川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

心春ちゃん

2011-09-30 07:13:06 | こどもたち 学校 教育

9月29日(木)晴れ

 2歳半になる心春(こはる)ちゃんの運動会だと聞いたので東松山のからこ保育園に連れていってもらいました。10時過ぎ、ちょうど心春ちゃんたちの出番です。お父さんかお母さんとひと組みになって競技?をするのですが泣き出す子もいます。まだ2歳なのですから無理なのかもしれません。心春ちゃんは4月8日生まれで一番の?お姉さんですから、やっぱりしっかりしています。しばらく会わないうちに目覚しい成長を遂げていました。

 僕には孫がいないせいか、どの子もかわいい大切な子に見えます。

 長年、高校生と生活するのが仕事でした。よくもまあ生きてこられたものだと絶句するような子供時代を過ごした人もいます。

 苦労は買ってでもせよといいますがそれはそれなりの年になってからのこと。乳幼児や少年を「良い環境」で育てるのは両親をはじめとする社会の責任です。どの子もまっすぐに成長してくれるようにと祈るような気持ちで会場を後にしました。

 「きいちご移動教室」の下見をかねてときがわ町大附のみかん園に行ってみました。

  

 はるかに東京のビル群が見える大附園。1っ箇月後はちょうどいい収穫期だといいます。晴れていればここでのんびり過ごせるでしょう。

13回目になる移動教室ですが今のところ参加希望者が20名あまりです。定員(45)にははるかに及びません。一泊2日で奥武蔵を楽しむという贅沢な企画です。10月29日~30日。参加費5300円。よろしかったらどうぞ。

   大附園●http://blog.goo.ne.jp/s-brook/e/515a611fe59883ddda45b874b46a2007


原発さよならデモ@川越

2011-09-30 06:06:50 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

昨日「川越だより」のコメント欄に「原発さよならデモ」を川越でやるというお知らせがありました。注意書きが気に入りました。

「原発さよなら」に右も左もありません。生きとし生けるものの一員として生き延びたい!こどもや孫の世代に放射能地獄を残してはならない!そんな願いを持つ人なら誰でもが参加して意思表示をすることが大事です。

 あす、僕も出かけて見ようと思います。東京まで出かけるのはちょっとしんどいなと思っていたのでありがたいことです。

 

 

原発さよならデモ@川越

日時:2011年10月1日(土)15時半 川越駅西口噴水広

場集合、16時出発予定
   

(西武新宿線本川越駅からは約10分です)

 なお、親子連れなど誰でも参加できる楽しいデモにするためにも、原発に直接関係のない特定の団体や政治的テーマに関するのぼりや旗やゼッケンの着用、チラシの配布等はご遠慮頂ければと思います。
(脱原発関係のデモ・勉強会・映画上映会等のチラシ配布はOKです)


 川越駅西口噴水広場から、ガード下をくぐり、本川越駅から連雀町交差点を曲がり、クレアモールを通り、川越駅東口広場で解散する流れとなります。

  川越脱原発デモ出典●http://nonukesaitama.blog.fc2.com/

 


池袋商業高校旧同僚のみなさんへ

2011-09-29 08:17:59 | 父・家族・自分

9月28日(水)晴れ

 午後、癌研有明病院で検査と西尾主治医の診断がありました。

  「血液検査‥問題なし。X線‥肺炎の気配なし。右肺に転移した癌はさらに小さくなっている模様。抗がん剤・イレッサの薬効は引き続き顕著なので服用を継続する」。

 僕もX線写真を見ました。9月はじめよりきれいになっているのがわかります。次回検査は3週間後となり、間隔が1週間伸びました。

 予想されたとはいえやはり気分がいいものです。勢いに任せて「S・イソさんを囲む昼食会」の企画に取り組むことにしました。

 発端はUSAに住むH野さんからの電話です。「Sさんが体調を崩している・心配だ」。40年昔一緒に仕事をした僕のおねえちゃん格です。異国にあっても一人住まいの先輩のことが気がかりでならないようです。

 Sさんは60年代から80年代にかけて池袋商業高校に在職したすべての教員が世話になった方です。職員室の「教務助手」として印刷・諸連絡など私たちの仕事を裏で支えてくれました。10数年前に「感謝の会」をやった記憶があります。

 久しぶりに電話で話をしました。今年、84才になられ病院通いの日々が続いているようです。それでも昔通り気は丈夫です。昼食会なら出てこられそうです。喜んでくれました。(Sさんは秋田県湯沢市の出身です。先日「川越だより」で紹介した醍醐中学校はすぐ近くのはずです。)

 T川さん、N川さん、O木さんと電話が通じました。皆さん直ちにOKです。O木さんも今年84になられるそうです。「杖をついてだが銀座あたりなら出られるだろう」とのことです。

 遠い昔、池商に縁のあった方々、ご覧になったら鈴木啓介に連絡ください。10月の佳日に集まりましょう。詳しい計画はこれからです。

 池商跡地●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/0dbbf1928e76e7492a968f4f34b1bd76

 

 


旧陸軍桶川飛行学校

2011-09-28 09:57:35 | 川越・近郊

9月27日(火)晴れ

昼前から晴れてきたので野に出てみました。

 川越~伊佐沼~入間川大橋・開平橋~上尾市平方~県央ふれあいんぐロード(上尾丸山公園・榎本牧場・川田谷泉福寺)~太

郎右衛門~荒川自転車道~入間川自転車道~家 

 いつもの道ですが新発見がありました。ふれあいんぐロードから太郎衛門橋に登るあたりで「桶川飛行学校」の入口を示す標識を見つけたのです。橋をわたりきった荒川自転車道の入口にも関連する標識がありました。

 「桶川飛行学校」‥なんだろう? パソコンで調べてみました。

 荒川の河川敷に広がる「ホンダ・エアポート」。これはかつて陸軍熊谷飛行学校桶川分教場の滑走路だったといいます。

「大東亜戦争」末期にはここからも特攻機が飛び立ったそうです。その時、飛行機に同乗した方の手記や写真がHPに紹介されています。貴重な資料です。

 

昭和20年4月5日 桶川飛行場
元整備員(埼玉県北本市在住)

(略)戦況がいよいよ険しくなってきた昭和20年4月5日、特攻隊員12人が知覧(ちらん)から出撃することになった。整備のため、私たちも99式高練に同乗するよう言い渡された。指名されたのは、整備担当の藤原曹長と整備員5人であった。隊長の訓示、別れの酒のあと、12機のうちの6機の後部座席に乗った。特攻隊が出発することは秘密のはずであったが、うわさを聞きつけて周りの堤防の上には、見送りの人たちが来ていた。荒川の上流に沿い、北に向けて飛び立った。眼下には、冬枯れの薄茶色の地面の中に、黒く蛇行する荒川が見え、太郎衛門橋の上では、おじいさんらしき人が大きく日の丸を振り、ほかにも数人が手を振っているのが見えた。旋回して戻り、飛行場の上を超低空で飛んで見送りの人たちに左右の翼を振って別れの挨拶をしたのち、12機は、西に向けて飛んで行った。戦争に行って死ぬのは当然と思っていた当時、私はどんなことを思ったか、今思い出すことはできない。途中、各務原(かがみがはら)飛行場に一泊し、下関に近い小月(おづき)飛行場に向かった。

 私は、京都出身の山本少尉の飛行機に同乗したが、京都の町に入ったとき、大きな煙突だったので風呂屋だと思うが、2階の物干し台の上で家族らしい人たちが大きく日の丸を振っていた。私の飛行機は、驚くほど超低空飛行で煙突の周りを2、3回まわり、翼を大きく振って別れの挨拶をした。学徒出陣で、学生からいきなり特別操縦見習士官1期生として入隊し将校となった22歳の青年が、故郷の空をどういう思いで飛んだのか、胸中を察するに余りある。

 小月飛行場に着いた私たちは、翌日朝、試運転を終わって飛行機を隊員に引き渡した。アクセルを吹かした飛行機の爆音の中、山本少尉は、車輪止めをはずし終えた私を操縦席に呼んだ。「柳井、世話になったな。整備班に帰ったら、みんなによろしく伝えてくれ」。私たちは列車で帰ってきたが、隊員たちは鹿児島県の知覧基地に向かい、記録によると、4月16日、第79振武隊として、沖縄の海に散ったということである。(略)

 

桶川飛行学校の訓練の様子  昭20.4.5正午/知覧に向け出発した第79振武特別攻撃隊(多田少尉撮影)水盃を交わしている特攻隊員

  知覧に飛び立つ隊員・水盃を交わす隊員

出典●「桶川飛行学校を語り継ぐ会」http://okgwkataritsugu.koborezakura.com/index.html 

 日曜日に行けば見学できるのかな。次の機会に訪ねてみます。

 

 

 


石巻・水澤屋旅館  秋田・醍醐中卒業生のブログから

2011-09-27 10:30:54 | 出会いの旅

先日の東京行の電車で読んだ『東京新聞』の投書欄で石巻でボランティア活動をした50才の方が市民とのやりとりをつたえていました。

「われわれ中高年は何ができるか不安だし、(ヴォランティア活動に)つい躊躇してしまう」

「いや、来て下さるだけでいいんです。タクシー乗って、旅館に泊まって、食事して少し買い物してくれれば経済貢献になる。見たり聞いたりしたことをブログなどで発信してくれれば報道機関のような役割も果たしてもらえます

「もっと早く来るべきでした」

「いや、震災直後も今もあまり変わりありません。完全復興まで30年かかると思っているから。それよりも継続して来ていただけたら、うれしいですね

 こんな声を聞いて「石巻に行ってみようかな」という気が起こってきました。そこで2年前に世話になった水沢屋旅館のその後の消息を調べて見ました。

 秋田県横手市立醍醐中学校卒業生の会のブログにこんなやりとりを見つけました。

 Commented by ヒラツカ at 2011-04-21 00:32 x
夕方に水澤屋旅館の女将さんから連絡がありました。
予約帳をようやく見つけて皆様に連絡を差し上げていると。
旅館はほぼ全滅の状態で、2階には車が置かれて状態とのことでした。僕らはその後話し合い旅費を義援金にしましたと伝えましたら本当にしかたなかったと話してくれました。また再開したら必ず皆で伺うことを伝えましたが、残念ながら再開は無理とのことで諦めたとのことでした。今はまだ避難所で過ごしており、息子が体調を崩していてその世話をしているとのことでした。おかげさまで家族は全員無事で生きているだけでもよかったと話しておりました。とても残念なのは再開を断念したとのことでした。何かお役に立てることはありませんかと尋ねましたが、とにかくたくさんのお客様から温かい励ましの言葉を頂き、それだけで感謝しているとのことでした。最後に同級生の皆様によろしくお伝えくださいと、本当に来て頂けなくなったことに残念で申し訳けないと伝えてほしいとのことでした。以上みなさんへお伝えいたします。
 Commented by アキヒロ at 2011-04-21 00:50 x
水澤屋旅館の再開が断念されたという報告、なんともやり切れません。
この気持ちをどう表現していいものなのか。どうしたものなのか。
あらためて自分の無力を感じます。
 Commented by ヒロハル&エイイチ at 2011-04-21 01:18 x
本当に被災者の一人ひとりに様々な思いがあり、人生があるわけで、まさに27000人ひとり一人に存在してて、存在してたわけで、本当にムゴイというか言葉が見つかりません。
話は変わりますが、栄一が仙台の名取で仮設住宅の建築に汗を流しておりました。影像で見たり話を聞いたのとは大違いで、現場を見たら言葉を失うと栄一が話していました。
こんな時に栄一のように具体的に直接的に復興支援に携われるのを羨ましく思いました。このことをみなさまにお伝えしておきます。
 Commented by ゆきえ at 2011-04-21 05:25 x
水澤旅館の再開、断念ですか?楽しみにしてたのに、とても残念で仕方ありません 何かの縁であったのに少しでも役立てられたらと思いますが、実は私は朝日新聞の声の欄に水澤旅館の復興を願う文章を下書きしてる所でした。これも幻になってしまいました。生かされている私達に出来る事、東北人である私達に出来る事を少しでも考えたいと思います。。
 Commented by タクミ at 2011-04-21 10:41 x
水澤屋さんの報告ありがとうございます。夜寝る前に見たのですが、再開断念の報が残念で残念で、何と言ったらいいのか…なかなか寝付けませんでした。建物が流されなかったので、案外再開も早いのではと勝手に期待していただけに、浸水の重症にショックでした。女将さんの無念は如何ばかりかと思いますが、息子さんの体調のことや避難所生活のこともあり、そのことで精一杯なのでしょう。それでも、律儀に連絡をくれたんですね。今朝、改めて広春くんの記述を見たら「再開をあきらめた」とあります。これは現建物…とも解釈できます。今はまだ絶望の中にいると思いますが、時が経ち、町の復興が見えて来たり、被災者への支援がもっと形になってくれば、また希望も出てくるのではないでしょうか。何かをして暮らして行かなければならないわけだし。小さな民宿でも居酒屋でも何でもいいです。何年先になるのか分かりませんが、そこでみんなで飲めればいいなあと思います。全国にファンのいる旅館で、お客さんとの絆を大切にしている家族ですから、そんなこともあるのではと思います。これも縁だし、十五の会でもこれからずっと見守って行きましょう。
 Commented by 真佐樹 at 2011-04-21 18:15 x
そうだよな・・。タックのコメント読んでそうなってほしいと思い、そうできた時の楽しく幸せなシーンを想像しています。
4月の時点で旅館の再開は「無理」と知らされていたのですね。
この醍醐中学校卒業生の「15の会」の方たちは6月水沢屋旅館に泊まる予定だったようです。41年ぶりに小学校の修学旅行を再現するクラス会を企画していたのです。2011年1月22日のお知らせ記事です。女将さんの話に当時(1970年)の水沢屋旅館の様子が彷彿としてきます。東北各地の修学旅行団の受け入れで大わらわだったのです。僕も泊めて貰ったとき聞いた話です。

松島旅行(速報)

 
小6は12歳の時の修学旅行を41年ぶりに再現しましょう。

日時 2011年6月18日(土)~19日(日)
宿泊 水澤屋旅館 
〒986-0822 宮城県石巻市中央1-10-12 TEL 0225-22-2935
参加費 11500円(宿泊費10500円+事務費積立1000円)
参加申込み方法 3月10日までに参加費の振込みで完了

昨晩、水澤屋旅館の女将さんの水澤もり子さんとお話しました。
当時は羽後交通さんと契約をしていてシーズン時は毎日数台のバスが到着したとのこと。
女将さんは当時25歳であり、生きていれば105歳の父が漁師をしていたのだそうです。
当時の秋田県の先生方には、わらびやみずなどのおみやげを毎回たくさん頂きましたと。
石巻市は海の幸は豊富ですが山の幸を頂くことはとてもありがたかったと話しておりました。
女将は吉本喜劇に出てくる何とかさんに似ていると言われるそうです。
他にもいろいろ機関銃のごとくお話しをされましたが、最後に本人曰く私は無口で当時は美人というより可愛かったですとも。恐れ入りました。

さて、旅費ですが、8000円の海の幸料理コースに2000円の飲み放題コースにしました。
8000円の海の幸コースでも食べきれないかも知れませんとのことです。かなり期待できそうです。ただし旅館や施設などはかなり古いようで、こちらはあまり期待できません。
まぁ皆と昔話と現代話に花を咲かせおいしい料理と美味しいお酒だけで十分ではないでしょうか?

振込み先口座番号や詳しい内容をまたUPさせて頂きます。
基本的にこのような内容で進めていきたいと思いますがいかがでしょうか?
最終的に人数の確定を3月中旬頃までとのことです。
翌日の午前中に何か修学旅行気分を味わえるようにプランを考えてみます。

それにしても今朝も雪が振り続いています。
私の自宅は一階の屋根と積もり溜まった雪が同じ高さになりました。
家ごとかまくら状態です。これから雪かきをはじめます。
(広春) 
出典●http://jyugonokai.exblog.jp/14025799/
石巻に行っても水沢屋旅館には泊まれなくなったけれどお見舞いの一言くらいは伝えられるかもしれません。
それにしても「15の会」の方々も素晴らしい。50をすぎてからこうやってネットで交流しながら15の心を大事にし合っている。行けなくなってしまった旅行の代金は全額震災の寄付として送ったとか。
秋田県横手市(旧平鹿町)醍醐。隣のおじさん・森田昭四郎さんのお父さんはここの出だということです。こういう人たちの故郷も訪ねてみたいものです。
関連「川越だより」●石巻・日和山http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/def419571d917a98a953efb6e01c08fe
●石巻・水沢屋旅館http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/7502d48411046e0ca4e56d5120d25d82
●石巻・日和山公園からの風景http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4f5486797b4aafe8ec9d9a6d46d14546

芋掘り

2011-09-26 04:54:27 | 川越・近郊

9月25日(日)晴れ

 新河岸の曼荼羅で昼食の後、川越南部の畑作地帯をウロウロしてみました。平地林の間に畑が広がっています。男4人衆がさつまいもの収穫をしていたのでしばらく観察させてもらいました。最新式の機械掘りです。下の右側の写真のような光景です。

 出典●http://www.kawagoe-imo.com/

 

 掘った芋がベルトコンベアーで次々と上がってくるのを両脇に座っている人がより分けてはカゴに入れていきます。こんな感じ(下の写真)です。

 遠い昔、高知県の室戸岬でも「農繁休」というものがあり、いもの収穫を小学生も手伝いました。蔓(つる)を刈ってそれをダルマのように丸めたあと、鍬(くわ)をふるって芋を掘り出したのです。山の畑からはカゴをオクで担って運び下ろしました。何日かつづく仕事でしたが、家族総出の楽しい思い出です。小学生の頃の芋掘りや稲刈りの体験は僕の人生では実に貴重なものであったような気がします。

 今は大人たちだけの労働で、農村に育ってもこどもは幼稚園で「芋掘り」遠足を体験するだけです。はっきり言って「おかしい」。総理大臣までが塾で作られる風潮はこんなところに起因しているのでしょう。人材の劣化に歯止めが掛かりません。


比企の丘に遊ぶ

2011-09-25 07:18:36 | 川越・近郊

9月24日(土)晴れ

 10時過ぎパンクしたままのママチャリ「啓介号」を回収・修理してもらうために東松山市高坂のケーズデンキへ連れていってもらう。運良く近くに開業したばかりの「ホームセンター・セキチュー」で直してくれるという。

 待ち時間に隣接する「PEONYWALK」を歩いてみた。これでは市街地の商店街がシャッター通りになってしまうのは当然だなあ。品揃えの良い賑やかな商店街、レストラン街‥。3000台以上が入れる駐車場。「住所録」を買ってソファーでひと休みしていたらケータイがなったのでセキチューへ。後輪のタイヤーとチューブを取り替えて2000円。安い!

  セキチュー・サイクルワールド●ttp://www.sekichu.co.jhp/eigyou/cy.html

 きいちご移動教室の下見をかねて「埼玉県平和資料館」に行ってみた。

 満蒙開拓団送出の史料などを見学したあとこの展望塔から私たちが住む関東平野を眺めるのはどうだろう。遠くにスカイツリーもみえる。

 

 ●http://homepage3.nifty.com/saitamapeacemuseum/tenji.html

すぐ下の埼玉こども動物自然公園へは歩いて行けるようになっている。ここでのんびりするのもいいかな。

  こども動物自然公園(コアラ)

 ●http://1000enpark.com/park/saitama/higashimatuyama/animal.html

 芝生で一休み。土曜日とて幼児連れの家族ばかり。竹とんぼをして孫を喜ばせようとする同年代。本物のトンボを竹先に止まらせてこどもに見せる母親。肝腎のこどもたちは幼すぎて関心がなさそう。

 ツルの住む谷沿いの道を歩く親子連れと一緒になった。4歳になるという男の子が「おじいちゃん」といってなついてくれた。先日の嵐で落ちた木の実(イガイガ)の名前を聞かれたがわからない。ひとつ拾って持ち帰り、この方面に詳しい妻に見てもらってもわからない。

帰りは比企自転車道。対向車の青年が「こんにちわ!」と声をかけてくれた。とても気分が良くなった。遅ればせながら僕も「こんにちわ!」。

 

 


福島のこどもを守れ 『東京新聞』の記事②

2011-09-24 04:54:21 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

『東京新聞』(9月22日「こちら特報部」)の記事の続きです。放射能汚染された食品を特に子供たちに食べさせてならないのは内部被爆を考えれば当然です。「風評被害」などと言って福島産品を消費者に売りつける人々はどうかしています。東電に買わせるのが当然です。

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福島のこどもを守れ 『東京新聞』の記事①

2011-09-24 04:52:03 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

東京へ行く電車の中で読んだ『東京新聞』(9月22日)の「こちら特報部」に福島市や郡山市の放射能汚染が深刻で「学校疎開」を訴える学者の紹介記事が載っていました。原文をそのまま紹介します。下の方にある矢印を操作すれば全文を読むことが出来ます。

 

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朴信江さんサルプリ舞  韓国舞踊発表会

2011-09-23 11:38:13 | 映画  音楽 美術など

9月22日(木)晴れ夕方から小雨

 「趙寿玉チュムパンの会」の「韓国舞踊発表会」に行ってきました。渋谷区文化総合センター大和田・伝承ホール。

 「韓国舞踊」の良さが何も分からない僕が喜んで出かけたのは招待主の朴信江(パク・シンガン)さんの晴れ姿を見てみたかったからです。長年の友人です。

 会場でお連れ合いの河さんに会いました。こんな日を迎えるまで妻の活動を影で支えてきたに違いありません。

 この会場には両脇に座布団席があり、僕はおお助かり。舞台に一番近い席で両足を伸ばして見ることが出来ます。こうすると足の冷えを少なくすることが出来るのです。

 配られた「会報」に信江さんの「つぶやき」が載っています。

 ‥サルプリ舞の練習中に、先生が「自分のこれまでの人生を振り返るように」とおっしゃいました。右手を少しずつ上にあげ、前に一歩進むその時に、それだけのものを振り返る。左手を上から下におろす時も「遠くに何か大切な思いを届けて」とも。

 どんな衣装の踊りでも、表現するのは自分の中の思い。踊り続けた年月を振り返ると、いろいろなことがありました。踊ることで自分を見つめ、乗り越えることができました。修行の場であり、癒しの場でありました。‥

 間に短い休みはありましたが2時間を超える熱演が続きました。この文章を読んでいたせいか「サルプリ舞」が印象に残っています。信江ちゃんは今何を思い出しているのか、どういう思いを届けようとしているのか、あれこれと想像しながら見たことでした。

 子育ての時期もそれが一段落した今も母として妻として社会人として一生懸命生きてきた人です。その人生がこの踊りの中に昇華して生きる喜びを感じさせてくれるのでしょう。心からの拍手を贈りました。

 2009年12月14日に見た趙寿玉さんの踊りは忘れられません。氷雨ふる新潟港の埠頭でした。

  「趙 寿玉(ちょう・すおく)さんの鎮魂の踊りは形容のしようがありません。雨と風の中で舞う趙さんと招き寄せられた諸霊たちが交遊しています。50年の恨みを語り、やっと会えた喜びに抱き合っているのでしょうか。雨の地べたに半跏して祈る姿はただごとではありません。この方の修業の極相に立ち会っているようです。」

   「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20091215

 趙さんの活動日誌にはこうあります。踊られたのはやはり「サルプリ舞」だったようです。

 

  12月14日(月)新潟港(新潟市) において、新潟港追悼集会「あの日を…忘れない」 に参加。 

         サルプリ舞を踊る。 

 

 「北」の地で50年の恨みを抱えたままさまよう在日コリアン帰国者や日本人妻の諸霊とたしかに出会っているように見えたのです。この場面を目撃できたのはほんの数十人でした。信江さんもその一人です。

 ぼくはどうしても思ってしまいます。舞踊家であれ、音楽家であれ、小説家であれ、人間であれば、ましてコリアン系の人々や日本人であれば、「北」の地で50年間も助けを求める人々の思いに心を致し、行動を起こさないでどうして「生きている」といえるのか。

 これもまた僕の正直な気持ちです。芸術家、表現を仕事とする人に特に聞いてみたいことです。

 参考資料●サルプリ舞http://iruchi.com/dance/sarupuriサルプリ舞

 


夢見る秋葉街道紅葉の旅

2011-09-22 08:40:48 | 出会いの旅

台風一過、爽やかな朝です。家の周りを見たところこりんごの実が落ちたほかは「被害」は何もありません。

 この二日間は急に気温が下がったので体がついていけません。ベッドでの寝たり起きたりの生活でした。泰阜村の中島多鶴さんの講演会の帰りにTさんとの話題になった「秋葉街道縦貫の旅」の計画を立てることにしました。Tさんは大学の留学生を対象とした講座で長野県伊那地域のフィールドワークを計画しており、この辺リの下調べを続けています。秋葉街道沿いは公共交通が不便なので私たちの趣味の旅と波長が合えば一緒したいということです。

 

 1日目  川越~(中央道)茅野~高遠(国立少年自然の家泊)


 2日目  
三六災害で廃村となった旧四徳~小渋ダム~宮澤芳重地蔵~大鹿村(赤石荘泊)


 3日目  中央構造線資料館~ 夕立神パノラマ公園など南アルプス展望ドライブ~しらびそ高原(ハイランドしらびそ泊)

        

                 (赤石岳の遠望)

 4日目  しらびそ高原~下栗~和田~兵越峠~水窪~旧龍山村(ふるさとの村泊)

        

         (下栗の里)

           

 5日目  秋葉神社~浜松~?(泊)

 6日目 ?~川越

 

 秋葉神社は火除けの神として知られたところです。全国にたくさんある秋葉神社の中心的存在で江戸方面からも参詣者が絶えなかったといいます。中央構造線に沿って走っている国道152号がほぼ昔からの秋葉街道ではないかと思われます。長野県側はあちこち行ったことがありますが縦貫したことはありません。

 紅葉の季節に訪ねることができればいいなあ。いいのは10月の後半から11月のはじめあたりかな。夢が膨らんでいます。ご一緒できる方がいたら声をかけてください。あとひとりは大丈夫です。


画期的な「さようなら原発5万人集会」

2011-09-21 16:04:47 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

台風15号が東海地方に上陸とのことで、川越も雨風が強まっています。我が家のこりんごも風にしなっています。珍しく秩父地方が台風の通り道になるのかな。

 19日(祝)のさようなら原発5万人集会(明治公園)は100万人とはいかなくても5万人は優に超える人々が集まったようです。下の青い文字をクリックして写真をご覧になってみてください。当日の様子が次々と映し出されています。

 我が家にはTVも新聞もないのでマスメディアがどう報じたかはわかりませんが近来稀な大集会です。

 この期(ご)に及んでも東電のウソツキ誤魔化し策謀は果てしなく続き責任感らしきものを感じられる行動は皆無です。

 こんな会社をそのままにしておいて原発の再稼働を話題にするのですから新しい内閣も同じ穴のむじなです。いよいよ原発問題への関心を深め私たち国民の力で東電を解体しなければなりません。19日の集会はそれが可能になりつつあることを示しています。

 参考までに河野太郎議員のブログを紹介します。

 

写真

「毎日」さようなら原発5万人集会●http://mainichi.jp/select/wadai/graph/20110919/3.html

 

やつらが隠してきたもの

2011年09月18日 22:37|自民党役職停止中電力自由化

東京電力福島第一原発の事故後、定期検査に入る原発を再稼働させるかどうかが議論になっています。

しかし、全ての原発を再稼働させる必要はないはずです。

日本は、電力を安定供給するために、最低限いくつの原子炉を稼働させる必要があるのか、まず、経産省はそれを明確にしなければなりません。それもやらないというのは経産大臣の職務放棄以外の何ものでもありません。

そして、安全性の高い原子炉から順番に、これとこれを稼働させたいということを発表し、ハードウェアの安全性確認をストレステストなどで実施しなければなりません。さらにオペレーションなどのソフトウェアもきちんと確認し、その上で、事故を隠蔽してきた経営体質を一掃するために、経営陣の総入れ替えと外部取締役の登用などを行った上で、再稼働に向けての了解を取る作業を始めるべきです。

東京電力福島第一原発の事故は、孤立した事象ではありません。

過去の原発事故の多くが隠蔽されてきました。臨界事故のような事故ですら、長期間隠蔽されてきました。

そして、その結果、事故情報が共有されず、防げたはずの事故が起きてしまっています。多くの事故は、取るべき安全対策が取られなかった結果、起きてしまいました。

まさに人災ともいうべき事故が並んでいます。それでも、原発は安全だという「安全神話」を、原子力村は強引に押し通してきたのです。これまでのいい加減な対応を見ていると、東京電力福島第一原発のような事故は、遅かれ早かれどこかで起こらざるを得なかったのではないでしょうか。

これを繰り返さないためには、経営体質の抜本改革が必要です。再稼働するならば経営陣の総退陣と社外取締役のきちんとした選任が必要です。経産大臣に、それができるでしょうか。総理に、それを指示する勇気があるでしょうか。

例えば、1978年11月2日に東京電力福島第一原子力発電所三号機で臨界事故が起きています。

日本で起きた最初の臨界事故だったとされています。操作ミスで制御棒五本が抜け、午前3時から10時半までの7時間半臨界が続いたと思われます。

しかし、この事故は発生から実に29年間も隠蔽され、1999年に起きた北陸電力の志賀原発一号機事故の調査に関連して東京電力から同様の事故が過去に起きていたことが経産省に報告され、事故発生から29年後の2007年3月22日になってようやく事実が公表されました。

事故を公表した保安院のリリースは、最小限の事実を淡々と述べています。

「一.連絡の内容
東京電力から本日、次のような連絡を受けました。

(一)東京電力において、一F三号機で昭和五三年一一月に、一F五号機で昭和五四年二月に、また一F二号機で昭和五五年九月に、定期検査期間中の原子炉において、制御棒引き抜き事象が発生していた。

(二)いずれの事象についても、詳細な調査を進めているが、一F三号機については、制御棒が五本引き抜かれており、臨界になっていた可能性が高いとしている。なお、一F三号機は、当時、原子炉圧力容器の耐圧試験を実施しており、蓋は閉じた状態であった。

(中略)

二.当院の対応
東京電力(株)からは、いずれの事象についても詳細な調査を進めていると聞いており、事実関係が明らかとなり次第、その内容を精査してまいります。」

臨界事故のような大事故が29年間の隠蔽の末に公表されたにしては、ずいぶんと事務的ではありませんか。

「制御棒の想定外の引き抜け」と称される事故は、この
1978年11月の福島第一三号機の事故を最初に、
1979年2月東京電力福島第一原発五号機、
1980年9月東京電力福島第一原発二号機、
1988年7月東北電力女川原発一号機、
1991年5月中部電力浜岡原発三号機、
1993年6月東京電力福島第二原発三号機、
1996年6月東京電力柏崎刈羽原発六号機、
1998年2月22日福島第一原発四号機、
1999年6月18日北陸電力志賀原発一号機、
2000年4月東京電力柏崎刈羽原発一号機、
2007年6月東北電力女川原発一号機とたびたび起きています。

過去のこうした事故が隠蔽され、事故情報が共有されなかったことが次から次とこうした事故が起きた原因だと思われます。原子力村の隠蔽体質がいかに安全を損なってきたか、それに対して政府がいかに穏便に済まそうとしてきたか、よくわかります。

このうち1999年6月18日の北陸電力志賀原子力発電所一号機の事故は、定期点検中に、原子炉の弁の操作の誤りで炉内の圧力が上昇し、三本の制御棒が抜け、臨界になりました。

スクラム信号が出ましたが、制御棒を挿入することができず、手動で弁を操作するまで臨界が一五分間続きました。

この事故も隠蔽され、運転日誌への記載も本社への報告も行われないという異常ぶりでした。

原発関連の隠蔽や不祥事が相次いで起きたために、2006年11月に保安院がそれまでの事故の総点検を指示し、2007年3月になってこの日本で二番目に起きた臨界事故がようやく公表されました。

これだけの事故とこれだけの隠蔽工作が行われてきたにもかかわらず、マスメディアは電力会社の経営体質をどれだけ追及してきたのでしょうか。

原発再稼働は、単にストレステストをやればいい、知事がOKを出せばいいというものではありません。電力会社が、この隠蔽体質を変えない限り、原子力というものを彼らにまかせることはできないのです。

総理、あなたは国民を守るのですか、それとも電力会社を守るのですか。

 

 出典●http://www.taro.org/2011/09/post-1091.php

 


笑(えみ)ちゃん

2011-09-20 17:19:18 | 友人たち

 

9月19日(祝)晴れ夕方小雨

 昼前に菜穂子さん(池袋商高OG)が娘の笑(えみ)ちゃんと一緒に我が家を訪ねてくれた。このところ妻は裂布(さきぬの)でコースターを作る手芸に日々を送っている。二人はそれを習いに来た。

  笑ちゃんに会うのは初めてだ。音楽系の高校でトランペットを習っている。なかなかの美人。隣に座るのがドキドキしそうだ。(いいもんだなあ)。

 お母さんも高一の時くらいに友人と一緒に来てくれたはずだ。20数年たってこんな機会が訪れるとは‥。僕の命がまたいくらかは伸びることだろう。

 一時頃になると手芸教室が始まったので僕は自転車で郊外へ。土手の彼岸花は咲いたかな? 

 落合橋をわたっていつもの通りの土手の道を越辺(おっぺ)川、都幾川と遡る。あちこちに花の群落は見えるが土手いっぱいが真っ赤っかという風景には出会わない。

 長く通行止になっていた長楽の落合橋は今度の雨ですっかり流されて無残な姿になっている。空模様が怪しくなってきたので早俣橋をわたって対岸を帰ることにした。

 橋の中央部からは長い下り坂。快走を楽しんだところで「啓介号」に異変発生。パンク。来るべき時がとうとう来てしまった。

 小雨模様となったので近くの「ケーズデンキ」まで自転車を押していき妻の救援を待つことにした。こんな時のために買ったケータイが威力を発揮したのである。手芸教室を中座して駆けつけてくれた妻の車に僕は無事収容され5時前には帰宅することが出来た。

 (「啓介号」は東松山市高坂「ケーズデンキ」の駐輪場に置かれたママである。雨が上がったら取りに行って近くの自転車屋さんで修理してもらうつもりだ。警備員さん、あしからず!)

 二人のコースターづくりは7時近くまで続いたがまだまだということであとは宿題ということになった。「家園」に移動して遅くまで「中国家庭料理」の夕食会。

 来られなかった菜穂子さんのお連れ合いは休日なのにサービス出勤だという。元々が料理人なのでこんな時でも泣き言は言わない。「ゆっくりしてきなさい」とおおらか?信濃川源流の長野県川上村の出身。

 そういえば高知の梅原さんの奥さんもここの出身。梅原さんはこの連休に高知から川上村を訪ねるとブログにあったなあ。無事たどり着けたかな?

 井出も由井もこの辺りには多いらしい。でも駅前の写真屋といえばだれでもわかると菜穂子さん。遠い昔のことだが僕も寄ったことがある。

 今度高知に帰ったときには菜穂子さんともども梅原さんの奥さんにもお会いできるかな。菜穂子さんには前々から高知に連れて行ってくれと頼まれている。これもまた「縁」。

 笑ちゃんに「高知」と聞くと「長宗我部元親」とかえってきた。「凄い」といったら「ゲームで覚えた」とか。

 

 「U原の土佐と高知だより」●http://umecchi.seesaa.net/article/226711342.html#comment