梅原 猛(たけし)という人に『森の思想が人類を救う』という本があります。
90年代の半ばに偶然本屋さんで見つけて読んだ感動を忘れられません。80年代の終わりから森を歩き始めて、自分が徐々に気付いてきていたことを「森の思想」と名付けてわかりやすく説いていてくれたのです。
http://www.amazon.co.jp/%E6%A3%AE%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%86-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4094600701
縄文時代から数千年にわたって生き続けてきた白神の森を訪ねるにあたってこの本をまた読んでみようかと思っています。僕にとっては「大自然教」の経典のような本です。
一部分ですが紹介してくれているブログがあります。よろしかったら読んでみてください。「大自然教」に帰依する友人がふえて、森をあるく仲間になってくれたら嬉しい限りです。
『森の思想が人類を救う』の紹介①
戦後日本においても、近代文明の原理である自然征服を、無条件に善とする思想はあまね
く広がり、その著しく発展した工業生産の代償として、自然破壊が日本のいたるところで進
んでいる。もちろん、日本における工業汚染は、世界一厳しい規制によって、ある程度解決
されたわけですが、しかし金儲け一辺倒にこり固まった日本人は、あるいはゴルフ場の拡大
に、あるいはリゾート施設の建設に夢中であり、私などのような反時代的な学者の意見を聞
くこともなく、ますます自然破壊は進んでいる。また日本経済の繁栄は木材や紙の浪費をも
たらし、熱帯雨林の破壊に一役買っていることも否定できません。私は、二十一世紀におけ
る人類の最大の問題は、この環境破壊にあると思っているのです。酸性雨、オゾン層の破
壊、地球の砂漠化、熱帯雨林の破壊、森の死滅、どれをとってみても、人類の生存を脅かす
現象ばかりです。こういう現象が無限に複合化して、まさに人類社会の基盤そのものを覆そ
うとしているのです。この危機から人類を救い出すためには、当面の対策も必要ですが、ま
ずその哲学を変えねばなりません。近代文明を指導したデカルトやベーコンの考え方は、人
間と自然を峻別し、自然を客観的に研究する自然科学の知識によって、自然を征服する技術
をもとうとする思想です。かくて、自然科学は飛躍的に発展し、人類は、自然について三百
年前にもっていた知識とは、比較できないほどの精密な知識を持つようになった。そしてそ
れとともに自然征服の技術は飛躍的に進み、人間は自然から、それまでの人間にはとうてい
考えられないような豊かな富を生産することができるようになった。そしてその代償に、地
球環境の破棄と
いう、まさに人間は、自分の生きている土台を根本から崩壊させるような危機に直面したわ
けです。この危機は人類全体が直面する危機であり、かつて人類社会が直面したどんな
危機よりも、ずっと深い危機ではないかと私には思われるのです。かつての危機というもの
は、人類の一つの文明の崩壊の危機でありましたが、今やそれは人類の文明全体の崩壊
の危機なのです。しかもこの危機の淵源するところはじつに古く、たんなる産業革命以後
あるいは近代以後ではありません。人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して
いらい、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。つまり人類は森を食い潰して文明
をつくってきたのです。そして一つの文明が崩壊したあとに、つぎにまだ森の残る他の地域
において文明を興し、そしてまた森を食い潰してきた。農耕牧畜社会の段階では、森の破壊
は局部的でありましたが、工業文明ができていらい、文明は飛躍的に豊かな富を生産し、
その反面、森を急激な速度で破壊してきました。日本において比較的、森が残されたの
は、農業文明や工業文明の輸入が遅れたことにもよりますが、このまま放っておいたら、
国土の六七パーセントの森は、たちまちにして消失するかもしれません。まさに森の破壊
は、農耕牧畜文明が成立していらいの、とくに近代工業文明が成立していらいの人類の
人類の運命でありますが、この運命を現在という時点において大きく転換しなければ、
人類は一直線に地獄への道をたどることは火を見るより明らかです。われわれは文明の
原理を、人間の自然支配を善とする思想から、人間と自然との共存をはかる思想に転換
しなければなりません。私は、もう一度人類は、この狩猟採集時代の世界観にたちもどり、
個人ではなく種を中心にした考え方、つまり永遠の生と死の循環という思想をとりもどさな
ければならないと思うのです。こういう思想は、古代ギリシャの思想に、あるいはヒンズー
の思想に、あるいは中国の老荘思想にも見られるものですが、それはおそらく狩猟採集
時代における人類の共通の原理の残存であると思われます。このような原理が日本文化
の伝統のなかにもある点に、私は今後の日本文化の可能性を認めたいと思っているの
です。ギリシア思想のなかにも、ケルト思想のなかにも、あるいはアメリカ・インディアン
の思想のなかにも、あるいはアボリジニの思想のなかにも見いだすことができるかもしれ
せん。私は、近代という時代がその合理的な自然征服を貫徹するために、排除していっ
た多くの思想に注目する必要があると思うのです。
『森の思想が人類を救う』の紹介②
最近、私はカナダへ行きました。カナダでは大きな木の根っこだけがあちこちで見られま
す。これは、百年以上前に、白人によって伐られた木の伐り株です。インディアンが何千年
も大事にしてきた自然が、またたくまに破壊されました。いま、カナダ政府は自分たちのや
り方が間違っていたことを認めています。そしてすべてのものが自然のなかで循環していく
という、インディアンの思想に学ぼうとしています。そして、森の文明の考え方の基本は
“生命はひとつだ”ということです。じつはこのことは高度に発達した自然科学によって証
明されています。現代の生科学は、最後にDNAを発見したわけですが、DNAは人間にも動物に
も植物にも共通にあることがわかった。これは生命はひとつだということのなによりの証明
です。旧石器時代いらいの考え方が科学的に実証されたのです。人間は生死をくり返す。そ
して固体は死ぬけれども、遺伝子は永遠に生き残るのです。それが人間の永生なのです。人
間の永生を遺伝子科学が証明したわけですね。そういうふうに考えると、植物や動物の命を
尊敬して天地自然を尊敬す
る、そしてその天地自然や動植物と調和して生きていく、共生する方法をわれわれは考えな
ければならないのです。それが人類の知恵である、というふうに思わざるをえない。人間は
動物や植物を殺さなくては生きていけない面があります。木は信仰の対象だけではなくて
人間に最も役に立つものである。だから木を伐るにせよ、動物の命を奪うにせよ、われわれ
と同じ命をもった木を、そして動物を殺すわけですから、その木や動物の霊を手厚くあの世
に送らなければならないのです。霊をあの世に返さなければならないのです。そしてまた木
や動物たちにこの世に帰ってきてもらわなければならない。私は、こういう宗教を今こそと
りもどさなければならないと考えるのです。だから、巨木の問題にしても、珍しいものがこ
こにあるから、人を呼ぼうではないかということではなくて、日本人のあるいは人類の考え
方の根底にあるものにまで、思いをはせなければならない。そして、人間が生きていくとい
うことはどういうことなのか、それは植物も動物もみな同じ命であって、すべてのものはあ
の世とこの世を循環しつつ、永遠に共生しているのだということを認識しなければならない
と思います。
そういう思想が人類に浸透したときに、人類は生き残る可能性が出てくるのだと思います。
そうでなければ、私は人類の将来はそんなにながくないと思う。巨木の問題は文明の根底に
かんする問題であり、そして巨木を中心とする街づくりは、二十一世紀を正視する街づくり
でなければならないと私は思います。
[1990年10月佐賀県武雄市で開催された“巨木の里”シンポジウム”(武雄市・椎葉村共催)における基調講演の記録から]
出典
http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeBookPhoto/MorinoSisou.htm