過去に、様々な雑誌などに書いた人物評伝を、思い出し出し(実のところフロッピーに閉じ込められて、救出不可能なのだ)掲載しようと思います。適度な長さのものもあれば、長大なものもあります。斜に構えたものも、ストレートなものもあります。
第一回目は、明治の啓蒙政治家・田中正造です。
【日本で最初の反公害・人権闘争に殉じた】
田中 正造(1841.12.15. - .1913.9.4.)
日本の公害の原点と言われる足尾鉱毒事件の悲惨は、戦後に数々の公害事件が露見するまで歴史の彼方に葬り去られていた。
そして、足尾鉱毒事件を帝国議会で告発し続け、鉱毒被害民と共に戦い彼等の中で死んでいった田中正造の名も忘れ去られていた。
一八四一年栃木県安蘇郡小中村の名主の跡継ぎとして生まれ、わずか一七歳で名主となった正造は、若年ながら「朝飯前に、必ず草一荷刈る」「朝飯後には……2時間商用に従事」「村の小児に手習いを授ける」「夕食後……見回りの後友人と漢籍の講習を為す」と自らに課し、農民であることを自覚しつつ学び、後継の育成にもたゆまぬ名名主であった。
やがて領主・六角家の悪政改革を唱え約十一ヵ月、また江刺県(現在の岩手県)の下級官吏時代にも、無実ながら上役暗殺事件の嫌疑を受け三年と二十日もの間投獄されるなど、権力悪と対峙し続ける硬骨の人であった。獄舎で政治経済を学ぶ向学の人でもあった。
明治十一年、民権運動の高揚の中、田中も「政治に一身を捧ぐ」と神に誓い家財を捨て、三十五年間の生活予算をたて質素に生活し始める。清廉の人でもあった。
二年後、まず県議として地方政治に携わり、同十七年には悪徳県令・三島通庸追放運動を組織、この時も理不尽にも投獄されている。
同二十三年、第一回総選挙で衆議院議員に。この瞬間から田中正造は足尾鉱毒事件と生涯を掛け向き合うことになる。
足尾銅山は、明治二十年古河市兵衛による経営が始まり鉱毒事件が顕在化する。急激な拡張と増産が主因だ。度重なる渡良瀬川の大洪水で、鉱毒は流域三十万人に上る被害民を生み出す。田中は同二十四年の第一回帝国議会で、政治上の問題として早くも「人権・憲法・法」を軸に鉱毒問題質問書を提出する。
だが質問書への回答は「原因不確定。防災設備も万全」であり、議会も行政府も古河の側にあった。しかも行政府は被害民に対し、古河の意を汲み示談攻勢を仕掛けた。中には五銭で「苦情がましき儀一切申出まじく候」と、理不尽な永久示談契約をさせられた者もいた。県議など有力者がその任に当たった。
被害民は苛立ちを募らせ、同三十三年には川俣事件が起こる。請願運動に出発するため川俣の渡しに集った丸腰の農民たちに警官・憲兵が襲いかかり、サーベルで殴り百人余に怪我をおわせ、七十余人を捕縛したのだ。
田中は同事件を「国の機関が古河市兵衛の小間使野郎の如くに使われている」と評した。
政治の無力を痛感した田中は、天皇直訴事件などを起こすが、同三十四年議員を辞す。
やがて「この窮民の一人を救い得ば、正造ここに死して少しも恨みなし」と被害甚大の谷中村に居を移す。以後被害民の辛苦を己が辛苦とし、大正二年九月四日癌で病没するまで、生を賭して被害民と共に戦い続けた。
不思議な符合か、病没したのはかつて政治家を志し「三十五年の予算」をたてた、その三十五年目のことだった。享年七十二。