普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

月旦評⑦ 田中直紀

2012-02-06 22:09:34 | 極端な人々<的>な
 人には「分相応」ということがある。
 それが人の普通の生き方、その場の居方。

 だが、そこを突破できれば人間、一回りも二回りも大きくなっていく。
 「分相応」は楽にそこにいられる状態だが、突破するにはそこに居続けることの何百倍もの労力と努力を必要とする。

 だが、突破することが「天命」であったり「楽し」かったり、決して苦痛でなければ、それはいとも簡単に達成できる。
 要は、心のありどころの問題なのだ。

 なんでも同じことなのだが、その心のありどころこそ、人が人生を上手くコントロールできるか、運命とでもいいたくなる力に翻弄されるかの分岐点なのだ。

 偉そうなことを書いているが、ボクはどちらかと言えばいまのところ運命に翻弄される人だ。頭ではわかっても、心のありどころを肉体化できないのだ。

 だが、諦めたわけではない。すねてもいない。真正面から「分相応」という壁に挑んでみようと思っている。

 忘れていた。【田中直紀】だ。

 失言と言う括りで言えば、まったく双子のような夫婦だ。
 カミさんの真紀子さんの方が、失言上手かもしれない。だが、彼女の場合は失言ではないのだ。意図的なはみ出し。あるいはいくらでも開き直れる範囲での失言。もっといえば、反省など端からするつもりのない、発言。「分相応」を突き破ろうという意志の表れと言っていい。

 それに比べると、直紀氏の方は、明らかな失言。失言し終わった後の、指摘された時の顔が、なんともガキのようである。「えっ?」みたいな感じ。
 国会の質疑の最中に、コーヒー飲みに行っちゃうということ自体、この人の幼児性を如実に表している。

 いい夫婦なんじゃなかろうか? 完全に真紀子さんの掌の上で宇宙を支配している気にさせてもらっているのじゃなかろうか?

 まあそれにしてもだ。田中直紀氏は、正直「分相応」の居場所にいた方が傷つかないですむのと違いますか? 彼の場合、「分相応」は大事な言葉だと、思います。

 少なくとも、防衛大臣ではないな。

仕事は楽しや!

2012-02-06 13:50:29 | 普通な生活<的>な
いま都心に出て、お仕事中。

なにが辛いと言って、日がな一日やることもなく、漫然と過ごす日の辛さといったらない。

もちろん、時間は如何様にも使える。普段書けない原稿を書くとか、行きそびれていた気になる店に行ってみるとか、なんでも充てられる。

だが違うのだ。要は気持ちなのだ。

仕事の様なものを創ることはできる。だが誰かに必要とされる仕事とは、本質的に異なる。

そういう意味での仕事は、いつまでボクを生かしてくれるだろうか?

希望と言う未来は、ボクにはそれほど先まではないが、どこまでも未来を見続けていよう!