川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「平成の阿呆堀」

2007-08-31 10:54:56 | ふるさと 土佐・室戸
 このところ、毎日、夕方になると室戸岬新港で泳いでいます。お陰で体調もよく、昨日今日は、父の家の玄関脇と台所脇のウマメの木の剪定をすることが出来ました。小さな木ですが長年放置されてきたのでやりがいがあります。僕は授業で人工林の枝打ちや間伐が必要不可欠であることを説明しますが自分ではやったことがありません。こんな小さな木でも二日がかりです。
 高知県の森林の70%が針葉樹の人工林だと読んだことがあります。これをよみがえらすには途方もない労力が必要なことがわかります。ほとんど不可能なことかもしれないけれどこれをやらなければ「日本」は守れません。高知県は森林税を導入して活路を開こうとしていますが国策として若い力の活用を図るべきです。自衛隊を自衛軍にして国を守るなどと時代錯誤の主張をしている人たちは、この現実にどう対処しようとするのか。一日の軍事演習に何億もの金を費やすのなら森林再生作戦を公開し、若者を農山村に定着させるほうがはるかに愛国心を奮い起こすのでは。(脱線)。
 今日は港の話です。この室戸岬新港及び周辺のことを紹介したHPをごらんください。
  みなとめぐり室戸の港@国土交通省四国地方整備部港湾空港部

 父の家は江戸時代に開鑿された津呂港の近くにあります。新港は20年位前までは鯨浜といって村人の魚突き、貝や天草とりの磯であり、子供たちの遊泳場でした。僕もぼくの子供たちも毎年ここで泳ぎ、海に親しむことをおぼえました。江戸時代から、明治の末までは沿岸捕鯨の中心地で鯨の解剖などがここで行われました。長くこの村の生産と教育の基地だったといえます。
 そこをつぶして巨大な港を作ったのです。巨額の国費が投入されています。鮪(まぐろ)船の船主たちの悲願だったのです。僕は憲政記念館で行われた吉田茂展で元首相が1960年代の初めに当時の池田首相に宛てた書簡を見たことがあります。吉田さんは高知県選出の国会議員で日本の戦後の進路を決めた総理大臣です。池田さんは吉田学校の生徒といえる人でこの人脈が保守本流と言われ長く日本を支配してきました。その書簡の末尾で土佐・室戸岬港の整備について「宜しく」と元首相は陳情しているのです。
 主催者は選挙区への利益誘導などと縁が遠かった吉田さんがその退任後、選挙区の事業への働きかけをした珍しい例として紹介していました。自然の港湾に恵まれない室戸はそれでも日本有数の鮪延縄(まぐろはえなわ)漁業の基地でした。焼津や清水(静岡県)、気仙沼や塩釜(宮城県)に負けない港がほしかったのです。僕の伯父(父の兄)も元船主組合長ですが、その家に将来の大室戸港の図面が飾ってありました。
 吉田さんの力が効いたのか、港は次々に拡張され、21世紀には新港も完成したのです。しかし、今、この港に船籍のある遠洋鮪漁船は3隻しかないそうです。それらの船も母港に帰ってくることはほとんどなく、ドックは中国、船員はインドネシアなど外国の人が増えています。地元の若者は船員になりません。室戸岬水産高校は既に廃校となり、県立の漁船員養成所の生徒はインドネシアなどから来ています。室戸の遠洋鮪漁業は崩壊したのです。

 町の主産業が壊滅したのですから、過疎化の進行は早く、人口減少率は北海道の炭鉱町(歌志内や夕張)と並ぶ勢いです。
 このことはずうっと前からわかっていたのです。しかし、港だけは作り続けられました。ダムや道路、河川改修など全国どこでも繰り広げられている喜(悲)劇です。妻は「平成の阿呆堀」と呼びます。安芸市の河野というところに「兼山の阿呆堀」と言われ続けてきた池があります。野中兼山が港を開鑿してみたもののなにかの事情で工事を中止し、ほったらかしにしてきたのです。(今は漁港として整備され、一部は道の駅になっています)。その二の舞と言うわけです。
 近代日本の違うところは、用はなくなっても港はきちんと計画通りに完成させることです。その広大な港という名の太平洋に続くプールで僕は毎日、泳がせて貰っているのです。港の外に出るなどということは僕の力量では考えられません。昨日はインドネシアから来た青年たちが泳いでいる最中に「コンニチワ」と声をかけてくれましたが、彼らも港の一角で充分のようです。
 僕は親水階段から数十メートルのところで天を向いて浮かびます。10分でも20分でも。時々手で漕いで仰向きのまま移動します。秋の雲かと思うような筋雲の間に鳶(とんび)がやってきて悠々と舞っています。その数が何羽かになることもあります。波がないのですから心配することは何もありません。ただ広い海をゆったりと漂うだけです。
 帰りに少し潜って見ると様々な小さい魚が群遊しています。このあたりは岩の海岸ですから、慣れない人には海水浴には向きません。先年、カツヨシさんが訪ねてくれたときも結局ここで泳いだのでした。貝を採ったり、海草を取ったりは出来ませんが僕のようにゆっくりと時を過ごすだけなら、こんなすばらしい天然のプールはないと思われます。
 暇が出来たら声をかけてください。泳げない人、海が怖い人、大丈夫です。海では人は浮くように出来ています。僕が少しだけ手を貸してあげます。自信が付きます。身体が良く動くようになります。皆さんの税金で作った大海洋プールを活用してください。土地の人はここで泳がず、お金を払って海洋深層水のプールを利用しています。

父のこと(1)

2007-08-29 20:35:49 | 父・家族・自分
 父の様子を見るためもうしばらく室戸に滞在します。今日配布された市の広報誌によればこの10月22日に100歳になる父はこの室戸岬地区では最高年齢です。他の地区では102歳の女性などがいます。室戸岬地区は遠洋漁業に頼ってきた町で男も女も長生きには縁が遠いのでしょう。労働の厳しさ、食生活、どれをとっても良い条件はありません。
 父は鯨捕りの花形であった羽差しの子です。泳ぎも相撲も抜群で正に子供の世界の大将です。父の周りにいた人から聞いたことがあります。大将というのは並大抵のものでは成れません。一人ひとりの面倒を良く見て、文字通り誰もが食っていけるようにしなければならないのです。魚を捕まえたり、ナガリ(とこぶし)をとったりすることについても独り占めをしてはなりません。この大将に就いていたら食いっぱぐれることはないと言う確信を一人ひとりが持てるように実力をつけ、また仲間を教育するのです。
 そんな育ち方をしたせいか、身体は人一倍丈夫です。そんな人が漁師ではなく教師になったのですから、誰よりも長生きが出来るのでしょう。土佐の鰹鮪漁師というのは並大抵の仕事ではあリません。青柳祐介という土佐の漫画家が漁師の生活を克明に描いていますから良かったら読んでみてください。長生きとは縁がありません。
  青柳裕介@amazon.co.jp

 父の自慢話の一つに、若死にした異母兄の最期の言葉があります。「津呂村万歳」。高知商業を出て津呂(私たちの集落。室戸市室戸岬町津呂)の漁業組合で働いていた長兄は結核のため倒れたのですが、こう言って逝ったとのことです。父が生涯一教師でありながら故郷の村から出ることを拒否し、戦後の一時期には町会議員、退職後は市会議員などを務め、村人のたつきのことを常に考えてきたことはここに原点があるのかもしれません。戦時中にも軍の命令(?)を断り、この村を離れなかったのです。これはいまひとつの父の自慢です。
 父は人が好きです。友達や後輩を大事にします。お客(人を呼んで宴会をすること)も大好きです。並外れた酒豪です。少年期に育まれた資質はその生涯を通じて生きる力の素になってきたように思えます。 

大野ヶ原から天狗高原へ

2007-08-28 11:21:34 | ふるさと 土佐・室戸
 27日 退院した姉の気分転換ということで四国カルストに向かう。予土国境の梼原(ゆすはら)で「維新の門」を見学。竜馬の脱藩を助け、後にみな維新に身をささげたこの地の志士の群像。四万十川の源流部にある四万川という村のはずれから韮峠に登る。竜馬脱藩の道。ここから大野ヶ原へ。
  梼原町 和田城 維新の門@寄ってらっしゃい、見てらっしゃい


 50年前、今は僕の主治医であるN君の案内で友人たちと世話になった大野ヶ原小学校がある。立派な校舎になっていて昔日の面影はないが、校庭から源氏が駄馬を望む風景には見覚えがあるような気がする。
 源氏が駄馬の山頂まで登る車の道を見つけたので連れて行ってもらう。山全体が牧場になっていて潅木の茂っていた(?)昔の様子を偲ぶことは難しい。しかし、頂上のカルストの岡に立つと、初めて四国山地の只中に立って言い知れぬ感動に浸った高校生の夏の日を思い起こす。東京からバイクで来たという3人の青年に昔のことを聞いてもらう。夏休みをとって一週間を四国で過ごすという。この人たちにとっても源氏が駄馬は生涯忘れることのない山となるのでしょうか。
 前に僕は70歳になったらN君たちを誘って源氏が駄馬に登りたいと書いたのですが、今日はその下見になりました。車がほとんど頂上までいくので元気でさえあれば、何とかなります。
  四国カルスト4 ◆大野ヶ原@まっぷる特派員ブログ

 快適な尾根道を通って石灰岩が露出する典型的なカルスト台地、姫鶴平(めづるだいら)着。ここの姫鶴荘が今回の宿です。
  四国カルスト情報@まっぷる.net

 28日 寒いと言ってよい朝です。正面遠くにそびえる四国の主峰・石鎚山をはじめ、四周の山並みが朝日に輝いています。近くの展望台に登ると、大野ヶ原に連なる尾根道もすっきりと見えます。ここで30年以上を過ごしてきた宿の主人は未だ道のなかった昔のことを教えてくれました。源氏が駄馬はふもとに残っている森が昔は全山に及んでいたそうです。
 天狗高原では歩けない姉を天狗荘に残して天狗の森を少しだけ歩いてみました。ヒノキのチップを目いっぱい敷いてくれてあって快い散歩です。帰りは仁淀川に沿って河口まで下り、土佐湾の海沿いの道を室戸に向かって走りました。
 夜は小学校の同級生のT君が誘ってくれ、いつもの帰郷のときと同じように接待してくれました。僕は恐る恐る「湯の町エレジー」を歌ってみました。声はちゃんと出ているよとバーのお姉さんが励ましてくれました。

室戸岬新港で泳ぐ

2007-08-26 07:13:33 | ふるさと 土佐・室戸
 24日 安芸の県立病院に入院していた姉が退院。途中で父の病院に寄る。姉の呼びかけに目を開ける。病状が安定してきたようです。夕方、室戸岬新港で泳ぐ。手術以来初めてです。
 29年前、貴子やキー坊、ラッチたちがここに来て泳いだ鯨浜は今はなく巨大な港になりました。その一角が国立室戸青少年自然の家を利用する子供や家族が使う大プールになっているのです。その隣ではイルカの飼育訓練が行われています。15歳だった貴方たちの子供がもうその歳になりました。今度は子供たちがこの海で遊べるといいね。 
 国立室戸青少年の家はただ同然で利用できるようになっています。

 泳ぐと言っても海につかるだけのようなものです。仰向けになると幸い元のように浮かぶことが出来、昨夜来の雨で美しくなった空と山が見えます。
 夜は姉の退院と中国に赴任するHさんの門出を祝って「お客」をしました。

 25日 大島のマサヨシ君からの便りが転送されてきました。様々な困難、試練に遭遇しながらもう一度ハウス栽培に本格的に取組む様子が想像されて心強く感じました。僕の生徒だった人の中で農民と呼べる人はたぶんマサヨシ君だけです。農林水産業の再生はこのようにこつこつと大地に挑む創造的な農民の手にかかっています。第一次産業の復活なしにこの国の未来がないことは確かです。山も川も海も再生しないのですから。頑張ってほしいと思います。そして政府の農業政策がこのような農民を支援する方向に転換するように僕らも関心を持たなくてはなりません。
 夕方、今日も港にいきました。少年自然の家のグループが飛び込み練習をしています。数人の指導員が一緒です。その後にこの町に住むインドネシアの青年とその友人らしい子供たちがやってきました。こちらは僕らの子供のときと一緒で実に自然な海の遊びをします。中学生のお姉さんが浮き輪につかまった小さい妹を突き放して鍛えます。大きな叫び声を上げて助けを求めますが、信頼で結ばれています。
 26日は一泊で姉を四国カルストに案内することにしました。

四人の元お嬢さん

2007-08-24 07:27:09 | ふるさと 土佐・室戸
蒸し暑い日が続きましたが、昨夕、珍しく夕立があり、過ごしやすい夜でした。変わったことは何もないので、昨日はHさんを誘って東洋町の野根川を遡ってみました。このあたりでは安田川とともに鮎釣で知られた川です。
 川口というところで湧き水があったので一休みしたあと村の中を歩いてみました。薬師堂の前で4人のお婆ちゃんが寛いでいました。話の輪に加えてもらいます。どの方も夫を亡くし今は一人暮らしです。一日に何度か、ここに集まるそうです。上流の村からお嫁に来ていらい、60年以上ここに住んでいます。四周の山はかつて千枚田で労働も厳しかったがきれいな水が忘れられないと84歳のおばあちゃん。つやつやとした顔色からはそんな歳にはとても見えません。
 千枚田も40年ほど前から杉の人工林に。周りは全山杉の山。若い人の姿は消え、目の前の学校も廃校になりました。どこにもある過疎の現実です。しかし、このおばあちゃんたちの日々の労働が今もこの村の風景を美しく支えていることに気づきます。畠や田んぼ、薬師堂、家々のたたずまい、どこもちゃんとしています。
記念に一緒に写真を撮らしてもらいました。
 この放置された人工林に人の手が加えられ、森がよみがえる日がいつか来るのでしょうか。このおばあちゃんたちが営々と守ってきた村の生活と風景が壊れてしまわないうちにそれをやらなければ、この国の再建は難しいでしょう。
 上流の徳島県側のキャンプ場で昼食、冷たい渓流に足を入れて遊びました。室戸のスポーツ少年団のキャンプを引率している方が、かつて父の生徒であったと言うことです。中国の大学で日本文化祭を計画しているHさんが阿波踊りのCDを手に入れたいと言うので宍喰の役場に寄ってみました。観光課の方が調べてくれましたがこの町にはなさそうです。中国から研修生として来ている人たちがこの町の阿波踊りの連に加わっているそうですが、リーダーとの連絡が取れません。Hさんは東京の阿波踊りの本場・高円寺で探すつもりです。よしこのの響きが河南省の町に響く秋が近づいています。

魚梁瀬(ヤナセ)千本山

2007-08-22 06:44:09 | ふるさと 土佐・室戸
剣山、梶が森に遊んだあと、19日に室戸の父の家に帰りました。父は肺炎などを起こして、入院中で、こん睡状態です。声をかけても答えはありません。残念ながら何の世話もすることはありません。
 昨日は中国で日本語教師をしている親戚のHさんと徳島県境に近いヤナセの千本山にいってきました。世界中で稀な杉の自然林だということです。まっすぐに高くそびえる杉やヒノキの林立する姿にただただ感動するばかりです。展望台で弁当を食べ、ヤナセ温泉に浸って帰ってきました。やがて中国の地方都市に再赴任するHさんは真っ青な空、すばらしい森の写真をいっぱいとっていました。新しく出会う中国各地から集う学生たちに四国の森の話をするのでしょう。
 残念ながらこの森のことを地元高知県の人々も良く知らないようです。僕は昔から行きたいと思っていたのですがこれほどきちんと整備され、誰でも登れる山だとは思っていなかったのです。高知新聞にこの森のすごさについて書いている大学の先生の記事を見つけて、Hさんへのプレゼントツアーを思いついたのです。
 しばらく、室戸に滞在します。
千本山の様子はこの方のHPで見せてもらえます。
  山登(やまと)の部屋
   千本山

四国へ

2007-08-16 11:30:38 | ふるさと 土佐・室戸
これから父の介護の応援ということで夫婦で土佐・室戸に帰ります。川越に戻るのは9月になるかもしれません。向こうでパソコンが使えるようだったら、川越だよりを発信します。20日ぐらいから。暑い日々、どうぞ健康第一にお過ごしください。
 先ほどまで、「父の子」と題して1200字ほど書いたのですがまたもダメにしてしまいました。残念。『金正日と日本の知識人ーアジアに正義ある平和を』(川人博 講談社現代新書)を紹介するつもりでした。よろしかったら皆さんも読んでみてください。日本の進歩派知識人に対する批判と憤りに共感しながら読みました。非戦非武装の理想を堅持して、正義ある平和をうち立てるために私たちが何をすればよいかを実践に基づいて提起しています。

越辺川ビオトーブ

2007-08-14 16:11:44 | 川越・近郊
 昨日は炎天下、越辺川(おっぺがわ)ビオトーブ捜しに行って来ました。荒川上流河川事務所のHPで川島町と坂戸市の堺の天神橋の下流に整備されていると知ったからです。自転車で落合橋の真ん中から越辺川右岸の堤防の砂利道をさかのぼります。
  国土交通省荒川上流河川事務所ウェブサイト

 まもなく、土手の左側は広大な田園地帯です。真っ青な空、外秩父の山々、深い緑の田圃。日射しは強烈ですがまことに快い風光です。吹く風も今日は爽やか。道場橋を過ぎ、建設中の圏央道の橋脚脇を通って天神橋にたどり着きました。橋を渡って今度は左岸をすこし下ってみましたがどこにも案内板はありません。散歩中の青年に聞いても知らないということです。
 あきらめて帰ろうとしたら、夏草に覆われた道が川につづいているのに気づき、自転車をおいてどんどん下りていきました。白鷺やゴイサギの遊んでいる広い水面に出ました。僕もサンダルのまま川の中央まで入り、しばらく風景を堪能しました。人気のない川原ですが両岸は緑の林に恵まれ、澄み切った青空が凄い。
 岸辺に道らしきものもなく、もとの土手に戻りました。反対側の土手下に下りてみると川島町の作った白鳥飛来地の駐車場がありました。先ほど僕が遊んだ川面は白鳥の休憩地だったのです。近くに三井精機と言う会社があったので守衛さんにビオトーブの所在地を聞いてみましたが、聞いたことも見たこともないとのことです。60年地元に住んでいる方です。
 天神橋に戻る途中で河川敷の畑で働いているおじさんを見つけたので下りていって聞いてみました。グランドの奥にあると言います。それらしきところを捜して流れの方に出る道を捜してみたのですが夏草が繁茂していて短パンでは無理です。橋の下でゴルフの練習をしている地元のおじさんはこのあたりを毎日散歩しているがビオトーブなどきいたことはない、調べておきますとのこと。坂戸側の赤尾という村に下りて通りがかった中学生にも聞いてみましたが返事は同じです。
 かくして僕のビオトーブ探索はむなしく終結しました。家を出て2時間は過ぎています。近くに安楽亭があったので昼食。疲れと眠気と戦いながら、今度は左岸を落合橋に向かいました。
 うちに帰ってパソコンに向かってみましたがやはり要領を得ません。このあたりのことに詳しい「比企の丘から」というブログを読ませてもらったらあのあたり全体の生態系保存区域のことをビオトーブというようにも読めます。
 比企の丘から 越辺川・ビオトープ・白鳥
同じ川島町の荒川側にある三ッ又沼ビオトーブには案内板も遊歩道もあり、誰でも自然観察ができるようになっています。そのようなものをイメージしていた僕がおかしいのでしょうか。

朋ありて、遠方より…

2007-08-11 18:40:14 | 友人たち
 5日の夜はT君が来て泊まっていってくれました。一日ボランティアとして丸木美術館で働き、翌日も原爆忌の手伝いをするのです。今年3月、新宿山吹高校を卒業した僕の最後の生徒の一人です。
 昨年の7月、夏休みを前にした授業で丸木美術館のことを紹介したとき、ボランチア募集の案内も渡したのです。これがきっかけになってこの一年間、Tくんは東京から2時間かけて東松山の美術館に通うようになったのです。ボランティア仲間や若いスタッフと気が合うのでしょう。
 こうしてゆっくり話をしあうのははじめてです。某国立高校を中退したのはクラスメートによる、いじめ事件と関わっています。退学するとき、どうしてと聞いてくれる教師はいなかったそうです。各地を自転車でまわったり、沖縄を旅したり。 かつて、シナリオライターになりたいと聞いていましたがその夢は今も捨てていないようです。学校を卒業後、派遣社員として北海道のホテルで働いて帰ってきたばかりです。当面の進路に目標が定まったようです。僕はこうして聞いているばかりで有効なアドバイスがあるわけではありませんが頑張ってほしいと思います。
 6日。午後から美術館で城西川越中学生による和太鼓の演奏を聴きました。真剣な表情と力強い撥(ばち)さばき。僕はもうただただ感動して一人一人の表情をカメラに収めました。
 世界の各地で魑魅魍魎が跋扈し、核をもてあそんでいます。中学生の太鼓演奏はこれらとの戦いの嚆矢(こうし)かと思いました。聞くところによると、この美術館の絵画クラブの少年が城西川越中に進み、仲間に相談して出演の運びになったとのことです。この美術館に集うひとびとの働きがこうして次の世代の活躍につながっているのです。
 館内に入って原爆の図を見ました。8月6日に絵の前に立ってみると普段とは違う迫力があります。Mさんが感想を送ってくれた母子像。水を求めてたどり着いた川の中で抱いていた赤ちゃんに乳をやろうとして、はじめて 我が子の死に気づいたお母さん。希望のない母の姿です。こみあげてくる悲しみと怒りを我が胸に刻んでおきたいと思いました。
 
 8日 Kさんがはじめて我が家を訪ねてくれました。夫であった淳さんが寄ってくれたのが83年ですが、亡くなられてもう10年以上になります。墓掃除に行って来たと秩父の酒を土産にくれました。明日から学校図書館関係者の研究大会が川越であるというのでようやく会いに来てくれる機会が訪れたのです。
 Kさんは僕より一つ上の都立高校の司書教諭だった人で、今も大学で働いたり、研究会のリーダーとして忙しい日々を送っています。昔から「木苺」を読んでくれたり、木いちご舎を支えたりしてくれました。
 夫の淳さんは埼玉県の高校教師で問題や在日コリアン問題に心血を注いだ人です。妻の倫子のほうが僕よりもつきあいが深いのです。僕も淳さんとよんで兄のように思っていました。医療生協の設立に尽力されたのですが癌にやられました。無宗教の葬儀を司会させてもらいました。
 3時半から6時間、我が家と小澤屋で尽きぬ話を伺いました。淳さんというあったかい人を中心にしてずうっと昔からつながっている気がして嬉しい半日でした。 学校図書館で働く後輩たちに伝えたい哲学を持っているKさんのエネルギーは今もほとばしっているようです。淳さんとの思い出の詰まった家を仲間との出会いの場として活用したいと思っています。
 遠いとはいえません。西武電車でつながっています。今度はその家を久しぶりに
訪ねてみたいと思います。

若い友へ

2007-08-11 13:40:05 | 友人たち
昨夜は会議があり池袋発、森林公園行きの最終電車に乗りました。川越までぎゅうぎゅう詰めで、立ちっぱなしです。でも駅からは自転車できちんと帰り着きました。1時ごろです。久しぶりの体験ですが、体力の回復を実感できました。
 会議での印象です。多文化共生の学校を作るために尽力してきた都立高校の後輩教員の人たちが管理職や同僚の協力を得られず、その活動がつぶされていく現実があります。ここ数年、状況は悪くなる一方です。だからといって、僕らに何かができるわけではありません。
 何もしなくていい。じっと耐えて、生徒の話を聞くだけであなたの存在理由はある。僕はこういって励ましたつもりですがその人のこころには届かなかったようです。このままでは心労が重なって病気になってしまう。
 自分にできることとできないことをはっきりと自覚し、自分のこころに忠実に子どもたちと日々を過ごしてほしいと僕は思っています。子どもたちと交感し会う喜びさえあれば、今しばらくの冬に耐えられるはずです。
 僕も元気をもらったからには「きいちご基金」の活動などを通して、社会のあちこちで押しつぶされそうになりながら、自分を生きたいと願っているひとびとが交流し、互いに励ましを受ける場を作っていきたいと思っています。学校現場のひとびとも自分だけが悲劇の主人公だと思わないで、心を開いて、ひとびととの交わりに参加してほしい。
 かつての自分を思い出します。精神的に苦しかったときに僕を支えてくれたのは何でも聞いてくれる妻はもちろんのことですが、故郷の小学校の時の友人や親戚の兄さん、北海道の「農業の先生」など何人かのひとびととの交友です。
 自分の中にどれだけのひとびとの生活とこころが住んでいるか、それが自分に公平な世の中の見方をもたらしたり、人間に対する信頼感を育てたりしていることに気づくことが大事です。
 それにしてもと思うことがあります。夏休みのことです。僕が数行前に書き記した方々との出会いは夏休みなしには考えられません。生徒を10人近く連れて室戸に帰ったとき、偶然再会した友だちともう30年近く交流しています。20人くらいの生徒を連れて3夏世話になった北海道池田町の農家の皆さんとは34年になります。広尾の牧場には80年に一夏滞在させてもらいました。大島の民家をかり、一夏村のひとびとと交流したことも、残留孤児2世の故郷訪問に連れて行ってもらい、黒竜江省の炭坑町に一週間ほど滞在したこともあります。
 夏休みは教員が世間を知り、成長するために欠かせない休業期間です。学校での仕事ばかりではなく、校長は教員がたてたさまざまな研修計画を認め、世界のあちこちで子どもたちと遊んだり、学んだりすることを奨励してほしいものです。
 石原さんは都庁に出る日を限定し、自主的研修に励んでいます。税金で世界のあちこちに出かけて豪華な研修もします。僕の夏休み研修はすべて自費で、家族も一緒です。それが身に付いた学びになるのです。
 世間の皆さんへ。教員というのは大体において、学校という世界しか知らない特殊な人間です。そういう人に子どもを任せられないと思ったら、夏休みの活用を応援してやってください。
 

政治参加

2007-08-09 12:10:34 | 政治・社会
マサヨシの妻さんよりコメントをいただき、嬉しくなりました。民主党の(農家への)戸別所得補償制度はばらまき政策だと自民党は攻撃していますが、具体的な内容を僕はまだ理解していません。家族で取り組む農業こそが理想の経営形態であるとの意見は頷けます。有機農業の推進の件と共にツルネンさんなどに現場で考えていることを伝えたらどうでしょう。考える農民の声が農業政策に反映される機会が来たのかもしれません。
 小澤さんが駐日米国大使に米国のアフガン攻撃を支持しない姿勢を明確に示しました。新しい動きが始まったのです。民主党を中心とする政権を樹立し、数年はこれを維持することが日本を変えることにつながると思います。そのためには<マサヨシの妻>のような方々が市民の一人として政治参加していくことが望まれます。僕も在日コリアン問題など自分の得意とする分野で提言していきます。
 江田参議院議長は僕の生徒だった人のお父さんです。いくらか、国会が身近になったような気がしています。公平を期して記しておきますが、安倍さんも自民党の幹事長時代に私たちの陳情に1時間近くも耳を傾けてくれ、在日コリアンの日本国籍取得権確立法案を推進するといってくれました。政治家を批判し、監視することはもとより大事なことですが、私たちが市民の一人としてあきらめず、政治参加していくことがいっそう大事だと僕は思っています。政治家と言っても普通のおんちゃん、おばちゃん、にいさん、ねえさんです。市民の支持がなければつとまらないことを多くの人は知っています。
 小澤さんがいっているように今が千載一遇の機会だと思います。ここで政権交代ができなかったら、国民の政治への絶望感が一気に深まるのではないでしょうか。民主党の国会議員はもちろんのこと、一票を投じたものも緊張感を持ってこの秋(とき)を過ごすべきです。

河川敷の林

2007-08-08 05:31:27 | 川越・近郊
 暑い日が続きます。昨日は昼ごろ曇り空になったので、最近できた入間川の河川敷の林の道を歩いてきました。家から自転車で20分ぐらいの所に川越公園(最近まで川越水上公園と言っていた)がありますが、この公園に沿って初雁橋から関越高速道路にかけての河川敷の林が整備されていい散歩道になったのです。
 クヌギ、エノキ、オニグルミ、ヤマ桑などの立派な木が林を作っています。キツネのカミソリという彼岸花の仲間が紅の花を咲かせています。往復しても2キロ足りずで、やや短い気がしますが今の僕にはちょうどかもしれません。林の遊歩道を抜け出たところのベンチで同じ年頃の人が休んでいます。近くの川越狭山自転車道などをサイクリングして時を過ごしているいるそうです。
 釣りの趣味がある人はいいなあと思うことがあります。それで一日が過ぎていくのです。僕はサイクリングくらいです。歩くのも好きですがまちなかは苦手です。妻にあちこちの森(鳩山の農村公園に隣接する森など)に車ではこんでもらって散歩しているわけですが、近くに自分でこられる林の道ができて喜んでいます。
 60歳になってから市営の温水プールは無料で利用できるのですが好きになれません。僕にとって泳ぐというのはやはり海の遊びです。沖の岩にいったり、潜って貝をさがしたり、マンボウのようにぷかぷか浮いていたり。
 体力が回復してきたので、自転車の旅などやってみたいなあと思い始めました。とりあえず、荒川を下って東京湾まで。川越からだと60キロぐらいだと思います。同好の士がいたら教えてください。

 

中国残留日本人孤児と中国人妻

2007-08-04 18:08:39 | 中国残留日本人孤児
 2日から3日にかけ、「きいちご一泊研修の旅ー<中国残留日本人孤児>の方々と共に」ということで塩原温泉に行って来ました。カツヨシさんが<ぼくの2票>のコメント欄にその様子を書いてくれましたのでお読みください。
 <残留孤児>3人、中国人妻6人を含む16人の参加です。きいちご基金の財政的基盤が弱いため一泊旅行をなかなか企画できなかったのですが、おおるりグループのホテルを利用することで成功させることができました。
 1泊2食4725円、往復送迎(無料)付で、現地でもリンドウ湖への無料送迎(入場無料)など、いくつかのサービスがあります。おかげで僕は「おおみ劇団」の実演を快適なゆけむり会館で見ることができました。小学生の頃寺の庭にござを敷いて見た田舎芝居の雰囲気を中国からきた人々と味わったのです。おおるりグループのことは昨年の小学校の同窓会の時、友人に教えてもらいました。感謝。この会社は庶民のために社会福祉事業をしているのかと感心しました。http://www.ohruri.com/
 5時半から9時過ぎまで、夕食を共にしながら半生を紹介しあいました。この日はじめて会った方もいます。日本に来て20年以上経った方ばかりですが、日本語の壁は厚く、KさんとIさんが通訳として今回も大活躍。
 僕とは年齢もほとんど同じですが、中国で40年あまり、日本で20年あまり過ごした体験はあまりに違います。その具体的な話は皆さんにも直接聞いていただきたいとおもいます。妻に比べて夫たる人の参加が少ないのは日本に帰ってきて病気のために亡くなったり、入院したりしているからです。
 他人のことは聞いてもなかなか理解できるものではありませんが、この人たちの半生は日中の現代史そのものです。過去のことは思い出したくないと言う方もいます。それでも語ってくれるとしたら私たちは自分自身がよりよく生きるために耳を傾けましょう。
 僕はあなた方の人生の物語はこの国の宝だから聞かせてくださいとお願いしました。ウチに来てください。餃子を作って待っています。そこで人生の話をします。と言ってくださる方もいます。僕は今までもそんな誘いを受けて何度かご馳走になりにいきました。
 しかし、みんなで押し掛けるというわけにはいきません。ですから、きいちご大学をつくるのです。残留孤児や中国人妻のお話に耳を傾ける「この人に聞く」というシリーズをまず始めます。具体的なことが決まったらお知らせします。
 この大学の目的は知識を得て資格を得ることではありません。その人をすこしでも深く知り、友として生きていくことです。そしてさまざまな人々と共に生きる社会に近づいていくために私たち名もなき市民にどんなことができるかを考えたりもします。丸川さんのような人がなぜ学ぶのかという疑問にたどり着いたとき、手をさしのべられるように(半分冗談)東京大学の近くに学舎を確保しようかと画策しています。
 今まで通り、バス旅行も、今回のような一泊研修旅行もやります。楽しく、元気に、この人生を生きるために皆さんも学友(きいちごの会員)になってください。
 


 

僕の2票

2007-08-01 18:18:19 | 政治・社会
 埼玉選挙区は山根隆治さん(民主)、比例区はツルネン・マルテイさん(民主)。今回の参議院選挙で僕が投票した候補者です。
 選挙区(定数3)では自民党の候補ともう一人の民主党の候補が有力と新聞に出ていたので山根さんに投票しました。野党で当選可能性があるのは山根さんだけと見たからです。おごる自公を少数にし、政権交代の展望を切りひらくことが大事と考えました。
 ツルネンさんは僕たちが推進してきた在日コリアンに届け出だけで日本国籍取得を認める法案に賛成し、その推進のための集会に出席し、メッセージをくださったただ一人の国会議員です。
 この法案は与党が作ったものです。反対を表明しているのは共産党だけです。ですからすぐに成立してもおかしくないはずです。しかし、実際は定住外国人の地方参政権法案を優先したい公明党や韓国民団を無視できないと言うことで、誰も積極的に動こうとしません。自民党議員の大半は創価学会(公明党の支持母体)の支持がなければ当選できないのです。民主党の中にはコリア系の議員もいるのですが民団の意向に逆らえません。今回の選挙にも民主党の比例区の候補にコリア系の人がいますが公約を見ると同じことです。この人たちがこの法案に事実上反対しているのです。情けないことだと僕は思っています。
 そんな永田町の勢力図のなかで、ツルネンさんは多民族国家日本の将来をきちんと見据え、民主党の中でも政策形成につとめてくれたのです。ツルネンさんはフィンランド系の方ですが日本の農業や教育のあり方などにも積極的に提言し、民主党のこの方面のリーダーになりつつあります。
  ツルネンマルテイ 公式ウェブサイト
 アイヌ系・沖縄系・漢系・コリア系・フィリピン系・モンゴル系・ブラジル系などさまざまな日本人(日本国民)が政治の世界にも進出し、この国に変化をもたらしてくれることが期待されます。ツルネンさんはそのさきがけとしてもう立派に働いておられるように思います。

 結果としてお二人とも当選となり、珍しく僕の1票が生きた例となりました。ツルネンさんは前回は繰り上げによる当選でしたが今回は多数の支持を得て堂々たる当選です。与党となるかもしれない民主党の中核となって精一杯働いてくれることでしょう。
 今日、8月1日は私たちの39回目の結婚式記念日です。高知県室戸市津呂の王子宮で双方の両親と僕の祖母、伯母に参列してもらって式を行い、同じメンバーで昼食会をしました。これで結婚に関わる行事はすべてです。それでも書きたいことが幾つかあります。他日を期すことにします。明日は残留孤児の人々と塩原温泉の旅です。