちなんで、いずれの寺院も天徳院と称した。珠姫さまの生涯は加賀百万石の危機を救いその繁栄に尽くした、まさに良妻賢母、日本女性の鏡として今も金沢市民に敬愛され親しまれている。(天徳院ホームページより)
■写真は歴代住職のお墓
(つづく)
天徳院「珠姫まつり」① 紹介ページ
天徳院「珠姫まつり」② 紹介ページ