本日は午前中高梁の大学で公開学位審査会があり、休日にもかかわらず大学院生教員全員が集まり学位審査を行った。
私は研究科長なので責任者であり、座長を務めた。
なんとか無事に審査を終えて、午後は岡山市内で行われる学校法人 順正学園 創立50周年記念シンポジウムに参加するため車で移動した。
パネリストは石井十次にゆかりのある著名な方ばかりである。
会場ではパネリストが壇上に登壇して空いた最前列に学長と一緒に座り、直近でお話を聴くこととなった。
石井十次についてはこれまでも折に触れ理事長の講話で聞いていたが、今日のシンポジウムでその人となりがよくわかった。
パネリストに辰巳琢郎さんがいたのはなぜか理由がわからなかったが、石井十次をモデルにした映画『石井のおとうさんありがとう』で友人の大原孫三郎役をしていたと聞き納得した。
辰巳さんもその役を引き受けるまでは石井十次については何も知らなかったそうだ。
さらに、驚くべきことが分かった。
平成28年1月22日 第百九十回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説のなかで、安倍総理が石井十次について熱く語ったというものである。
「挑戦」
日本で初めての孤児院を設立した石井十次は、児童福祉への「挑戦」に、その一身を捧げました。
たくさんの子どもたちを、立派に育て上げ、社会へと送り出しました。
孤児がいれば救済する。天災の度に子どもの数は増えていきました。
食べ物が底を尽き、何度も困窮しました。
コレラが流行し、自らも生死の境を彷徨いました。
しかし、いかなる困難に直面しても、決して諦めなかった。
強い信念で、児童福祉への「挑戦」を続けました。
「為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必らず成らん」
安倍内閣は、諦めません。目標に向かって、諦めずに進んでいきます。
一億総活躍の未来を拓く。日本と世界の持続的な成長軌道を描く。
平和で安定した、より良い世界を築く。
安倍内閣は「挑戦」を続けてまいります。
皆さん、共に「挑戦」しようではありませんか。
そして、「結果」を出していこうではありませんか。
それが、私たち国会議員に課せられた使命であります。
小泉首相の米百俵の所信表明演説にもまけない感動的な名演説である。
さらに驚くべきは、正に現在見直されようとしている埋もれた歴史の偉人である石井十次が岡山大学医学部の前身である岡山甲種医学校に入学していたと言うことである。
結局、児童福祉への「挑戦」のために医学校は中退してしまうのだが、私の大先輩でもあったのだ。
本学の理事長は石井十次が宮崎県出身で岡山に来て様々な活躍をしたというところに因縁を感じている。
宮崎には関連校の九州保健福祉大学や専門学校があるからだ。
私は、別の意味で石井十次に親近感を感じた。
当時、九州の宮崎から岡山に来るというのは相当の覚悟があったはずである。
私も、四国の愛媛から岡大医学部を目指すにあたってはそれなりの覚悟があった。
医学部に入学した後も、石井十次は岡山キリスト教会で受洗を受けている。
私はキリスト教にはなじまなかったが、同じ下宿にクリスチャンの同級生がいて、それなりの影響を受けた。
クリスマスには彼の通っていた教会でのお手伝いもした。
ちなみにその同級生は現在岡大医学部の教授になっている。
地元の宮崎から遠く離れた岡山に来て、いろいろな精神的葛藤があったことと思われる。
私も、瀬戸大橋のできた今では愛媛は近いが、学生時代は連絡船で四国に渡っていたので、ふるさとは遙か彼方の地であった。
石井十次が孤児の問題に直面して悩んだように、私も身体障害者の問題に直面して悩み苦しんだ。
一時は医学部を辞めて、今できることに尽くすべきかと悩んだこともあった。
何だか自分とかぶるところがたくさんあって、石井十次に共感するところが多かった。
私は研究科長なので責任者であり、座長を務めた。
なんとか無事に審査を終えて、午後は岡山市内で行われる学校法人 順正学園 創立50周年記念シンポジウムに参加するため車で移動した。
パネリストは石井十次にゆかりのある著名な方ばかりである。
会場ではパネリストが壇上に登壇して空いた最前列に学長と一緒に座り、直近でお話を聴くこととなった。
石井十次についてはこれまでも折に触れ理事長の講話で聞いていたが、今日のシンポジウムでその人となりがよくわかった。
パネリストに辰巳琢郎さんがいたのはなぜか理由がわからなかったが、石井十次をモデルにした映画『石井のおとうさんありがとう』で友人の大原孫三郎役をしていたと聞き納得した。
辰巳さんもその役を引き受けるまでは石井十次については何も知らなかったそうだ。
さらに、驚くべきことが分かった。
平成28年1月22日 第百九十回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説のなかで、安倍総理が石井十次について熱く語ったというものである。
「挑戦」
日本で初めての孤児院を設立した石井十次は、児童福祉への「挑戦」に、その一身を捧げました。
たくさんの子どもたちを、立派に育て上げ、社会へと送り出しました。
孤児がいれば救済する。天災の度に子どもの数は増えていきました。
食べ物が底を尽き、何度も困窮しました。
コレラが流行し、自らも生死の境を彷徨いました。
しかし、いかなる困難に直面しても、決して諦めなかった。
強い信念で、児童福祉への「挑戦」を続けました。
「為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必らず成らん」
安倍内閣は、諦めません。目標に向かって、諦めずに進んでいきます。
一億総活躍の未来を拓く。日本と世界の持続的な成長軌道を描く。
平和で安定した、より良い世界を築く。
安倍内閣は「挑戦」を続けてまいります。
皆さん、共に「挑戦」しようではありませんか。
そして、「結果」を出していこうではありませんか。
それが、私たち国会議員に課せられた使命であります。
小泉首相の米百俵の所信表明演説にもまけない感動的な名演説である。
さらに驚くべきは、正に現在見直されようとしている埋もれた歴史の偉人である石井十次が岡山大学医学部の前身である岡山甲種医学校に入学していたと言うことである。
結局、児童福祉への「挑戦」のために医学校は中退してしまうのだが、私の大先輩でもあったのだ。
本学の理事長は石井十次が宮崎県出身で岡山に来て様々な活躍をしたというところに因縁を感じている。
宮崎には関連校の九州保健福祉大学や専門学校があるからだ。
私は、別の意味で石井十次に親近感を感じた。
当時、九州の宮崎から岡山に来るというのは相当の覚悟があったはずである。
私も、四国の愛媛から岡大医学部を目指すにあたってはそれなりの覚悟があった。
医学部に入学した後も、石井十次は岡山キリスト教会で受洗を受けている。
私はキリスト教にはなじまなかったが、同じ下宿にクリスチャンの同級生がいて、それなりの影響を受けた。
クリスマスには彼の通っていた教会でのお手伝いもした。
ちなみにその同級生は現在岡大医学部の教授になっている。
地元の宮崎から遠く離れた岡山に来て、いろいろな精神的葛藤があったことと思われる。
私も、瀬戸大橋のできた今では愛媛は近いが、学生時代は連絡船で四国に渡っていたので、ふるさとは遙か彼方の地であった。
石井十次が孤児の問題に直面して悩んだように、私も身体障害者の問題に直面して悩み苦しんだ。
一時は医学部を辞めて、今できることに尽くすべきかと悩んだこともあった。
何だか自分とかぶるところがたくさんあって、石井十次に共感するところが多かった。