最近、シラバスをきちんと書いてユニバーサルパスポートというWeb上のサイトに掲載して公開することが本学において求められるようになった。
講義もシラバス通り15コマは厳密に実行が求められる。
成績評価も各評価を規定に従って一定の分布で精密に行うことが求められ始めた。
さらに学生による授業評価も行われるし、ついには教員同士で相互に授業の批評をしようというような話まで出てきた。
外部から見ると当たり前のことかもしれないが、長年ぬるま湯のような環境で、講義を行ってきた身としては戸惑うことばかりである。
つい最近知ったのだが、中央教育審議会大学分科会が「学士課程教育の構築に向けて」という文書を公表している。
以下引用
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はじめに ~今なぜ「学士課程教育」か~
○ 中央教育審議会大学分科会では、平成18(2006)年以降、学士課程教育に重点を置いた審議を行ってきた。その問題意識の骨子は次のようなことであり、我が国社会の将来の発展のため、学士課程教育の構築が喫緊の課題であるという認識に立っている。
ア グローバルな知識基盤社会、学習社会を迎える中、我が国の学士課程教育は、未来の社会を支え、よりよいものとする「21世紀型市民」を幅広く育成するという公共的な使命を果たし、社会からの信頼に応えていく必要があること。
イ 高等教育そのもののグローバル化が進む中、明確な「学習成果」を重視する国際的な流れを踏まえつつ、我が国の「学士」の水準の維持・向上、そのための教育の中身の充実を図っていく必要があること。
ウ 我が国に顕著な少子化、人口減少の趨勢の中、学士課程の「入口」では、いわゆる「大学全入」時代を迎え、教育の質を保証するシステムの再構築が迫られる一方、「出口」では、経済社会からイノベーションや人材の生産性向上に寄与することが強く要請されていること。
エ 政策的には、大学間の競争の促進によって教育活動の活性化が図られてきたが、教育の質の維持・向上を図る観点からは、大学間の「協同」が併せて必要となってきていること。
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このはじめにに続く、様々な提言の中に、。シラバス、セメスター制、キャップ制、GPAなどの諸手法や高大連携、ファカルティ・ディベロップメント(FD)やスタッフ・ディベロップメント(SD)、業績評価、授業改善などのキーワードがもれなく登場する。
こうしてみると、私の周りにおいて展開されている動きは、この中教審の提言を忠実に実行している結果だと言うことが分かる。
難しい文言が並んでいるのでよく理解できないが、私なりに解釈するとこういうことではないだろうか。
今や少子化で大学進学は特殊なエリートだけがするのではなく、ごくありふれたものとなっている。
一方大学生の卒業後の受け皿となる企業は、昨今の不況のために即戦力となる学生を求めている。
であれば、大学教育は卒業したらすぐに使い物になる知識をきちんとたたき込む必要がある。
かくして講義の内容は特定の研究に偏ったものではなく普遍的な一般知識を教えることが求められるし、休講で講義の漏れがあってはならないと言うことになる。
研究ばかりして講義に手を抜く教員はけしからんということになる。
しかし、その一方でしっかり研究して外部資金を取ってくることが求められている。
最近は科研費でも獲得金額の30%は間接経費として別に大学に交付されるから、例えば1億円科研費を獲得したら3000万円は大学の収入が増えるのである。
しかし、日本の大学においては巨額の研究費を獲得できる研究者でも、一律に講義を持って授業も規定に従ってきっちり行うことが求められる。
特に私学においては講義が免除されるなどと言うことは考えられない。
これは公平なようであってあまりよい制度とは言えないのではないだろうか。
アメリカでは優秀な研究者は巨額のグラントを取ってきて自分の給料も、研究室の賃料もその中から支払っている。
講義はほんの申しわけ程度に行うだけである。
一般的には講義を中心に担当する教員は研究は行っていない。
完全な分業体制ができているのである。
アメリカとはまったく環境が異なるのに、アメリカ的制度だけ持ってきても始まらないと思うのは私だけだろうか。
講義もシラバス通り15コマは厳密に実行が求められる。
成績評価も各評価を規定に従って一定の分布で精密に行うことが求められ始めた。
さらに学生による授業評価も行われるし、ついには教員同士で相互に授業の批評をしようというような話まで出てきた。
外部から見ると当たり前のことかもしれないが、長年ぬるま湯のような環境で、講義を行ってきた身としては戸惑うことばかりである。
つい最近知ったのだが、中央教育審議会大学分科会が「学士課程教育の構築に向けて」という文書を公表している。
以下引用
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はじめに ~今なぜ「学士課程教育」か~
○ 中央教育審議会大学分科会では、平成18(2006)年以降、学士課程教育に重点を置いた審議を行ってきた。その問題意識の骨子は次のようなことであり、我が国社会の将来の発展のため、学士課程教育の構築が喫緊の課題であるという認識に立っている。
ア グローバルな知識基盤社会、学習社会を迎える中、我が国の学士課程教育は、未来の社会を支え、よりよいものとする「21世紀型市民」を幅広く育成するという公共的な使命を果たし、社会からの信頼に応えていく必要があること。
イ 高等教育そのもののグローバル化が進む中、明確な「学習成果」を重視する国際的な流れを踏まえつつ、我が国の「学士」の水準の維持・向上、そのための教育の中身の充実を図っていく必要があること。
ウ 我が国に顕著な少子化、人口減少の趨勢の中、学士課程の「入口」では、いわゆる「大学全入」時代を迎え、教育の質を保証するシステムの再構築が迫られる一方、「出口」では、経済社会からイノベーションや人材の生産性向上に寄与することが強く要請されていること。
エ 政策的には、大学間の競争の促進によって教育活動の活性化が図られてきたが、教育の質の維持・向上を図る観点からは、大学間の「協同」が併せて必要となってきていること。
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このはじめにに続く、様々な提言の中に、。シラバス、セメスター制、キャップ制、GPAなどの諸手法や高大連携、ファカルティ・ディベロップメント(FD)やスタッフ・ディベロップメント(SD)、業績評価、授業改善などのキーワードがもれなく登場する。
こうしてみると、私の周りにおいて展開されている動きは、この中教審の提言を忠実に実行している結果だと言うことが分かる。
難しい文言が並んでいるのでよく理解できないが、私なりに解釈するとこういうことではないだろうか。
今や少子化で大学進学は特殊なエリートだけがするのではなく、ごくありふれたものとなっている。
一方大学生の卒業後の受け皿となる企業は、昨今の不況のために即戦力となる学生を求めている。
であれば、大学教育は卒業したらすぐに使い物になる知識をきちんとたたき込む必要がある。
かくして講義の内容は特定の研究に偏ったものではなく普遍的な一般知識を教えることが求められるし、休講で講義の漏れがあってはならないと言うことになる。
研究ばかりして講義に手を抜く教員はけしからんということになる。
しかし、その一方でしっかり研究して外部資金を取ってくることが求められている。
最近は科研費でも獲得金額の30%は間接経費として別に大学に交付されるから、例えば1億円科研費を獲得したら3000万円は大学の収入が増えるのである。
しかし、日本の大学においては巨額の研究費を獲得できる研究者でも、一律に講義を持って授業も規定に従ってきっちり行うことが求められる。
特に私学においては講義が免除されるなどと言うことは考えられない。
これは公平なようであってあまりよい制度とは言えないのではないだろうか。
アメリカでは優秀な研究者は巨額のグラントを取ってきて自分の給料も、研究室の賃料もその中から支払っている。
講義はほんの申しわけ程度に行うだけである。
一般的には講義を中心に担当する教員は研究は行っていない。
完全な分業体制ができているのである。
アメリカとはまったく環境が異なるのに、アメリカ的制度だけ持ってきても始まらないと思うのは私だけだろうか。