父・加藤千代三が生まれたのは、明治39年(1906)8月10日と聞いていたが、本人の談によると本当は6月10日だったという。なにか、生まれた当時の「祭り」との関わりで、出生日を遅らせたということだったが、事の次第は詳らかでない。この年は「丙午(ひのえうま)」で、その辺りが関係していたのだろうか。
明治39年というと、前年に日露戦争があった。日本はそれこそ、戦勝気分に溢れていて、父の名も「千代三」であり、「千代に八千代に」の「千代」の意味だろう。
ただ、あまり丈夫ではなかったようだ。
記憶にある、父の語った言葉を紡いでいくと、加藤という家は戦国末期から江戸初期にかけて名字帯刀を許された「加藤勘十」という、おそらくは元武士であったろう「墓の石彫り(墓石に名などを刻む)」を祖とするらしい。
その後、連綿と加藤家は続くのだが、その筋の中で僧籍の者や尼などを輩出したという。明治17~20年にかけて南禅寺の管長として名の残る初代・少林梅嶺は、加藤の一族だった。その兄には狩野派の画家で、雪渓を名乗る者もいた。
梅嶺が管主となり、南禅寺に向かう姿を見て雪渓は「墨染めの衣を纏って行けばいいものを」とつぶやいたという逸話も、加藤の家では語り継がれている。
しかし。千代三が生まれたのは極貧の小作農の小倅としてだった。
それ以前の家系を聞けば、それなりに名門の家という印象だが、千代三が生まれた当時、加藤の家は没落し果てていた。
その理由は……。次回ということで。
〈続く〉
明治39年というと、前年に日露戦争があった。日本はそれこそ、戦勝気分に溢れていて、父の名も「千代三」であり、「千代に八千代に」の「千代」の意味だろう。
ただ、あまり丈夫ではなかったようだ。
記憶にある、父の語った言葉を紡いでいくと、加藤という家は戦国末期から江戸初期にかけて名字帯刀を許された「加藤勘十」という、おそらくは元武士であったろう「墓の石彫り(墓石に名などを刻む)」を祖とするらしい。
その後、連綿と加藤家は続くのだが、その筋の中で僧籍の者や尼などを輩出したという。明治17~20年にかけて南禅寺の管長として名の残る初代・少林梅嶺は、加藤の一族だった。その兄には狩野派の画家で、雪渓を名乗る者もいた。
梅嶺が管主となり、南禅寺に向かう姿を見て雪渓は「墨染めの衣を纏って行けばいいものを」とつぶやいたという逸話も、加藤の家では語り継がれている。
しかし。千代三が生まれたのは極貧の小作農の小倅としてだった。
それ以前の家系を聞けば、それなりに名門の家という印象だが、千代三が生まれた当時、加藤の家は没落し果てていた。
その理由は……。次回ということで。
〈続く〉