普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

歴史上の人物伝③ ブレヒト

2011-01-11 12:30:00 | 歴史上の気になる人々<的>な
<なぜこの期に及んでブレヒトなのかといえば、記憶の掘り起こしと懐古。
 ボクが早稲田の学生となったと同時に所属した劇団が、60年代後期当時、日共系の所謂ブレヒト劇団だったことで、ブレヒトへの興味が湧いた。それ以前はどちらかといえば実存主義的演劇に身を寄せていたが、演劇論としてのブレヒト解体作業が面白かったのだ。
 この原稿自体は、いまから10年ほど前に書いたものだ>

●ブレヒトの異化効果は、お笑いの手法に通じる!?
 ドイツを代表する現代劇作家ベルトルト・ブレヒトは、一九五六年、東西冷戦真っ直中の東ドイツで、今日の共産主義体制崩壊という世界の趨勢を知ることなく死んだ。前年の五五年には共産主義下にあっては最高栄誉ともいえるレーニン平和賞を受賞し、成功の絶頂のままに共産主義者として殉じたが、決して教条主義者ではなかった。政治的存在でもなかった。
 ヨーロッパのみならず全世界を覆った全体主義との闘争の方法論として共産主義的なるモノを選択したのであって、当時の世界精神を体現したにすぎなかった。
 一八九八年、アウクスブルグの製紙工場支配人を父として生まれたブレヒトは、第一次世界大戦当時、ベルリンの大学で自然科学と哲学を学ぶ学生だったが、衛生兵として応召、一九二二年戯曲『夜うつ太鼓』を発表、ドイツ演劇界からクライスト賞を贈られ一気に注目を浴びた。一九二八年には『三文オペラ』を発表、国際的にも注目される作家となった。
 ヴァイマール共和制下で自由と共産主義との洗礼を受け、急進的作家としての地位を固めたブレヒトは、当然の帰結としてナチスと対峙することとなる。『三文オペラ』まではアウトサイダー、以降は明確にマルキシズムへと傾倒し社会変革を視野に入れた作品を発表し続けた。
 その代表が『処置』『イエスマン/ノーマン』『第三帝国の恐怖と貧困』の一連の教育劇であった。これらの作品で「叙事的演劇、異化効果」といわれるブレヒト独自の演劇構想を確立、感情・インスピレーションを徹底的に排除した機能的演劇は「演ずる者を教育する」というブレヒトの演劇論を真に具体化し得た作品群であった。
 1933年2月27日に起きた国会議事堂焼き討ち事件の当日、15年に及ぶ亡命生活に旅だった。北欧からアメリカに渡った彼は『ガリレイの生涯』などの代表作品を発表し続けるが「文学的な仕事のすべてをナチズムに対する闘争にゆだねた」と、後に戦後アメリカ社会を席巻したマッカーシズム旋風の中、非米活動調査委員会への供述で語っている。
 やがてアメリカを追われるように四八年東ドイツに帰還したブレヒトは、妻であり女優であるH・ヴァイゲル主演で『肝っ玉おっ母』を上演、晩年まで彼の活動拠点となったベルリーナ・アンサンブル設立を許可され、ブレヒト演劇確立の舞台とした。
 オペラ『ルクルスの審問』では、平和主義を標榜し東ドイツ当局により上演禁止処分を受けた。ブレヒトはやはり、教条主義者ではなかったのだ。ブレヒトは晩年に『ぼくには墓石はいらない』と題する一篇の詩を残した。彼の心のあり場を指し示しているようで面白い。
「僕には墓石はいらない/しかしそれでももし君たちが僕の墓石が必要だというなら/墓石にこう記していただきたい/『彼はさまざまな提案をした/われわれはその提案を受け入れた』と/こういう碑銘を記せば/僕も君たちも、みんな讚えられたことになる」(岩淵達治訳)

寒い!

2011-01-10 14:01:11 | 普通な人々<的>な
 今朝の寒さは尋常ではなかった。

 普段布団に入っていればぬくぬくとして、それなりにゆったりと目覚めることができるのだが、今朝は、肩周りや足元から寒気が忍び込んできた。
 ゆったりとまどろむドコロの騒ぎではなかった。どこか窓でも開いているのかと思ったが、しっかりと鍵も閉まっていた。

 マンションだから締め切れば密封状態になるわけで、空気の流れもないはずなのに、明らかに寒気が部屋を支配していた。外の寒さはどれほどのものだったのだろう。

 起きてすぐストーブをつけたが、30分経っても部屋が暖かにならなかった。

 ふと、「青空天井暮らし」をしている人たちのことを考えた。健康で、元気でと祈らずにいられなかった。

ちょっとビックリ!

2011-01-09 17:28:32 | 普通な人々<的>な
 全然気がつきませんでしたが、私如きのブログへのアクセスが、10,000を越えておりました!! 感謝です。
 
 これからも可能な限り、記事や独り言メイタ散文を掲載していきます。

 どうか、今後ともお引き立てのほど! なんて! なにかの口上のようですが、本心です!

 できうる限り毎日の更新を心がけます。できなかったらごめんなさいデス。

ちょっと怖い話⑩ スキー場にて

2011-01-08 22:38:25 | 超常現象<的>な

 ある冬の1日。新潟のスキー場にいた。
 夕方、しこたま地のどぶろくを飲んだ。気が大きくなったのか、宿泊した旅館のベランダの手すりを乗り越えて、なんとなくぶら下がった。3階の部屋だった。
 下は白銀の世界とはいえ、どの程度の積雪があり、部屋の下に何があるかは分からない。ぶら下がっているうちに急に恐怖感が湧いてきた。このまま落ちたらどうなるのか? ひとつには雪がクッションになって大したこともなく笑い話で済む。ひとつには下になにか致命的な、例えば刃をもった道具があって、肉体的な損傷を受ける。とりあえず、想像以上のことは起きない。
 まあ、いくつかの可能性があったけれど、ボクとしては、落ちずにベランダに這い上がることを選択した。ところが、壁に足を掛けようとするが、ツルツル滑る。壁の材質がツルツルだった。腕力もそれほど長くは続かない。腹筋が弱っていたのか、べらんだの金具に足をかけることもできない。
 もがけばもがくほど、ドツボにはまっていく。
 そのうち、彼女が、ボクの異変に気付いたのか、上から覗き込む。ボクは、「たすけてくれ」と懇願する。ようやく異変に気付き、一緒にいた友人が手を差し伸べてくれた。
 その瞬間である。ボクの腕を握っていた友人が「アッ!?」と声をあげて、手の力を緩めた。だがすぐに友人はボクの置かれた立場を重々に理解していて、落ちる寸前にもう一度ボクの腕を握りなおし、引っ張り上げてくれた。
 なぜ手を離したのか? 後から友人に聞いた。
 すると彼はこう言った。
「離したほうが良いと、誰かが言った」
 ……離さないでいてくれてありがとう!! きっと離されたらボクは大怪我を負っていただろう。それは分かる。だが、誰が友人に「離せ」といったのか?
 それは今でも分からない。
 

歴史上の人物伝② アルフレッド・ヒチコック

2011-01-07 16:55:36 | 歴史上の気になる人々<的>な
アルフレッド・ヒチコックの
『報われぬ人生』
という作品。


 一八九九年、八月一三日。ロンドン郊外の八百屋、ウィリアム・ヒチコックに三人目の子供が誕生する。アルフレッドと名付けたこの子供が、後に「サスペンスのマエストロ」と言われ、二十世紀の映画史を語る上で、欠くべからざる名監督アルフレッド・ヒチコックとなることなど、両親は知らなかった…。
 ヒチコックは、十五歳で父に先立たれ学校を止め労働者の仲間入りをした。そして映画と出会い、苦労を重ね自力で監督になった。誰も助けてはくれなかった。新進気鋭の監督として渡米後、空襲を受けているイギリスを捨てたと英映画界からの中傷を受けた。
 ハリウッドでは『断崖』『ダイヤルMを回せ』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』など、傑作を世に送り出しながら不当に低い評価……ヒチコックは常に一人で戦う運命だった。それが過食・肥満の原因であり、やがて彼自身の生命をも奪う。
 ヒチコックは生涯に五十七本の映画を撮った。イギリスで二十七本、ハリウッドで三十本。
 一九三九年、四十歳になりハリウッドのプロデューサー、D.O.ゼルズニックに招かれ、アメリカに渡る。ゼルズニックはヒチコックのサスペンスの手腕を売れると考え、ヒチコックはイギリスで燻っているよりはハリウッドで己の才能を開化させたいと考えたのだ。
 渡米第一作が『レベッカ』だった。D.D.モーリアの小説の映画化であり、この記念すべき第一作は四〇年度アカデミー賞の作品賞を獲得する。だが、監督賞は逃す。そしてヒチコックは、数回のノミネートはあったものの、生涯監督賞からは見放される。
 それはハリウッドが、「ヒチコックを他愛のない内容の、おもしろい映画を作る男」という評価しかしなかったからだといわれる。ヒチコックの映画には、必ずワンカット監督自身が登場する。そんなイタズラが、品格を重んじたハリウッド向きではなかったのだろう。
 グノーのマーチに乗って太ったヒチコックのシルエットが現れるTVシリーズ『ヒチコック劇場』の成功で、五八年にはゴールデングローブ賞を獲得、七九年にはアメリカ映画制作者協会から功労賞を贈られ、晩年には本国イギリスからナイト爵位の称号を与えられるなど、一見報われた生涯のようであったが、実際は違った。
 ナイト爵位の授与式は、埃を被り荒れ果てたままの自分のオフィスではなく、映画のセットに作られた作り物のオフィスで行われた。
「長年一つのことに専念していれば、いつかは誰かに認めてもらえることが、これで立証されたわけです」
 記者会見で皮肉タップリに語ったヒチコックの冗句に誰も笑わなかった。
「私が引退するのは、私が死ぬ時」
 ヒチコックは常々妻アルマに語っていたが、七六年の『ファミリープロット』を最後に、映画作りの話はまったくないままだった。そして映画を作りたいという希望を抱いたまま、『報われぬ人生』というタイトルの失意の生涯を終えたのだ。
 一九八〇年四月二九日のことだった。

干しっぱなし

2011-01-06 17:21:10 | 普通な人々<的>な
 今朝、シーツを干した。すっかり忘れたまま、マンションの廊下の手すりに、今の今まで干してあった。廊下を行き交う住民が、なにを考えながらハタメクシーツを見ていたか、想像できるのが、なにか怖い。

 なにせ廊下は公共物であり、当然手すりもそうである。

 だが、残念なことに我が家のベランダは、一日のほんの一時陽が当たるだけで、洗濯物が干せないのだ。

 だからといって公共の場に干すのはいかがなものか……。

 シーツという大きさに免じて勘弁してください、というしかないな。

 うん、それで開き直るしかないか!?

歴史上の人物伝① 田中正造

2011-01-06 16:27:54 | 歴史上の気になる人々<的>な
 過去に、様々な雑誌などに書いた人物評伝を、思い出し出し(実のところフロッピーに閉じ込められて、救出不可能なのだ)掲載しようと思います。適度な長さのものもあれば、長大なものもあります。斜に構えたものも、ストレートなものもあります。
 第一回目は、明治の啓蒙政治家・田中正造です。

【日本で最初の反公害・人権闘争に殉じた】
田中 正造(1841.12.15. - .1913.9.4.)

 日本の公害の原点と言われる足尾鉱毒事件の悲惨は、戦後に数々の公害事件が露見するまで歴史の彼方に葬り去られていた。
 そして、足尾鉱毒事件を帝国議会で告発し続け、鉱毒被害民と共に戦い彼等の中で死んでいった田中正造の名も忘れ去られていた。
 一八四一年栃木県安蘇郡小中村の名主の跡継ぎとして生まれ、わずか一七歳で名主となった正造は、若年ながら「朝飯前に、必ず草一荷刈る」「朝飯後には……2時間商用に従事」「村の小児に手習いを授ける」「夕食後……見回りの後友人と漢籍の講習を為す」と自らに課し、農民であることを自覚しつつ学び、後継の育成にもたゆまぬ名名主であった。
 やがて領主・六角家の悪政改革を唱え約十一ヵ月、また江刺県(現在の岩手県)の下級官吏時代にも、無実ながら上役暗殺事件の嫌疑を受け三年と二十日もの間投獄されるなど、権力悪と対峙し続ける硬骨の人であった。獄舎で政治経済を学ぶ向学の人でもあった。
 明治十一年、民権運動の高揚の中、田中も「政治に一身を捧ぐ」と神に誓い家財を捨て、三十五年間の生活予算をたて質素に生活し始める。清廉の人でもあった。
 二年後、まず県議として地方政治に携わり、同十七年には悪徳県令・三島通庸追放運動を組織、この時も理不尽にも投獄されている。
 同二十三年、第一回総選挙で衆議院議員に。この瞬間から田中正造は足尾鉱毒事件と生涯を掛け向き合うことになる。
 足尾銅山は、明治二十年古河市兵衛による経営が始まり鉱毒事件が顕在化する。急激な拡張と増産が主因だ。度重なる渡良瀬川の大洪水で、鉱毒は流域三十万人に上る被害民を生み出す。田中は同二十四年の第一回帝国議会で、政治上の問題として早くも「人権・憲法・法」を軸に鉱毒問題質問書を提出する。
 だが質問書への回答は「原因不確定。防災設備も万全」であり、議会も行政府も古河の側にあった。しかも行政府は被害民に対し、古河の意を汲み示談攻勢を仕掛けた。中には五銭で「苦情がましき儀一切申出まじく候」と、理不尽な永久示談契約をさせられた者もいた。県議など有力者がその任に当たった。
 被害民は苛立ちを募らせ、同三十三年には川俣事件が起こる。請願運動に出発するため川俣の渡しに集った丸腰の農民たちに警官・憲兵が襲いかかり、サーベルで殴り百人余に怪我をおわせ、七十余人を捕縛したのだ。
 田中は同事件を「国の機関が古河市兵衛の小間使野郎の如くに使われている」と評した。
 政治の無力を痛感した田中は、天皇直訴事件などを起こすが、同三十四年議員を辞す。
 やがて「この窮民の一人を救い得ば、正造ここに死して少しも恨みなし」と被害甚大の谷中村に居を移す。以後被害民の辛苦を己が辛苦とし、大正二年九月四日癌で病没するまで、生を賭して被害民と共に戦い続けた。
 不思議な符合か、病没したのはかつて政治家を志し「三十五年の予算」をたてた、その三十五年目のことだった。享年七十二。

そして、新年

2011-01-04 00:08:00 | 普通な人々<的>な
 ハッと気付けば年末で、オッと思えば三ヶ日。この時間の速さはなんだ?
 明けまして謹賀新年。
 それにしても年末年始のテレビは、ちょっと異常なほどのお笑い祭りだった。
 確かにお笑いは面白い。発想の転換と、腹の底から笑わせてくれることで、普段の呼吸では出しにくい、淀んだ肺の中の空気を出してくれる。笑う事は健康の源というが、その根源は、呼吸だ。
 最近気がついたことがある。
 ボクはよく脚がつる。脚だけでなく体中のどこかがつって目覚めることが多い。以前はその痛みに耐え、忍び、やり過ごすしか方法がなかったが、深い息(腹式呼吸です)をすることで、つる時間を短くコントロールできるようになってきた。亜鉛の不足などと言われるが、それはそれとして、呼吸をコントロールできれば、ある程度の身体の変調は是正できることに気付いたわけだ。
 その具体的な方法は、おいおいと開陳しようと思う。
 何はともあれ、今年もよろしくお願いします!