普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

徹夜仕事。

2012-02-12 17:09:41 | 普通な人々<的>な
 最近、徹夜の仕事がある。校正の仕事なのだが、印刷の現場に出向きその場で校正をするような感じ。出張校正とはまた別で、校正のオーソリティとして参加する。

 そこでさまざま思い出すことがあって、いまは家だが眠い目を擦りながら書くことにする。

 いまから40年近く前(正確には37年)、ボクは廣済堂出版の新雑誌の編集者で、板橋の志村坂上にある凸版の印刷工場に出張校正でよく出向いた。
 当時はまだ活字印刷も残る時代だったが、廣済堂自体親会社が印刷企業であり、当時最先端だった電算写植を売りにしていたこともあり、凸版と協働していたが、むしろ凸版を凌駕するほどの力関係だった記憶がある。廣済堂が凸版に資金注入を行なうような感じだった。

 それはそれで置いておいて。

 印刷技術の流れとしての活字印刷、写植印刷、DTPの違いなどは以前ここでも書いたので省くが、写植の時代に入ると、印刷所も活字の時ののんびりとした感じは失せ、一気に大量消費的システム感溢れる現場になったようだった。その証拠に、当時の印刷現場は「過労死の温床」とまでいわれていた。自殺者も多かった記憶がある。

 確かに大変な仕事現場だったと思う。なにせ雑誌メディアはやがて最盛期を迎える時期で、百万部を越える雑誌など何誌もあった。一つ一つの活字メディアは、こちらも出版と言う社会の木鐸的意識で仕事をしていたから、ほんの少しの意見の食い違い、理解不足でも刷り直し(いまのような値段を間違えたからすり直すというレベルではなかった)などしていた。その割には写植の工程はアナログで、すべて手作業に近いものだった。
 編集部でも写真版の切り張りなどを、編集の仕事の一環としてやっていた。
 それだから、夜中になるのは当たり前で、出張校正はむしろ非日常的な現場で楽しかった記憶すらある。

 後に別の雑誌編集に移り、大日本印刷での出張校正となったが、どちらも同じような現場だった。工場と言う現場感溢れたところはどちらも同じだった。

 いま出向いている現場も同様なのだが、なにか昔と異なる。完全にシステムの一部になり、その出版物への思い入れもなにもなしに、ただ文字や絵柄を追う。当たり前のことだといま仕事に携わる人は思っているだろうが、文字を追うのであり文を追うのではない。伝える内容を吟味するのではなく、情報スペックの齟齬のなさ、正確さを吟味する。

 印刷の現場だけでなく、おそらくすべての産業の現場で、同じような印象を受けるのだろうが、大事なのはそれこそ、内容などに拘泥することではなく、齟齬のなさが至上命題。責任回避という一点に、校正の全精力が注がれる。

 校正とは、そういう仕事だったのだなあと、改めて再認識させられている。

 校正という言葉の意味も、昔とは雲泥の違いがあるのだよ。