「新生日本」呼出し多賀之丞作終戦を歌う甚句。「世界第二のあの戦いも ついに昭和二十年月日は八月十五日 恐れ多くも 畏くも 大和島根の民草に 大御心をしのばされ 血涙しぼる玉音に 停戦命令は下りたり 血をもて築きしわが国も 無常の風にさそわれて 今は昔の夢と消ゆ されど忘るな同胞よ あの有名な韓信しが 股をくぐりし例えあり 花の司の牡丹でも 冬はこも着て寒さしのぐ 与えられたる民主主義 老いも若きも手をとりて やがて 訪る春を待ち ぱつと咲かせよ桜「1952年1月」戦犯慰問大相撲」が開催された。ひとときの余興に歓喜し、涙にくれる戦犯10人の直筆とみられる署名が入った「感謝状」が関係者に内々に送られ、大太鼓の呼び出し太郎の自宅に今も掲げられている。横綱審議委員会初代委員長で慰問団に加わった酒井忠正氏の著書「相撲随筆」の記述と、太郎の付き人として同行した元立呼び出し安藤米二さん(78歳)の証言。戦犯(荒木貞夫元陸軍大将、鈴木貞一企画院総裁、畑 俊六元陸軍元帥、島田繁太郎元海軍大将、賀屋興宣海軍大将、元蔵相佐藤賢了、元陸軍中将橋本欣五郎、元陸軍大佐木戸幸一元内大臣、大島 浩元駐在ドイツ 大使、元屋野直樹内閣書記官長。『(巣鴨プリズン慰問;戦犯10名)終戦歌う甚句に戦犯の涙と感謝状。』
エンドウ(マメ科)花言葉は、未来の喜び。マメ科の1.2年草。白花系鞘が柔らかく、莢豌豆やグリンピースとして栽培され、莢ごと茹でたり緑色の豆をご飯に炊き込んだりする。紅花系は莢が硬く、中の豆だけを食す。隠元豆は中国から隠元膳師がもたらした豆で、蔓性と蔓なしの品種がある。未熟な実を莢ごと収穫するのが、莢隠元で、どじょう隠元はその専用品種である。完熟した豆は甘煮にし、うずら豆、金時豆.白隠元などの名で知られる。関西では藤豆を隠元豆と呼び、やはり未熟な実を莢隠元として食べる。隠元が伝えたのはこの藤豆といふ説もある。「摘みつみて隠元いまは竹の先 杉田久女」「つるなしのいんげんといふやわらかし 為成菖蒲園」「糸ほどの莢隠元の筋をとり 若井新一」「藤豆の垂れて小暗き廊下かな 高浜虚子」「藤豆咲きのぼりゆく煙り出し 高野素十」「ニ三日しては又摘むささげかな 清水基吉」「もてゆけと十六ささげともに紡ぐ 篠原 梵」。(秋草のささげも雪をかぶりけり ケイスケ)