川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

啓介・正月の日記(19歳)

2007-12-31 08:13:08 | 父・家族・自分
 昨日は娘の部屋の大掃除の際出てきた息子の幼少時の和服をAさんの子どもさんに着てもらうことになったので自転車で届けに行き、帰りに仙波河岸公園などを歩いてきました。気圧の谷が通過したのか、帰宅するやアラレに見舞われました。夜、高校時代下宿を同じくした大阪の藤戸さんから何十年ぶりかの電話をいただきました。弟さんが室戸でポンカンを生産しているとのこと。昼間に兄から届いていたポンカンが、まさに藤戸農園のものでした。機会を作ってかつての同宿生が会えるようにしたいものです。
 父の20歳の正月の日記に刺激されて、自分の同じ年頃の日記を捜してみました。どんなことを考えていたのか。20歳の年の正月にはほとんど何も書かれていないので、19歳の時の日記を紹介することにします。
 前年、東京教育大学の受験に失敗し、浪人中で9月から東京の代々木ゼミに通っていたのですが、正月は故郷室戸岬に帰っていました。
    
   1961年1月1日(日)快晴
1961年を除夜の音とともに迎えた。例年よりも遅く、昼近く屠蘇を祝う。終日、隣でテレビを見て過ごす。例年になく静かな新年である。
 自分と家族、そしてあらゆるひとびとの平和を祈ってやまない。戦争は一人一人の心に巣食うものなのだ。
 ラオス情勢は北ベトナム軍の介入が伝えられ危険な様相を呈し始めている。世界のいろいろの地域に人類滅亡の種がまかれている。好景気の華やかな幕開けとはいえ、平和への道はまだまだ遙かだと言わねばなるまい。人間の良識が試される年だともいえるだろう。
 中小企業の苦しみ、低所得者階層のうめき、国内政治の場からは、陽の当たらぬひとびとを開放するべき年であろう。所得倍増の甘言に踊るより、月給・日給倍増の本質を獲得する年だ。階級対立のない世界の礎をこの年に築くべきである。
 家の中では久しぶりに明るい年になるであろう。いいことがいくつかあるだろう。その一つ一つを大切にしたい。そして、あるいは残念なこともあるかもしれない。それもまた大切にしたい。
 自分のこと。それはまず、大学進学。そしていろいろの試練に会うことだろう。過ぎし年がけっして満足するに及ばなかったが、しかしまた、稔りのない年でもなかったように、この年も一歩一歩前にだけは進もう。
  世界中のあらゆるひとびとに幸いが多くあるように
 昨年末から元旦にかけて、室戸にはめずらしいほど、寒い日が続いた。

 1月2日(月)晴れ
 温かい1月2日。
 。夕刻…「がめつい奴」「大菩薩峠」  いい映画だと思う。
 。学校にいってみた。
  ずいぶん変わった中で、築山に一本の小さな木(ひまらや杉?)が植えられていた。北鮮に帰られた朴さんの記念の樹だ。何か胸に迫るものがあった。若々しい青年の国と一刻も早く交際できるように。
 僕にとっては恐らく顔も知らない子どもたちだろうが、小六と中二の少年の母校は僕の母校だ。朝鮮民主主義人民共和国という名のその国がいまはもう僕らの後輩の国。懐かしいような。人間みな同胞。そんな感じを抱いた。
 三七度線のさびしいくさり。そんなものも、遠からず、きっととりのぞいてほしい。日本海を間に一衣帯水の両国、早く早く遊びに来てほしい。少年たちの生まれたふるさと・むろとみさきに来てほしい。懐かしい友人たちと成長を話しあってほしい。 いい気持ちだった。

 父の日記に比べるとなんだか子どもの作文のようです。でもこの日記を読んで僕はとても嬉しかった。北朝鮮に帰った朴さんの記念植樹に関わっての記事です。
 「北朝鮮」と書くべき所を「北鮮」と書いています。後に差別表現だと気づくのですがこのころ新聞なども略称として使っており、僕にも問題意識がありません。「三七度線」は単純な間違いでしょう。
 一家が北朝鮮に「帰国」したのは前年の10月のことです。ですからこの記事はその直後に書かれたことになります。場所は「築山」で、木は「ひまらや杉?」です。
 数年前からこの木について何度か文章を書きました。この夏には木が完全に枯れ果てているのに気づき、室戸岬小学校を訪ねて、何の木だったかを調べようとしたのですが手がかりは得られません。廃校の可能性さえある学校です。記念碑の保存をとりあえず、校長先生にお願いしました。
 たった半世紀足りずの間に旧校舎は取り壊され、「築山」は影も形もありません。記念碑は移されて尊徳像の近くにあります。僕は「ひまらや杉?」と書いていますが、肝腎の木はもはや存在しません。移植したときにうまくいかなかったのか、僕が知る限り「ひまらや杉?」とは違う木が栄養失調のためかひ弱な姿で立っていました。
 僕は二人の後輩たちが北朝鮮から故郷に帰ってきたとき、あの記念植樹がこんなに大きくなっているよと案内してやりたいのです。室戸岬は潮風が吹きまくるので幼樹が成長するためにはよほどの世話が必要です。枯れさせてしまったのですからいまからでも代わりの木を植えて育ててやりたいと思います。
 学校ではこの碑の由来を調べさせて子どもたちに世話を頼んでほしい。北に帰った人たちのその後の運命がどうなったか、なぜ今も、故郷に帰ってくることができないのか。そういうことにも関心を持つ子供を一人でも育ててほしい。
 19歳の僕は「ふるさと・むろとみさき」と書いて、一つ一つの文字の上に「・」を附けて強調しています。中学生の時から故郷を離れて生活していたので僕自身、「ふるさと・むろとみさき」への思いが強かったのかもしれません。
 明日はこの日記が書かれてから47年目の正月です。朴貞香・朴元達姉弟への今の思いは9月21日のこのブログにつづりました。19歳の時とほとんど変わっていません。私たちの手で「さびしいくさり」をなんとかして取り払い、さっこちゃんたち・ふるさとの友と再会させてやりたい。
 僕は祈る気持ちで新年を迎えます。「北朝鮮政府は北朝鮮に帰国した在日コリアンと日本人妻、その子どもたちの消息を明らかにし、故郷訪問の自由を保障せよ。日本政府は日本人妻とその子どもたちの保護を外交の課題とし北朝鮮政府と強く交渉せよ。」

父の日記(昭和3年)(1)

2007-12-30 08:25:12 | 父・家族・自分
 昨夜(29日)10時半頃庸介くんと雄くんから電話がありました。僕にとっては深夜ですが、昨日は妻が早寝(風邪)だったので、念のため子機を枕元においてあり、出ることができました。二人は大島に帰省する船の中でであい僕の健康を心配して電話となったようです。二人は小学校から高校まで同級生。幼い日に帰って酒を飲み交わしたのでしょう。
 父の本棚には日記帳が並んでいました。一日、年代順に並べてぱらぱらとめくってみましたが年間を通して記入されている年はほとんどありません。戦後のものがほとんどですが、どういう訳か『昭和3年当用日記』があり、毎日、万年筆で記入されています。今となっては僕にとって父を知る貴重な記録ですから、ときどきここに写しておくことにします。
 父は昭和2年(1927)3月、高知師範学校を卒業するとそのまま高知市朝倉の44連隊に入隊し、「短現兵」となり、8月1日満期除隊と共に安芸郡羽根小学校の「訓導」として赴任しています。当時、師範学校生徒は在学中に連隊内に宿泊して兵事訓練を受けると共に卒業すれば直ちに約半年間の兵役に服し、除隊と共に下士官となったそうです。教員は有事の際、下士官として働くことを期待されていたわけです。(『むろとの教育の歩み』)
 ちなみに大正天皇が死去したのは大正15年12月25日で昭和1年は1週間しかありません。従って父は昭和の始まりと共に教員になったことになります。教職1年目の10月22日で20歳です。教員になって半年にもならない二十歳の青年の日記です。 

 昭和3年1月1日(日)晴  昭和三年は日本にとって非常に多事困難な年である。この一年間の経過如何によって 日本帝国の位置は中外に昂まるかあるいは逆行するか 兎に角日本国民の前途は懸かって昭和三年にある。
 第一は経済上に於いてである。昭和二年は大小幾多の休業銀行続出し、日本の経済界は非常な痛手を蒙った。政府当局、銀行家及び国民は如何にして是を恢復せんとするか、是は世界注視の的となって居る問題である。
 第二は政治上においてである。問題は普通選挙。欧米諸国が幾多の艱苦困難を経て実施しつつある普通選挙を日本は僅かに三十七年の憲法政治を経て今将に実施せんとしつつある。諸外国の経験せしが如き弊害と困難を見る事無く是を実現するを得ば、憲法史上に一大功績を現すもの、のみならず普選によって得た権利を国民が公平誠実に行い信頼すべき議員を選出するを得るならば日本国民の名誉は宇内に燦然たる光輝を放つであらう。
 政治上と経済上に於いて昭和三年は日本国民試練の年である。老幼男女を問はず
日本国民たる者は常に是に処するの対策と覚悟が必要である。

 松本豊祐氏と相知ル 温厚の君子にしてテニスマン、語るに足るが如し 式後大に飲む 同勢は枡嵜 安岡 西岡 松本 中島の諸氏  攻撃家屋実に十指に達す 驚くべし 就寝実に0時  
  備考  廻り廻って遂に校長宅に逆戻り、田野行きを主張する者多かりし□□に逃れて帰る 


 普通選挙法は1925(大正14)年に成立。25歳以上の男子に選挙権、30歳以上に被選挙権を認めた。1928(昭和3)年2月20日に行われた第16回総選挙が最初の普通選挙となる。女子の選挙権が認められたのは敗戦後のこと。
 「式」とあるのは元旦などの祝祭日に生徒を登校させ行った学校行事。僕が小学校の頃にもあり、「年の初めのためしとて 終わり無き世のめでたさを 門松立てて 門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」と式歌を斉唱し、校長の訓話があった。
 「攻撃家屋」 正月や神祭(氏神の例祭)の日は昼前からどの家でも「お客」をした。皿鉢料理を用意していつ来客があってもよいようになっている。僕が知っている頃、父は学校から帰り、我が家でお客をしてから、年始の挨拶回りに出かけたが、帰ってくるのはたいてい真夜中であった。我が家にも来客が多く、僕はお燗をした酒の運び役であった。父の同僚や親戚、友人の交流の場であり、教育論を戦わせる事も多かった。 田野は羽根の隣のさらに隣のまちでここには料亭があったのではないか。

島村泰吉先生へ ー 漁船員の戦死

2007-12-29 16:46:48 | ふるさと 土佐・室戸
 先生が『土佐史談』(05年12月発行・230号)に書かれた「戦没者名簿を通してみた太平洋戦争ー遠洋漁民の戦いを中心に」を興味深く読ませていただきました。06年の春に先生のお手紙と共に兄から届けられていたのに、私が入院などのため精読せず、お礼の手紙も差し上げなかったことをどうぞ許してください。
 先生のお手紙の中に「私の教師生活の大きな指標となった為利先生の生き方を拙文のテーマとさせていただいています」とあり、論文の冒頭に父の「手記の一部」が紹介されています。

 「私は昭和2年3月高知師範学校卒業以来小学校教員をつとめました。昭和12年日中戦争が始まり、教え子たちは朝倉44連隊の勇士として羅店鎮の戦いで3名が戦死しました。以来、昭和20年敗戦まで小学校高等科ばかり担任してきましたので、教え子で戦死した者、百余名にのぼります。
 侵略戦争であることを知らずに、八紘一宇、聖戦、東洋平和、等の美名のもとに教え子を戦場に送りました。罪の深さに今もおののいています。この罪を如何にして償うべきか、生還した教え子たちの意見も聞きました。その結果、戦死した教え子たちの霊を慰める道は、この地球から戦争を無くすることだという結論に達しました。
 私は戦死した教え子たちの鎮魂のためにも、今の子どもたちに戦争の罪悪と絶対平和の道を力説したいものとの念願を抱きつづけてまいりました」
 
 ここに書かれていることは大体は私が父から聞いていることですが、「手記」があるとははじめて知りました。私が身近にいなかったせいかもしれませんが父が自分の思いを記録したものを読んだ記憶がほとんどありません。書くということをしなかった人なのかと思っています。ですから話を聞いて記録して置かねばと、録音まではしてあるのですが、私のものぐさで起こさないままになっています。
 葬式の日、弔辞を述べてくださった米倉先生から『むろとの教育の歩み』(98年・市教委発行)に父の話が載っていることを知らされました。先生方が昭和初期の新米教師の時代の父の話を聞き書きして記録として残してくれたのです。おかげで父の教員としての喜びや誇りを理解することができます。
 もしよかったらこの手記の全文を読ませてくれませんか。また、他に手記などあれば教えていただけないでしょうか。

 さて、先生の論文で室戸岬町の戦没者(いわゆる「大東亜戦争」期)329人のうち軍属船員が133人、全体の40%にのぼることをはじめて知りました。
 私は父の話にあるように皆、44連隊に「兵」として招集されたと思っていたのです。事実は、4割の方々が「徴用漁船員」または「特殊漁船員」として戦死したのですね。

 徴用漁船  物資輸送・敵艦船航空機の哨戒の任務。乗組員は操船する船員と戦闘任務の軍人。無線機を備え、通信士もいるので好都合だったが重機関銃一挺で闘えるはずもなく船も漁民も海の藻屑に。
 特殊漁船  敵潜水艦・航空機の哨戒をしながら操業する漁船。海軍が燃料を供給して操業させ、漁獲は軍に納入させた。機関銃一挺がブリッジに据え付けられ、対潜水艦用の爆雷を装着。非戦闘員である漁民が潜水艦や航空機と戦うことは不可能で「敵潜水艦発見、交戦中」という無電を残して南方海上で沈没、戦死。

 母方の祖父が「徴用」で硫黄島や台湾・沖縄に行ったという話は子どもの頃聞いたことがありますが、それと「戦死」という言葉が私の中で結びついたことはありません。先生の研究ではじめて鰹鮪漁業に生きた故郷の船員たちが絶望的な戦争に動員された実態を知った思いです。
 室戸岬の忠霊塔には8月15日に父と共に何回も訪れたことがあります。羅店鎮で戦死した3人の一人は親戚の将史兄さんの父・融さんです。かつて父は将史さんに「融を殺したのは自分だ。苦労をかけてすまない」と謝ったことがあります。
 今年の彼岸にここで鮪船に乗っていた同級生の昭正くんに会い、彼の肉親や同級生の父親の名が碑文に刻まれていることを教えてもらいました。この論文を彼らにも読んでもらうようにします。自分の同級生たちの父親の「戦死」の実相さえ知らないままで私は生き、「社会科」の教員をやってきたのです。遅きに失したのですが、学びの視点を教えてくださった先生に感謝します。



 

またも訃報

2007-12-28 11:47:20 | ふるさと 土佐・室戸
 昨日は2時から9時過ぎまで、「きいちご多文化共生基金」の世話人会と忘年会。5人のかたが我が家に来てくれました。高校教師3人、元高校教師2人、それに私たち。4月に発足して以来全員がそろうのははじめてです。来年の活動計画を相談するのが目的ですが学校での悩みや困難を語り、あれこれと意見や体験を交流する場でもあります。
 妻が土佐の料理を振る舞ってくれます。姉が送ってくれたカツオのタタキ、昭正くんが室戸の沖で釣って持たしてくれたキンメダイの鍋、親戚のお姉さんのツワブキとイタドリの煮物、等々。お酒もあちこちからいただいた心づくし。北海道・池田町の北山さん(僕の農業の先生)の十勝ワイン、共通の友人であった鈴木淳さん(故人)の奥さんが土産に持ってきてくれた秩父の酒。せんべいやお菓子も昔の生徒が送ってくれたもの。私たちの大切な友人に召し上がってもらって、各地の知己も喜んでくれることでしょう。妻は張り切りすぎたせいか、風邪気味で今日は休養です。(ここまで書いてきて、二本の電話。これからあとは28日の記)

一本目は和歌山に住む李さんから。在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会(確立協)のニュースを読み、会費送付についての問い合わせです。今年は活動が低調であったため、ニュース発送の際、会費納入のお願いをしなかったのです。それでも会費をきちんと払っておきたいという有り難い電話です。僕も毎年、諸会費をきちんと払い終わらないと年が越せない気持ちがするので、かえって、迷惑をかけたかとすこし反省。
 小中といじめを受けながら立派に成長した長兄を筆頭に4人のお子さんたちがそれぞれに高等教育を受け活躍している様子が伝わってきます。マイノリティー問題を専攻した娘さんは今春、東京外大を卒業してTBSのアナウンサーになったそうです。
 ソウル生まれの奥さんは早くから在日コリアンは日本国籍をとってこの社会での発言力を強めるよう主張していますが、李さんはあれこれと思案中です。日本人教員が関わっていることに驚いたらしく、僕もつい長話をしました。今秋、熊野への途中に李さんのお宅の前を通ったことになります。機会を作って、今度はゆっくり交流しようと約束しました。
 嬉しい電話のあとにさびしい報せが兄から届きます。大阪に住む秀司くんが死去したというのです。この春、甲子園で室戸高校を一緒に応援したのが最後になりました。病気の話は何も聞いておらず、これから大阪で働きながら学ぶ親戚の青年にいろいろとアドバイスしていた元気な姿を思い出します。
 秀司くんは松山の将史兄さんのただ一人の兄弟です。僕から見ると苦労するために生まれてきた人生かと思えるほどですが、笑顔の印象的な優しい人です。一緒に生活した時期はほとんどありませんが、僕には弟のような存在です。妻とは同年で仲良しです。
 従兄弟を亡くしたばかりのところに仲のよい弟を喪った将史兄さんはさびしい思いをしているに違いありません。大阪に駆けつけなければならないところですが、ここは<自愛>に徹することにしました。
 思えば今年はこのブログを書き始めてだけでも何人もの親しい人を亡くしました。最後に秀司くんまでとは。さびしい年の暮れです。

400年

2007-12-25 16:44:08 | 政治・社会
 22日は冬至だというのでゆずの風呂に入りました。熊野のYさんにもらったゆずをとっておいたのです。香りがよく、気持ちよかったので昨夜もたててもらいました。
 故郷の「お客」の時の話が印象に残っているので書き留めておきます。
 
 昔は豊饒の海であった室戸岬周辺ですが、今は珊瑚もキンメダイも不漁続きです。生態系の変化と乱獲が原因です。そこに問題がからんでいるというのです。
 海の側に住みながら被差別の人たちには漁業権がみとめられない歴史がつづきました。69年に成立した同和対策事業特別措置法以来、港湾の整備がすすみ、事業の資金を活用して小型漁船を作り沿岸漁業に参入する人が増えてきたのですが、それらのひとびとの中に、漁師たちが築きあげてきた文化と掟を守らず、漁場を荒廃させる人が少なくないというわけです。
 確かに僕のように海に縁の薄い者でも、海に入る者のマナーとでもいうものを子どもの時に教えられたものです。稚魚や稚貝を獲ると「親が追わえてくる」とか、ナガリ(とこぶし)を獲ったら岩を元通りに返しておくとか。乱獲で漁場が荒廃する歴史を繰り返す中で漁師たちが生きてゆくために生み出した文化や約束事が、長い間、村の規律となっていたのです。
 それでも乱獲の弊害がなくならないところに、この30年、海から閉め出されていたひとびとが新規参入したのです。同対資金で造った船は大きく、性能もよい上、マナーを守らない船が少なくないというわけです。本当だとすれば、漁協の集まりなどで議論し、解決に向けて行動しなければならないのですが、表だって問題提起する人がおらず、ただただ困っているということのようです。
 このことに関わって、8年間市会議員をしている兄の口から出た言葉が印象に残っています。「400年の差別の歴史があるとすれば、解決するにも400年かかる」「この問題は(差別してきた側の)自分たちがいくら言っても解決にはならない。当事者が自ら気づく以外にない」。
 自分たちの祖先が失敗を繰り返した末に長い年月をかけて作り上げてきた文化を、それに縁がなかった人に押しつけても始まらない。彼らもまた、資源枯渇に困り果てたときに気づくだろう。それだけの時間がかかるのは仕方がない。これが兄の意見です。
 共産党の元市会議員が批判します。「海の荒廃は限度に来ており、昔のような余裕はない。に対する特別な措置は直ちにやめるべきだ」。
 兄は市に財政上の力はないが低利子融資など自立を促進するための施策は可能な限り推進すべきだと考えているようです。
 都会のサラリーマンを退職して、田舎の町の市会議員になった兄は、改めて差別の歴史と現実に向かい合っているのだろう。そうだろうなあと思いつつ、「400年」には参ってしまう。僕らの努力でそれを短くしなければとつい言ってしまったのですが、ここに住むことのないぼくに具体策はありません。すこしだけとっかかりができた同級生たちとこんな話ができるようになればいいのですが、まだまだ道が遠いように感じます。

なぜ、患者をくるしめるのか

2007-12-24 21:27:39 | 政治・社会
 薬害肝炎の問題に対する政府の対応を見ていると人ごととは思えません。
 製薬会社や政府がしなければならないことは、自分たちのせいで薬害肝炎に罹った方々が治療に専念できるように条件を整えることです。責任を100%認め謝罪すること、治療費や慰謝料を払い、最高の治療が安心して受けられるようにすることなどです。それでも病気と闘う患者さんの苦しみや不安が解消されるわけではありません。
 カネがいくらかかろうが自ら招いた事態に責任を取ることは当然です。日本国政府の高官は全員とりあえず、ボーナスカットぐらいしたらどうですか。厚生労働省については課長級以上年末手当なしとか。自らがすこしは痛まないと、責任感覚は生まれません。
 僕が受けた医療過誤事件について。僕は2回(2年間)にわたって健康診断(間接撮影)で肺ガンの大きな病巣を見逃され、「異常なし」と通告を受けました。2年目に至ってはアヒルの卵ぐらいもあるものです。そのため、3年目に発見されたときにはガンはソフトボール大に育ってさらに肺門リンパに転移しており、手術はできたものの5年生存率は30%と診断されたのです。
 少なくとも二人の医師で読影するという規則を無視していただけではなく、2年目はフィルムを見ることさえしていません。それでいて「異常なし」と知らせてきたのです。こちらには手の打ちようもありません。
 その後の公立学校共済組合関東中央病院の対応がまた、信じられないものでした。手術直後の正月に、望んでもいないのに病院長や事務方などが川越の僕の自宅まで謝りに来ました。そして、抗ガン剤治療が終結し、僕が学校に復帰した直後に、補償について病院側の考えを提案すると言うので話し合いの席に出向きました。ところが、病院側は関係者がただ頭を下げるだけで、提案どころか、なぜこういう医療事故が起きたかについても何一つ説明しないのです。
 都教委の担当者もこれにはびっくりし、後日改めて提案すると病院側が約束しただけで、この日は終わりました。しかし、そのような動きは全くなく、病院はすべてを弁護士同士のやりとりに閉じこめてしまいました。僕は、約束と違うので、前川和彦関東中央病院長宛、面会を求める手紙を書いたのですが、いまだになしのつぶてです。僕との約束を反故にし、僕が会ったこともない弁護士にすべてを取り仕切らせているようです。
 病院長は僕の主治医の同門でもあったので、自宅まで来てくれたとき、僕は自分の思いを率直に述べ、院長のリーダーシップで解決に当たるようにお願いしました。僕は今すこし生きて、僕を育ててくれたひとびとに役立ちたいのです。今となってはできる限りの治療を受け、病と闘っていくほかはありません。病院長はわかりましたと言いました。
 それなのになぜ、こんなことになるのでしょう。なぜ、手紙に返事を出すことすらできないのでしょう。
 僕は闘病を余儀なくされて以来、たくさんのひとびとの励ましに支えられて生きてきました。励まさないで、痛めつけているのは前川和彦関東中央病院長とその一団だけです。医者だけが患者を深く傷つけて知らん振りをしているのです。
 普段はのんきにしていても、僕とて不安から解放されたわけではありません。ましてや薬害で患者とされてしまったひとびとの苦しみと不安は、計り知れないものです。福田首相はもちろんですが厚生労働省の幹部とミドリ十字社の幹部たちは、患者さんの前に出てその責任を告白し、全面的な補償を誓わなければなりません。皆さん人間の顔をしているからには、それが当たり前だと思います。

 

授業料

2007-12-22 11:11:55 | 政治・社会
 昨日は風もなく暖かだったので入間川河川敷の公園を歩いてきました。榎木やクヌギがすっかり葉を落としています。鳥の声を聞きながら落ち葉を踏みしめました。今日は室戸でいう「しびくた」日和です。妻は丸木美術館の応援に行きましたので一人、ブログ書きです。
 20日に「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」のニュースを発送しました。宛名書き、封筒詰めなどで半日仕事。僕はほかに「きいちご多文化共生基金」の事務局を預かっています。妻は両団体の会計。今年は僕の予定が定まらず、両団体の活動の停滞を招きました。特に前者の事務局長を若い人に引き継ぎたいのですが、事務局員さえいない有様です。関心がある方がいたら名乗り出てください。
 僕は1969年に池袋商業高校に転勤になった年から、市民運動を始めました。学校の近くに住む八木茂夫さんと大島高校農林科卒業生らと「現代教育から人間を守る会」を作ったのです。八木さんは孔版印刷を業とする方でした。蝋の原紙に鉄筆で字を書き、製版するのです。もう40代だったと思いますが若いだけが取り柄の私たちと一緒に悩み、一緒に歩いてくれました。教条や思いこみに支配されることなく、生活の現実に学びながら、生きる指針を見つけだしていこうとする努力の大切さを学びました。僕は教師でありながら「学校」というものが嫌いで、しばしば登校拒否になったのですが、これらのひとびととの交流のおかげで危機を乗り越え、自分なりに、対峙する思想を形成することができました。
 それ以後、今日に至るまでさまざまな市民運動に関わってきました。運営の中心にいたもの、集会に参加したり機関誌を購読したりするだけのもの、関わり方はさまざまですが、これが僕の人生の学校です。
 昨日はその学校の「授業料」を払う日でした。毎年、今頃、郵便振替で市民団体の会費を払い込むのです。ボーナスが出ていた頃の習慣です。二人で一人前の収入しかない我が家ではそうするしかなかったのです。(長い間、預金というものはありませんでした)。
 退職をしてから、会費を払う団体を徐々に減らしてきたのですがこれはなかなかの決断が要ります。お世話になってきた方々と縁が切れるからです。今年も、これで終わりにしますという言葉を振替用紙に書きました。4月から完全な年金生活者になり、3ヶ月ごとの定期検査にかかる医療費も高額なのです。
 これからも学びの場を大切にしていきたいと思います。お金はますます窮屈になっていきますが、時間は沢山あります。元気に生きて「時間」で授業料を払うようにできればと思います。
 僕から見ると妻には休みというものがありません。しょっちゅう手を動かして手芸品を編んでいます。売り上げを「評議員」ということになっている丸木美術館に寄付するのです。こうやって「授業料」を払っているのでしょう。電車の中でも飛行機の中でもやっています。何もできない僕から見ると大変そうに見えますが本人はそうでもないらしく、手が自然に動くのでしょうか。
 僕にできることといえば掃除、草取り、宛名書きぐらいです。器用なことは何もできません。

   ご挨拶  年の瀬にあたり

2007-12-21 06:58:00 | 父・家族・自分
  寒い日が続きますが、みなさまにはお変わりありませんか。
 さて、11月1日、啓介の父・鈴木為利が100歳と10日の天寿を全うしました。妻や知友を喪い、晩年はさびしかったと思いますが、沿岸捕鯨の羽差しの子どもらしく精一杯命の炎を燃やし続けました。おかげで私たちも長く故郷に滞在することができ、旧友との交流を深め、また、新たな知己をえることができました。父のくれた最後のプレゼントです。
 年の瀬に当たり、変わらぬご厚誼に感謝すると共に、来る年のみなさまのご多幸を祈ります。    2007・12・21
 
    ≪2007年の報告≫
 3・6  教職(嘱託)を辞するにあたり、初任地大島を訪ねる。
 3・25 室戸高校 甲子園で報徳学園を圧倒。倫子の母ともども故郷・室戸の大応援団の一員となり、夢心地。
 3・31 都立新宿山吹高校を退職。41年間つきあってくれた皆さんに感謝!
 4・3~ 遠戚の有光成徳さん(94)の故郷訪問を支援。
 4・29 「在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」終結。「きいちご多文化共生基金」発足。 5・20 移動教室で群馬県・如意寺などへ。
 5・21 佐賀・嬉野に山下弘子さんを見舞う。
 6・28~倫子の母と石狩河口から日本海・オホーツク海岸を枝幸・美深へと花の旅。
 8・2~ 残留孤児の方々と塩原温泉の旅(きいちご基金主催)
 8・16~室戸で生活。四国各地・周防の旅も。
11・10 室戸岬小の同窓会。
11・13 吉川徹さんを熊野に訪ねる。
11・21 元北高生・杜チャンイくん再入国なり、奥さんのもとに帰る。
12・1  門井豊秋くんの墓参と緊急クラス会(伊豆大島)
 
 3月28日から啓介がブログ『川越だより』を始めました。パソコンをお持ちの方はブログ検索をして覗いていただければ幸いです。身の回りのことをあれこれとつづっています。
 私たちは忌中で穢れているということなので年賀のご挨拶を欠礼します。みなさまの賀状は喜んでいただきます。

故郷のひとびと(3) 兄と姉

2007-12-20 15:32:51 | ふるさと 土佐・室戸
 昨日(19日)は学生時代(1961~66)から持っていた本の大半を資源ゴミとして処分しました。『資本論』のようにほとんど読むことなく書棚の隅に並べられていた本もあります。マルクスやグラムシ(イタリア共産党の指導者)の著作や彼らに関する研究書がほとんどです。
 僕らが留守の間にどういう訳か、娘が自分の部屋の模様替えをし、愛読書をたくさん処分する準備をしてあったのです。昨日が今年最後の資源ゴミの日だったので僕も搬出を手伝った末に、勢いに乗ってこのような行動に及んだのです。

   こんな古本は要りませんか

 教員になって以来の本は手つかずです。在日朝鮮人研究に関わる歴史・文学・社会学の古い本が山とあります。これらも近く処分します。もし、読んでみたいと思うかたがいたら、喜んで差し上げます。あまり高価な本はありません。60年代以降に出版されたものです。
  

 さて<故郷のひとびと>の続きです。
 
 16日(日) 続き。夕方、写真を咲子さんのところに届けたら、隣の昭正くんの奥さんが僕の声を聞きつけて出てこられる。昭正くんが「啓やんに食べさせてやりたい」と言って釣ってきた金目鯛を2回も家に持っていったが留守だったというのだ。僕はもう嬉しくて喜んでいただいた。
 兄が氷を買ってきてくれて咲子さんからもらっていた干物などと共におみやげの手荷物を作る。
 
 明日は故郷を離れる日である。兄が60キロも離れた安芸の畑山にいって買ってきたという土佐ジローのすき焼きをご馳走してくれた。父の七七忌を無事終え兄もほっとしたことだろうが、脳梗塞の後遺症を持つ妻と姉の三人の生活が始まる。入院生活が続いている妹の支援や、頼りにならない弟(僕のこと)のことを考えれば心配にもなることだろう。「健康を祈って乾杯」した。兄は長く廃屋になっていた自宅裏の家を買って菜園にするという。解体工事はすでに終わりかけている。
 武実くんからカラオケに招待されていたが遅くなり、寒くもなったので、またにすることにした。父の新盆には「入れ踊り」をしに帰らなければならない。僕はまねごとしかできないが妻は母の時に踊った。

 17日(月) 空港近くの巨樹(なおき)くんの家に寄る。初の突撃訪問だが喜んでくれた。僕と同じ病気と長くつきあっている。コーヒーをご馳走になっているところに幸智くんも来る。この3人は6年生が同じクラス。幸智くんは高知市の自宅の裏山で孟宗竹を切ってここに運んだという。当主が立派な竹の塀を作った。
 姉の病院を訪ね、妻が七七忌の報告。新年に脚の手術もしなければならない姉は2月まで病院暮らし。父がすべてといってもよい人だったから、代役を務めた妻に感謝。一安心というところだろう。
  
 川越に帰って妻は早速、キンメダイを煎ってご馳走してくれる。友人たちの笑顔を思い出しながらありがたくいただく。
 そこへ美恵さんから電話。知子さんから写真と僕のメッセージをてわたされたという。そしてメッセージを読んで嬉しかったと。美恵さんはお姉さんの世話をするため大阪の生活を切り上げ室戸に帰った人。小学校の頃の友人たちの人生と出会うことができた喜びを語った。
 走り回ってくれた知子さんや幸智くんへの感謝の気持ちを忘れないでいようということと「今度は室戸在住のあなた達が声をかけてね」というお願いをして、故郷の人との楽しい通話を終わりにした。

故郷のひとびと(2)  知らなかった同級生

2007-12-19 10:04:41 | ふるさと 土佐・室戸
 12月16日(日) 室戸岬新港でさかな祭りがあるというのでいってみる。11月の同窓会で会った正くんにあった。昼食に買ったうどんを食べながら話す。正くんは小学校を途中までしかいっておらず、僕と同級になったこともないので面識もなかった。こうして二人で交流するのはもちろんはじめて。
 4年生の頃か、担任のT先生を治雄くんといっしょにいじめたらしい。先生は教卓に顔をうつぶせにして泣いていたという級友の証言がある。「治雄くん、正くんは授業に出ないでよいから、外で遊んできなさい」。ある日黒板にこう書かれていたという。若い女先生はよっぽど困り果てたのであろう。
 差別を背景に持つ貧困は、子どもたちを学校にやる余裕を与えなかった。上級生になれば、たまに来ても勉強はわからない。それでこんな反抗をしたのか。自分が学校に縁がなかったので、子どもの進学には力を注いだという。側におられるお連れ合いが同和対策事業の一環として建てられた縫製工場で一生懸命働いたのだと。奥さんも頷いておられた。息子さんはいま県立高校の教員をしている。咲子さんもこの縫製工場で働いているので家族ぐるみのつきあいがあり、正くんも同窓会に出やすかったのだろう。
 「啓やん」とはじめて呼んでくれた。何度もその呼び方を練習しているように見えた。僕はなんと呼べばよいのかわからず「ただしくん」。これからの交友を約束しあう。
 午後は室戸岬近くの「うまめの木」で1ヶ月前の小学校同窓会の反省会。高知市から実行委員長格の幸智(ゆきさと)くんが駆けつけ、知子さん、忠成くん、里枝さん、勝恵さん、武実くん、私たちが加わる。妻が撮った集合写真と幸智くんが撮ったスナップ写真を封筒詰めにして一人一人に届けられるようにするのだが、その仕分け作業のなんと賑やかなこと。
 里枝さんは小学校5年までしかいかず、「中学校には行かずにすんだ」と言う。お姉さんは勉強ができたので、先生から高校進学を勧められたが「女が学校に行くと共産党になる」とお父さんが行かせなかったらしい。里枝さんはいま、地区の婦人部長として、市民館でみんなの面倒を見る日々のようだ。
 僕が小学校時代の昼飯のことを聞いた。里枝さんも勝恵さんも弁当組で、学校で誰かからお茶をもらった。の男の子たちの中には昼食時、2キロ近い道を家に帰ったまま午後の授業に出ない子もいた。そうした子どもたちが二間廊下に集められて先生から鉄拳制裁を受けたという。
 僕らが家に帰って昼食にありついているときに、弁当を持ってくることのできない武実くんたちは水道の水を飲んでいたと聞いていたが、こんなこともあったのである。学校から彼らの家に帰り着くまでには僕の住む津呂の町を突き抜け、人家のない畠中の道を歩く以外にない。空腹をトマトなど畑の作物が誘惑したに違いない。そのまま、学校に帰らなかったとしても不思議でもなんでもない。
 僕の先生たちは子どもたちの何を見ていたのか。6年間校長だった中谷義高先生は被差別の子どもたちの昼食対策をどう考えていたのか。僕は、何かと言えば鉄拳制裁に及んだ話を聞きながら、今は亡き先生たちに聞いてみたいと思った。どうするすべもなかったのか。
 先日の同窓会に出席した弘子さんと話すことができなかったという反省の声。弘子さんは武実くんの親戚だが、学校にはほとんど来なかった。だから友だちがいない。僕らは久しぶりに会う友だちに心を奪われて弘子さんにさびしい思いをさせてしまった。ごめんなさい。
 僕はこの学年の卒業生台帳で確かめてみたが、里枝さんと弘子さんの名はどこにもない。正くんと嘉奈留くん譲くん3名の名前はクラス順アイウエオ順に書かれた台帳の最後に付け足しのように並んでいる。長欠で出席の実績はないが卒業証書は発行したのであろう。
 高知県には福祉教員という制度が設けられ、早くから長欠児童に対する取り組みがあったことを水田精喜先生の本(『今日も机にあの子がいない』)などで昔から知っているが、津呂小ではどうだったのだろう。
 僕は狭山事件をきっかけにして問題を考えるようになった。竹田の子守歌などを紹介しながら差別の歴史の授業もした。しかし、小学校にも来られなかった子どもがいたのは僕よりもだいぶ上の人たちの時代で、まさか自分の同級生に何人もいるなどとは思いも寄らなかった。高校に行けなかった人が多いことは知っていたが、中学までは卒業したと思いこんでいたのである。
 小学校の同窓会をやって本当によかった。メンバーはほとんどかわらないが、中学校だったら、3人の人は来られなかったことになる。僕もそうだが。それにしても、みんなよく頑張って生きてきたものである。
 どういう訳か地元に住み続けている同級生の参加が思ったより少なく、遠くから再会を楽しみにしてきたひとびとにとっては、ことのほかさびしかった。事情があればメッセージくらいはほしかったと僕も思う。こうしたいくつかの反省を生かしていつかまた会うことを約して、としこさんの喫茶店での交流はお開き。写真と僕のメッセージの入った封書はみんなで手分けして参加者に届けることとする。

故郷のひとびと(1) 七七忌

2007-12-18 17:51:16 | ふるさと 土佐・室戸
 小学校の同級生の昭正(てるまさ)くんが僕のために釣って来てくれたというキンメダイをこれ以上はないおみやげにもらって、昨夕、室戸岬から帰ってきました。
 やすこさんからの電話で、正人くんが術後の経過がよく退院したと聞き、安心して休みました。今朝電話すると、本人がいつもの元気な声で経緯を話してくれました。闘病仲間になってしまったことは互いに残念なことですが、気力を持って頑張ろうと励まし合いました。普段は僕のことをあだ名で呼ぶ正人くんから「先生」などと、どういう訳か呼ばれてしまいました。僕はいつもの通り「まさと!」なのですが。

 さて、今年、4回目の故郷訪問の記録です。

 12月13日(木) 高知市三里の病院に姉を見舞ったあと、所用で一郎くん宅による。『くじら組』のバックナンバーを封筒に入れて手渡してくれる。「赤旗」(日曜版)に連載されている高知県出身の山本一力の作品だが、僕が津呂のくじら組の羽差しの孫にあたることを知っている一郎くんは、読み終わった記事を整理しておいて会うたびに溜まった分をくれるのである。僕は飛行機のなかなどで読み、父が誇りにしていた祖父の姿を想像する。有り難いことである。
 今宵の宿は世界史を習った古谷俊夫先生の経営するサンライズホテル。受付で来意を告げるとすぐに、先生がにこにこしながら出てこられた。僕が伊豆の島の教員をしていたことなどをなぜか知っておられて嬉しかった。僕は歴史などが特に好きで、中学校の時、世界史の答案が模範答案として張り出されたことがあった。そのときの試験は、たしか、「コロンブスの新大陸発見の意義を論ぜよ」といった問題だけ。どんなことを書いたかは何も覚えていないが古谷先生とつながった記憶である。僕ははじめてだが、昔の生徒たちがよく利用するホテルで、先生の表情は若々しい。
 トニー・タニ先輩に勧められたサバのタタキを食べるべく、『黒潮市場』へ。量のわりに高い気がするがなかなかの味。室戸サバのタタキとメニューにあるが故郷室戸では食べたことも聞いたこともない食べ方である。これで土産話が一つできた。
  
 14日(金)  坂本龍馬が脱藩の朝、立ち寄ったという和霊神社を探して訪ねる。鏡川の右岸の神田(こうだ)という里の岡にある小さな神社だが、龍馬脱藩の道歩きがはやるようになって知られるようになった。この岡は石垣が幾重にも築かれており、城山の跡かと思わされた。
 高知城の近くにある県立文学館に寄る。推理小説を書いていた父親に育てられた妻は森下雨村という人に興味を持った。『新青年』という雑誌の編集者として江戸川乱歩や横溝正史などを世に送り出した、探偵小説育ての親だという。僕は『アカシヤの大連』を書いた清岡卓行という人が室戸の近くの田野という町に縁があるというので「追悼展」を見たかったが、通常の展示を見るだけで圧倒され、疲れ果てる。文庫本を買って退出。箱モノは苦手である。大原富枝文学館(本山町)のように縁の地に作られたもののほうがまだ見やすい。
 
 15日(土)父の七七忌法要。妻は入院中の姉に代わって、朝から仏壇に供える料理(おりょうご)づくりで忙しい。東寺の若い僧侶の読経のあと家の近くにある海を見下ろす墓地に納骨。兄に継いで僕も父の遺骨を手にとって土に返す。
 午後は父の遺影の前で親族で「お客」。親戚の元市会議員と現市会議員(兄)がいるせいもあって、深刻な過疎のなかで地域をどう振興するかが自然に話題となる。津呂地区から室戸岬中学校が消滅することがすでに決まっており、室戸岬小学校の廃校も心配されている。来春、数名の入学予定者がいるはずだが、地域に学童保育がないため、隣の室戸小に越境するらしい。このあたりでは超低賃金のため夫婦で働いても子育ては大変。学童保育は必須だという。空き教室は沢山あるのにあれやこれやで実現が難しい。困ったものである。
 『同和行政』から産業振興まで親族が率直な意見を交換する。共産党から自民党(?)までそろっているのでなかなかにおもしろい。父の法要にふさわしい意見交換ができたと思う。

朗読劇 『流れる星は生きている』に関わって

2007-12-12 17:23:51 | 政治・社会
 だいぶ時がたちましたが、11月26日の僕の文章に対してmatumotoさんから寄せられた疑問や批判におもいつくままに感想を書きます。
 
 先日、この朗読劇を一緒に観覧した上尾に住む忠幸さんからメールをいただきました。論点を整理してくれていますので、ご本人の了解を得て紹介します。 

 『流れる星…』の感想です。
 今回のような朗読劇(通常の演劇でもそうでしょうが)の出演者にとって、テーマ、台本を選ぶにあたってのまず第一の観点は、それが出演者自身の気持ちを引き立て、情熱を引き出すにふさわしいものか、と言うことになるでしょう。『流れる星…』はこの点で充分に成功していたと思います。
 年齢、性別、社会経験を異にする社会人(=アマチュア演技者)が、母と幼子3人による死と隣り合わせの困難な情況を乗り越えての脱出行をテーマに選ぶとなれば、それは自ずと各自の家族に対する思いとも重なり、演し物の基本的な流れを熱気あふれるものとすることになるでしょう。『流れる星…』は、出演者諸氏の情熱を充分に引き出していた、と感じました。
 また同時に、啓介さんの言う、なぜ、今、このテーマ・台本なのか、という思想的な面からの検討も、台本の評価とからめて問題になると思います。
 『流れる星…』のテーマが日本におけるアジア・太平洋戦争の総括・評価の現況と否応なく関わってくるからです。この問題については今後、出演者、観客が(実りある成果が得られるよう細心の注意を払いつつ)引き続き論じ合い、(時間をかけてでも)論じ続けることが期待されます。すでに始まっている啓介さんとmatsumotoさんの討論を、私は関心を持って読んでいます。私も、ゆっくり、議論に参加したいと思います。
 
 第一の点については何も付け加えることはありません。この劇をやった人たちの「認識が幼稚だったり不充分だ」なんて思いません。「叱りつける」なんてとんでもないことです。ただ、劇や映画などをほとんど見ない僕が、勝義さんが出るというのでみせていただいたのですが、僕は「感動するということはなかったなー」と言うだけです。
 普通ならこれだけですが、親しい友だちですから感想を伝えなければなりません。それで勝義さんが訪ねて見えたときに、僕がなぜ「感動することはなかったなー」と思ったのか自分なりに分析してお話ししたのです。「普遍的共感を得ることはできません」と仰山な言葉で締めくくってしまいましたが、それはさしあたって「僕は共感しなかった」という意味です。

 これからあと、いろいろと書いたのですが僕の不手際で消えてしまいました。明日から月曜日まで姉の見舞いや、父の七七忌で高知・室戸に帰ってきます。続きはまた後日と言うことにさせてください。

室戸岬小(旧津呂小)同級生各位

2007-12-10 22:22:21 | ふるさと 土佐・室戸
 11月10日の同窓会からはや1ヶ月がたちました。妻が撮ってくれた写真をお届けします。集合写真はなんとかうまくとれています。どなたの表情もいきいきしていて楽しい集いの余韻が感じられます。スナップ写真もまあまあのできですが2次会のは暗すぎたのかお届けできるものがありません。ごめんなさい。
 中学から皆さんと離れ、高知・東京と生活してきた僕が妻共々旧交を温めることができたのは本当に嬉しいことです。この際、お礼に代えて駄文を草します。

 僕を同級生とつないでくれたのは武実くんです。それまで津呂に帰っても正広くんや治雄くんと立ち話をする程度だったのですが、1978年夏に変化が起きました。 
 僕がクラス担任をしていた8人の高校生を連れて津呂に帰っていたのですが、花火大会の夜、偶然、武実くんに会ったのです。そして地区の盆踊りの見学に招待されました。
 このときから武実くんは僕が帰郷するたびに、妻共々あちこちで接待してくれました。美鈴さんのスナックで美鈴さんに、勝恵さんのスナックで勝恵さんに僕はうれしい巡り会いをすることができたのです。小学校以来ですから懐かしいには違いありませんが、はじめて《出会う》ようなものです。
 40歳近くになっていたわけですが、学校という世界しか体験したことのない僕は、武実くんたちから僕とは違った人生の話を聞きました。ずうっと疑問に思っていたことも聞きました。「小学生の頃、昼休みに僕らが家に帰って昼飯を食べているとき、遠くから通っていた君たちはどうしていたの?」
 武実くんの答えは「弁当などはなくて、学校の水道の水をのんでいたよ」。僕は20代の末ごろから差別や在日朝鮮人に対する民族差別に気づくようになり、東京の学校のなかでは比較的早く、生徒たちと共に研究するようになっていたのですが、同級生の口から証言を聞くのははじめてです。僕の研究も学校での取り組みも、こうしていくらか現実に裏付けられたものになりました。
 小学校の時、さまざまな疑問を持ちながら、遠くから通う武実くんたちの生活の現実や思いに想像が及ばなかった自分が、ようやく「人間」になり始めたのです。上級学校に進むなかで見失った大切な友人たちのかけがえのない人生と出会うことで、僕は大いにリフレッシュされたともいえます。
 87年頃から鬱傾向で悩んだことがあります。このときには室戸の海とカラオケでのひとときが大きな励ましになりました。このころには関東に住む同級生の集まりももたれるようになり、後に、武実くんが埼玉に住むお姉さんを訪ねたときには僕の家に泊まってくれ、公夫くんや政子さんとも交流することができました。
 こうして僕はすこしずつ友だちと話ができるようになっていきました。小学校の友だちといくらかでも心を通わせることができるようになったことは今や僕の大切な宝です。
 
 今回の同窓会に当たっては幸智くん、知子さん、忠成くん、武実くんなどが骨を折ってくれ、楽しい思いをさせてくれました。本当にありがとう。小学校では出会うことのなかった方々や敏明くんのお連れ合いが千葉県から参加してくれたことなどは、特に嬉しいことでした。
 小さいときから親しくしてくれた正広くん、治雄くん,利和くんなどとはもはや会うことができません。あとどのくらいの人生が僕に残されているのかわかりませんが、旅は道連れ、これからもどうぞよろしく。

嬉しい電話

2007-12-09 17:43:45 | 出会いの旅
 昨日は荒川区三河島で池商時代の生徒・順子さんとその家族4人と久しぶりにあい昼食をご馳走になったあと、在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会の運営委員会に出席しました。
 最近、日本国籍を取得した李福子〈り・ぽくちゃ〉さんの話が印象的です。法務局で国籍取得の動機を聞かれて「よそ者でいることに飽きた」と答えたというのです。日本で生まれて54年、外国人として公民権を持たずに生きてきたのです。そのことを「よそ者」と表現したのですが、わかりやすくインパクトがあります。在日コリアン3世4世5世は今も「よそ者」としてこの日本で生をうけています。この残酷な現実に改めて気づき、ひとびとに問題の所在と解決の道を自分に即して訴えています。普段から明るく元気な人ですが今日は輝くような笑顔でした。
 私たちは少なくとも特別永住資格を持つ在日コリアンは届け出だけで日本国籍を取ることができるような法制定運動をしているのですが、なかなか前進しません。来年は何とかしたいものです。

 このところ、各地から嬉しい電話をいただきます。僕がこの夏以降に訪ねてお話を聞かせてもらったひとびとに写真とブログのコピーを届けたことへのお礼です。高齢の方が多く、手紙がかけないのでという断りが入ります。僕は声の主を思いだしてただただ感謝です。通りすがりの旅のものに心を開いてくださったのです。
 熊野のYさんからは本当に嬉しかったと声を震わせながらのメッセージ。そして、いろいろ議論をしたかったとも。僕が自分の体調を心配して早寝したため、自分の話をしなかったのです。いつか、またと言いました。ぼくと妻の訪問が元気をかき立てたとしたらやはり嬉しいことです。

 今日は杜くんのお兄さんから杜くん夫妻の結婚を祝う会への招待の電話です。杜くんは日本に来て結婚生活を再開し、お兄さんの会社で働いています。前にも書きましたが僕にとっては10数年ぶりの課題がともかく解決したのです。尽力していただいたKさん、Iさんに早速伝えました。来春早々の楽しい集いが想われます。

大島再訪(2)

2007-12-08 09:54:07 | 友人たち
 12月4日(火) 昨日、手術を受けた正人くんの留守宅により奥さんに様子を聞く。順調な経過だとのことでとりあえずよかった。娘さんが父の仕事を助けられるようになって正人くんも安心して養生をつづけられるだろう。
 大島公園を散歩。動物園は改修中でごたごたしている。売店で善一くん夫妻に会う。豊秋くんは同じ泉津の二つ先輩に当たる善一くんに旅の土産だといっては酒を届け一緒に飲んだという。温かいものを感じ、嬉しい。このクラスは来年還暦を迎えるので記念に韓国旅行を考えているとか。僕にも声がかかるだろう。実現すればいいが。
 親戚の訃報があり、大島滞在を切り上げ、5日に熱海経由で帰ることにする。妻は掃除、荷物整理などで大忙し。今回の緊急クラス会の開催に尽力したキヨミさんなどに電話して感謝。
 
 12月5日(水) 朝食を取る台所の前面のガラス窓のむこうには森が広がる。木苺や紫陽花の藪に目白やホオジロが次々にやってくる。大きな木にはリス。ながめていて飽きない風景。そういえば先日、かさま農園では雅義くんがビニールハウスに遊びに来たホオジロを手で捕まえて触らせてくれたっけ。虫を食ってくれるので出入り自由だとか。
 秀子さんに岡田港まで送ってもらう。途中の福聚寺に寄り、磯崎はるみさんと中江栄光くんの墓を訪ねる。
 はるみさんは卒業直後に破傷風のため急逝した。僕にとっては生涯の痛恨事だが、はるみさんがついていてくれたおかげか、41年の教員生活のなかで生徒に事故らしいことはなかった。墓石を見るとご両親は4人のお子さんを亡くされている。おだやかな風貌の方々で、川越にもたびたびキヌサヤを送ってくださった。北の山の老人ホームにお母さんをお見舞いしたのが最後になった。僕の担任したクラスのすべてのひとびとの心の中にはるみさんの笑顔が刻印されているはずである。はるみさんを思うときに人は自分だけで生きているのではないことに気づき、優しい気持ちになるのではないか。

 栄光くんは障害者の世話をする誠実な人生の中で自ら死を選んだ。僕は卒業以来一度もあったことがなく、その苦しみを知ることがなかった。知ったとして何ができたとはいえないがさびしかった。

 ここの和尚さんに書を習い始めたという秀子さんに別れて熱海行きの高速船に乗った。いろんなことを思った。

 大島の空気はやわらかくて一度も喘息気味になることがなかった。宿を提供してくれたやすこさんや庸介くんを始め、僕が人に恵まれているせいでもあるが、本当に有り難いことである。僕のことだから今回のことに味をしめてまた幾度となく世話になることだろう。
 クラス会では二つばかり演説した。大島で大工をしている英明くんが生前の豊秋くんに町長選挙に出ることを勧めたと言う話が嬉しかった。かなわぬ夢となってしまったが、君たちはこれからが人の役に立つ本当の働き盛りだ。頑張ってほしい。
 もう一つ。いつかこの普通科のクラスだけでなく、農林・家政科の人たちとも一緒に同窓会をやってほしい。君たちと同じように僕にとっては大切な生徒であった人たちだ。
 僕はいいたいことが多すぎて、みんなにきちんと伝わっただろうかと反省するのだが、どれも本当の願いである。