2月16日(土)曇
久里浜からバスに乗って浦賀を訪ねた。浦賀病院前下車。
(L字桟橋 戦後南方からの復員船が着いたところだという)
ここは黒船来航のころ、船番所があったところで小公園になっている。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で 夜も眠られず」
日本史で必ず習う黒船来航(1853年)で「浦賀」を聞いたことがない人は珍しかろう。
その船番所あとに立つ浦賀病院の土地にかつて高知県室戸岬鰹鮪船主組合の建物が建っていたという。
浦賀は昭和14年(1939年)から30年間にわたって室戸岬のマグロ漁の前進基地ともいえる街だった。
その間の事情を書いた長崎大学の先生の論文がある。熊野さんのお話とも大体符合するので紹介しておきます。
高知県室戸の鮪延縄漁業 楠原直樹 (1977年)
(略)
漁船の動力化によって漁場は拡大され,黒潮にのって北は金華山沖から南は鹿児島沖まで鰹(かつお)漁に出漁するようになり,冬期は鮪(まぐろ)漁を行っていた.動力漁船数の増加とともに漁獲量も著しく増加した.
これらの鰹鮪漁船の年間操業状況をみると 3-4月は南下して鹿児島沖、4-5月は土佐沖
で操業し,地元室戸・高知-水揚げした. 6-7月は休漁し8-10月は北上して青森県鮫漁港・
岩手県釜石港を基地にして三陸沖で操業し, ll-12月は神奈川県三崎漁港を基地にして房総半島から金華山沖にかけて操業するのが一般的であった.
このように県外で長期間操業するようになると燃料・食料の仕込み・漁獲物の水揚げ・販売等を船主に代って漁業組合・船主組合が駐在員を各々の基地において代行させていた.
本格的に三崎漁港を基地にするようになったのは, 1937年(昭和12年)頃からで,三崎漁港を基地に野島崎沖から金華山沖にかけて操業していた.
その頃三崎の市場手数料3%を2%に下げるよう交渉したが,当時三崎漁港の水揚量のうち高知県漁船の水場量の占める割合が少なかったこともあって発言力が弱く,交渉は決裂した.
丁度その時,横須賀市から基地誘致の話がもちこまれたこともあって,これを機に1939年(昭和14年)に基地を浦賀に移して冬季に犬吠崎沖から野島崎沖にかけて鮪漁を行ない下級品を地元浦賀で販売し,上級品は東京・横浜・埼玉方面へ出荷していた.
室戸町,室戸岬町合わせて約70隻の鮪漁船が浦賀を基地として操業していたが, 一航海は約40日で,年間7 -8航海の操業が普通であった.
しかし,この様に順調に発展していた鮪延縄(はえなわ)漁業も,やがて第二次世界大戦を迎えることになる.第二次世界大戦に入り,鮮魚介配給統制,東京卸売市場の仲介制度の廃止などとともに燃料・食料・漁具など漁業資材の不足によって全船が操業することは困難になった.また漁船は次々と徴用され,終戦時には建造中に終戦を迎えたものを含めて9隻の老朽船しか残らなかったという.
戦後,食糧難を乗り切ろうとする政策を受けて昭和21年に第-次代船建造が農林中央金庫の融資によってなされ,新船建造・中古船の買入れに合わせて12隻が新たに出現した.漁船数は1949年頃には戦前の状態にまで復活するとともに1948年には浦賀基地も復活して東京への水扱げも始まった.
浦賀基地の再開と前後して,東京市場への水揚げが始まったが,次にその比重が高まった.東京市場への出荷は,当初浦賀事務所が事務を行っていたが,不便なため, 1968年に東京事務所が開設されるとともに,浦賀事務所は閉鎖された.
出典●http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/9659/1/kyoyoJ17_00_04_t.pdf
室戸・室戸岬両港を根拠地とする鮪延縄漁業は全国有数の規模を誇ったが、悲しいかな両港が消費地から遠かったため、前進基地を各地に置かざるを得なかった。三崎・浦賀・焼津…。
だから室戸岬の人びとにとって「浦賀」は特別の街であった。
僕がこの街を始めて訪ねたのは大学生になった1960年代の初めだ。小学校同級生の子安麟吉くんの両親を観音崎灯台に訪ねたあと、祖母(母の叔母)に会いに来た。港近くで船員相手の食堂をやっていた。幼馴染の田原利和くんにもあったのではなかったか。利和くんの父上が漁協の燃料担当の仕事をしていたことは今回熊野さんに聞いてわかったことだ。
その昔には伯父の丸興水産の水産加工工場もあったとのことだ。鮪漁盛んなりし頃の浦賀は土佐・室戸人の街で賑わったのだろう。今はもう寂れた歴史の街である。
(昔懐かしい本屋さん)(浦賀・紺屋町近く)
(東・西浦賀を結ぶ渡船・営業中)
室戸岬出身者の「室戸岬会」は毎年、横須賀で会食をしているが高齢化で継続が危ぶまれているという。僕に声がかかるようになったのは近年のことで一回しか出ていない。
善助オンちゃんの野辺の送りに出て、熊野さんのお話も聞けた。僕の「根っこ」を作ってくれた人々の営みがやっと少し見えてきた、か。
元気に生きてせめて「室戸岬会」には出席させてもらおう。「落葉帰根」というが帰るべき根っこがまだまだわかっていないのだ。