言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

球磨弁 ~ やお、いかん

2020年08月31日 | 球磨弁

   

    そろそろ栗がではじめます、今年の出来はどうなのでしょうか。

 「球磨弁」のこと、チャレンジするつもりですが、どういう形にするか迷っております。とりあえず、今日は私がよく使っている(やお、いかん)のことを。日本語に訳すると(容易ではない)(たやすくない)の意になると思います。

 私の同級生(女の子)にhigashiさんという人がいました。その人がどうというのではなく、その人のお父さんの印象が残っているのです。本を書いて残しておられます。「球磨弁」という本です。5冊くらいのシリーズ本です。人吉高校の国語の先生をされた方で、球磨弁の語彙、語法について研究された本です。西間下町の(通称:車道)に自宅がありました。学者のような姿をしておられたのが印象的です。家もそんな雰囲気の家でした。明治の文豪的に和服姿でした。いまはその家はなくなっています。別の方が新しい近代的な家で暮しています。

 higashi先生の著書を引用してみます。

 『「やおい」を方言で「容易である」「たやすい」という意味に使うところが、京都府や山口県にあるというが、球磨弁の「やお」は、この「やおい」の連用形「やおう」が副詞に転成して短呼せられたものであろう、』

とあります。「やお」が「いかん」のですから、(容易でない)になるのです。

 『球磨弁ば喋りながら、ヒトに説明すっとは、やおいかんばい』なのです。もう、ほとんど使われなくなっている球磨弁をこの人吉盆地内で喋ることも「やおいかん」時代になっています。日本中の田舎が‘東京ふう’になってしまったからかもしれません。わが家の孫に「やおいかん」と云ったらポカン!とされてしまいます。まるでフランス語のように思われているのかもしれません。地方の言葉はもうすっかり死語になってしまっているようです。

 どんな球磨弁紹介にすればいいのか、わかりませんが、今後、思いつくままに書き綴っていきます。

 今日の天気( 今日もぬっかったー暑かった


久しぶりに

2020年08月30日 | 日記

 何もしない日曜日でした。資料館が開館しているので覗いてきました・・今年は資料館もコロナのせいで、開館と閉館の繰り返しです。先週21日から開館再開しています。ところが、まだ(郡市内の人だけ限定)にしているので来館者はほとんど0です。あまりに必要感のない所なだけに致し方ないのかなとは思っています。また、“企画展”もいまは行っていないのでなおのことです。9月末からは(ほとけ展)を予定しているのですが、まだまだコロナ旋風があっているので開催が悩ましいところです。コロナ風が吹いているからこそ実施すべきなのかもしれませんが。

   

 午前中に資料館に立ち寄って、これまた久しぶりに丸岡公園に行ってみました。孫ムスコのサッカー練習があっていたのです。山江の体育施設もコロナでずっと使えなかったのです。したがって久しぶりの練習会場になったのです。

 コロナのあとに水害もあって、よく練習で使っていた(梢山サッカー場)は仮設住宅が作られているので使用できなくなりました。2年くらいは使えないのでしょう。人吉球磨はスポーツできる場所が少ないうえに、仮設住宅の用地になったので、いよいよ練習する場所もなくなっています。ある意味子どもたちは可哀そうです。

 4時前くらいから久しぶりに雷もなって夕立がありました。昼間は猛暑になっていたので少しは過ごしやすい夜になったようです。

 今日の天気( 夕立)


被災文化財 復旧へ 2(八っ田薬師堂)

2020年08月29日 | 日記

 今日は、相良村 八っ田薬師堂の泥出し作業をしました。nakayamaさんと地元代表?higashiさんの3人で2時間ほど作業しました。床上に10cmほど泥が溜まっていました。2か月近く泥が溜まっていたのと建物自体が既に古くなっていたこともあって、床が抜けそうになっていました。

 このお堂は基壇と扉は古そうで、そういう部材は使うことにして、新しく建て直すことを提案していこうと思っています。国県で1/2補助の文化財復旧事業もあるようです。しかし、1/2は地元負担なのです。そこが課題なのです。かりに100万かかるとして半分の50万円は地元負担です。そこをどうにかクリアする方策を考えたいと思っています。(募金)を募ろうかな!です。地元の人たちと協力して、(ちょっと前までは地元で祭りもあっていたようですが、今は廃れています)、“地域おこし”に繋げていったら、それこそ(ピンチをチャンスに)です。ひとつのモデルになるように取り組みたいものです。

 募金等のこと、そのうちに提案します、ご協力を!

 

  泥まみれのお堂  基壇の上50㎝くらい 水没痕

  

    作業中!

  

  いちおう、キレイにしました、朽仏が基壇下にありました、基壇に立ててきました。朽仏の胸くらいの横ラインがはっきりしています(水没痕)

 今日の天気(


被災文化財 ⑫

2020年08月28日 | 歴史探偵

    

      手前がわが豊光院、草むらの先がしらさぎ荘

 今日は、台座と光背が見つかった‘しらさぎ荘’の間の田んぼと荒地にいって、豊光院跡仏堂の(釈迦如来さん)を探してみました。直線距離で300mほどです、間に福川という小川が流れていました。田んぼの稲は水害後にそのまま、辺りも草ぼうぼうの状態になっていました。歩き回りましたが見つけること能わずでした、草丈が高くなっているのでひょっとしてその中に、とは思いましたが、そこまでは入り込めませんでした。福川を通って球磨川まで流れていったのかもしれません。

 

   

 写真は、大柿に流れ着いていた(台座)です。上部分の本体は行方不明です。

 今回の被災文化財(仏神像)を調べて見てわかったことです。市町村の指定文化財はきちんと資料もあって管理されていると思います。例えば、仏像だったら寸法、形状などと写真も添えて、です。今回、人吉のを見たらその資料すら被災していました。水濡れしていたのです。まだ、見ることはできましたが濡れていたので完全ではありませんでした。反省材料として、資料はペーパーだけでは✕、1つだけでも✕です。資料が被災することも想定しての整備が必要なようです。

 したがって、この台座はどこのもので、この上に在る像は何なのかもわからないのです。???

 今日は突然のニュースで安倍総理が辞任でした。ビックリしました。

 今日の天気( → 一時


被災文化財 ⑪ 

2020年08月27日 | 歴史探偵

   

 今回の水害で被災した文化財を少しずつ紹介していきます。(豊光院跡仏堂)と呼んでいいのかわかりませんが、下薩摩瀬公民館の横にあるお堂の本尊です。私もこのお堂の存在を知らなくて仏様(釈迦如来像)を拝んだこともありませんでした。この仏像も被災して、写真の台座と光背だけがしらさぎ荘で見つかって→人吉城歴史館→昨日、山江資料館にやってきました。仏さま本体はまだ行方知れずなのです。

    

 今日、お堂に行ってきました。隣の白い建物が公民館、窓の真ん中上くらいに浸水痕が見られました。お堂は屋根下くらいまで浸水したようです。台座等が見つかったしらさぎ荘までは直線距離2,300mくらいです。間は田んぼです。今日行ったのは夕方だったので近いうちに見つけに行こうと思っています。

     

 台座には銘があって「薩摩瀬豊光院 寛政六年六月再興之者也 仏師安利常忠 当役渡辺健介 恒松安之勝」と書かれてありました。寛政6年は1794年です。記録によると豊光院は、もともと原田にあって、後に相良町に移り、大正年間にこの地に移されたとあります。どういういきさつで動いたのかはわかりませんが、これまで地域の方に大切にされてきたお堂と仏さまだったようです。その本体がないというのは残念なことです。さみしそうに台座と光背がポツンとご主人(本体)をまっているように思えました。

 今日の天気()

 


被災文化財 ⑩

2020年08月26日 | 歴史探偵

 人吉城歴史館に避難していた仏神像を山江村歴史民俗資料館で預かることにしました。人吉市内で被災した仏神像でしたので、私も歴史館に運び入れました。ところが、歴史館も被災しました、展示物もほとんど被災しています。今回、県文化課からも依頼があって受け入れることにして、今日、運び込まれてきました。

   

 

    

 

 (大柿毘沙門堂)(大柿観音堂)(薩摩瀬のお堂)(湯の元観音堂)の仏神像です。大柿毘沙門堂の毘沙門さんがいちばん大きくて重い仏像です。日通の専門家3名によって頑丈にくくられて運び込まれました。私は、大柿から歴史館までは、毛布(布団)にくるんで軽トラで運んだのとは大違いでした。毘沙門さんもビックリだったのではないでしょうか。他の仏神像もきちんと梱包されて運び込まれました。そのうちに、一つずつ紹介します。

 被災していたので泥などを落として(クリ―ニング)ありますが、歴史館も被災した場所だったのでカビ臭さが残っていました。環境は良くなったので徐々に良くなるだろうとは思います。しかし、ダメージは受けています、心配です。

 まだ、見つかっていない仏像もあります。今日も台座だけが避難してきて本体が行方不明のもあります。これから見つかることを期待です。

 今後は、お堂をきちんと整備して、この仏さんたちにきちんと帰ってもらう手はずを作ろうと思っています。取りあえず、お堂の片づけと整備です、今度の土曜日、29日:9時から(昼までの予定)相良村の八田薬師堂の泥出しをします。お手すきの方はご協力をお願いします。

 台風は九州の西海上を北上していきました。今日は雨が降ったり止んだりの一日になりました。風は涼しく吹いてくれました。

 今日の天気( 


被災文化財 ⑨ 奇遇なこと

2020年08月25日 | 歴史探偵

 球磨村渡の山口釈迦堂のことです。私は6月26日に球磨村川島の“数珠回し”を見にいきました。その帰りに山口釈迦堂に初めて立ち寄ったのです。鍵が掛けられていたので、外から拝ませてもらいました。そして写真も撮ったのです。

   

 

        

 その1週間もたたない7月4日の球磨川大水害によってお堂は流されてしまいました。外からでしたが3体の仏像は写真におさめていました。「木造釈迦如来立像」、43㎝・・文政5年(1822年)大円作です。銘が朱書きされていたということです。「不動明王坐像」も同じ時の大円作です。それと石造地蔵坐像。どうにかと見つけたのですが、私の力では残念でした。どこかで見つかってくれるのを祈っています。

   

 熊日の「わたしを語る」に渡出身の今村葦子さんがついこの前まで連載しておられました。児童文学作家の人です、私はそれまでこの人のことを知りませんでした。今村さんが小さい頃のことを語る中で釈迦堂のことを書いておられました。「釈迦堂があるのどかな村」・・ところが“のどかな村”が水害で一変しました。この文章は水害前に書かれたようですが掲載されたのは水害後でした。

 私が撮った写真、今村さんの連載記事・・・そして、水害・・奇遇さを感じました。そして、そのうちにどこからか“奇遇”に仏さまが出て来られることを期待しています。

 今日も台風の影響で?暑かったです。しかし、風があったので夜は涼しさを感じています。

 今日の天気(一時


たまには教育のことを話題に

2020年08月24日 | 教育

 元 教育者として、たまには(教育のことを)話題にしてみます。

 人吉では今日から小中学校は2学期始業式でした。小学2年と中学2年の孫たちは学校へ出かけていきました。今年はコロナだったり、水害被害のこともあって、人吉球磨の学校はバラバラの2学期始業でした。たぶん、このようなことは初めてのことです。

 今年はコロナのことで休校したり、夏休みも変更したり、また水害もあって臨時休校だったりと・・今年は落ち着かない学校生活になっています。このことが子どもたちの学習意欲や生活態度に影響が出てこないことを願っています。

   

 写真は小2の孫ムスメの植木鉢です。学校行くのが変則だったせいか、この植木鉢は学校と家を往復していました。したがって実は数個なっていますが成長はめちゃくちゃ悪いです。

 もう、学校現場は離れていて学習指導要領すらわかっていませんが、(私が知っていることと)根本的なことはそう変わっていないと思われますのでちょっと苦言を。

 小学校での植物栽培活動は、ずっと前から疑問を抱いていました。(なぜ、ミニトマトなのか)というところを先生たちはわかっていないようです。どうも、教科書にあるから、教材屋さんが紹介したから(ミニトマト)なのです。だから、写真のようなミニトマトになってしまうのです。

 今年はいろいろあったので、そのことは差し引いたとしても、こんな育て方をするのだったらやらない方がましです。YouTubeかなにかの動画で育ち方をみて、スーパーで買ってきたミニトマトで野菜パーティをしたほうが現代子ども受けすると思われます。

 学校の花壇に枯れかかった植物は見当たらないでしょうか、(命を大切に)を学ばせている教育現場にはふさわしくない光景です。やるのだったら徹底して最後まで栽培させる。そして(大きく育て私のやさい)を目指してほしいものです。

 こんなひ弱なミニトマト・・孫だけだったのかもしれませんが、今年の変則的なことが原因だったのかもしれませんが・・・ミニトマトの種にご無礼なことです。残念です。ご一考を。

 幸いなことに、このミニトマトをわが家の孫は美味しそうに食べていました。

 今日の天気(


被災文化財 ⑧

2020年08月23日 | 歴史探偵

   

 昨日いって仏像を預かってきた(人吉伊勢神宮)は紺屋町にあります。預かってきた仏像のひとつは(青面金剛像:しょうめんこんごうぞう)と思われます。たぶん江戸時代頃の作にみえました。“青面金剛”・・・あ!この場所には‘庚申堂’があった・・・だから、この像があるんだ!と息子と喋りながらようやく気付きました。庚申信仰で祀られる仏像です、“みざる、きかざる、いわざる”の三猿がこの仏像の前に座っています。りっぱな仏さまです。持ち物、飾り物が無くなっていますが、人吉球磨には珍しい仏像だろうと思われます。この場所にはむかしの記録に‘庚申堂’があるのです。たぶん(これからは憶測です)山田川の堤防(河川改築)で、お堂は無くなって合祀されていったのではないかということです。

 神社の前に小さな祠が、中に「紺屋町区 恵比寿堂幷稲荷堂建立・・・昭和五年二月廿一日」の棟札がありました。たしかに2つの祠は今もあります。昭和5年には、庚申堂は別に建っていたのか、あるいは既に合祀されていたのかはわかりませんでした。調べて見たくなりました。それにしても仏像だけは残っていてよかったです。今回の水害で水に浸かっていたようです、カビがあったのでその処理だけはして保管しています。

 今日は暑くなりました、南の海には台風が現れました。これからの針路が心配です。

 孫たちは今日で夏休みはお終いです。孫ムスコはまだ宿題をやっています。

 今日の天気(


被災文化財 ⑦ 

2020年08月22日 | 歴史探偵

 今日から(山江村歴史民俗資料館)は休館から解除されました。とはいえ、まだ、人吉球磨在住の方のみ、です。ところが、昨日、決まったことなので周知がままならずに(たぶん)今日の来館者は0・・こういう施設の受難はしばらくは続きそうです。“コロナ対応指針”なるものによって左右されています。いまの指針だと、人吉球磨で感染者が出たら、また(閉館)です、今年はしばらくは“開いたり閉しまったり”を繰り返すものと思われます。

    

 今日は人吉紺屋町の“伊勢神宮”の隣接する小堂から仏像を資料館に運び入れてきました。伊勢神宮がありますが、その近くに幾つかの仏堂もあったようです。いまは合祀されたのか、“稲荷堂”などの小さな祠があります。尊名不詳の仏さまを持ってきました。小堂から出されていたのもあって、どの厨子に座っておられたのかわかりませんでした。水に浸かった形跡があって、1か月以上もそのままだったのでカビが発生していました。もっと早めに気づいて避難させたらよかったです。いちばん、右奥の像は(大円作)です。もうすこし、調べてから、きちんと報告します。

 わが家周辺では昼過ぎに夕立のような雨がありました。おかげで少し涼しくなりました。

 

     

 久しぶりに九日町に行きました。町通りはずいぶんと片付いていました。家の中はまだまだのようでした。

 今日の天気(一時