川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「きいちご移動教室」へのお誘い

2010-10-31 09:06:55 | 出会いの旅
 昨日は台風の余波なのか一日中雨で家に閉じこもっていました。今日は午後から小学校(高知県安芸郡室戸岬町立津呂小学校)のクラス会です。東京・本郷の馥苑に出かけます。闘病中の友人を励ますのが目的です。

 今度の日曜日に「きいちご移動教室」があります。中国残留日本孤児をはじめ、中国・朝鮮・ビルマ・タイなどから来た人々に日本の人と自然を紹介するのが目的です。

 今回は日帰りで栃木県足利市などを訪ねます。現在、参加登録を済ませた方は40人です。あと、8名は余裕があります。関心がある方がおられたらどうぞ遠慮なく参加してください。

 申し込み先 keisukelap@yahoo.co.jp

<第11回きいちご移動教室>
>
> 北関東に深まりゆく秋を訪ねて
>
>
> 今回は日帰りのバスの旅です。先年訪ねた足尾に源を発する渡良瀬(わたらせ)川の中・下流地域の街や村里を訪ねます。関東地方ではもっとも早くから拓けたところで秋の実りも豊かなはずです。
>
>  足尾鉱毒と生涯にわたって闘い続けた田中正造のふるさとでもあります。今回はどんな
>出会いが待っているでしょう?
>
>  ●目的地 栃木県足利(あしかが)市・佐野(さの)市・渡良瀬(わたらせ)遊水池
>
>
>  ●時 2010年11月7日(日)7時50分集合 8時出発
>
>  ●集合場所 JR日暮里駅東口広場(北口改札を出て右に行くと東口広場に出ます)
>
>  ●参加費 大人(高校生以上)1000円
>
>       こども(3歳以上) 500円
>
>  ●必需携帯物品 昼食(弁当) レジャーシート 雨具
>
>  ●服装 歩くのに適した服装と靴

針江・伏流水の恵み 

2010-10-30 14:33:43 | 出会いの旅
 10月26日(火)曇り時々雨

 (つづき)

 針江公民館について「生水の里委員会」で一人1000円也の「参加料」を払って手続きを済ませるとボランティアガイドの福田玉江さんが早速、針江地区を案内してくれる。

 「この村は水脈の上にある」という。遠くに見える比良山系の山々に降った雨が何百年かの月日ののちに伏流水となってこの地区で地上近くを流れているのだろう。

 針江の民家の特徴はどの家も「かばた(川端)」という台所の水場を持っていることだ。ぼくが驚いたのはどの家も自噴泉を掘削していてその水を飲み水などとして利用していることだ。10数m掘るとどこでも水が噴き出すらしい。水温は年間を通して13度だという。

 僕は各家が流水を洗い場などとして取り込んでいるのかと思いこんでいた。利用した水は流水となって共同溝を流れて行くので外見はそう見える。

 優れたレポートがあるので紹介する。この土地の人々がこの「かばた」のある暮らしを「遅れたもの」から「豊かなもの」へと再発見し、村造りの核として生かすようになった経緯とその思想を読み取ることが出来る。

 
  ●「水と人が共生するー川端のある暮らし」http://www.bgf.or.jp/andly/content/070516r.html

 息子のお連れ合いの弘子さんがTVを見てここに来ることになったのだが福田さんをはじめとするこの村の人々の取り組みは私たちの未来に希望の灯火となってくれるような気がした。

 ●印象に残ったこと

①どの家の「かばた」にも大きな鯉が10匹近く泳いでいる。残飯などをキレイにしてくれ、家族の一員に近い存在だという。「食べてしまうなんてとんでもない」。

 鯉は街を流れる水路のどこにもいるが魚屋さんの生け簀には1m級のがうようよ、是もびっくり。

②「かばたトンボ」。竹細工工房のまえにトンボ細工が並んでいた。扇子の骨とクロ竹で作るらしい。細い竹の枝先にトンボが止まっている。トンボの口先が尖っていて、それを枝先で受けてヤジロベーのようにバランスをとっている。見事な細工だと思う。妻がひとつ買って息子たちの店に贈った。

 「梅花藻の花」も初めて見た。かわいい。

 ●「かばたトンボ」と「梅花藻の花」http://blogs.yahoo.co.jp/kimtom6857/61154969.html


 見学が終わったころ雨になった。新旭駅で息子夫婦と別れた。彼らは湖西線で京都駅に向かい横浜に帰る。今年もいい旅が出来て良かった。

 僕らは湖畔道路で今津に出て若狭に向かう。雨と風が強くなってきた頃、若狭高浜町の国民宿舎「城山荘」につく。

 風呂が海に面していて大荒れに荒れる若狭湾の風光がすばらしい。強風の中を鳶が飛ぶ。こんな景色はそう見られるものではない。

貴船神社  鞍馬寺

2010-10-29 20:00:23 | 出会いの旅
 昨夜遅く京都の旅から帰り着きました。最終日は一日雨模様でしたが楽しい旅を満喫することが出来て何よりでした。今朝は遅くまで寝て、午後川越公園を散歩してきました。

 忘れないうちに旅のメモ。



    10月26日(火)曇り一時雨

 レンタカーで滋賀県高島市の「針江生水の里」を訪ねる日だ。鞍馬寺を通るコースを通ることにした。

 昨夕、五条大橋の袂で「牛若丸と弁慶」の像を見て遠い昔の記憶がよみがえってきたのだ。

 弟は小さい頃「京の五条の橋の上…」という唄をよく歌っていた。僕は近所のお姉さんたちに教わったのか、「父は尾張の露と消え…」と口ずさんだ。

 二つの唄は別物だが、僕の記憶の中では「牛若丸ー五条の大橋ー鞍馬山」はひとつながりで弟の思い出とともにある。

 そういえば弟の命日(1955年10月31日死去)も近い。何かの縁だと思ったのだった。

 ちなみに僕がうたった唄はこんな唄だ。一番と二番はよく憶えている。

  「牛若丸の歌」

一、父は尾張の露と消え
母は平家にとらえられ
兄は伊豆に流されて
おのれ一人は鞍馬山

二、敵(かたき)の平家をほろぼして
わが家源氏をおこさんと
ひるは学問剣術は
人目をしのぶ夜のわざ

三、七つの道具をなげだして
弁慶あやまる五条橋
金売吉次がおともして
落ちゆく先は奥州路

四、鏡の宿の元服に
その名は義経源九郎
途中のなんぎ切りぬけて
秀衡やかたに着きにけり

五、ほどなく源氏の花咲くや
兄頼朝の命をうけ
朝日将軍義仲を
ただひと打ちにほろぼして

六、ひよどりごえの逆落し
屋島の海の弓流し
壇の浦では八そうとび
永くほまれをのこしけり


●「牛若丸」(曲)http://www.yuugao-net.com/doyoshoka_mp3.html


堀川通りに続く山道をどこまでも行くと最初についたのは貴船神社だった。参拝の後、賀茂川の源流部に当たる清流に沿って歩いてみた。都会育ちで田舎の生活を体験したことのない弘子さんが美味しい空気をすって散歩を楽しんでいる様子がうれしい。

 古来京都の水の神様であり、縁結びの神でもあるらしい。女性の一人旅や若いカップルを見た。

 僕は京都の北山の果ての清流に沿って旅館?街が続いていることにびっくりした。まさに「奥座敷」なのだろう。


  ●貴船神社http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/kifune-jinjya.htm


 お目当ての鞍馬寺にはまいった。拝観料を払って入場したまでは良かったのだが本堂は山の上でケーブルを利用するらしい。是ではとても時間が足りない。早々に決断して拝観は他日を期すことに。僕が思っていたよりは寺域が遙かに宏大でゆっくり過ごしたいところのように思えた。

 いくつも山を越えて約束の時間(13時)の少し前に滋賀県高島市の針江公民館に着くことが出来た。(つづく)


 

龍馬・慎太郎の墓に参る  京都だより(続)

2010-10-25 11:58:29 | 出会いの旅

10月25日(月) 曇り一時小雨

 午前中、宿近くの二条城。こんなに大きな城だったのか。僕は徳川の京都事務所だから二条の一角にある館くらいにしか考えていなかった。公家を囲い込み、豊臣(大阪)をけん制するにはそうは行かなかったのか。「京都城」ともいうべき構えに驚く。(中学の修学旅行にこれなかったためか初見学)

 午後、みんなは山崎の蒸留所に行くが僕は宿で一休みした後、レンタサイクルで走り回る。

 御所、京都大学。正門近くに「前総長」という人の銅像が並んでいるのに驚く。どういうことだろう。

 門を出たところに吉田神社があった。参詣してみると後ろの丘が「吉田山」だとある。登ってみた。やはり「紅燃える丘の花」の碑はあった。

 大きな声を出して歌ってみた。

●http://17.pro.tok2.com/~mmt69/174kurenaimoyuru.html

 (「都の花」は「都の春」です)

 ここまで来たからには「竜馬」「慎太郎」に会っておこうと円山公園、霊山護国神社に向かう。

 長い坂を上って二人の「墓」にまいった。

「おまんら、ようがんばったのう。その勇気をちっとば分けてくれるかよ」。

 5時をしらせるメロディー。眼前に広がる京都の全景。ここまできて本当によかった。

5条の大橋をわたり、堀川通りを北上して宿に着いたのは6時。もう真っ暗だが京都の街はわかりやすく道も広いので不安はなかった。

 


「びっくりした」 京都だより

2010-10-25 09:02:24 | 出会いの旅
10月25日(月)

昨日、昼前に京都につきました。驚いたことに穂谷さんというかたが迎えに出てくれていました。和歌山からわざわざ来てくれたというのです。

南禅寺の門前の「順正」という豆腐料理店で昼食をご馳走になった後、南禅寺、哲学の道、清水寺と案内してもらいました。清水では雨となりましたがおかげで快適で楽しい京都の半日を過すことが出来ました。

穂谷さんは「川越だより」を読んでくださる方ですがここ数年僕とかかわりを持つことになったあるかたの従兄だったのです。それにしても和歌山から車を飛ばして見ず知らずの者のためにかけつけてくれたのですから「びっくり」です。活動的で面白い方であることはいうまでもありません。

川越に帰ったらいずれゆっくり紹介させてもらいます。どなた?の従兄なのか。

「川越だより」にもたびたび実名で登場する方です。当ててくれた方には京都土産を差し上げましょう。

夜、妻と息子夫婦は街に研修に出ました。僕は疲れ果ててgo to bed.「竜馬伝」は目が覚めたので見ることが出来ました。舞台はこの近くだったようです。

今朝は曇り空。午後からは雨になるかもしれません。よく寝たので元気です。
 

京滋の旅に出ます

2010-10-23 20:28:48 | 出会いの旅
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今日はこれから京都に向かいます。楽しみにしてきた息子夫婦との旅が始まります。宿が決まっているだけでどんなところを訪ねることになるかはよくは知りません。

 びっくりする方との出会いもあるかもしれません。楽しみです。

  ●京滋の旅http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/3100e32f1480b3f56315a95ce17105cb

 帰越は木曜日の予定です。「京都だより」が出せるといいですね。

Aさんの苦悩に応える道は…

2010-10-23 04:44:47 | 韓国・北朝鮮
 10月16日(土)晴れ

 川越祭りにカンちゃんとおばあちゃんのAさんが泊まりがけでやってきてくれた。おばあちゃんが病み上がりだというので休んでもらって、午後カンちゃんと祭り見物をした。カンちゃんの関心はお小遣いで買うおもちゃの品定めだ。

 駅近くでカンちゃんと別れて僕は御徒町に向かった。都立大島高校67年3月卒業生の同窓会。

 今年は鉄雄くんに会えるかもしれないとカンちゃんたちには悪いが出席することにしたのだ。

 僕が教員になって最初の生徒だった人たちばかりだがHR担任ではない。昔、新米教師の僕とよくつきあってくれた人たちが同窓会に声をかけてくれた。その一人が鉄雄くんだ。

 彼は69年僕が川越に住むようになってからも時に顔を出してくれて、車であちこちつれていってもらったりした。九十九里、十石峠(秩父困民党進撃路)、北信濃…。人生の節目節目に家族を含む交流は続いた。

 その鉄雄くんが欠席する同窓会が続いていた。脳梗塞をやって記憶に障害が出ていたのだ。

 友人たちが尽力して会う機会を一度は作ってくれたがあれからもう2年も経っている。

 会場に着くとその鉄雄くんが居た。僕のことも忘れないで居てくれた。それだけで十分だ
った。旧知との交流が二時間ほど続いてお開きとなった。

 鉄雄くんが幼なじみの秀樹くんと一緒に改札まで送ってくれた。少しずつでも旧友の記憶を取り戻して人生を豊かにしてくれるように祈るばかりだ。


 10月17日(日)曇り

 妻の車でカンちゃんとAさんを誘って埼玉子ども動物自然公園に遊んだ後、高麗神社にお参りした。

 頑丈に見えるAさんの心身の状況が良くないようだ。脱北してから年月はどんどん経っていくのに、北朝鮮の状況はますます悪くなっている。知友の訃報が次々と届く。残してきた家族との再結合も思うようには進まなない。
 
 責任感の強い人だから何も出来ないと自分を責めてしまうのだ。政権がくるくる変わって確固たる救出姿勢を確立出来ないことがAさんたちをいっそう苦しめている。

 北にすむ人々の状況が手に取るように見えるAさんにはやりきれない日々が続いているのだ。僕のような人間にもなにかできることはないのか?

 たのしい交流の続く一日だが僕も思いを巡らせ続けていた。

 



「中国は遅れてきた帝国主義国家」

2010-10-22 04:57:44 | 中国
 奄美大島の大雨被害は驚くばかりです。08年2月に訪ねた住用町にあるグループホームの惨状を見ました。亡くなられた方々の冥福を祈ります。

  ●奄美大島http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/39e524978abbb3199679d9ecd5ddde15 


20日、荒川区の映画会に行くときに珍しく新聞を買って読んだ。そういうときは「東京」か「産経」だ。100円で買えるし、主張もわかりやすい。今回は「産経」だ。

 拓大の渡辺学長の論文が出ていた。

 中国とどうつきあっていくか、頭の痛い大問題だが、まずは中国をどう認識するかが大事だ。僕は今まで中国を「社会帝国主義」(社会主義の看板を掲げた帝国主義)と呼んできたが、僕の中国認識はこの論文と内容においてあまり違わないような気がする。

 読者に紹介する次第だ。皆さんはどう思われるだろうか。国会もちまちました重箱の隅をつつき合う議論ばかりでなく事柄の本質に迫る討論をして欲しいものだ。民主党中枢部に居る人たちの認識も聞いてみたい。やっていることはめちゃくちゃだ。

 

     中国は遅れてきた帝国主義国家   

            拓殖大学学長・渡辺利夫
                        (2010.10.20 03:12 産経)


 ≪相応の戦略と意思持たぬ日本≫

 尖閣諸島漁船衝突事件に際して、中国政府の取った行動はまことに強硬であった。ナショナリズム鬱勃(うつぼつ)たる国力増強期の大国であってみれば、そのような行動は至極当然のことだといわねばならない。中国の対応はあからさまではあったものの、それを「理不尽」だとは私は思わない。興隆期の中国がそうした挙に出ることは十分にありうるシナリオとして、相応の戦略を練り上げ国の守りを固める意思を持たない日本の政権中枢部の方が問題なのである。

 勃興(ぼっこう)期の日本もドイツもアメリカも、植民地化であれ属領化であれ保護国化であれ、他国の領土に侵入してこれを自国の支配下においたことはまぎれもない事実であった。帝国主義の時代、列強として登場したのはそのような行動を取った国のみであり、そうではない国は弱者として安住の地を得られなかったのである。何と古い話を持ち出すのかと思われようが、そうではない。極東アジアの国々はなお国家形成の段階にあって、ナショナリズムは彼らの不可欠の構成要素なのである。中国とは、要するに「遅れてやってきた」帝国主義国家である。

 資本蓄積を強化しつつ実現されたその高成長は、国富を増強する一方、国民の多くを低所得水準のままに置き去りにし、所得分配の不平等が正される見通しは立っていない。チベット、新疆ウイグル、内モンゴルなどの自治区は、およそ自治区の名に値しない、漢族支配区の様相を呈している。

 ≪対外的膨張は歴史の必然≫

 内に厖大(ぼうだい)な貧困層と広大な異民族地域を抱えながら、否(いな)、それゆえにこそ中国は国民的凝集力を求めて「愛国主義」の昂揚(こうよう)を図り、対外的膨張をもってその昂揚に応えんとしている。帝国主義とは、われわれの過去をみても今日の中国においても、そういう内的衝動を抱え持つ時代局面なのである。

 現在の中国の対外的膨張は、もちろん中国固有の相貌(そうぼう)をみせながらも、われわれ自身の古い「自画像」のごときものである。さればこそ、私は中国の東シナ海における行動がいかに強圧的ではあれ、決して理不尽だとは考えない。隣国の行動を理不尽だと捉(とら)えるのであれば、そもそも自国自身の戦略は生まれない。相応の理を想定しなければ、戦略は構想しようがないのである。中国の体内に宿る衝動を怜悧(れいり)に分析し、その分析の上に立って断固たる守りの意思を固めなければ、この隣国とは共存することさえ難しい。

 漁船衝突事件(9月7日)からもう1カ月以上がたつ。この間の日本の政権中枢部の対応は、振り返るのも苦々しいほどに情けないものであった。緊迫の極東アジア地政学をみつめる視線が感じられない。勃興する中国という大国にどう向き合うべきか、日本という国家の意思がまるでみえてこない。一体、日本は主権国家か、という絶望に近い感覚に襲われた国民は少なくないのではないか。

 平成20年10月には中国の4隻の艦船が津軽海峡を通過し、太平洋を南下して日本列島を周回した。同年11月には4隻、平成21年6月には5隻、今年3月には6隻、4月には10隻の中国艦船が、沖縄本島と宮古島との間(宮古海峡)を航行して太平洋に進出した。4月に宮古海峡を通過した艦船は沖ノ鳥島に進出して訓練活動を繰り返し、その活動を監視する海自護衛艦に中国の艦載ヘリコプターを数回にわたり異常接近させるという挙に出た。これに前後して、原子力潜水艦の日本領海内での潜没航行という国際法侵犯がしばしば展開されてきた。

 ≪弱者には「生存空間」なし≫

 これらはいずれも平成22年度の「防衛白書」に記載されている事例である。そして、今回の尖閣諸島沖での漁船衝突事件である。この事件の背後に中国政府の一貫した戦略を直ちに察知できないのであれば、国防意識のまぎれもない麻痺(まひ)である。というより、中国が衝(つ)いてきたのは日本のこの麻痺状態に違いない。衝突した漁船の拿捕(だほ)、船長の逮捕、身柄拘束期間延長をしたものの、中国政府による幾多の恫喝(どうかつ)を受けて、結局のところは船長を処分保留のまま釈放し、あげくは中国から「謝罪と賠償」を突き付けられるという顛末(てんまつ)となった。

 日本は明らかな主権侵犯をやすやすと許してしまい、法治主義をみずから放擲(ほうてき)してしまったのである。日本の主権はこれを侵犯しても何ごとも起こらない。そういう「学習」を中国にさせてしまった以上、かかる事件の頻度は確実に高まるであろう。侵犯の度ごとに尖閣諸島の命運尽きる日が着々と近づく。尖閣諸島はもとよりだが、宮古島以西、石垣島、西表(いりおもて)島、与那国島には日本の部隊はまったく配備されておらず、防衛上の「空白地帯」となっている。

 防衛白書が平然と伝えている事実である。白書は惰弱(だじゃく)なる政権中枢部に向かって抗議しているようにも読める。弱者に「生存空間」はない、というのが帝国主義の構えであり、パワーポリティクスの時空を超えた真実である。(わたなべ としお)

   出典●「中国は遅れてきた帝国主義国家」http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101020/plc1010200248001-n1.htm

『花の夢 ある中国残留婦人』を見る

2010-10-21 18:09:06 | 中国残留日本人孤児
 10月20日(水)曇り

 午後2時から荒川区町屋のホールで『花の夢』の上映会がありました。「中国残留邦人」への理解を深めてもらおうと区が主催したものです。

 荒川区で中国残留孤児の支援相談員をしている洋子さんが主催者側の一員として通訳を担当しています。僕が北高に赴任したときの3年生です。平日の午後のこととて集まりを心配していましたがそれでも100人程度は来てくれたようです。

 「川越だより」を見てきてくれた人も二人はいました。明子さん(池袋商高81年卒)。この日は保育の仕事が早番だったと市川から駆けつけてくれました。もうひとりは満智子さん。こちらは残留孤児の娘さんです。

 足が冷えるので洋子さんが用意してくれた椅子に足を投げ出しての無様な格好ですが両脇に魅力的な女性が座ってくれるという僕にとってはこの上なく贅沢な映画鑑賞です。

 1925(大正14)年生まれの栗原貞子さんというきれいなおばあちゃんの人生物語です。

 ●『花の夢』http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=8553


 僕の感想・雑記。

 ①退屈になることなく(眠くなることもなく)栗原さんの人生を理解することが出来た。

 これは監督の東志津さんの映画作りが工夫されているからだろう。栗原さんが満州時代の友人や先輩を訪ねた場面で、凄惨を極めた逃避行の真実が明らかになるのも自然な造りである。

 時々登場する満州時代の同期生たちの写真や何気ない今の東京の生活や風景の断片…。なぜか僕には良かった。

 ②ソ連軍の収容所を脱出して彷徨する身重の栗原さんを嫁にしてくれた中国人の男性。写真だけしか出てこず、名前も覚えられなかったがこの方との出会いが栗原さんの第二の人生を支えた。
 無事出産した長男と新しい夫との間に生まれた子供たちが今はともに家族をなしてこの東京で母を大事にして生活している。
 苦労は多いに違いないが今の日本ではなかなかに望めない「豊かな」老後と言えないか。

 ③今の日本はむちゃくちゃである。自分が、何を大事にしてどう生きたらよいかを議論したり、学んだりする場がないのではないか。僕が高校の教師ならこの映画を見せて議論の場を作ろうとするだろう。
 栗原さんとその家族の姿から若者も何かを学び取ることが出来るのではないか。

 ④栗原さんが居たのは「竜虎開拓団」。私費帰国で苦労しているとき助けてくれたのが同じ開拓団にいた千野誠治さんだったという。昔、僕の生徒のお父さんの葬式でお会いしたことがある方だ。残留孤児や残留婦人のために今も働いておられるのだろうか。

 ●千野誠治さんhttp://homepage2.nifty.com/munesuke/war-memory-18-chino-seiji.htm 

  映画会がはねた後、小一時間三人でお茶にしました。初対面の明子さんと満智子さんがうち解けて交流する様子を眺めているだけで僕は十分です。お互いにいい友達になってくれるでしょう。

「受難にたいする情熱」  萩原遼とある青年の出会い

2010-10-20 07:43:23 | 韓国・北朝鮮
 今日は荒川区町屋のムーブホールに映画「花の夢 ある中国残留婦人」を見に行く日です。午後2時からです。何人かの若い友人たちに会えるかもしれないので楽しみです。

 ●「川越だより」花の夢http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/51d8dd23ebd79ba026b115cd2906a776


 10月12日(金)

 夕刻になって萩原の兄やん(遼さん)が来てくれた。8月以来のことだが大阪からはるばるありがたいことである。

 『木苺』に「ある在日の告白」を連載してくれた元智慧くんに会うのが主要な目的である。やや遅れてその元くんも到着した。

 妻は今年も人吉の友人が送ってくれたとっておきの川辺川の鮎を焼いてもてなした。物部川で育った兄やんには懐かしい味と香りだったろう。

 会って見れば二人は初対面というわけではないということが分かった。かつて神奈川県であった拉致被害者の集会での出会いがあり、お互い思い合う間柄であったのだ。

 「元」がペンネームであるため兄やんが気づかなかったのは当然である。『木苺』の記事を読んで「今時、こんなしっかりした在日コリアンの青年はいない。是非、会わせてほしい」と僕に連絡があり、この日の対面に至った。

●「ある在日の告白」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/585213181621b97215dbe4c7971d5c15

 最初の出会いから数年が経っていた。元くんにとっても遼さんはいまもっとも会いたい人の一人だったという。再会を心から喜び合った。

 交流は遅くまで続いた。「北朝鮮帰国者の生命(いのち)と人権を守る会」のリーダーとして「北」の独裁者とそれに追随する朝鮮総連に不屈の闘いを挑み続ける兄やんの気概はこのような席でも衰えることはない。

 若い「同志」を得て大いに元気づけられたことだろう。

 近頃、ピースボートで世界を回ってきた元くんは朝鮮学校で学んだ朝鮮語が世界のどこでも通用しない「総連語」であることに改めて気づいたらしい。韓国から来た若者たちにだいぶからかわれたという。

 ウソばかりの「歴史」と総連社会の中だけでしか通用しない「朝鮮語」。朝鮮総連はそれらを「民族教育」と称して若者たちに強制する。それがどれだけ在日コリアンの若者たちの可能性をとざしているか。30を過ぎて元くんは朝鮮語の習得のためにも韓国留学を考えているようだ。

 こうした現実を何も知ろうとしないで「朝鮮学校の授業料無償化」を叫ぶ、左派の「知識人」や「人権活動家」たちに自己のやっていることの恐ろしさを知らしめてやりたいと僕も痛切に思う。

 萩原の兄やんは朝鮮総連の学校で18歳までを過ごしてきた青年の立ち上がりを心の底から待ち望んでいる。それがいかに困難かを知り抜いているが故に、元くんへの期待も大きい。今日の出会いがどんな風に実を結んでいくのだろう。

 北朝鮮の地で飢餓と恐怖にさらされている人々、就中、在日帰国者と日本人妻の救出は私たちの喫緊の課題だ。萩原の兄やんに少しでも力を貸していきたい。本当なら僕もその先頭に立つぐらいでないと社会的責任を果たせないのだが…。

 兄やんに「内外の敵に用心して無理はしなよ」と言ったら、こんな言葉が返ってきた。

 「この時代に最も必要なのは真実、そしてそれを愛するがゆえにうけなくてはならない受難にたいする情熱である」。

 「受難に対する情熱」とはどういう意味だろう。70年代に萩原遼さんが私たちに紹介し続けた金芝河(キムジハ)の言葉だという。

 パソコンをひらいて調べてみた。

  自由と正義のために (金芝河・「苦行」より)

 私たちは何のために闘ってきたのだろうか。人間のためにであった。自由で解放された人間、神が創造した本来の姿に人間を回復するためであった。私たちのこの課題はいかなることよりも優先すべきことであり、いささかの遅滞もゆるされない。
 腐敗と特権、独裁こそが赤化への黄金橋なのだ。独裁と抑圧を維持させるのは安保ではない。独裁と抑圧をはねのけ自由と民主主義を守ることが真の安保であることを直視しよう。自由と民主主義を喪ってしまえば、私たちにいったい守るべき何があるだろうか。
 あの終わりのない飢餓と疾病、暗闇と侮辱の果てしないくびきを守るために、私たちは生命を賭けねばならなぬのか。「そうではない」と、私たちは声を合わせて叫ぼう。
 自由と平和を愛する全世界の良心ある隣人たちは、私たちの孤独で苦難にみちた闘いに惜しみない支援をよせてくれるだろう。この時代に最も必要なのは真実、そしてそれを愛するがゆえにうけなくてはならない受難にたいする情熱である。
 人間の自由と解放のために、すべての民衆が胸をこがし待ちわびている民主主義の勝利をめざし、私たちのあらゆるものを捧げようと呼びかけたい。
 私たちすべての人びとの健闘のために、私は今日も祈っている。

 出典●金芝河の祈りhttp://www.hikoboshi.com/eba/inori/inori25Kimjiha.htm

順子のオモニを見舞う

2010-10-19 06:54:46 | 父・家族・自分
   10月18日(月)晴れ
 
 10時半、癌研有明病院で主治医の西尾先生より通知簿をもらう。

 「3年前に左肺に転移した癌は抗ガン剤で依然抑制されている。脳などへの転移は確認されない。血液検査も正常。」「従来通り経過観察を続ける」

 正直、ほっとした。

 今回の「診察予約」票に西尾先生は「CT結果でイレッサか」と予告?していた。(イレッサは抗ガン剤の名前)。そろそろ次の手を打たなければならないかということだ。

 うかつなことに僕がこの予告に気づいたのは検査当日(14日)になってからのことだった。「診断予約票」を確かめたときに今までにはなかった「イレッサか」に気づいた。

 前回の抗ガン剤投与から2年以上が過ぎており、格別に驚くと言うわけではないが、書かれてみるとやはり気になっていた。

 だから、「ほっとした」。先生に正直な気持ちを伝えると「気にしないで従来通りの生活を楽しんでください」という返事が返ってきた。

 12月で左肺摘出手術から5年になる。みんなの協力の御陰で快適な闘病が出来たがこれからは僕自身も「癌なんぞに負けるか」という気概を持たなければならないか、な。

 息子夫婦との京都旅行、きいちご移動教室、高校のクラス会…。楽しみの続く季節のまっただ中である。「まあまあ」の通知簿、ありがとう。

 午後は荒川区に順子(すんじゃ)を訪ねてオモニを見舞うことにした。

 いつもながら突然の訪問だが娘の美順(みすん)も来てくれてまずは楽しい昼食会。順子と4人の子どもと二人の孫が皆元気で何よりだ。

 オモニ(お母さん)はこのところ入院中で昏睡状態だが、順子が来意を告げてくれると目を開けてくれた。もしかしたら分かってくれたのかもしれない。久闊を叙して頭をなでて差し上げた。

 順子が高一の時、初めてお会いした。夏の暑い日、錦糸町のお宅を訪ねた。家が分からずうろうろした。
 サンダル履きの変な格好をした青年がうろついているのに気づいたが是がまさか娘の教師とは思わなかった。のちのちまでこの日の僕の格好が語りぐさになった。

 あれから30余年…。僕と最も長くつきあってくれた在日コリアン一世ではないか。その割にはゆっくり人生の話を聞かせてもらうことをしなかったなあ。申し訳なく、残念な気がする。

  その生涯は「意地の塊(かたまり)」とは娘の弁。その幾分かは娘の中に受け継がれて生きる力の源泉になっている。

 岩田秋子さん、戸籍名は郭正順さん。昭和2年(1927年)10月30日、韓国慶尚北道生まれ。14歳で来日、北九州の炭坑町で働いたという。

 僕の大事な「娘」、順子を生み、育ててくれたオモニ。本当にありがとう。

 今人生の最後の火を燃やし続けておられる。

 



 

近況報告

2010-10-18 06:32:20 | 父・家族・自分
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 先週木曜日から珍しく「忙しい」日々が続きました。友人たちの来訪、同窓会などです。有意義で楽しい記憶を記録できるのは明日以後になります。「川越だより」の更新が滞りましたがおかげさまで変わらぬ日々を送っています。

 今日はこれから癌研有明病院です。定期検診の「通知簿」をもらいます。

川越祭へ、どうぞ

2010-10-15 15:23:49 | 川越・近郊
 明日から「川越祭り」です。川越に天下に誇れるものがあるとすれば一はやはりこの祭りです。

●川越祭り・みどころhttp://www.kawagoesansaku.com/maturi/

 僕は土曜の夕方から大島高校1967年3月卒業の人たちの同窓会で上野です。教員になって最初の年に新米教師とつきあってくれた人たちです。

 土曜の午後や日曜日に川越を訪ねてくれる方がおられたら、電話をしてください。ちょっとした案内ぐらいなら出来るかもしれません。

 今日はこの後、二人の友人が来てくれることになっています。共通の関心事について老人と若者が意見交流をします。楽しみです。

武雄だより

2010-10-15 05:40:16 | 出会いの旅

霧島・人吉とゆっくり過ごさせて貰って、昨日、佐賀県武雄市の山下さんのお宅につきました。亡くなられた弘子さんの墓参りをしたあと、村のあちこちを案内して貰いました。

 あちこちで、書き留めておかなければならないことが山のように出来ました。帰ってから思い出すことが出来るでしょうか。今日はどこへ連れて行ってくれるかな。

 


「よさこい」のルーツ

2010-10-13 21:13:38 | ふるさと 土佐・室戸
 高知に淵源する「よさこい」が全国に広がった。川越の近くでは8月の「坂戸よさこい」が知られているが、「鶴瀬よさこい」(富士見市)もあるらしい。川越祭りの向こうを張って?17日(日)開催だという。

 ●鶴瀬よさこい祭りhttp://tsuruse-yosakoi.net/

 「よさこい」が隆盛しているのは唄も踊りも参加者(団体)が自由自在に創作し、年々進化し続けることが出来ることが一因だろう。


 高知で祭りが始まったのは1954年で僕が中学に入った年だ。徳島の阿波踊りに対抗して、「よさこい鳴子踊り」を創作した。

 歌詞と曲は「南国土佐を後にして」を補作した武政英策さんだ。踊りは日本舞踊の師匠たちが振り付けた。

 武政英策さんが、「祭りがひろがるように」と著作権を放棄したため、曲のアレンジが自由でサンバあり、ラテンあり、ジャズありと個性豊かな踊りが生まれるようになったという。

 今では元の「よさこい鳴子踊り」を踊る人は少なくなって「正調」と呼ばれるようになったらしい。

 僕が高校を卒業した頃までは「正調」以外にはなかったからその後の「進化」ぶりには驚くばかりた。

 高知市役所よさこい踊り子隊は今も変わることなく「正調」を踊り続けているという。「よさこい」のルーツともいうべきはこんな踊りなのだ。

 ●正調一筋56年 高知市役所よさこい踊り子隊
http://openviv.com/video/KPOveIzGcE8/

 高校を卒業して東京で大学生になった益弘泰男くんは60年代の初めにNHKの番組で「よさこい鳴子踊り」を歌ったという。「よさこい鳴子踊り」が全国に紹介された第一号だったかもしれない。
 50年後に「よさこい」がこれほどにまで愛されるとはつゆほども思わなかっただろう。