8日(土) 岩国藩の納戸といわれたという柳井の白壁の商店街を歩いた後、上関(かみのせき)町へ。下関、中関につづく瀬戸内航路の要衝。朝鮮通信使の寄港地であり、近年は原発立地で知られる港町。
半島の先端にある室津で観光の基地ともなっている四階楼という船待ち客の旅館だったところによる。朝鮮通信使については簡単な説明があるのみ。海峡にかかる大橋で長島に渡る。ここに上関の港がある。海沿いを歩いても、正使らが泊まった寺を訪ねても説明らしきものはない。最後に訪ねあてたお番所の前に申維翰の詩が刻まれた碑が立っていた。ここに行くにも道らしい道がなくこの町は原発誘致以外に何の関心もないのかと思う。
朝鮮通信使と大名船@上関町観光情報ガイド
昔からの町並みを歩いてみたが人の気配はなく、役場の入り口に原発による活気ある町づくり推進本部の看板がかかっているのみ。レストランで昼食後、原発立地のことを聞いてみたが愛想のない返事が返ってくるので、上盛山展望台に登って遠望することにする。
絶景、九州の国東半島も四国も見える。この長島の果てに祝島もはっきり。候補地の対岸にある島で、原発に反対している唯一の漁協がある。島の人々にあってみたい心を残して、今夜の宿、山口に向かう。
途中、防府(ほうふ)で三田尻港を訪ね、竜馬ら脱藩の志士たちの足跡を探したが気配すらしなかった。
9日(日)公立学校共済組合の経営するホテルの人に江戸時代の山口はどんな町でしたか、何か名所でもありますかと聞いてみるがその意味がわからないようだ。毛利氏が萩に藩庁を置いて防長二国を支配するようになって、山口はどうなったのか知りたかったのだが。答はこのHPにありました。
大内氏と山口@山口市観光案内処
結局、大内氏の時代のものである瑠璃光寺五重塔を訪ねる。寺の後ろの墓地に「中国残留婦人の慰霊碑」があったのでお参りする。日本に帰ることのできなかった残留婦人の霊を慰める碑。小さい鐘がつるしてあった。例によって撞く。
島根県の津和野へ。西周(にしあまね)旧居を見て、川沿いに散歩していると町外れの公園で一人休んでいる方がいるのでベンチに座って話を伺う。喜島哲弘さん。昭和9(1934)年生まれ。73年の人生をここ、鷲原で歩んできた。製紙工場を定年退職して、今は公園の目の前の田んぼを耕す。悠々自適。若くして妻を失い、二人のお子さんを育てた。国鉄に入った息子さんは民営化の時にやめ、今は浜田におられる。娘さんは広島の宇品に嫁いだ。津和野でも仕事はなく若者は出て行く。
奥さんをなくしてから30年余、その歩みはどんなものだっただろうか。田んぼには刈り取ったばかりの稲がはざ架けに干してある。2週間ばかり陽光に宛てる。病気になったとき、人に頼んで機械で収穫したことがあるが米の出来がぜんぜん違うと言う。干した稲の元のほうはビニールで被ってある。自分の納得のいくように丁寧な仕事をなさっているのだろう。
田んぼの横に立派な倉庫。ここは農業機械の収納庫。狭い田んぼで経済的に成り立つはずもないが、それでも農業は生活の中心、やめることは考えたことがない。 建設省が河川改修して水流を変え、水辺に鯉だまりを作った。この地の生き字引とも言うべき喜島さんは水流を変えることは難しいと反対意見を言ったが聞かなかった。今、その鯉だまりには水が流れず、鯉も住まない。一見すると石材を使った津和野川の護岸は美しく見えるが、ここもまた、川とともに生きてきた人の意見を無視して無駄に税金を投入した、役人や学者たちの傲慢と無責任を物語る「遺跡」だった。
はざ架けをバックに喜島さんといっしょに写真を撮らしてもらった。元気を分けてもらう心地である。
印象深い人にお会いできて津和野はもういいかと思ったが、山上の城跡を歩いて盆地の町のたたずまいを眺めた。喜島さんの田んぼが良く見えたが、ご自宅は森の陰に隠れて確認できなかった。
山口県との堺の六日町に向かう。途中に唐人屋というところあり。秀吉の朝鮮侵略のとき李朗子という人が連れてこられ、ここに登り窯を作ったという。
山陰インターネットビジョン@ハイライトジャパン
六日市では旧道面家住宅を訪ねた。このブログ(4月17日)で紹介した恵美ちゃんのお連れ合いの実家がその近くにあると聞いていたからである。
旧道面家住宅についてはこのHPをご覧下さい。
旧道面家住宅@島根県商工会連合会
僕の目的はお連れ合いのNさんが育った村の雰囲気を知りたかっただけです。高津川の源流部に近いことは確かだが水田の広がる風景は僕の想像外です。近くと言ってももう少し奥の方かと歩いて、なかばあきらめかけたところで草刈中の青年に聞いてみました。すぐ近くにその家はあったのです。それはなんと、妻が車を止めた旧道面家の前の空き地のすぐ奥でした。
おばあちゃんが家の周りで仕事をしているので声をかけてみました。小柄でかわいらしい顔をされています。よく吼える犬を家の中に入れて、応対してくれました。おじいちゃんは岩国の病院に入院中で、あわただしい毎日のようです。恵美ちゃんはこの人を母とすることができたことを自慢にしています。優しくて、芯が強くて働き者で…。
僕はほんのちょっとお会いしただけですが、本当に嬉しい気持になりました。早くに母を失った恵美ちゃんの喜びがわかります。妻と並んだ写真を撮らせてもらいました。しばらくお母さんと会っていない恵美ちゃんに見せてやりたいのです。何時か、ゆっくりとお邪魔して、Nさんを育て恵美ちゃんの母になった半生を聞かせて貰いたいものです。お会い出来れば嬉しいと願って訪ねてきたその人にあえて、満たされた気持で、県境を越え岩国市錦町の山峡の宿に急ぎました。
半島の先端にある室津で観光の基地ともなっている四階楼という船待ち客の旅館だったところによる。朝鮮通信使については簡単な説明があるのみ。海峡にかかる大橋で長島に渡る。ここに上関の港がある。海沿いを歩いても、正使らが泊まった寺を訪ねても説明らしきものはない。最後に訪ねあてたお番所の前に申維翰の詩が刻まれた碑が立っていた。ここに行くにも道らしい道がなくこの町は原発誘致以外に何の関心もないのかと思う。
朝鮮通信使と大名船@上関町観光情報ガイド
昔からの町並みを歩いてみたが人の気配はなく、役場の入り口に原発による活気ある町づくり推進本部の看板がかかっているのみ。レストランで昼食後、原発立地のことを聞いてみたが愛想のない返事が返ってくるので、上盛山展望台に登って遠望することにする。
絶景、九州の国東半島も四国も見える。この長島の果てに祝島もはっきり。候補地の対岸にある島で、原発に反対している唯一の漁協がある。島の人々にあってみたい心を残して、今夜の宿、山口に向かう。
途中、防府(ほうふ)で三田尻港を訪ね、竜馬ら脱藩の志士たちの足跡を探したが気配すらしなかった。
9日(日)公立学校共済組合の経営するホテルの人に江戸時代の山口はどんな町でしたか、何か名所でもありますかと聞いてみるがその意味がわからないようだ。毛利氏が萩に藩庁を置いて防長二国を支配するようになって、山口はどうなったのか知りたかったのだが。答はこのHPにありました。
大内氏と山口@山口市観光案内処
結局、大内氏の時代のものである瑠璃光寺五重塔を訪ねる。寺の後ろの墓地に「中国残留婦人の慰霊碑」があったのでお参りする。日本に帰ることのできなかった残留婦人の霊を慰める碑。小さい鐘がつるしてあった。例によって撞く。
島根県の津和野へ。西周(にしあまね)旧居を見て、川沿いに散歩していると町外れの公園で一人休んでいる方がいるのでベンチに座って話を伺う。喜島哲弘さん。昭和9(1934)年生まれ。73年の人生をここ、鷲原で歩んできた。製紙工場を定年退職して、今は公園の目の前の田んぼを耕す。悠々自適。若くして妻を失い、二人のお子さんを育てた。国鉄に入った息子さんは民営化の時にやめ、今は浜田におられる。娘さんは広島の宇品に嫁いだ。津和野でも仕事はなく若者は出て行く。
奥さんをなくしてから30年余、その歩みはどんなものだっただろうか。田んぼには刈り取ったばかりの稲がはざ架けに干してある。2週間ばかり陽光に宛てる。病気になったとき、人に頼んで機械で収穫したことがあるが米の出来がぜんぜん違うと言う。干した稲の元のほうはビニールで被ってある。自分の納得のいくように丁寧な仕事をなさっているのだろう。
田んぼの横に立派な倉庫。ここは農業機械の収納庫。狭い田んぼで経済的に成り立つはずもないが、それでも農業は生活の中心、やめることは考えたことがない。 建設省が河川改修して水流を変え、水辺に鯉だまりを作った。この地の生き字引とも言うべき喜島さんは水流を変えることは難しいと反対意見を言ったが聞かなかった。今、その鯉だまりには水が流れず、鯉も住まない。一見すると石材を使った津和野川の護岸は美しく見えるが、ここもまた、川とともに生きてきた人の意見を無視して無駄に税金を投入した、役人や学者たちの傲慢と無責任を物語る「遺跡」だった。
はざ架けをバックに喜島さんといっしょに写真を撮らしてもらった。元気を分けてもらう心地である。
印象深い人にお会いできて津和野はもういいかと思ったが、山上の城跡を歩いて盆地の町のたたずまいを眺めた。喜島さんの田んぼが良く見えたが、ご自宅は森の陰に隠れて確認できなかった。
山口県との堺の六日町に向かう。途中に唐人屋というところあり。秀吉の朝鮮侵略のとき李朗子という人が連れてこられ、ここに登り窯を作ったという。
山陰インターネットビジョン@ハイライトジャパン
六日市では旧道面家住宅を訪ねた。このブログ(4月17日)で紹介した恵美ちゃんのお連れ合いの実家がその近くにあると聞いていたからである。
旧道面家住宅についてはこのHPをご覧下さい。
旧道面家住宅@島根県商工会連合会
僕の目的はお連れ合いのNさんが育った村の雰囲気を知りたかっただけです。高津川の源流部に近いことは確かだが水田の広がる風景は僕の想像外です。近くと言ってももう少し奥の方かと歩いて、なかばあきらめかけたところで草刈中の青年に聞いてみました。すぐ近くにその家はあったのです。それはなんと、妻が車を止めた旧道面家の前の空き地のすぐ奥でした。
おばあちゃんが家の周りで仕事をしているので声をかけてみました。小柄でかわいらしい顔をされています。よく吼える犬を家の中に入れて、応対してくれました。おじいちゃんは岩国の病院に入院中で、あわただしい毎日のようです。恵美ちゃんはこの人を母とすることができたことを自慢にしています。優しくて、芯が強くて働き者で…。
僕はほんのちょっとお会いしただけですが、本当に嬉しい気持になりました。早くに母を失った恵美ちゃんの喜びがわかります。妻と並んだ写真を撮らせてもらいました。しばらくお母さんと会っていない恵美ちゃんに見せてやりたいのです。何時か、ゆっくりとお邪魔して、Nさんを育て恵美ちゃんの母になった半生を聞かせて貰いたいものです。お会い出来れば嬉しいと願って訪ねてきたその人にあえて、満たされた気持で、県境を越え岩国市錦町の山峡の宿に急ぎました。
2012.7.9に投稿しておられる記事で
私の祖父である喜島克之について伺いたく、
コメントさせていただきました。
この投稿について知ったのは私の母(喜島克之の広島に嫁いだ娘)がこの記事を見つけたからです。
祖父は去年亡くなったのですが、家族みんなこの記事を読んで、祖父が津和野で過ごしていた事や祖父がいつも言っていた事が書かれており、祖父を感じる事ができました。
この記事の中で写真を祖父と撮ったと記載されていたので、その写真を拝見することは出来ませんでしょうか??