川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

特別展 学徒兵・木村久夫、とどけ!命の歌声

2013-08-29 16:35:43 | ふるさと 土佐・室戸

8月29日(木)

体調に好転が見られないので医師と相談して抗がん剤イレッサの服用を止めることにした。化学療法はこれで終った。 

土佐の山里でこんな展覧会が行われているのを知ると何とはなしにうれしくなる。

僕らがこの地を訪ねたときには吉井勇記念館はなかったように思う。まして木村久夫という人について何も知らなかった。企画してくれたかたがたに「ありがとう」といいたい。

高校生だった木村さんは吉井勇を慕って彼が隠棲したことがあるこの地に一ヶ月も滞在したという。吉井勇の歌にあこがれたことのない僕には想像がつかない。2人を結びつけた歌風とはどんなものなのか、知りたいとも思う。勇の歌のいくつかは記憶にもあるが、何とはなしに「あそび人」という印象が残っているだけである。

空海をたのみまゐらす心もて
       はるばる土佐の國へ来にけり
  

空海が大きみ足のあとも見る
       室戸岬のたちばなの道

 

友人たちが猪野のを訪ねてくれるといいなあ。

「明日」が見えなくなっている今、木村久夫という人との出会いは新鮮な力を与えてくれるかもしれない。

 

『きけわだつみのこえ』で知られる木村久夫。勇を敬慕し、文学に注いだ情熱やその生涯を紹介します。山田高校書道部による木村久夫の短歌を書いた書道作品も展示。
共催:高知大学。
関連イベント:8月3日(土)有田芳生氏による講演会。
会期中イベント:8月11日(日)~8月17日(土)星祭~旧・七夕まつり~

開催日時
2013年7月31日(水)~9月30(月)
9:30 ~17:00
開催場所
「香美市立吉井勇記念館」 香美市香北町猪野々514番地
料金
(一般):大人400円 高校・大学生200円
(団体):大人350円 高校・大学生150円
(その他 備考):長寿手帳所持者は200円、障害者手帳の所持者とその介助者1名は無料
駐車場
有( 無料 )  普通車「 8 」台  
交通手段
●JR 土佐山田  駅下車、車で約40分
●高知自動車道  南国 ICから、車で約50分
問い合わせ先
窓 口:香美市立吉井勇記念館
電 話:0887‐58‐2220
メール:yoshii@city.kami.lg.jp
URL:http://www.city.kami.kochi.jp/map/yoshii.html (概要・マップ)
    http://www.city.kami.kochi.jp/soshiki/64/    (展示情報等)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
地図データ地図データ ©2013 ZENRIN
地図データ
地図データ ©2013 ZENRIN
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地図
<label style="vertical-align: middle; cursor: pointer;">地形</label>
航空写真
<label style="vertical-align: middle; cursor: pointer;">45°</label>
<label style="vertical-align: middle; cursor: pointer;">ラベル</label>
 
100 m 
 

 

木村久夫


木村久夫さんの遺書

2013-08-28 12:06:43 | ふるさと 土佐・室戸

8月28日(水)晴れ

 朝の室温は25度。快適なはずだが体調の回復は思うようには進まない。栄養をしっかり摂るように妻が心を砕いてくれる。

ネットで『きけわだつみのこえ』におさめられているという木村久夫さんの遺書を読んだ。不完全な引用もあると思われるが概要はつかめる。いい加減で申し訳ないが一部を紹介します。


 

「カーニコバル島事件」
島民がイギリス軍機に信号を送っていたというスパイ容疑で
島民を虐殺したとされる事件。
尋問中の死者3名、自殺者1名を出し
81名の島民が銃殺された。
シンガポール英国軍事裁判により
虐殺に関与したとして、C級戦犯として処刑された、
木村久夫上等兵の遺書(享年28歳、京都帝国大学経済学部在学中召集)

 

「私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢30に至らず、かつ、学業半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。

日本は負けたのである。全世界の憤激と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人頭の気晴らしの一つとして死んで行<のである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。

私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく、日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやと言うほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服はいい得ないのである。彼らの眼に留まった私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。

(中略)

しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦と判っていながらこの戦いを起した軍部に持って行<より仕方がない。しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。

我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果たすであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが致しかたがない。日本はあらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の試煉と発達とが足らなかった。万事に我が他より優れたと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。

かつてのごとき、我に都合の悪しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもつて排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以の道である。

(中略)

あらゆるものをその根底より再吟味する所に、日本国の最発展の余地がある。日本は凡ての面において混乱に陥るであろう。しかしそれでよいのだ。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今後の日本は幸福である。マルキシズムもよし、自由主義もよし、凡てがその根本理論において究明せられ解決せられる日が来るであろう。日本の真の発展はそこから始まるであろう。凡ての物語が私の死後より始まるのは悲しいが、私にかわるもっともっと立派な頭の聡明な人が、これを見、かつ指導して行ってくれるであろう。何といっても日本は根底から改革し、構成し直さなければならない。若き学徒の活躍を折る。

(略)

出典●http://toyosisou.fc2web.com/wadatuminokoe.html

   ●http://homepage3.nifty.com/senriyama-kai/kaishi/02k/w16.htm


 木村さんがこの遺書を書き残したのは1946年5月のことだった。67年がたった。

僕は遅れてきた「若き学徒」で「幸福」を享受した世代だが「日本の真の発展」にいささかでも貢献できただろうか?

ドグマ的な思想に反発しつつもマルキシズムのドグマにいかれてしまったのではなかったか。

高校時代までに学んだ「自由主義」の哲学?ともう少しきちんと向き合うことがどうしてできなかったのか。結局は世の大勢に付き従うだけの学徒だったのか。

日本は大事な人を殺してしまった。あらためて思うことである。

参考●有田芳生「木村久夫 没後65年に寄せて」

http://saeaki.blog.ocn.ne.jp/arita/2011/05/post_6393.html


木村久夫さん「明日という字」  

2013-08-27 17:15:07 | ふるさと 土佐・室戸

8月27日(火)

有田芳生さんのfacebookで戦犯として処刑された木村久夫という人のことを知らされました。

大阪の人ですが旧制高知高校に学び、物部川の奥地に隠棲していた吉井勇の歌風の影響も受けたようです。『聞け わだつみの声』に遺書が掲載されているそうです。読んだことがあるかも知れませんが記憶にはありません。

故郷にゆかりがあると聞くと急に身近な人に思えてくるのだから不思議です。有田さんがゆかりの土地で講演されたのが機縁です。有田さんもぐっと身近な人になってきた感じです。感謝の気持ちをこめて今日のfacebookの記事を紹介させてもらいます。

木村さんの歌碑が立つという香美市猪野々の吉井勇記念館を訪ねてみたいなあ。


 

有田芳生

 

 鉛筆で紙に書いた文字はどれぐらい消えないんだろうか。心して刻んだ実感ある言葉=思想はどうして時間の堆積とともに失われていくんだろうか。薄くなった書き込みを見てそんな思いがうかびました。だから印刷に残された記録は重要だ。思想と歴史の保存。しかし読まれ、理解され、たんなる知識ではなく、血肉化されなければ、力にはならない。そんなことを思ったのは「BC級戦犯」として28歳で刑死した木村久夫さんの取材をしていたときのことでした。
 
7歳年下の孝子さんの眼前で8時間ほどかけて木村さんの遺書...を大判のRHODIAのノートに書き写していたのは2006年4月です。シンガポールのチャンギー刑務所でたまたま入手した田辺元『哲学通論』の余白に木村さんは遺書を書きはじめます。1946年4月22日のことでした。

木村さんはなぜ「たまたま」この哲学書を手に入れることができたのでしょうか。その後の取材で謎が解けました。これも単行本『X』で明らかにすることです。
 
高知の吉井勇記念館で木村久夫さんの青春について講演したことが刺激となって、久しぶりに取材ノートを読み返してみました。遺書が書かれた『哲学通論』は木村孝子さんの手元にあります。吉井勇記念館には木村さんの蔵書の一部も展示されています。記念館は『哲学通論』の実物を展示したいと申し入れましたが、断られています。マスコミへの不信などさまざまな事情から、本の実物が人の眼にさらされることは、おそらく二度とないでしょう。88歳になった孝子さんだけのものになってしまいました。遺書が書かれた『哲学通論』は兄そのものだからです。『哲学通論』の扉にはこう記されています。

死ノ数日前偶然に此ノ書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。

『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)では「四年前」が「四、五年前」、「消ゆる身」が「消える身」になっています。もともと1949年に東大生協から出版されてからずっと同じ記述になっています。これだけではありません。もっと本質的な違いがあることも驚きでした。遺書を刻印された『哲学通論』は、シンガポールからいかにして遺族の元の届いたのか。そもそも遺書は1通だけだったのか。戦犯裁判で木村さんはどのように陰謀に巻き込まれ、死刑判決を下されたのか。それらの謎を解き木村久夫さんの短い生涯とともに記録するのが私の歴史に対する責任だといまも思っています。

ここに『哲学通論』の扉ページを公開します。鉛筆の筆記はこのように薄くなって行きます。それでも遺書に託された木村久夫さんの気高い思想は印刷物として、いまも、これからも日本社会にその「声」を届けていくのです。
 
その核心が若い日本人への期待とともに、戦争だけは避けなければならないという生命をかけた痛切な願いなのです。昨日公開した木村さんの歌碑には、『哲学通論』に書かれた次のような歌が、本人の筆跡として刻まれています。私たちにはまだ残されている「明日」を、よりよき日本のためにいかしたいものです。

音もなく我より去りしものなれど 書きて偲びぬ 明日という字を
 
写真:  鉛筆で紙に書いた文字はどれぐらい消えないんだろうか。心して刻んだ実感ある言葉=思想はどうして時間の堆積とともに失われていくんだろうか。薄くなった書き込みを見てそんな思いがうかびました。だから印刷に残された記録は重要だ。思想と歴史の保存。しかし読まれ、理解され、たんなる知識ではなく、血肉化されなければ、力にはならない。そんなことを思ったのは「BC級戦犯」として28歳で刑死した木村久夫さんの取材をしていたときのことでした。7歳年下の孝子さんの眼前で8時間ほどかけて木村さんの遺書を大判のRHODIAのノートに書き写していたのは2006年4月です。シンガポールのチャンギー刑務所でたまたま入手した田辺元『哲学通論』の余白に木村さんは遺書を書きはじめます。1946年4月22日のことでした。    木村さんはなぜ「たまたま」この哲学書を手に入れることができたのでしょうか。その後の取材で謎が解けました。これも単行本『X』で明らかにすることです。高知の吉井勇記念館で木村久夫さんの青春について講演したことが刺激となって、久しぶりに取材ノートを読み返してみました。遺書が書かれた『哲学通論』は木村孝子さんの手元にあります。吉井勇記念館には木村さんの蔵書の一部も展示されています。記念館は『哲学通論』の実物を展示したいと申し入れましたが、断られています。マスコミへの不信などさまざまな事情から、本の実物が人の眼にさらされることは、おそらく二度とないでしょう。88歳になった孝子さんだけのものになってしまいました。遺書が書かれた『哲学通論』は兄そのものだからです。『哲学通論』の扉にはこう記されています。    死ノ数日前偶然に此ノ書を手に入れた。死ぬ迄にもう一度之を読んで死に赴こうと考えた。四年前私の書斎で一読した時の事を思い出し乍ら。コンクリートの寝台の上で遥かな古郷、我が来し方を想ひ乍ら、死の影を浴び乍ら、数日後には断頭台の露と消ゆる身ではあるが、私の熱情は矢張り学の途にあった事を最後にもう一度想ひ出すのである。    『きけ わだつみのこえ』(岩波文庫)では「四年前」が「四、五年前」、「消ゆる身」が「消える身」になっています。もともと1949年に東大生協から出版されてからずっと同じ記述になっています。これだけではありません。もっと本質的な違いがあることも驚きでした。遺書を刻印された『哲学通論』は、シンガポールからいかにして遺族の元の届いたのか。そもそも遺書は1通だけだったのか。戦犯裁判で木村さんはどのように陰謀に巻き込まれ、死刑判決を下されたのか。それらの謎を解き木村久夫さんの短い生涯とともに記録するのが私の歴史に対する責任だといまも思っています。    ここに『哲学通論』の扉ページを公開します。鉛筆の筆記はこのように薄くなって行きます。それでも遺書に託された木村久夫さんの気高い思想は印刷物として、いまも、これからも日本社会にその「声」を届けていくのです。その核心が若い日本人への期待とともに、戦争だけは避けなければならないという生命をかけた痛切な願いなのです。昨日公開した木村さんの歌碑には、『哲学通論』に書かれた次のような歌が、本人の筆跡として刻まれています。私たちにはまだ残されている「明日」を、よりよき日本のためにいかしたいものです。    音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を
 

室戸岬・滞在型保健施設「 ニューサンパレス むろと」

2013-04-14 16:29:48 | ふるさと 土佐・室戸

今回の故郷滞在では「ニューサンパレスむろと」に泊めてもらいました。

昔の船員保険保養施設をリニューワルして高知市の医療機関が管理運営しているようです。

http://newsunpalace-muroto.com/

アトピーなどの療養のための滞在型の保健施設ですが室戸岬をゆっくり楽しみたい人も泊めてくれます。

姉や兄も高齢化して甘えても居れないので今回の帰郷では実家滞在は一日だけとし、ここで4日間世話になりました。

室戸中央公園の只中にあり環境は抜群です。体力と気力を恢復する目的にふさわしく施設も行き届いた配慮がされています。

お願いすれば海洋深層水のお風呂を立ててくれます。抗がん剤の副作用でしびれたままの僕の下肢には塩分が浸み込んでいくような感覚があって心地の良い湯です。

朝食もお願いしました。室戸の野菜と魚を素材にして地元の村の主婦でもあるかたがたが病院の栄養士の指導を受けながら調理しています。僕にはまことに心のこもったご馳走でした。

せっかく室戸を訪ねたからにはこんなところに2・3日は滞在して身と心を大自然にゆだねてみてはどうでしょうか。

(元気一杯の子どもとその家族のためには「国立室戸青少年自然の家」の利用をお勧めします。)

世話になった職員の方が岩貞先生の息子さんのお連れ合いだとわかりました。

室戸岬の鮪漁船「三号富佐丸」と「みさご丸」が遭難したとき岩貞先生は唄を作って教えてくれました。

「ときは10月 秋深く ふるさと遠く 三崎沖 」「行く手を阻む 台風は 怨みぞ深き パトリシア」(うろおぼえ)

1949年のできごとです。この唄のおかげで僕は幼少のときの悲痛なできごとを生涯忘れないでいることができたのです。

故郷の宿に泊まるというのもなかなかいいものだとしみじみと思いました。

職員の方々が見送ってくれました。

「また帰ってきてください」。

いつでも安心して帰ってこられそうです。


花三昧友だち三昧

2013-03-30 05:43:44 | ふるさと 土佐・室戸
3月28日(木)晴

高知城 城西公園を歩く。花三昧城三昧。故郷の春は良きかな。





死んで還らぬ教え子よ


配偶者たち 章子倫子幸子



1960年卒業3年H組


宣彦 啓介 一郎 功
「鈴木啓介の会」幹事の一郎くんが「第一回」を繰り返し強調した。ありがたきかな。

3月29日(金)晴

牧野植物園に遊んだ。

コニヤンを喪う衝撃を乗り越えて頑張るぞ!

梅ちゃん夫妻 健ちゃん

60年の生涯を「総括」してそれぞれに郷土の課題に取り組む。力強い還暦組だ。才子さんが輪に加わってくれた。信濃川上産。



とっこちゃんのお店「ときわ」

2013-03-28 10:28:49 | ふるさと 土佐・室戸
3月26日(火)晴

中土佐町上ノ加江港。漁から帰ったばかりのおじさん、86歳になったが毎日のように沖にでられる。

水揚げしたばかりの大きな鯛が水槽で泳いでいる。近頃は安値で趣味の漁師ですと奥さん。

捕鯨の世界で活躍した金子庄太郎さんは従兄に当たるという。金子さんの娘さんが僕の同級生の奥さん。奇縁に感謝。

矢伊賀港。癌友の奥さんはま子さんの故郷。


四万十川の桜

夜は高知市に住む室戸岬小学校の同級生が登紀子さんの「ときわ」に集った。

巨樹(なおき) 登紀子 幸智(ゆきさと)美和

「ときわ」をやり始めて38年になるという。壁にお客さんが主催した創立35周年を祝う会の記念写真が掛かっている。参加者も半端じゃない。凄いことだと思う。

とっこちゃんがハグして「啓やん、頑張りよ」と言ってくれた。ありがとう。
帰りに僕らの隣に座っていたお客さんが挨拶してくれた。僕の高校の15年後輩で病院長だという。巨樹くんが大声で話す闘病記が先生を感動させたか。

イレッサ(抗がん剤)で肺がんが「消えた」という体験の持ち主だ。僕も癌ともの先輩として何かと教えてもらっている。

友の母上健在

2013-03-27 06:54:30 | ふるさと 土佐・室戸
3月25日(月曜日)晴れ

姉を同道して土佐市横浪三里に向かう。
35番札所清瀧寺。高校生のとき功くんに連れて来てもらって以来だ。
本堂の前で弟の章夫くんの同級生とあった。お母さんが元気だと聞いたので市街のお宅を訪ねた。

妻と一緒になった頃お目にかかったことがある。


92歳になったが僕のことを忘れたことはないと言ってくださる。
下宿生活の僕に好物のぜんざいを作って待っていてくださったものだ。僕ももちろん忘れたことはない。
妻に向かって僕のことを褒めちぎって「こんな人と一緒になれたのは幸せなことですよ」という。僕の株は上がりっ放し。

もうお会いできないと思っていた。清瀧さんの引き合わせか。ほんとうにありがたい。功くんとは二日後に会う。ビックリすることだろう。


国民宿舎土佐。露天風呂からはるかに室戸岬をみることもできる。


島村泰吉先生

2013-03-23 06:39:27 | ふるさと 土佐・室戸
3月22日(金)曇
午前中に三津の島村泰吉先生を訪ねました。室戸市史を編纂された方です。父の傘寿の祝いにきてくださったので面識があります。



昭和2年生まれで86のなられますが矍鑠としています。
「川越だより」の「熊野一貫さん」の記事を読んでもらい、「室戸岬の青年が神宮大会で優勝の事実を市史に書きとどめて置いて欲しい」との伝言を伝えました。
先生は熊野さんとは縁続きで同年です。津呂(室戸岬)の水泳がいかに強かったかエピソードを交えて話してくれました。メダルなどは貴重な史料だとのことです。(興味深いお話の報告はまたの日にします)。
午後はちょっとだけ室戸岬を散歩。



アコウの巨木のしたの水掛け地蔵さん。遭難した漁船員の霊を慰める。



アコウの気根。ガジュマルの仲間の亜熱帯植物です。気根が発達しています。ぼくらはタコの木とよんでいました。室戸岬にはアコウの樹林帯があります。



千年に1mから2m隆起している海岸です。岩の風景が見事です。

故郷の廃家

2013-03-22 06:23:07 | ふるさと 土佐・室戸
3月21日(木曜日)晴

故郷の
海の見える宿で妻が調髪
してくれました。至福のひと時です。
宿近くの山桜が花盛り。



浮津の旧市街を歩いてみました。昔日の賑わいは夢まぼろし、か。


廃屋となって久しい家。


元市長の武井さんが廃屋問題について話してくれました。廃材の処分場は市内にはなく、処分費用が高くなっているとのことです。

高校時代に下宿を共にした章介さんのお宅を訪ねてみました。広島からときどき里帰りして生家に風を入れていると聞いています。
さすがにしっかり保全されています。近所の方が数日前まで章介さんが滞在していたと教えてくれました。残念。高校卒業以来お会いしていないのです。

岬の町に住む僕には室戸の街は都会にみえたものです。マグロ漁の終結で往時の面影はどこにもありません。

空海

2013-03-21 07:11:36 | ふるさと 土佐・室戸

3月21日
2年ぶりの室戸です。



昨日、徳島に着いて海陽町浅川港で嬉しい出逢いがありました。

藤本さん父子。中学生の息子が父親の仕事を助けています。
獲れたばかりのイワシを船に積みこんでいます。ブリの養殖場に運ぶそうです。


浅川は祖父の時代から聞いた耳に馴染んだ港です。獲るから育てるへと姿は変わっても漁業の営みは親から子へと引き継がれていくのでしょうか。

春爛漫の土佐へ わが帰郷作戦

2013-03-16 07:44:57 | ふるさと 土佐・室戸

3月15日(金)晴れ

土佐高校の甲子園の相手は浦和学院(24日午後)と決まった。いよいよ応援に行きたい組み合わせだが、花粉地獄に耐えられないためあきらめ、土佐(高知県)に帰ることにした。

 2年前の同時期にも帰郷して花粉症にならなかった体験がある。土佐は杉の人工林の王国だが、春の南風で花粉が北方に流れるからか。工場というものがないのでそもそも空気がきれいなところへきて、知友と会える喜びが内なる抵抗力を強化するせいか。

わが帰郷作戦の概要が決まった。2年ぶりの大旅行。

3月19日(火)東京港発~(オーシャン東九フェリー)~20日 徳島港着

20日(水)~24日(日) 室戸岬滞在

中岡慎太郎像の写真画像

(中岡慎太郎銅像・室戸岬)

25日(月)~29日(金) 高知市滞在

30日(土)愛媛県四国中央市 31日(日)和歌山市 4月1日(月)串本町・潮岬 2日(火)三

重県熊野市 3日(水)紀北町 4日(木)~5日(金)志摩市 6日(土)鳥羽市・相差 7日

(日)静岡県浜松市 8日(月)山梨県甲州市 9日(火)川越着

故郷でのんびりしたあとは愛媛の友人宅に寄る。その後は徳島から紀州に渡り、熊野水軍の

故地をたずねる。運転手はいつものように妻一人。「のんびりゆっくり」に心がけます。

 

 

 

 


浦賀 室戸岬のマグロ漁の基地の街

2013-02-21 06:49:36 | ふるさと 土佐・室戸

2月16日(土)曇

 久里浜からバスに乗って浦賀を訪ねた。浦賀病院前下車。

(L字桟橋 戦後南方からの復員船が着いたところだという)

ここは黒船来航のころ、船番所があったところで小公園になっている。 

     写真: 浦賀舟番所跡

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も眠られず」

 日本史で必ず習う黒船来航(1853年)で「浦賀」を聞いたことがない人は珍しかろう。

その船番所あとに立つ浦賀病院の土地にかつて高知県室戸岬鰹鮪船主組合の建物が建っていたという。

 浦賀は昭和14年(1939年)から30年間にわたって室戸岬のマグロ漁の前進基地ともいえる街だった。

 その間の事情を書いた長崎大学の先生の論文がある。熊野さんのお話とも大体符合するので紹介しておきます。

 

 高知県室戸の鮪延縄漁業  楠原直樹 (1977年)

(略)

 漁船の動力化によって漁場は拡大され,黒潮にのって北は金華山沖から南は鹿児島沖まで鰹(かつお)漁に出漁するようになり,冬期は鮪(まぐろ)漁を行っていた.動力漁船数の増加とともに漁獲量も著しく増加した.
 これらの鰹鮪漁船の年間操業状況をみると 3-4月は南下して鹿児島沖、4-5月は土佐沖
で操業し,地元室戸・高知-水揚げした. 6-7月は休漁し8-10月は北上して青森県鮫漁港・
岩手県釜石港を基地にして三陸沖で操業し, ll-12月は神奈川県三崎漁港を基地にして房総半島から金華山沖にかけて操業するのが一般的であった.

 このように県外で長期間操業するようになると燃料・食料の仕込み・漁獲物の水揚げ・販売等を船主に代って漁業組合・船主組合が駐在員を各々の基地において代行させていた.

 本格的に三崎漁港を基地にするようになったのは, 1937年(昭和12年)頃からで,三崎漁港を基地に野島崎沖から金華山沖にかけて操業していた.

 その頃三崎の市場手数料3%を2%に下げるよう交渉したが,当時三崎漁港の水揚量のうち高知県漁船の水場量の占める割合が少なかったこともあって発言力が弱く,交渉は決裂した.

 丁度その時,横須賀市から基地誘致の話がもちこまれたこともあって,これを機に1939年(昭和14年)に基地を浦賀に移して冬季に犬吠崎沖から野島崎沖にかけて鮪漁を行ない下級品を地元浦賀で販売し,上級品は東京・横浜・埼玉方面へ出荷していた.

 室戸町,室戸岬町合わせて約70隻の鮪漁船が浦賀を基地として操業していたが, 一航海は約40日で,年間7 -8航海の操業が普通であった.

 しかし,この様に順調に発展していた鮪延縄(はえなわ)漁業も,やがて第二次世界大戦を迎えることになる.第二次世界大戦に入り,鮮魚介配給統制,東京卸売市場の仲介制度の廃止などとともに燃料・食料・漁具など漁業資材の不足によって全船が操業することは困難になった.また漁船は次々と徴用され,終戦時には建造中に終戦を迎えたものを含めて9隻の老朽船しか残らなかったという.

 戦後,食糧難を乗り切ろうとする政策を受けて昭和21年に第-次代船建造が農林中央金庫の融資によってなされ,新船建造・中古船の買入れに合わせて12隻が新たに出現した.漁船数は1949年頃には戦前の状態にまで復活するとともに1948年には浦賀基地も復活して東京への水扱げも始まった.

 浦賀基地の再開と前後して,東京市場への水揚げが始まったが,次にその比重が高まった.東京市場への出荷は,当初浦賀事務所が事務を行っていたが,不便なため, 1968年に東京事務所が開設されるとともに,浦賀事務所は閉鎖された.

出典●http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/9659/1/kyoyoJ17_00_04_t.pdf


室戸・室戸岬両港を根拠地とする鮪延縄漁業は全国有数の規模を誇ったが、悲しいかな両港が消費地から遠かったため、前進基地を各地に置かざるを得なかった。三崎・浦賀・焼津…。

だから室戸岬の人びとにとって「浦賀」は特別の街であった。

僕がこの街を始めて訪ねたのは大学生になった1960年代の初めだ。小学校同級生の子安麟吉くんの両親を観音崎灯台に訪ねたあと、祖母(母の叔母)に会いに来た。港近くで船員相手の食堂をやっていた。幼馴染の田原利和くんにもあったのではなかったか。利和くんの父上が漁協の燃料担当の仕事をしていたことは今回熊野さんに聞いてわかったことだ。

 その昔には伯父の丸興水産の水産加工工場もあったとのことだ。鮪漁盛んなりし頃の浦賀は土佐・室戸人の街で賑わったのだろう。今はもう寂れた歴史の街である。

(昔懐かしい本屋さん)(浦賀・紺屋町近く)

(東・西浦賀を結ぶ渡船・営業中)

 室戸岬出身者の「室戸岬会」は毎年、横須賀で会食をしているが高齢化で継続が危ぶまれているという。僕に声がかかるようになったのは近年のことで一回しか出ていない。

 善助オンちゃんの野辺の送りに出て、熊野さんのお話も聞けた。僕の「根っこ」を作ってくれた人々の営みがやっと少し見えてきた、か。

 元気に生きてせめて「室戸岬会」には出席させてもらおう。「落葉帰根」というが帰るべき根っこがまだまだわかっていないのだ。

 

 


熊野一貫さん

2013-02-18 05:23:39 | ふるさと 土佐・室戸

2月15日(金)午後・雨

 浦賀駅後背の高台の住宅に熊野さんを訪ねました。奥さんを亡くされ一人住まいです。善助おんちゃんの葬式以来、二度目の面会ですが、同郷のよしみで話はすぐに佳境に入ります。

写真: 浦賀のお宅に熊野一貫さんを訪ねました。

これが昭和18(1943)年8月、室戸岬の青年が神宮の国民錬成大会「800米継泳」で全国優勝したときの写真です。

前列右が安田善助さん、後列左が熊野一貫さん。今で言えば高校生です。善助さんが熊野さんの一級上で主将。中央は浜田先生。

国民錬成大会メダル(ニッケル製・裏)。「体育」が消え、「錬成」に。

右は「紀元2599年」(昭和14年、1939年)高知県大会(小学生)のメダル。

写真: 少年時代 熊野さん(左)  高知県大会

(少年時代・高知県大会に出場。左が熊野さん。昭和14年度「津呂小学校卒業記念写真帖」より)

今と違ってどの学校にもプールがあるというわけではないので、海で育った室戸の子どもたちが競泳でも強かったのでしょう。県の大会では毎年のように良い成績だったようです。

熊野さんは昭和18年(1943年)12月、海軍航空隊(予科練)に進み、三重県香良洲で軍隊生活。幸いにも生き残って戦後は復活したマグロ船の船員・船頭として昭和38年まで働いたといいます。

写真: 敗戦後 漁師になった熊野さん

(室戸岬の鮪漁船時代の熊野さん)

 昭和37年(1962年)ソロモン海域で台風に巻き込まれ無線連絡も途絶えてしまったときの船頭としての苦闘をタンタンと話してくれました。山のような波と暴風の中で船の難破を避けるための懸命の作業。帰ってきてお子さんから「おかあちゃんの体からいっぱい水がでちょった」と聞かされ、やがて船を下りる決断をしたということです。

 下船後は室戸岬船員同志会の中谷清明会長に誘われて浦賀の事務所で漁労部の仕事を2年ほどしました。船員の賃金保障や年金制度の確立のために中谷さんは東京にもよく出張され、水産庁では有名な存在だったとか。

黒い箱で調べるとこのごろに「室戸岬鮪船労働協約」が結ばれている。

「昭和39年10月24日,室戸岬鰹鮪船主組合と船員同志会は10年来の懸案であり,3’年にわたる交渉の成果である,賃金の一部固定給化に成功した.これは固定給付き奨励金制ともいわれる.」
 ●https://ir.kochi-u.ac.jp/dspace/bitstream/10126/1309/1/H014-10.pdf

 室戸岬鮪漁業の前進基地・浦賀で活躍した人々の名前が次々に出てくるものの、顔を思い出せる方は少ない。「低気圧のオンちゃん」。確かに聞いたことがあるなあ。12歳で故郷をあとにしてしまい、「津呂のことは何も知らない」人間になってしまった僕の宿命です。それでも熊野のおんちゃんにお会いすることができて何かとてもうれしい気持ちになることができました。

先祖は捕鯨の技術を伝えるべく熊野(和歌山)から室戸岬に招聘された一族だといいます。知力にも体力にも恵まれて海の男として生き抜いてこられたのです。娘さんは国際結婚でアメリカ、息子さんは明石の病院のお医者さん。お子さんたちもみなそれぞれに「いごっそう」「ハチキン」をやっているのでしょう。

4時近くにおいとましました。

 

 

 

 

 

 


コニヤンは人びとの心の中で生き続ける ありがとう!コニヤン

2013-02-14 05:17:30 | ふるさと 土佐・室戸

2月14日(木)

 今日、高知ではコニヤンの野辺の送りがあります。

けんちゃんの話だと昨日のお通夜には500人もの人が駆けつけたといいます。こんな通夜は初めてだともいわれていました。

「コニヤン 早すぎるぜよ」●http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-548c.html

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  コニヤンは地道で目立たない存在でしたがまさに「地の塩」だったことの証です。
ご家族や友人たち、コニヤンに世話になった生徒やOBの方々の無念をあらためて強く思います。
 
 コニヤンが尊敬する先輩であり同志であった梅原さんがメールをくれました。
 
 「昨夜、葬儀場の控え室で、本人、奥さん、子供達に会ってきました。ふとんに寝かされた小西を『寝えたらいかん、はよう起きえや』と揺すぶって涙が止まりませんでした。
 30年の付き合い、まっこと惜しいです。いくら寿命とはいえ、早すぎます。春まではとは思っていましたが、あれが限界だったのですね。
   (略)
 入院中は『鈴木先輩もがんばっちゅう、気を大きく持って療養せないかん』と励ましましたが、正直、いつまでもつろうかと、心の中では泣いていました。予想より相当早かったです。

 早く教師をやめても、次の夢がいっぱいある、頼もしい男でした。それもやれず、
まっこと惜しいです。」
 
 僕はたった4年余りの交友でしたが、100年の知己のような気でつきあわせてもらいました。遠慮なく心を通わせることができる大切なともだちになりました。
 
おかげで梅原さん・健ちゃん・大崎さんなどという得がたい友の輪にも入れてもらうことができました。心強い思いがしています。 
 コニヤン、ありがとう。しばしの別れだね。
春になったら高知に帰ってコニヤンの奥さんやお母さんに会いに行きます。
今日は勝義さんを誘って三浦半島に海を見に行きます。コニヤンの本を読んでくれた僕の大切な友人です。
 
 
 

 ①コニヤンからの「第一声」08年5月9日
 
はじめまして (コニヤン)
2008-05-09 03:28:10
コニヤンです。
今朝グーグルで「コニヤン」と
検索して調べていたら
なんとここにたどり着きました。
びっくりしました。
そして、うれしかったです。
さらに高校の大先輩ということも
知り、また恩師の竹村一水先生が
担任であったことも知りよけいに
うれしくなりました。
どこに
書き込みをしたらいいのか
わからないので
ここに書き込みました。
今後とも
よろしくお願いします。
コニヤン
 ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/1dcc0e1b499a9306053ba6ad10cb8d68

 ②コニヤンとの出会いはブログを通じてでした。その「川越だより」を訪問してくれた方が昨日で400078人となりました。ありがとうございます。「今後ともよろしくお願いします。啓介」。