相良神社(相良堂)
今日は‘求麻郷土研究会’の研修場所が「豊野、八代方面」だったので、いい機会と思って参加してきました。いまは宇城市豊野町・・・3月終わりころに一人で行った「相良神社」(相良堂)です。再度の訪問でした。
戦国時代の天正9年(1581年)、豊臣秀吉が天下統一するちょっと前のことです。この神社の近く:響野原で相良義陽と甲斐親直の戦いがあって義陽が討ち死にした場所なのです。江戸時代に石屋造りの祠堂を作って祀っておられたのです。2年前の地震で壊れたものを地元の人たちで復旧修復されました。
修復にかかわっておられた地元の人と神主さんが対応説明されました。わが家も地震の被害があったのに即対応されたのです。周辺の草払いも十分でなくてと恐縮されながら対応してもらいました。
豊野の「常楽院」、小川町の「娑婆神峠」「三宝寺」を経て八代へ。「妙見社」と「相良義陽の墓」を見て、坂本の「相良長毎の供養塔」を見て球磨川沿岸道を通って帰ってきました。ちょっと山中にある「相良義陽」の墓は荒れ放題でした。
「相良堂」は宇城市の「相良義陽の墓」は八代市の文化財指定を受けています。その取扱い方に差がみられました。行政ばかりではなく地域の人たちの‘こころの差’のようにも思えました。豊野の人たちの気持ちに頭が下がる思いがしました。
「西南の役」では遠く鹿児島や北海道(屯田兵)などから球磨の地まで来て亡くなられた人がいます。私どもも荒れ放題にしているのではとビクッとしました。場所が特定されていないなど分かっていないということもあるのですがもう少し調べてみる必要を感じました。そんな思いを持ちながら球磨川沿岸を帰ってきました。
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