川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「北朝鮮で暮らすということ」 韓錫圭さん

2012-12-31 07:53:49 | 韓国・北朝鮮

2012年12月31日(月)

昨日は年賀状の宛名書きをしました。藤井伸さん、洪大杓さん、日高正人くんから来た賀状が出てきました。もう会うことができなくなった人たちです。

 「登り来て かえり見すれば 伊豆の陸(くが) 裳裾となりて 富士見ゆるくに」 藤井伸(大島高校・元同僚)

 「ようやく 立ち上がりつつ あります」  洪大杓(友人・「弟」)

 「昨年は自分も合計8ヶ月ぐらい入院してしまい、母親の痴呆が進み、6月に老人ホームへ入所しました。息子の顔も名前も忘れてしまい残念です。今年は穏やかな年にしたいものです。自分も現在、抗がん剤で3週間に一度の上京です」 日高正人(大島高校・元生徒)


 

北朝鮮を脱出してきた友人の講演録を読みました。折に触れて直接お聞きしている話ですが、友人たちにもぜひ読んでもらいたいと思います。

 想像を絶する寒気の中で年を越す人たちを想います。

(全文は文末に表示したHPで読めます。終わりの部分だけ掲載します)。

「北朝鮮で暮らすということ」 韓 錫圭

(省略)

大量餓死の時代

 みなさんは不可解に思われるかもしれませんが、どうして北朝鮮は世界で一番ひどい食糧難を経て、大量の餓死者を出したのか。それを理解できない方がいらっしゃると思うのですが、私が最初に行った時に、社会主義という経済のシステムをすごい疑問に思ったのです。

まず、農業システム、日本で農家の方は自分の持っている田んぼや畑にこれを植えたら一番収益になる、自分の持っている土地に対して充分理解したうえでやりますよね。ところが北朝鮮に行ってみたらそうではないんですよね。今年、農業はどういうふうにする、5月1日から田植えをする、そう、上で指示をしたら北の端から南の端まで全部5月1日からヨーイドンと田植始めれ!となるんですよね。

そうしたら、北の端は稲がこれくらいにしかならないし、南の端は伸びすぎているかもしれない。関係ないんです。5月1日から全国の農民が競争なんです。毎日放送でじゃんじゃんやるわけです。どこの農場は何%植えた、どこの農場はこれぐらいだ、と。適地適作なんて関係なく農業が進められる。

 

働かない幹部たち

 農業も工業もそうですけど、幹部たちは働かない。農業だと一番末端の作業班というのですが、作業班の班長でも働かない。その作業班には朝鮮労働党の責任者がいる。農民同盟の責任者がいる。青年同盟の責任者がいる。婦人同盟の責任者がいる。すでに4人、それに班長で5人。それは絶対働かない。本当に何にもレッテルのついていない人間しか働かない。そのレッテルの付いていない人間が働かない人の分まで働かなくてはダメじゃないですか、だから加重になるわけです。

ところが、農民と言うのは都市が支援することになっているんです。農繁期になると学生、会社員全国から行って田植を手伝うわけです。秋の刈り取りもそうなんです。そうすると農民は沢山来た支援者たちに、あれしろ、これしろと言えばいいのです。北朝鮮では指導農民といいます。直接働かない。指導だけすればいい。だから、専門の農民が農業をやるわけじゃない。全国がそういうシステムになっていているし、農業のやり方自体が上からこうやれと言う指示で動く。

 そうなるとどうなるか。土地がだんだん疲弊します。収穫量が減って行きます。治産治水をしない。幹部でなきゃ生きていけない。そういう社会なんです。工業も同じです。ひとつの作業班で各役人は全部働かない。上からは有給はどれくらいと決めてきます。でも実際の現場では、なんでもいいから小さなレッテルがついていれば働かない。一番下っ端しか働かない。そうするとバランスが取れないじゃないですか。北朝鮮の本物の農民と本物の労働者は、自分の背中の上に何人の人間を養っているか、そう思っていました。

経済はどんどん落ち込んであたりまえのシステム、私は飢餓の時代になった時、本当に悔しかったです。私が北朝鮮に行って、北朝鮮について勉強して知識を持ってみると、世界中で北朝鮮ほど地下資源の豊富な国はありません。本来ならば、世界で最高の暮らしができる国土を持っているのが北朝鮮です。無い鉱物はありません。今北朝鮮が核兵器を持っているかどうかといつも騒いでいます。ウランが出るからやっていることなんです。輸入してやらなければならないなら、北朝鮮はできません。ソ連の核開発の最初は北朝鮮のウランでやった。そう言われるほど北朝鮮にはウランがあります。

 

社会主義システムへの疑問

 社会主義と言うシステム自体に私は疑問を持ちました。北朝鮮で現実を見た時、他の社会主義国家はどうなんだろうと考えました。その頃はまだ、ほかの社会主義国家の映画も見せていましたし本も外国のものがたくさんありました。そういうものを見ていると、レーニンのときにすでに、社会主義計画経済のひずみがソ連の出版物や映画にも出ています。それから長い時間を経てソ連が崩壊する前くらいのソ連の出版物を見ると賄賂作戦、上役に賄賂を使わないとダメな、現象も出ています。ソ連だけではなく、中国の本を見ても社会主義というシステム自体がそうならざるを得ない、そういうものじゃなかったのか。ヨーロッパの社会主義国家がざーっと崩壊した時に、あぁ、なるべくしてなった結果なんだと思っていました。でも、北朝鮮ほどひどかったかどうかは分からないのですけど。

 

配給だけに頼る階層は死んでいった

 飢餓の時代を考えてみたら、私は今でもその時代がフラッシュバックすると夜中でも本当に跳び起きます。さっきも言ったように、配給というシステムで成り立っていた社会で配給が遮断された時、大量餓死が起こったわけです。本当にすごいありさまでした。300万人、数字で300万、戦争でない、平和な時代に300万というのは恐ろしい数字です。

朝出勤するために外へ出ると、冬なんかは雪が降って一晩たつとアイスバーンになります。その道のあちこちに人が倒れています。近寄ってのぞいて見て、目が動いている人はまだ生きている。目がじっと固定している人はもう死んでいる。大人は倒れても何も言いません。でも子どもは母ちゃん、腹減ったよ―、1日中怒鳴ります。自分の親に向かって怒鳴っているのじゃないです、道行く人が自分の声を聞いてだれか振り向いて、誰かがパンのひとかけでも握らしてくれないか、そういう期待のもとで怒鳴るわけです。私が考えるに、お前もっと腹減るのに、どうして叫ぶんだよ、と思うのですが。

その叫び声が止まった時が、その子の死ぬ時なんです。考えられないでしょう、日本ではお医者様は食いっぱぐれしない職業だと言われます。一番先に、大量に死んだのがお医者様、教員、科学者、知識人。その人たちは配給にだけ頼って生きていましたから。それに社会主義国家ではインテリ層は基本階級じゃないと宣伝されています。普通は御主人が会社で働くと奥さんは専業主婦になって内職をします。その内職の方がお金になります。おかしいでしょう、正規の会社員として働いているご主人より、手内職をしている奥さんのほうがお金を稼げる。でも北朝鮮はそういう状況なんです。

 私が一番初めに日本に入って来た時、まだ在留資格も得られない時、働けないので内職をしたことがあります。西陣織のネクタイを作る内職をしました。1本1万円で売るネクタイ、あれはみんな手で縫うのですが、1本つくりあげて60円です。手内職というのはそれくらい安いのです、日本では。いくらしたって、自分の食べる分にはならないじゃないですか。ところが北朝鮮ではそうじゃない。私が行った頃には、イグサに似た草で編んだカバンとか、帽子とか、そういうものを輸出していたんですけど、みんな女性の手内職なんです。すごく器用で。その内職の収入がご主人の収入の何倍にもなる。私が大学を卒業して勤めた時、初任給60円くれました。額面は60円なんですが、冠婚葬祭があるとか、職場で今度の土日はどこかの橋の現場で道路工事をしないとダメだとか、それに使う道具とか材料とか、みんなその会社でしないとダメなんです。それを従業員が負担するのです。月給からピンハネしてしまうんですよね。最後残るのは配給を取るお金が残るならいい月で、残らない月はマイナスになってしまうんですよ。生活は維持できない。

でもお医者様とか科学者、技術者、学校の先生とか、みな大学卒のインテリですよね、そういう人たちは資本主義的な方法で金を儲けちゃいけない、内職も正規の労働じゃないので資本主義的とみなされるんです。だからやっちゃダメ、御主人の給料で配給をもらう、それ以外は考えられない。そういう状態で生きていた。工場地帯はご夫婦ともども会社勤めをしていて、配給で暮らしていた。そういう所で配給がパタリと止まったら方法がないわけです。だからバタバタ死んだ。おびただしい数の人たちが死にました。

 

人災としての飢餓

 うちの嫁は優しいので、私が朝出勤する時に嫁に言うのです、誰かが家に物乞いに来たら絶対何もやるんじゃない、外で、道端やヤミ市などで子どもでも手を出して、あなたが食べ物や10円札でも持っていたら、あげてもいい。でも家に訪ねて来た人間には絶対何もやるんじゃない。

そうしたら、ある日、家へ帰ってきたら近所の、まっ黒けの男の子がいるんですよね、どうしたのと聞いたら、どうしたらいいんでしょう、お腹が空いたと言ってきたから、ごはんにキムチをのせて、スプーンを付けて、外に行って食べなさいと言ったら、家の中で食べてそれから出て行かないんです、と。十日くらい居たんですかね。追い出そうと思ってもガッチリ家のモノをにぎって出ないんですね。必死になって。家に帰ったらお腹が空くから。近所の子ですがその親に言ってもしょうがないんです。親は自分が食わせられないから知らん顔なんです。嫁がなんとか連れ出してほしいと言いにいったのですが、食わせられないからしょうがないと。最後に私の娘婿が来て、出しました。お母さん、そんな方法じゃダメ、ビニール袋にご飯を一杯と、おかずを入れて下さい、と言うんですね。その子のところへその袋を持って行って、これをやるから俺についてこい、と。その子は食べ物を見て、出て行く方がいいか、居座っていた方がいいか、見比べて考えて、やっぱりやめたと思ったらしい、そうしたら婿が最後に一発なぐりました。恐怖心を持たせて、それで連れ出しました。

 ものすごい数の人が死にました。1994年、5年、6年、7年、最高に死にましたよね。どのくらい死んだか。私は2番目の娘婿を連れてその実家の田舎に行ったら、道でその娘婿は友達に会ったんですね。お母さん、ちょっとあの子と話してくるから、と。戻ってきたら手に紙束を持っているんですよ。A4の紙を四つ切にした紙を5センチ厚さくらい持っているんです。お母さんこれ見て下さい、と。見たら名前 ○ ○○、性別 男、年齢 ○○、その他 5名と 書いてある紙です。この紙きれ一枚が5人分なんです。死体を5人処理したってことだったんです。一番最初、餓死者が出始めた頃、ひとりひとりを埋めました。大量になるとそうできない、集めて処理します。行政機関に専門の部署がありました。その部署が、ひとり死体を処理したら朝鮮のお金で300円くれたのです。ところが政府がその金を出しきれなかった。だから、こんなに溜まったんです。行政機関の上から、金が付いたから取りに来いって言われて、取りに行くための死体処理の紙がこれくらいあったんです。四つ切の紙がこれくらいあったら何人になります?それくらい沢山の人が死にました。

 朝鮮労働党の党会議、党員の何%か参加しないとできない会議を構成できないくらい、死にました。私はそれは絶対に天災じゃないと思っております。どこまでも人災です。私は政治がどれほど恐ろしいものであるか、本当に骨身にしみて思い知らされました。子どもたち家族を死なせないために、その時初めて、日本に居る親に向かってまとまった金が必要ですと連絡しました。それまで私は親にまとまって何かしてもらったことは無かったのです。送ってくれたお金が日本円で25万でした。それでは足りなくて親しいお友達が足してくれて、食堂を経営しました。経済が金正日の手に負えなくなったから、個人経営をしてもいいという、そういう時期があったのです。そこで家族が食べて、利益金として残ったものは中国製のトウモロコシを買って、飢え死にしそうな人をあつめておかゆでも食べさせるそういう機関があったのですが、そこへ持って行きました。国際的に北朝鮮が手を挙げて、食糧援助が必要ですと言って初めて食料が入ってくるようになったじゃないですか、そのあと、一定期間、餓死は止まったのですけど、このごろまた、それに近い様相を呈しているようです。

 

食糧支援の必要性を訴える

 私は日本に居た小さい時、第二次大戦のドイツのことを、どうしてそこまで行くんだろう、ドイツにも科学者や良心的な人はいたのにどうしてそういうナチスのユダヤ人虐殺や世界的な戦争を出来たんだろう、と思っていました。でも自分がそのシステムの中に入ってみたら、どうにもならないということが分かりました。いったん権力を握ったら、その権力を手放さないためにはどんなことでもやる。

北朝鮮の強制収容所に私の知っている人もいっぱい行きました。今もそうじゃないですか。金正雲体制も受け継いでいますからね。でも私は二度とあんなにひどい飢餓の時代は訪れてほしくないと思っています。ほかの人たちは私に言います。北朝鮮なんか食糧支援したところで、みんな軍隊とか上の奴らが分捕ってしまうんだから、送る必要は無い。そうじゃないと私は訴えます。確かに上の奴らは分捕ります。でも少数の人間がその食料を食べる訳じゃないんです。それは金と替えるために横取りする訳なんです。それでその食料をヤミ市に流します。末端の人たちは金を出さないと食べられません。でも品物があれば、買うために必死になって何かをやって、手に入れる。でももともと品物が無かったらどうにもならない。大量餓死が出た時は、国際支援が無かったから、食糧自体が無かった。食べるものが無かった。どういう宣伝をしたと思います?牛やウサギが食べるものは人間も食べられる。冬に木の葉っぱも集めろ。ピョンヤンは別だと言いましたが、そんなところでもトウモロコシの根っこを掘って職場へ持ってきて納めろ、そうしないと配給券をやらない。そういう時代がありました。地方の人達は草の葉っぱでも木の葉っぱでもいいから集めろ、そして、各家庭ごとにどんなものをくれたか。酵素だと思うんです。ベイキングパウダーに似たような粉を分けてくれたんです。それを木の葉っぱとか、水分といっしょに混ぜて寝かせると食べられるようになる、というんです。私もやってみました。すると、ちょっと発酵するんじゃないでしょうか、ドロドロした感じになります。口に入れましたが、とてものどを通るような代物ではなかった。

 ものが無いとどうにもならないんです。だから支援物資を入れる必要は無い、というのには私は反対です。入ってほしい。そうしたら餓死者は出ない。正直、支援物資はたくさん入って、もらいましたけど、ただでもらったことはありません。ヤミ市に行ったら、最初はアメリカや韓国から来たことを隠すために袋をばらして他の容器に入れていましたが、沢山入ってくるから追いつかない。後になったら、アメリカ、韓国などの袋ごとヤミ市で売っていました。買って食べる食糧でも無いとダメだ。入れるなと言う意見には賛成していただきたくないんです。

出典「北朝鮮で暮らすということ」●http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon121027s.html


「なぜ絶望することがあるでしょうか?」 アンネの言葉(下)

2012-12-30 10:06:59 | 政治・社会

12月30日(日)曇

原発維持勢力は「電力の安定供給」をその理由に挙げていますが、どうもそれは表向きの理由のようです。原発推進に伴う巨大な利権を失いたくないという欲望と核兵器の保持への願望が本音と考えられます。民主党時代にも故障続きの核燃料再処理工場の建設続行にこだわり続けたのは本音がそこにあるからでしょう。原爆の製造に必要なプルトニウムを安定的に確保し続けたいのです。「維新」の石原慎太郎代表は時に本音を漏らして世論を誘導しています。

 核を保有する中国が北朝鮮をはじめアジア・アフリカの独裁政権の後ろ盾となって資源を確保し、新たな中華帝国圏が作られつつあるように見えます。建艦競争にも乗り出し、東アジア・東南アジアに覇権を打ち立てようとする動きも顕著です。「尖閣列島」を巡る緊張もそのような脈絡の中で捉えなければなりません。北朝鮮の独裁政権のやりたい放題も中国共産党がそれを許容しているからできることです。

 これに対抗して、日本では改憲・国防軍・核武装を主張する勢力が勢いを増してくることは火を見るよりも明らかです。今回の総選挙でその陣形がかなりはっきりしてきました。もし、来年の参議院選挙でも日本国民が同じような選択をすればこの勢いはとめられなくなるでしょう。

 石原・麻生・安倍などの人々にはそれぞれの役割があり、多少の路線の違いもありますが、渾然一体となって国論をリードしていく態勢が整ったのです。これに対して、「原発NO」「核武装NO」勢力は国民の多数を占めていながら、政治的力量に欠けています。

現在進行中の東アジアの危機にどう対応するのか、その戦略を提示して国民をリードする政治指導部がないといっていいのです。小さな違いで争って「敵」の攻撃に雲散霧消していく有様です。

 2012年の年の瀬に私たち「非核」(原発NO・原爆NO)勢力が考えなければならないのはこのような無惨な現実を認めて、自分たちの戦略を打ち立てることです。「9条を守れ」をお題目のように唱えていればいい時代は遠くに去ったのです。

アンネ・フランクは「戦争の責任は名もない一般の人にもある」と書いています。時代の勢いに流されるだけの大人たちを怒りをこめて見つめていたのでしょう。

生き延びていれば83歳です。どんな人になったのでしょう?

僕にはもう一人、83歳の「巳」の大先輩がいます。こちらは石原・安倍ラインに期待をかけておられるようです。許されるなら議論をさせてもらいたいと思っています。

前書きが長くなりました。「アンネの言葉」(2)(3)を再掲します。


 

アンネの言葉(2)絶望的な自問自答     2009-01-09 04:44:48 | 政治・社会

 
 前回と同様にぼくが授業で紹介してきた部分を書き写してみます。宜しかったら声に出して読んでみてください。アンネはまだ14歳です。


  1944年5月3日 水曜日

(略)

 <隠れ家>の私たちはしばしば絶望的にこう自問自答します。
「いったい、そう、いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間はお互い仲良く暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう。」

 こういう疑問を持つことは至極当然のことですけど、これまでのところ、だれもこれにたいする納得のゆく答えを見出していません。そもそもなぜ人間は、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾を一方では作り出しながら、一方では復興のためのプレハブ住宅をつくったりするのでしょう?
 いったいどうして、毎日何百万という戦費を費やしながら、その一方では、医療施設とか芸術家とか、貧しい人たちとかのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう?
 世界のどこかでは、食べ物が有り余って、腐らせているところさえあるというのに、どうして一方には、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう?
 いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?

 私は思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界中のひとびとはとうに立ち上がって、革命を起こしていたでしょうから。
 もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力を振るいたいという本能があります。ですから、全人類が一人の例外もなく心を入れ替えるまでは、決して戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、培われ、育まれてきたものは、ことごとくうち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まき直しに始めなくちゃならないでしょう。


 アンネの自問自答は今も私たちに問いかけるものがあります。
 アンネはこう書いています。


 私は思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。

 そして「全人類が一人の例外もなく心を入れ替えるまでは、決して戦争の絶えることはな」いとまでいっています。

 これを読まれた皆さんはどうおもわれますか?是非、御意見を聞かせてください。

 

 ぼくはおおむねアンネの考えに賛成です。ですから私たちの一人残らず全員が「戦争」や「差別 に向き合い「心を入れ替える」努力や闘いをしなければならないと考え、それを授業や日常活動の中心にすえてきたのです。

 第二次大戦による破壊と殺戮が極限にまで達したにもかかわらず、世界は再び三度、戦争の惨禍に見舞われています。パレスチナ・アフガン・イラク……。アンネの問いかけは無視され、人類は愚行のはてに滅んでいくのでしょうか。
 
 ぼくが今、もし、14・5歳だったら生きていく希望と勇気をもつことができるだろうか? そんなことを考えさせる年の初めです。
 

アンネの言葉(3)「なぜ絶望することがあるでしょうか?」

2009-01-10 06:19:14 | 政治・社会
 「アンネの日記」の続きです。今回はここまでとします。例によってぼくが書き写しますので、どうぞ、声に出して読んでみてください。


 1944年5月3日(水)
 (続き)

 これまで私はちょくちょく意気消沈することもありましたけど、決して絶望はしませんでした。この隠れ家生活を危険な冒険ではあっても、同時にロマンティックな、おもしろいものとさえみなしてきました。この日記の中でも、すべての不自由をユーモア混じりに描いてきたつもりです。今こそ私は、ほかの少女たちとは異なった生涯を送ってみせると心に決めました。ほかの少女とは異なる生き方をし、さらに大人になったなら、普通の主婦たちとは異なる生き方をしてみせる、と。スタートはこれまでのところ、じゅうぶん波瀾に満ちていましたし、どんなに危険なときにもそのなかに滑稽な一面をみつけ、それを笑わずにはいられないというのも、もっぱらそれだからなのです。

 私は若く、いまはまだ埋もれている多くの資質を備えています。若く、強く、そしていままさにおおいなる冒険を生きています。いまはまだその冒険のただなかにいるからには、一人で楽しむ以外に何もすることがないからといって、一日中愚痴ばかりこぼしているわけにはゆきません。
 私は多くのものを与えられています。明るい性質と、あふれるばかりの明朗さ、強さを持っています。日ごとに私は自分が精神的に成長してゆくのを感じます。解放が近づいているのを、自然がいかに美しいかを、周囲のひとたちがどんなに善良な人たちであるかを、この冒険がいかにおもしろく、興味の尽きないものであるかを感じています。だったら、なぜ絶望することがあるでしょうか?

 じゃあまた、アンネ・M・フランクより


 きらきらする豊かな個性の発露、自分の人生の主人公になろうとする強い意志……ぼくはこうゆう少女が好きです。実際のアンネは外面に現れるアンネと「ほんとうのアンネ」の分裂に悩みます。悩む少女の姿は愛おしく他人事ではないような気がします。

  1944年8月1日 (火曜日)の日記が最後です。こう結ばれています。
 
 (略)
 そしてなおも模索し続けるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるかを。きっとそうなれるはずなんです、もしも……この世に生きているのが私一人であったならば。
                じゃあまた、アンネ・M・フランクより

 

 ぼくは悔しくてなりません。可能性に満ちた魅力的な少女の人生の営みをナチは永遠に奪ったのです。
 今も世界のあちこちで「自分でありたい」と願い、悪戦苦闘する青春があります。その悪戦苦闘こそが人類の希望です。私たちはどんなことがあってもアンネと同じ運命を彼らに辿らせてはなりません。
 


 


 


理想と希望 アンネの言葉(上)

2012-12-29 09:38:25 | 政治・社会

12月29日(土)晴れ

 来年は巳(み)年だと近頃になって気づきました。僕は1941年(昭和16年)の巳ですが、巳年というと思い出す人がいます。

アンネ・フランク。1929年、「世界恐慌」の年生まれ、一回り上の巳です。わずか15歳でナチの強制収容所で死にました。それでも僕の人生に大きな影響を与えた人です。

高3のときに見た『アンネの日記』という映画がきっかけとなり、その日記を読みました。高校の教員となって思春期の人々を相手にするようになってからは自分が見た映画をみんなに見てもらいました。

再び自民党の天下になってフクシマは隠され、「30年代の脱原発」さえ覆される昨今です。「ファシズムの再来」とまでは言いませんが,

希望を見失いそうになる人も多いと思います。

09年正月に書いた「アンネの言葉」を再掲させてもらいます。


 

アンネの言葉(1)理想と希望

2009-01-07 07:20:15 | 政治・社会
 
「In spite of everything,

I still believe that people are really good at heart」

 いまでも信じています、
  たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。



1960年の1月、高校の卒業間近に高知の映画館で見た『アンネの日記』のラストに映し出されるアンネの言葉です。ミリー・パーキンス(アンネ役の女優)の声が被(かぶ)さります。

 ぼくはこの映画で受けた衝撃と感銘を忘れたことはありません。ですから、教室で映画を見ることが容易に出来るようになってからはぼくの生徒のすべてがこの映画を見ているはずです。もう30年にはなるでしょう。

 この言葉は1944年7月15日(土曜日)の日記の終わりの部分にでてきます。これからぼくが書き写しますので、宜しかったら皆さんも声を出して読んでみてください。15歳のアンネの言葉が聞こえてきます。


 私たちのなかに芽生えた理想も、夢も、大事に育んできた希望も、恐るべき現実に直面すると、あえなくうち砕かれてしまうのです。じっさい自分でも不思議なのは、私が未だに理想のすべてを捨て去っていないという事実です。
だってどれもあまりに現実離れしていて、とうてい実現しない理想ですから。にもかかわらず、私はそれをもちつづけています。なぜならいまでも信じているからです……
  たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。

 私には、混乱と、惨禍(さんか)と、死という土台の上に、希望を築くことはできません。この世界が徐々に荒廃した原野と化していくのを、私はまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、私たちを滅ぼし去るだろういかづちの接近を耳にしています。いく百万のひとびとの苦しみをも感じることが出来ます。でも、それでいてなお、顔を上げて天を仰ぎ見るとき、わたしは思うのです……

 いつかはすべてが正常に復し、いまのこういう非道な出来事にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界が戻ってくるだろう、と。

 それまでは何とか理想を持ち続けなければなりません。だってひょっとすると、ほんとにそれらを実現できる日がやってくるかもしれないんのですから。

 じゃあまた、アンネ・M・フランクより
     
    (『アンネの日記』深町真理子訳 文春文庫 P567)

 
 今朝のニュースです。

  イスラエル軍がガザ・難民キャンプの学校攻撃、死者42人
                 
                 1月7日1時6分配信 読売新聞


 【エルサレム=久保健一】パレスチナ自治区ガザからの情報によると、ガザ北部ジャバリヤ難民キャンプにある国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)運営の学校が6日午後(日本時間同日夜)、イスラエル軍の戦車部隊による砲撃を受け、少なくとも42人が死亡した。攻撃が、空爆だったとする報道もある。

 学校は、先月27日のイスラエル軍の空爆開始以来、住民の避難場所になっており、女性や子どもなど民間人数百人が避難していたという。建物のがれきの下には、まだ多くの人が埋まっており、犠牲者がさらに増える恐れがある。

 6日午前にも、最大都市ガザ市と南部ハンユニスのUNRWA運営の学校2校が空爆を受け、AFP通信によると両校でパレスチナ人計5人が死亡した。

 地上作戦を続けるイスラエル軍は6日、5日夜の最大都市ガザ市への侵攻に続き、ハンユニスにも地上部隊が進軍。ガザ全域で、イスラム原理主義組織ハマスとの市街戦に突入する形となった。同通信によると、先月27日の空爆開始以来の死者は635人に達し、負傷者は2900人を超えた。
 


パレスチナのこの学校には「アンネ・フランク」はいないというのでしょうか。

 「この世界が徐々に荒廃した原野と化していくのを、私はまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、私たちを滅ぼし去るだろういかづちの接近を耳にしています。」

 ぼくには何人ものアンネの姿が見えます。それでもなお理想と希望を持ち続けている子どもたちが。

 未曾有の経済危機で大変ではあります。しかし、イスラエルの政府と軍がやっている無差別虐殺を止めさせるために我が政府と国民は力を合わせて立ち上がらなければならないとおもいます。生きる意欲と希望が世界中の子どもたちから消え去ってしまうからです。

 「イスラエルとパレスチナに停戦を求める日本国民集会」を開きましょう。呼びかけは国会に議席のある政党の党首にお願いします。場所は皇居前広場。集会決議を両院議長と首相がイスラエルとパレスチナに赴いて届けます
 
出典「川越だより」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4183f4dc7835cd9fd1c17e25c5443fce

2012 我が家の10大ニュース(下)

2012-12-28 06:21:33 | 父・家族・自分

12月27日(木)晴れ

第2次安倍内閣が始動。「3・11フクシマ」はなかったことになる。稲田朋美という人が「大臣」になったのには冗談かと思う。国会質問を聞いたことがあるが「神武天皇」を実在の天皇と思っているらしい。 やがて僕は「紀元2601年」生まれと言わされるのか。いくらともだちでもひどすぎないか。


 

2012 我が家の10大ニュース(続き)

②東日本大震災・被災地を訪ねる旅をした。一年がたったので片付けや復興の邪魔にはなるまいと、1000年に一度という大津波の爪あとを脳裏に刻んでおくことにした。

  ●5月22日~25日 陸前海岸を中心に(仙台南部 石巻・女川 南三陸 気仙沼 栗駒山)   石巻の寺の吉田慶子さん(昔の生徒)が一日、女川・牡鹿半島の村々を案内してくれた。北上河畔の大川小学校の惨状は特に忘れられない。栗駒山では4年前の地震被害から立ち上がってきた人々に出会うことができた。

  ●7月30日~8月4日 陸中海岸を中心に(久慈 重茂半島 宮古 釜石 大船渡 陸前高田 気仙沼)

 久慈で船を流された漁師の方にかつて室戸のマグロ船に乗っていたと聞かされた。海の民のつながりが実感されうれしかった。南に下がるほど津波被害は甚大で言葉にはできない。石巻ではガン友の娘さんが幼稚園の子どもたちのためにひらいたコンサートに同席させてもらい、地元のかたがたと交流のひと時を持つことができた。

  ●9月3日~6日 北茨城 いわき海岸  移動教室本番(11月18日)ではいわきの薄磯(うすいそ)の村を見学後、みんなで黙祷した。

③北海道十勝を久しぶりに訪ね、旧知との交流を楽しんだ。7月2日~11日。広尾・池田。帰りに空知地方の歌志内により、小山くん(昔の生徒)の故郷の炭鉱跡を巡った。

④中谷公夫くん(小学校同級生)、日高正人くん(僕の元生徒)、洪大杓くんを喪う。遊んだり、話したりできる人がどんどんいなくなる。安全な自転車道を見つけて行き来し始めた与野の勝義さんまで横浜に転居してしまった。

⑤癌研有明病院入院 2月21日~3月6日 抗がん剤「イレッサ」の副作用で肝機能障害が起きたため投与中止。新たに「タルセバ」の服用を開始。副作用を警戒して2週間の入院。年末にいたるまで10ヶ月、服用継続中。右肺に転移したガンの大きさは横ばい状態。来年もこの状態が続けばよいが…。

⑥脱原発デモ・集会  3月11日に川越での市中デモに参加したのをはじめ毎週金曜日夕方に首相官邸付近で行われる集会?に何度か参加した。5月には稼動原発がゼロになり、原発無しでもやっていけることが明らかになったのに、12月の選挙で「脱原発」は雲散霧消しそう。フクシマを心に刻んでこれからもできることをやっていきたい。

⑦自家用車処分  10月24日をもって我が家に車はなくなった。1987年以来25年間、妻の運転で日本の各地に連れて行ってもらった。これからは必要に応じてレンタカーを利用する。

⑧老人向きの携帯電話を処分してiphoneに切り替える。 1月16日。娘の携帯をゆずりうけた。まだまだ宝の持ち腐れだ。

⑨ブログ「川越だより」とFacebook、Twitterがつながった。Facebookで友人たちの近況がわかってありがたいが、何を考えて生きているかも書いてほしいと思う。

⑩妻が土鍋でご飯を炊くようになった。朝夕の食事がいっそう美味しく感じられる。佃島で買う佃煮が常置となり、パン食は消えた。

 

 


2012 我が家の10大ニュース(上)

2012-12-27 09:29:01 | 父・家族・自分

12月26日(水)晴れ

 3時半過ぎ、癌研有明病院呼吸器内科・西尾医師の診断がありました。「血液検査に格別の異常はない。このままタルセバ服用を続けましょう」。次回は1月16日、CT検査があります。手術から8回目の年越しを平穏にすることができます。

 待ち時間が異常に長く、帰りは真っ暗くなった上に冷たい北風となりましたが、駅からの道を自転車を漕いで帰りました。寒気に体も慣れてきたようです。


従姉から「山北みかん」、兄から「ぽんかん」が届き、正月が近づいたという実感がしてきました。

「我が家の10大ニュース・2012」を考えてみました。

①娘が幸雄くんと結婚しました。4月8日。

  

 

 結婚式というものはなく、花の頃に私たちが愛知県豊川市御津を訪ね、

幸雄くんの父上と食事会をしました。10月にU2仲間60人が渋谷で盛大な祝いをし、私たちも招待されました。

弟夫婦も愛知県を訪ねて交流のときをもったようです。思いがけず、新しい家族ができて、記念に写真を撮ることになりました。「写真館」での撮影はぼくの人生初体験です。

 去年の今頃には思いもしなかったチョー異変が我が家に起きたわけですが、娘のうれしそうな様子を見ていると「よかったなあ」とぼくも心から喜んでいます。正月に兄弟姉妹が川越に集うはずです。今度は6人の家族写真を撮ることができます。

 

 


福島・双葉町 「井戸川町長解任」の怪

2012-12-26 08:24:18 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

埼玉県加須市の旧・騎西高校に役場機能を移している福島県双葉町の井戸川町長が町議会で「不信任」されたというニュースがあった。双葉町は福島第一原発の立地していた町だ。 

何が「不信任」の理由なのか、よくわからなかったが次に紹介する記事を読んで大体のことを理解した。町民を放射能による健康被害から守ろうとする町長を政府・東電・福島県知事などが一体となって追い落とそうとする策謀だといえそうだ。

だとしたら大事だ。3・11直後、原発推進町長としてその責任を強く指摘したものの一人だが、今この方に加えられている攻撃を見過ごしてはならないと思う。読者が記事を読んで問題の所在を確認していただきたい。

「12・20町議会」レポート

騎西高校は唯一残った避難所として、今も160人の町民が暮らしている。一方、福島県内では佐藤雄平知事、福島県立医大を中心に事故の被害を最小化するためのキャンペーンが張られ、「除染をするから帰還せよ」という政策がとられ続けてきた。井戸川町長はこの安易な帰還政策に反対し「チェルノブイリ基準」を示しながら「福島県内の多くの場所は、今なお人が住んではいけない汚染状況にある」と訴え続けた。すべては、目に見えない放射能から、子どもたちの未来を奪ってはならないという思いからだ。

十月にはジュネーブで、放射能汚染による内部被ばくから町民を守ろうとしない国の無策ぶり、無責任さを訴えたが、本来これは福島県知事がやるべきことだ。しかし実際にはそうはならず、小さな町の首長がたった一人で告発しに行くしかないということが、この国の惨状を示してあまりあると思う。

福島県内の自治体の多くが、帰還政策に追従していく中で、井戸川町長は、町民の命と権利を守るために孤立無援で闘ってきた。そんな町長の存在は「福島は安全だ」といって事故の責任をうやむやにする国、県、東電にとって、目の上のたんこぶだったに違いない。だからといって、国や東電が井戸川おろしをするわけにはいかなかったのだ。

出典●http://www.labornetjp.org/news/2012/1225idogawa 

10・30 井戸川町長 ジュネーブ国連人権理事会前日の会合でのアッピール

(省略)

私たちは、被ばくを小さくするために遠くへ避難しました。
この事を私は広島のような思いを町民にさせたくないと思い決断いたしました。
町の形を守るより、子どもたちの生命健康を第一に考えました。
チェルノブイリの事故のあの悲劇を私たち町民が味わいたくないという思いでございます。


チェルノブイリの方々のどうされたか実態が分からない私たちが、
福島のこのような高い基準じゃ駄目だという事で私はチェルノブイリ基準を強く主張しています。

政府は、これを受け入れようとしません。

私たちに20ミリシーベルト年の線量で住めるという事を言っております。

そこで私はその政府関係者に「あなたの家族と一緒に住んで下さい」とお願いをしております。
彼らは誰一人として「住む」という人はいまだにおりません。
危険な事が分かっているのでしょう。

いま、このような思いをしている私ども以外の多くの県民が県内に住んでいます。
さまざまな経済的な理由で避難ができずに本当に困っている住民がいます。
どうか皆さんの大きな声で救ってやっていただきたいと思います

レベル7という世界最大の大きさで4つの原子力発電所が壊れております。

これだけ大きい事故にもかかわらず、福島県立医大には
「にこにこ笑っていれば放射能の影響は受けない」というような教授がおります。
私は正しくないと思っております。
精神論だけで事実が隠されているのです。
やがてその嘘が証明されることの無いことを願っております。

私は被ばくの関係かどうか分かりませんが、喉にのう胞があります
もし、後5年後まで生きられれば、放射能の影響でないことが証明されると思います。

ここに福島県の地図を用意しております、

ジュネーブ118
これは放射線管理区域を示した地図です。
通常の放射線管理区域であれば人は住むことはできません。

ジュネーブ119
もう1枚のこの紙が、放射能が飛び散った状態を示しております。

ジュネーブ120
もう1枚の地図、これは、福島県内でとれる自然からの贈り物、
食べてはいけない、取ってはいけないものを示したものです。

ジュネーブ121
このデータは新聞に示したマークをみなさんにご説明いたしたものでございます。

この地図を見ますと、自然は大きく汚されている事がお分かりかと思います。
被ばくに安全はありません。
被ばくを避けること以外に安全なことはありません。
こういうところに住まわせておくことは人権を無視していると思います。


次に検査について申し上げます。
双葉町には全国一高い放射線量の放射線によって被爆をさせられました。
昨年3月から国、県、東京電力に被ばく検査を申し入れておりますが、まだ積極的にされていません。
200万県民の数からいうと、極めて僅かな子どもの検査しかされていません。

多くの病気が発症をしない事を願っております。
チェルノブイリからなにを日本の学者は学んだのでしょうか?
県民の健康と高い  で、悪質な治療の にある病院が阻んでおります、分かりません。

こんな状態にいる私たちを世界のみなさんから大きな声を出していただいて助けていただきたいと思います。
わたしたちは、難民なんでしょうか?
人権がないんでしょうか?
事故を起こしたのは東京電力です。
それなのに私たちは責任を負うような立場に追い込まれております。

このような発言の機会を頂いてありがとうございます。
どうかみなさん助けていただきたいと思います。
今日はありがとうございました。
出典●
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2656.html


勝義さんを励ます忘年会

2012-12-25 20:37:38 | 友人たち

12月24日(月)晴

 13時ごろから勝義さんを励ます2012忘年会。神奈川・東京・埼玉の各地から9名が我が家の茶の間に集まりました。

勝義さん・精さん・満智子(みちこ)さん・俊男さん・Kさん・俊英(としえ)さん・剛さん・倫子(のりこ)・啓介。

参加者が手料理を持ってきてくれるので食卓には並びきれません。

 昨年は年末の28日に、お連れ合いを喪った勝義さんを励ます忘年会を同じように行いました。残念なことにその後の一年もご難続きでした。交通事故による骨折・「脱腸」手術。持病と闘う人生に新たな苦闘を余儀なくされました。この間に住み慣れた浦和の家を処分して横浜に転居するという「大事業」もありました。

 近所に住む娘さんの支援を得て、忍耐強くリハビリに励んだ結果、バスと電車を乗り継いで川越まで来てくれるほどに恢復してきたのです。

Kさんから花束をもらってうれしそうですね。勝義さんは数年前、北朝鮮を脱出してきた方々に日本語を教えるボランティアをしました。Kさんは同世代の脱北者でボランティア仲間だった人です。夏にはみんなで古希を祝ったばかりです。

 30数年来の友人、近年「きいちご移動教室」で知り合うようになった人。中国から来た人、北朝鮮から来た人。夕方6時過ぎまで交流のときをすごしました。ここに集うはずの洪大杓(ほん・てぴょ)さんを半月前に喪ってしまったので追悼のひと時にもなりました。

途方もない困難を抱えて苦闘をする友人たちがいます。これからも時には集って心を通わせて生きたいものです。

Kさんと勝義さんは泊まって心行くまで語り合っていきました。北朝鮮の人々の日々の生活の話は日本中の人々に聞いてもらいたいものばかりですが今はわが胸にしまっておくほかはありません。

 

 

 

 

 


卵の芸術  横田初枝さん

2012-12-24 06:20:33 | 友人たち

12月23日(日)曇晴

先日、Facebookに下のような写真のクリスマスメッセージが飛び込んできてびっくりした。遠い昔、ぼくの生徒だった横田初枝さんの作品だ。卵の殻のアート。 

メールを読むと趣味でやっていたのを今年から企業化して、その社長になったようだ。

Fanncy Egg World

http://few-lesson.com/

代表取締役 横田初枝

数年前、板橋区成増のお店を訪ねて何十年ぶりかの再会を喜んだ。病気になった娘さんの力にはなれず残念だった。もともとがチャレンジ精神が旺盛な人だ。還暦が近くなって、新たな世界に挑戦する。夢を育む事業が人々の支持をえて広がっていくことを期待したい。正月には新宿のホテルに店を出すという。

ぼくには縁のない世界だが作品を見せてもらうのとおしゃべりは楽しい。癌研の行き帰りに寄らせてもらうことにしよう。

夕方、勝義さんが来てくれた。リハビリの成果が現れて元気そうで何よりだ。

 

 


安倍自民党総裁の帰郷に思う

2012-12-23 12:00:29 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

安倍自民党総裁が父(安倍晋太郎)や祖父(岸信介)の墓参りに山口に帰って原発の新設にも言及したという。山口県の上関(かみのせき)原発の工事は凍結されているがいずれ再開するつもりなのか。

衆院選挙圧勝で元気がいいのはわかるが、国民が自民党を圧倒的に支持したわけではないこともよく承知しておいてもらいたい。4割もの有権者が投票を棄権し、自民党に投票した人は有権者の16%(比例区)に過ぎない。小選挙区でも25%だ。小選挙区制度というマジックで圧勝に見えるだけだ。

原発についてはもう旧勢力の巻き返しで、フクシマは霞んでしまいそうだ。こんなことでは世界中の心ある人に軽蔑されるだろう。原発事故から何を学んだのか、と。

安倍さんは「美しい日本」が好きな人ではなかったか。保守中の保守ではなかったのか。古来、「蓬莱の島」といわれたこの美しい列島を原発事故でむちゃくちゃにした罪の自覚はあなたにはないのか。ぼくのような一介の教師だったものでさえ、しっかり反対しなかった責めに、おののいているというのに。

安倍さんが憲法改正に命がけだということはひしひしと伝わってくる。安倍さんの思いやそれを支持するたくさんの人々の考えをぼくは理解することができる。その声に耳を傾けてもいる。だが、この71年を自分なりに生きてきた<総括>として直ちにそれに賛成することはできない。非戦非軍事の「国防」の道をなんとしても切り拓かなければと考えている。

改憲の是非は時が来ればじっくり議論して結論を出せばいい。しかし、「原発」は「改憲」などとはレベルの違う問題ではないのか。

この美しい星で生きる生きとし生けるものの生存自体にかかわっているのだ。

社会的立場や思想的差異にかかわらず、まじめに、ごまかさず、社会と人生を見つめる人なら、「原子力の平和利用」は人類の今のレヴェルではNO!という結論しか出ないということを、フクシマは教えてくれたのではないか。

あなたの夫人・昭恵さんも言っておられる。

うーん、よくわかんないんですけど、やっぱり福島の現状を見ると人間がもう原子力をコントロールできなくなっているわけですし。それまでは原発で潤ってきてよかったかもしれないけど、あれがもう一度、同じような事故を起こしたら、やっぱり大変なことになるだろうなと思うんですよね。絶対安全って、ないんですよ。これからもどんな天変地異があるかわからない。そういう意味では、何かあった時に、本当にパッとコントロールできる、収束がすぐできるんだったらいいけどそれができないかぎり、やっぱり私は反対なんですよね

出典●http://www.asagei.com/9173

 

昭恵さんは上関の沖に浮かぶ祝島にも行かれて島の人々と交流されている。そういうことができる人をぼくは心から尊敬する。

ここはもともとあなたのお祖父さんの選挙区でもある。総理大臣に再登板される前の帰郷に際してたずねて長老たちの声に耳を傾ける度量を持っていただきたかった。

遅きに失するということはない。日本はやっぱり「脱原発」に踏み切ったか、と世界の人から見られることが、若者たちにも「愛するにたる日本」を手渡すことにつながると思うが、どうだろう。

参考・安倍昭恵さんのブログ●http://www.akie-abe.jp/index.php?ID=686

 

 


金芝河(キム・ジハ)と朴槿恵(パク・クメ)

2012-12-22 09:43:20 | 韓国・北朝鮮

金芝河は70年代前半にもっとも尊敬した詩人です。

詩「五賊」などを発表して朴正熙大統領の独裁体制を批判し、「死刑」判決まで受けた人です。

朴政権の弾圧と闘う中で日本人に寄せられたメッセージをぼくは心のよりどころとしていました。

「韓国の民主化は私たちが闘い取る。日本人にできることはない。日本人は日本の社会の民族差別などの課題に向き合ってほしい。私たちの闘いが生み出す思想があなたたちの闘いに力を付け加えることができるかもしれない」。

正確な言葉は忘れたがこんな趣旨だった。ぼくは70年ごろから学校や地域での民族差別を撤廃する取り組みに全精力を注いでいた。金芝河のメッセージに励まされて、韓国民主回復統一促進国民会議(韓民統)などの民主化運動とは意識して距離を置き、「在日朝鮮人生徒の教育を考える会」の創立に力を入れたものです。

その金芝河が朴槿恵候補を支持して大統領に押し上げる一助になったのです。言うまでもなく朴槿恵さんは朴大統領の遺子です。

あれから30年余。それぞれが過酷な人生を生き抜いて力を合わせるというのですからうれしいニュースでした。

何百万の国民を餓死させても自分の地位を守ることだけには狂奔する「北」の独裁政権。世界中を見渡してもこれほどの独裁国家は見当たりません。

新しい大統領が朝鮮半島に民主主義と人権を回復する不退転の闘いの先頭に立つことを願っています。金芝河をはじめ、韓国の民主化を闘ったひとびとが同じ隊列に立てばどんなにか心強いことでしょう。「民主化人士」の真贋が問われるときです。

母に続いて父の非業の死を見せ付けられ、「独裁者の娘」の烙印に苦しめられたはずの人が「大統領」になります。どういう人なのか?

ぼくは何も知りません。自叙伝があるそうです。読んでみたくなりました。

『絶望は私を鍛え、希望は私を動かす【朴槿恵自叙伝】』●

http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B6%E6%9C%9B%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%82%92%E9%8D%9B%E3%81%88%E3%80%81%E5%B8%8C%E6%9C%9B%E3%81%AF%E7%A7%81%E3%82%92%E5%8B%95%E3%81%8B%E3%81%99%E3%80%90%E6%9C%B4%E6%A7%BF%E6%81%B5%E8%87%AA%E5%8F%99%E4%BC%9D%E3%80%91-%E6%9C%B4%E6%A7%BF%E6%81%B5/dp/4891883529

 

 

【韓国大統領戦】

「恩讐を越えて」あの金芝河氏が朴槿恵候補を支持

2012.12.1 20:17 韓国

 【ソウル=黒田勝弘】1970年代の韓国の朴正煕(パクチョンヒ)政権当時、反朴闘争の抵抗詩人として国際的にも知られた作家、金芝河(キムジハ)氏(71)が、大統領選で与党セヌリ党の朴槿恵(パククネ)候補支持を“宣言”し話題になっている。故朴正煕の長女に対する「恩讐を越えて」の支持表明に左派文化人をはじめ野党陣営は「変節だ」と非難。金芝河たたきに懸命だ。

 金氏は朴政権時代に風刺詩「五賊」などを通じた反政府・民主化活動で逮捕され、死刑判決を受け投獄された。日本をはじめ国際的に救援運動が行われ、韓国を代表する反体制作家としてもてはやされた。

 朴大統領死後、80年に出獄。80年代以降は“生命運動”など伝統回帰の共同体主義的な考え方に傾き、政治至上主義的な闘争には批判的で左派とは対立することが多かった。

 今回の大統領選では「女性が世の中を率いる時代だ」などと語り、テレビインタビューや講演などで積極的に朴候補支持を主張。これに対し左派など野党陣営は「朴支持も政治的風刺か?」「頭がおかしくなったのではないか」など猛烈に非難している。

 左右対決になっている大統領選で野党の在寅(ムンジェイン)陣営は、父、朴正煕の反政府・民主化運動弾圧などマイナスばかり取り上げ、娘の朴槿恵非難に使っている。朴政権時代の政治的被害者である金芝河氏の朴候補支持は「過去との和解」であり、過去非難を続ける野党陣営には手痛い。


川島の白鳥と丸木美術館

2012-12-21 12:16:47 | 川越・近郊

今日は「冬至」。明日からは一日一日、日が長くなっていきます。それを思うとなんとなく気分が良くなってきます。

12月20日(木)晴

自転車で通勤するという幸雄くんのFacebookに背中を押されて、久しぶりに中距離走に挑戦することにしました。

風もなく越辺川の土手を快走すると、今年も白鳥たちに会うことができました。先日、新潟の福島潟や瓢湖でたくさんの白鳥やオオヒシクイを見てきたばかりですが、ここはここでいい。

まだ元気があると思われたので「丸木美術館」に行ってみました。

本橋成一さんの写真展「屠場」が開催中です。

大阪府松原市の屠場を撮った作品群です。昔、映画で見て授業でも紹介しました。父の鶏の解体を手伝った本橋さんの少年の日の回想文が印象に残りました。生きものを殺さなければ「肉」はできません。その肝心の活動が「文明の進歩」でますます見えなくなっていきます。これでいいのか、根源的な問いかけです。

展覧会の入り口に丸木位里さんの「牛」がいくつも並んでいます。見たこともない作品があって、なかなかの見ものです。

丸木美術館●http://www.aya.or.jp/~marukimsn/

スマさんの絵が毎月載っている2013年のカレンダーを買い求めました。世話になった各地の友人たちに贈ります。

事務局でみかんをご馳走になりながら総選挙の話をしました。一生懸命に「脱原発」に取り組んできた人々ですから、選挙結果が悔しくてなりません。

その気持ちはぼくとても変わりません。都知事選挙では400万以上の人々が猪瀬候補に投票したといいます。こればっかりにはびっくりしました。

なぜ「宇都宮」ではなく、「猪瀬」なのか?聞かせてもらいたいと思います。本当に良くわからないのです。


朴槿恵(パク・クネ)大統領の誕生

2012-12-20 08:25:45 | 韓国・北朝鮮

韓国の新大統領に朴槿恵さんが当選した。

僕は政権が「従北左派」に行かなくて良かったなあと思っている。

金大中・盧武鉉の左派執権中の10年間を思うとぞっとするからだ。北の独裁政権に迎合し、脱北者らの民主化運動を掣肘した。まるで北の代理人のような人たちが政府内部やTVなどの報道機関に巣食い、北の独裁者への批判さえ封じる始末だった。朴正煕元大統領時代に「独裁打倒」「民主化」を叫んだ人々の多くがこのような人だったのだ。

朴新政権がどんな風に「北」と向き合っていくか、注視していきたい。

朴槿恵vs文在寅の10大価値の衝突
~大韓民国の今後60年のシステムが決まる~
金成
(2012.12.17)

 

 1.朴槿恵セヌリ党大統領候補は北韓人権法に賛成し、文在寅民主統合党大統領選候補は反対する。
 
 2.朴候補の‘北韓問題特別補佐役’は北韓人権運動を行ってきた朴宣映前議員であり、文候補の‘統一政策特補’は駐韓米軍撤退-高麗連邦制を主張してきた林秀卿議員だ。
 
 3.朴候補は合憲的自由民主主義統一を宣言し、文候補は違憲的な‘低い段階の連邦制’と‘南北経済連合’を主張している。

 

 4.朴候補はNLL死守を表明しており、文候補はNLLを守ると言うものの北韓船舶の仁川往来を内容としてNLLを無力化させる仁川-海州直航路と西海平和協力特別地帯を主張する。
 
 5.朴候補は‘天安艦爆沈’と言い、文候補は‘天安艦沈没’と言う。前者は北側が加害者であることを内包するが、後者は一種の海難事故として認識する言葉だ。
 
 6.朴候補は“天安艦爆沈に対する北韓側の謝罪”を強調するが、文候補は“天安艦沈没に対して新しい政権の再調査”を主張する。
 
 7.朴候補は北の変化を条件とした対北支援を、文候補は条件のない対北支援を主張する。
 
 8.朴候補は国家保安法を守る立場だが、文候補は国家保安法の廃止を主張する。国家保安法が廃止されると、南韓で金日成銅像が建てられても金日成万歳が叫ばれても阻止できない。
 
 第19代国会で反国家団体•利敵団体や各種地下党事件に連累した国会議員は20人で、15人が民主統合党、4人が他の野党、1人がセヌリ党所属だ。
 
 9.朴候補は同性愛者を特別に保護する差別禁止法の制定に反対し、文候補は差別禁止法の制定を主張する。
 
 10.朴候補は、基督教学校の信仰教育の権利を認める立場で、文候補はこれを否定する。
先月29日、韓国基督教公共政策協議会(代表;田溶泰)が提案したキリスト教の10大懸案に対する各党の立場によると、朴候補側は宗立学校の宗教教育権を認め、私学の自律的運営を伸長させるための教育関連法令を改正し新しい法律を作ると積極的意思を表明したのに対し、文候補側はキリスト教学校で信仰教育を拒否する学生に他の教育を受ける権利を保障すべきだと主張した。

 *朴-文二人のこのような顕著な差異に対する韓国人の選択は大韓民国の今後60年のシステムを決める。
出典●http://www.gendaikorea.com/Pages/20121217_05_hon.aspx


新潟港 祈りと誓い

2012-12-19 15:08:26 | 韓国・北朝鮮

12月14日(金)曇

 午後一時過ぎ「あの日を忘れない!」第4回新潟港追悼集会開会。曇り空ながら無風の新潟港中央埠頭。

今年は北朝鮮を脱出してきたKさんが北朝鮮でであった日本人妻や残留日本人の窮状を訴えました。

(「新潟日報」12月15日)

この後、善光寺(長野市)から毎回来てくださる若麻績敬史師・福島貴和師・古田幸隆師の読経。帰国がかなわず無念のうちに落命した日本人妻らの鎮魂を祈ります。

 この日、在日コリアンとして追悼の辞を読むことになっていた洪大杓さんは一週間前に急逝しました。若麻績師らは洪さんの供養も併せて行ってくれました。目前の中空にあの笑顔が浮かんだように思いました。

北朝鮮・中国・韓国・日本と政権交代の年でした。この好機に日本政府が強いリーダーシップを発揮して時間がない人々の救出に全力を挙げてほしいものです。

 

 右から若麻績師 坂中英徳さん。移民政策研究所を主宰する坂中さんは「日本人妻等定住支援センター」を立ち上げて、日本人妻らの帰国をいつでも受け入れる体制を整えています。李敬宰さんや若麻績さんが脇を固めています。妻も応援団です。

僕も元気に生きて帰国したおばあちゃんたち(おじいちゃんも居られるかな)の故郷訪問に付き添ってあげたいなあ。この写真を撮ってくれた娘も、その夫君も力強いサポートをしてくれるだろう。来年こそ!

    

 


李敬宰(い・きょんじぇ)さん 共生の家

2012-12-18 11:25:57 | 在日コリアン

12月14日(金)曇晴雨

 追悼集会のあと宿に向かう途中で福島潟を見学した。奇跡的に晴れて夕空が美しい。

 

 オオヒシクイがあちこちの田んぼから帰ってくる時間だった。この鳥の名の由来を教えてやろうと思ったら敬宰さんも栄子さんも子ども時代に「ヒシ」の実を食べた体験の持ち主で先刻承知のようだった。僕は去年ここで知ったばかりで、食べたことはない。

 月岡温泉の宿はよかった。敬宰さんと露天風呂に入った。硫黄の程よい匂いが漂う温泉らしい温泉だ。話を聞いているうちに長湯になった。

 敬宰さんは大阪府高槻市で「共生の里」を運営する会社の社長だが近年「高齢者住宅」というものを始めた。先日、入居者のお年寄りがここで天寿を全うした。病院との連携を保ちながらスタッフに看取られながらの大往生だったらしい。

 無駄で高価な終末医療から解放されて、家族に看取られながらやすらぎの最期を迎えたい、多くの人の願いである。それを「共生の家」のスタッフが家族代わりに実現するのである。本当にそんなことができるのかと僕などは思ってしまう。親の介護をしたこともなければ家で看取った体験もない。

 敬宰さんとスタッフにとってもはじめての体験だった。敬宰さんは「大往生」に協力できて良かったと心から思っているが、人の死を看取るということ自体に初めて直面する若いスタッフにとっては厳しい体験であったろう。泣き崩れてしまう人もいたらしい。

 このたびの試練を生かして人生の最期まで共生の理念で貫かれた介護を実現すると敬宰さんは自分たちのやる事業に自信を深めたようだった。

 敬宰さんは高校生のときから自分の住む成合という地域でコリアンの子ども会をやってきた人である。壮年期になって老人介護施設の運営が仕事になった。言う言葉が面白い。

「子ども会も老人介護も、皆さん、一緒に力を合わせて生きていきましょうという活動で、おんなじこと。子ども会はボランティアでそんなことは迷惑だといわれたこともあるが、老人介護は感謝されるばかりで、お金までもらえる。こんなありがたいことはない」。

敬宰さんとの付き合いは30余年になる。高槻を訪ねて子ども会の日常を何度か見せてもらったが、温泉に浸りながら実践報告を聞くのは初めてだ。「敬宰(きょんじぇ)らしい人生を変わることなく切り拓いているなあ」。僕は良い友を持った喜びで身も心も芯まで温められた。

 夕食時には敬宰さんが小さい頃から百姓仕事をしてきたことを知った。お父さんが友人から借りた田んぼ3反を作り続けて一家を食べさせてきたのだという。今は米以外に野菜も作っている。「育てる」喜びを感じているようだ。耕作面積を増やしたいが耕作放棄地でも地主がなかなか貸してはくれないらしい。

 女性たちとの会話を聞いていると料理への関心も僕とは比べ物にならない。利用者たちの日々の給食の責任者でもあり、あれこれと心を砕くからであろう。近く、友人が開く「北朝鮮料理」の講習会に出向くとか。

 敬宰さんと。新潟・瓢湖。12月15日

 参考・「共生の里」http://kyouseinosato.co.jp/service/agedhouse.html


衆議院選挙結果

2012-12-17 10:47:24 | 政治・社会

衆議院選挙が終わった。自公で衆院の3分の2を占めた。「維新」が比例区で第2党になった。

東京都知事選挙では「石原後継」の猪瀬候補が400万を越す圧倒的な得票。

      ※当日有権者数:10,619,652人 最終投票率:62.60%(前回比:+4.80ポイント)

候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
猪瀬直樹 66 無所属 4,338,936票 65.27% 公明党日本維新の会支持・自由民主党支援
宇都宮健児 66 無所属 968,960票 14.58% 日本未来の党日本共産党社会民主党緑の党新社会党東京・生活者ネットワーク支持
松沢成文 54 無所属 621,278票 9.35% なし
笹川堯 77 都民のくらしを守る会 179,180票 2.70% なし
中松義郎 84 無所属 129,406票 1.95% なし
吉田重信 76 無所属 81,885票 1.23% なし
トクマ 46 幸福実現党 47,829票 0.72% なし
マック赤坂 64 スマイル党 38,855票 0.58% なし
五十嵐政一 81 無所属 36,114票 0.54% なし

 これからの国政も都政もどういうことになるか、僕は重苦しい気分である。

 

川越市選挙管理委員会の発表した川越市民の投票結果。全国的な傾向と大差はない。

①投票率は56%  なんということだろう。二人に一人しか投票しなかった。

②小選挙区 神山さん(自民)の当選。自民公明の基礎票を集めて新人だが余裕の当選。予想通り。無名急造の「維新の会」の候補の得票が結構多い。現職だった小宮山さんは刺客・島田さんに食われて落選。比例区で復活。

③ 比例区  「維新の会」が第2党。僕が支持した「未来の党」は「みんなの党」にも及ばなかった。

小選挙区選出議員選挙(埼玉県第7区 川越市)
1時25分現在(開票率100%)

届出番号

候補者氏名

届出政党

得票数

こみやま 泰子

日本未来の党

32,694

かみやま 佐市

自由民主党

48,803

矢口 健一

日本維新の会

30,536

長沼 ちね

日本共産党

12,110

島田 ちやこ

民主党

26,792

※候補者氏名は、立候補の届出順に通称名で記載しました。

有効投票数
150,935
無効投票数
6,255
持ち帰り
1


比例代表選出議員選挙(北関東選挙区 川越市)
1時55分確定(開票率100%)

届出番号
政党名
得票数
日本維新の会
29,284
公明党
21,978
みんなの党
16,090
社会民主党
2,869
幸福実現党
420
自由民主党
34,957
民主党
23,617
日本共産党
10,676
日本未来の党
14,334
※政党名は、届出順に記載しました。

有効投票数
154,225
無効投票数
2,920
持ち帰り
3

 

比例代表選出議員選挙(北関東選挙区 川越市)

当日有権者数 男 140,539人 女 140,041人 計 280,580人

 

投票者数(人)

投票率(%)
 
確定 80,190 76,958 157,148 57.06 54.95 56.01