川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「誠実」とはこういうことか

2008-02-29 22:28:42 | 友人たち
心に残った文章を紹介します。

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 手前味噌になりますが、2人には、日本に関心を持ってくれている若い人に、少しでも、生の日本語に触れる機会を作ってあげたい、正しい日本や日本人の姿を紹介したい、という確固たる信念がありました。
父の根っからの教員気質はもちろんですが、旧満州で生まれ育ち、父親を中国の地で亡くしている母は、ボランティアに関わることで、少しでも、中国への恩返しと償いができれば、という気持ちが強かったようです。

「誠実」とはこういうことかと、2人の姿を見ていて思います。
それぞれの国、地域のやり方を受け入れつつ、常に自分たちにできることを考え、実行する。課せられた責任は、どんなことがあってもきちんと果たす。
どの学生にも愛情を持って接し、授業のみならず、普段の生活においてもよき相談相手になる。自宅を開放し、日本語サロンのような状態を提供する。これを11年間ずっと続けてきたのですから、我が親ながら、すごいことだと思います。
時にそのまっすぐさを、「そこまでしなくても」と歯がゆく眺めることもありましたが、2人の蒔いてきた種は、あちらこちらで芽を出し、教え子の中には、外交の担い手として、日本語の研究者として、日本企業の第一線で働くビジネスマンとして、立派な木に成長した人も多いです。
卒業して10年経っても、日本のお父さんお母さんと慕って連絡をくれる教え子たちを見るにつけ、両親は、本当に充実した素晴らしい第二の人生を送ってきたんだなあと、誇らしい気持ちになります。
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 これは田端克敏・道子夫妻の娘さんが書かれた文章の一部です。(全文はhttp://blog.livedoor.jp/gongyukari/archives/51536719.html
 
 田端さんは僕が教員になったとき、大島で世話になった同僚です。餃子を食べられない僕のために餃子をつくって御馳走してくれたり、結婚して妻が大島に来たときには五目寿司をつくって歓迎してくれました。
 55歳で教員をやめ、中国各地やタジキスタン、マガダン(ロシア)などで日本語教師を続け、昨年から山東大学で働いていました。もともと「国語」の教員ですが書の大家でもあり、その授業はきっと彼の叡智の結晶だったことでしょう。
 昨日、その田端さんから病気のため、大学を辞したとの便りをいただき、慌ててご夫妻のブログを開いたのです。11年に亘るボランティア活動の無理が、ドクターストップにつながったのでしょう。
 上の文章は今、広東に住む娘さんが山東大学のご両親の旧居の後かたづけに出向いたときに書いたものです。病を得て、仕事を途中で辞す他はなかった親たちに代わって引っ越しの荷物をつくる娘さんの気持ちが伝わってきます。
 「誠実とはこういうことか」。僕もまた、二人の歩みを想像しながら、この言葉を反芻しました。
 療養に努め、健康を恢復されることを願うばかりです。

 田端ご夫妻のブログ・済南の風 
    http://www5e.biglobe.ne.jp/~tianduan/

幹部職員の義務 沢山保太郎さんのブログ

2008-02-28 07:56:47 | 政治・社会
高知県東洋町の沢山保太郎町長のブログ(2月24日)
を紹介します。少し長いかも知れないけれど読んでみてください。
 
 高レベル放射性廃棄物の東洋町での騒動について幹部職員の責任

 http://sawayama.cocolog-nifty.com/blog/


 町民が未曾有の核騒動の中で右往左往しているとき、前町長のいいなりになって幹部職員としての義務を果たさなかった人たちへの沢山さんの強い問いかけです。

 「圧倒的多数の町民が必死にふるさとを守ろうとしているときに、一度も自分の意見を表明せず、汲々として自分の身分のみを考えていた、そういう公務員であったということについて、これから一生考え続ける必要があると思う。」

 僕は40年に亘って末端の公務員でありました。幹部ではありませんが「全体の奉仕者」としてその責務を果たし得たか、と思うことがあります。とくに残留孤児問題の最先端ともいうべき学校にいて、子どもたちや親の期待に応えられたかと自問すれば汗顔のいたりです。自分では精一杯やっているつもりでも結果は惨憺たるものでした。今もこれらの人々とささやかであっても共に歩いているのは問題が何一つ解決されていないからです。
 東洋町の課長連中だけではありません。たとえば都立高校の校長です。石原慎太郎知事の下、教育委員会が憲法をはじめとする法秩序を公然と無視し、やりたい放題の学校運営をしています。僕は組合や教員の言い分が100%正しいとは思っていません。厳しい選別体制のもと、勉強嫌いになった子どもたちを平然として切り捨てていく教員のなんと多いことか。そういう人たちが自分たちが弾圧され始めたら、生徒の味方面をするのは笑止千万です。
 しかし、多くは真面目に子どもたちと向き合っている「先生」達です。ぼくが悩んだと同じように、どうしたら日々の授業が意味のあるものになるのかと苦悶している人も少なくないでしょう。そのような若い教師の悩みに耳をかたむけて、どう生きたらよいか、語り合ってくれる坊城俊民さんのような校長はどこかにいるのでしょうか。
 都知事や教育委員会の命令に唯々諾々と従うだけの校長たちの存在を許してはなりません。教職員も生徒も親もそして私たち市民も東洋町の町民と同じようにNOという声を突きつけていかなければなりません。核のゴミを一方的に持ち込むことも、上意下達の教育を確立することも、ともにほんとうに怖ろしいことです。幹部職員たちよ、校長たちよ、自分の職責に怯えよ。

 

花見バス

2008-02-27 13:57:36 | 出会いの旅
 僕が世話人をしている<きいちご多文化共生基金>で「花見バス」を実施することになりました。このブログを読んでくださる方の中で関心がある方はどうぞ参加してください。きいちご基金は中国残留孤児とその家族、脱北帰国者との交流を深めることを主たる目的にしています。
  
        きいちご花見バス

 集合 3月30日(日)7時50分(8時出発)
 集合場所  JR(山手線)日暮里駅下車(北口)
       噴水広場
 費用 自己負担は旅行保険料(ひとり100円)のみ。
    バス代金などはきいちご基金が負担します。
 行き先 桜の開花状況を見て決めます。
    房総半島(千葉県)か、三浦半島(神奈川県)か、な?
 持っていくもの 昼食弁当  レジャーシート
 雨天の時  決行(みんなで楽しめる屋内施設)
 申し込み  3月9日(日)までに鈴木啓介まで
    参加希望者の氏名・生年月日・住所・電話番号を
    家族単位で知らせてください。
    移動教室に参加したことがある方は氏名のみでOK.
   電話・FAX 049-224-4646
   又は メールで keisukelap@yahoo.co.jp

 今回は移動教室ではありませんのでお勉強(社会見学)はありません。バスが出発すればもう宴(うたげ)です。春の一日、楽しく過ごしましょう。
 なお、第7回きいちご移動教室は5月下旬に栃木県足尾方面に出かける予定です。こちらは改めてご案内します。

 2月も終わりに近づき、春の陽の待たれるこのごろです。1971年3月池袋商業高校卒業生のクラス会の報せが届きました。東京教育大学新聞会卒業生総会の企画も進行しています。僕は法律政治学の卒業ということになっていますが是は表向きで、本当は授業にはほとんど出ていません。何かを学んだとすればこちらの方です。懐かしい人々と交流できる日を楽しみにしています。
 花見バス、第7回移動教室の企画など僕も交流の場をつくる楽しみを味わっています。春よ、来い。






 

奄美大島(5)西郷隆盛

2008-02-23 09:10:06 | 出会いの旅
 きのうは街に出て、古本屋で元ちとせのCDを買ってきました。奄美では高くて手が出なかったのです。昼寝をしながら聞きました。枕元に奄美で買ってきた本が2冊。ときどき開いています。

 『奄美、もっと知りたい』 神谷祐司著 南方新社
 『奄美の債務奴隷 ヤンチュ』 名越 護 南方新社

◎奄美は山ばかり  リアス式の海岸続きで村と村の間の海岸には道がありません。むかしは船で結ばれていたのでしょうか。それぞれの村の独立性が高かったに違いありません。今は結構高い山道を超えます。村は入り江に面しており立神(たちがみ)と呼ばれる形の良い岩が沖合にたっています。http://blog.goo.ne.jp/vagabond67/e/0008aca57039fbd5465980bef2b5c850

◎一字姓 
 村を歩いていると渡さん、隆さん、勇さん、などという表札が出ています。お墓にも龍・里・芝などの姓が見受けられました。勇さんなどは僕の感覚では姓ではなく名前です。なぜ?のままで帰ってきました。
 先の本に答えがでていました。薩摩藩が奄美を支配していく際、島の支配層に苗字を許し取り込んでいったわけですが、対外的には奄美は琉球王国の支配地という形を取って薩摩の直接支配を隠したのだそうです。明、清が琉球との交易を断つのを薩摩藩が恐れたというわけです。一字姓は中華帝国圏の文化の象徴です。そういえば琉球の王様は尚さんでした。
 1923年の関東大震災の時には、東京在住の奄美出身者が朝鮮人や中国人にまちがわれ、一字姓に「卑屈」を感じて、以後二字姓に改姓する希望者が出たとのこと。震災時にたくさんの朝鮮人が虐殺されたことは痛恨事ですがこれは初めて知ることです。戦後のアメリカ軍政時代(45~53)は手続きが簡単で、二字姓が増えたそうです。
 
 
◎「敬天愛人」に「?」
 僕のどこかに西郷隆盛を尊敬する気持ちがあります。大久保利通よりずっと好きなことはたしかです。ですから奄美でも、到着直後に龍郷町龍郷を訪ねました。西郷が島流しにされたとき住んだという家のあとがあります。入場料を払うほどのものではないと思って外観を見ただけですが。
 2冊の本をぱらぱらめくっているとこの島の人たちの西郷に寄せる思いは複雑なことが伺われます。西郷は「島妻」愛加那が生んだ二人の子を後年、愛加那から奪い、手紙の一通も書かなかったといいます。
 また、西郷は明治維新後も島津藩が奄美の砂糖の専売制度を維持することを主張し、それによって奄美の人々から絞り上げた大金が西南戦争の軍資金にもなったとか。専売制度の撤廃の嘆願に来た人々を監獄にぶち込み、挙げ句の果てには若い嘆願団員を強制的に西郷軍に従軍させたとも。
 幕末には島の人口の20%から30%がヤンチュといわれる債務奴隷にされたという薩摩の過酷な奄美支配についてはこれから勉強しようと思います。鹿児島でも奄美でもタブーにされてきちんと研究されてこなかったことだといいます。一体どういうことでしょう。西郷もまた、いや、西郷こそ、維新後も続く奄美の人々の黒糖地獄の元凶であったとすれば僕の西郷認識も本当にいい加減なものです。
 
 西郷隆盛と奄美 http://amami.vqj.jp/amami/history8.html
 ヤンチュ http://news.livedoor.com/article/detail/2951380/
 

奄美大島(4)秋名の里

2008-02-22 10:45:35 | 出会いの旅
  2月20日(水)
 朝から小雨なので、奄美博物館でゆっくり勉強したあと、奄美の最高峰・湯湾岳に向かう。途中、マテリヤの滝を見学。このあたりから道の両側に素晴らしいヘゴの林がつづく。年間3000mmに達するという雨の恵みがもたらす景観だろう。奄美の写真を撮り続けてきた浜田太さんはこう書いている。

 
 奄美の森を撮り続けて20年の歳月が流れた。はじめの頃は、「南の島だから青い海と白い砂浜こそが奄美の自然だ」との思いから、海周りだけにカメラを向けていた。
しかし、奄美の自然の象徴的な存在であるアマミノクロウサギとの出会いから、次第に彼らを育む森の魅力にとりつかれていった。そこにはハブという守り神に守られた豊かな森が広がっていたのである。恐竜が繁栄したジュラ紀を髣髴させるヒカゲヘゴや着生植物のオオタニワタリ等の植物。アマミノクロウサギやルリカケスをはじめとした固有の動物達。これらの貴重な動植物を太古より育んできたのは、豊かな森と年間3000ミリを越える雨であった。その豊かな森と豊かな海は、水という地球の血液で繋がっていてすべての生命を育んでいることが分かった。これこそが地球が46億年かけてようやく辿り着いた究極のエコシステムなのだ。南の島の小さな自然から地球が生命体であることを学んだのである。(写真集『奄美ー光と水の物語』小学館)

 雨は上がったが展望公園からの展望はきかず、ここから50分くらい歩くという湯湾岳(694m)山頂は他日にする。帰りは大金久という村に降りたが、途中の植生の豊かさは格別である。
 
 名瀬のお好み焼き・満月でおそい昼食。
名瀬港を左に見て、龍郷町秋名に向かう。此処はヤドリ浜のホテルで見た本(『村 奄美・ネリヤカナヤの人々 』 浜田 太 (著) 南日本新聞社) によれば、奄美では珍しく稲作が続く村で、昔ながらの祭りも行われているとか。車を運転する娘が、とっておきの場所として連れて行ってくれた。
 里に下ると広々とした水田地帯だが、耕作放棄で荒野も目立つ。学校に行けば村のことが解るかと、秋名小を訪ねる。教育委員会の学校訪問で取り込み中で、若い教頭さんが黒糖工場の所在を教えてくれる。
 里のはずれの山際に製糖工場があった。若々しい馬が一頭、飼い葉桶の草をはんでいる。人気がないので勝手に入り込んで馬に挨拶。サトウキビ畑の一隅に広場があり、此処でキビ絞りを行っているようだ。今でも馬が発動機代わりなのだろうか。
 僕らがブラブラしているのに気づいた畑仕事中の方が、仕事の手を止めてやってきてくれた。山田さん。若いときは大阪に出ていたが、今は此処でパッションフルーツを生産しているという。製糖の仕事をしているのは友人の奥さんで、大島紬の図案家なので、土日だけ観光客相手に、馬を使ったキビ絞りをみせているらしい。

 馬を使ったキビ絞り
   http://www3.pref.kagoshima.jp/kankou/touris/shosai/1108/

 私たちのためにわざわざサトウキビを取りに行き、手頃な長さに切って食べさせてくれた。子供の時以来だが、歯の悪い僕はまねごと程度。でも、結構ジューシー、あまい。東京は中央区京橋育ちの義母も挑戦、遠い昔の記憶を呼び起こしていた。別れに際し、山田さんは何本もサトウキビをお土産に持たしてくれたばかりか、畑のパパイヤの実まで採ってきてくださった。
 山田さんと別れて、山辺を廻って帰途につく。スモモが花盛りの畑を見つけた。奥の方にはタンカンの畑もある。路上に車を止めて、妻が働いている方に断りを入れて写真を撮る。帰ろうとする私たちの車の所まで、畑の奥の方からタンカンを抱えてやってくる女性がいる。持っていきなさいという。びっくりして、「埼玉から来ました」と挨拶を返すと、「娘が白岡に住んでいます。ちょうど、帰っているところです」といって、更にたくさんのタンカンを車に押し込んでくれる。なんということだろう。角を曲がって車がやってきた。私たちは名前を伺う機会を逸したまま、急いでそこを離れた。すれ違った車のドライバーは若い女性だ。赤ちゃんも乗っている。きっと白岡から帰ってきている娘さんなのだろう。
 これ以上のものはないお土産を秋名の里の人々にいただいて、空港に向かう。妻と娘は前夜の二次会で、安木屋場(あんきゃば)の渡連キャンプ場の人からこのあたりの祭りの様子を詳しく聞いたらしい。そのキャンプ場を左に見る。右手にはソテツの山。山頂に至るまで凡てこれソテツ。ホタルの頃がいいか、祭りの頃がいいか、この島にまた来たいと思う。

 秋名の里の祭り http://blog.goo.ne.jp/vagabond67/e/f135e78fe1db1d5544426155c7e2b83a 

奄美大島(3)嘉徳

2008-02-21 17:09:10 | 出会いの旅
 昨夜、11時川越に帰りました。飛行機も順調で予定より少し早めです。今日は朝から好天ですが僕はごろごろ。そこへいくと89になる義母は達者なものです。今日は老人会の集まりに行っているらしい。
 奄美南部のリゾートホテルにはパソコンがあったので、思いがけず、ブログが出来ました。3日目は奄美の中心都市・名瀬のシティーホテル泊まりでしたが、そのような備えはありません。忘れないうちに書いておきます。

 2月19日(火)
 北部に向かう途中で地図を見ると、瀬戸内町の北東部の山中に<ヘゴ自生地>と書いてあるのでいって貰うことにした。僕は数年前、鹿児島県の大隅半島を訪ねたとき、地図の上に<ヘゴ自生北限地>を見つけ、迷い迷ってようやく、「ヘゴ」という植物に巡り会った。それ以来である。こんな感じの植物でシダの一種。
 
 ヘゴ http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/hego.html
 
 道からは遙かに遠い谷筋にヘゴは見えはするもののとても近づけないので、嘉徳という村の小学校を訪ねて在処を聞くことにする。山を降りた所にある海辺の村である。入り口には嘉徳小学校とあるが人気がない、廃校である。勝手に入り込むと「創作空間ムンユスイ」とか「ギャラリー嘉徳」などという表示板が懸かっていて、絵や写真を展示した部屋がある。校庭には辺り一面に枝をはった巨木がたち、絵の中にいるような気がする。
 あきらめて帰ろうとしたときに、隣接した家から私たちの声に気づいたご夫婦が現れ、お茶を誘ってくれた。
 堀晃(ひかる)という画家とお連れ合いだった。娘が丸木美術館で働いていることを知ると旧知のように会話が続く。広島大学の学生だった頃、丸木位里さんの作品との出会いがあったという。
 山口県に生活の本拠があるが2005年から、年に半分くらいはこの廃校に住み、絵を描いている。06年11月には「水のゆくえ・風のすみか」というサブタイトルの絵画展を、この廃校あとのギャラリーで開いて町民にお披露目をしたらしい。そのとき、教育委員会が全世帯に配布したというチラシに載っているのは、ここから見える山と空の気配を描いた作品である。この島では田中一村を知る人も少ないが、美術家を目指す青年が訪ねてきたという。堀さんは此処がそうした青年達のアトリエになることを期待しているようだ。
 元ちとせという歌手が此処の卒業生だという。ヘゴの在処を教えて貰って、村内を少し歩いてみた。美しい入り江に面した他から隔絶した小さな村である。このひとのことをもっと知りたいと思う。
 
 旧嘉徳小学校と元ちとせ   http://iurico.tblog.jp/?eid=18111

 ヘゴの群落は山を二つぐらい越した谷間にあった。橋のたもとから藪をこいで川に降りると見事なヘゴの林。圧倒され、感嘆の声が響く。上がってから橋の名前を見る。「大辺蛇(おおへんじゃ)橋」。
 ここらはハブの住むところであろう。2度と立ち入る勇気はない。思わぬ出会いと見事なヘゴ体験に満足して、名瀬に向かう。きのうとは違っていつ降り出すか解らない曇天だが、私たちの心は軽い。宇検で遅い昼食。今里からは東シナ海の風光を楽しみ、大和村の環境省奄美野生生物保護センターではアマミノクロウサギについて勉強。堀さんの所にしばらく滞在すれば出会うことが出来るかもしれない。
 名瀬では居酒屋「若大将」でささやかな宴。僕だけは早退して休む。

奄美大島(2)カヌー

2008-02-19 07:22:34 | 出会いの旅
 18日(月)
 ホテルからホノホシ海岸まで歩く。奄美大島の東南端、北海道礼文島の桃岩を思い出させる岩の向こうに太平洋。波打ち際まで降りて潮をなめる。テーブルさんごのかけらを並べて浜辺に彼女(?)の名前を書いた人が居る。祷は通じただろうか。8月(旧)には海の向こうのネリヤカナヤから神様がやってきて村人と一緒になって踊るという。園地で野の花を観察し満たされた時を過ごす。

 ホノホシ海岸 http://amamicco.net/amami/amami05.html

 蘇刈(そかる)という集落に車を停め、村内を散策。菜尻(さいじり、自家用の畑)の手入れをするおばさんにあう。子供たちは古仁屋の町に住んでいて一人住まい。このあたりはにんにくの栽培が収入になるらしい。
 公民館の脇に立派な土俵がある。沖縄と同じで集落に神社がない。ここが村の行事のセンターなのであろうか。コロンビアの日本人学校の校長だった方が立てた二宮尊徳の像もある。前の浜は白砂の絶景。青松ではなく、アダンの巨木などが防潮林を形成している。森の中に入ると昼なお暗く、果物や野菜の倉庫として使われているようだった。

 蘇刈 http://pg.amaminchu.com/wankya/wankya_index.html


 古仁屋の町でご馳走を買って、高知山展望台へ。一気に400M余りを(車で)登る。コンクリート製の灯台のような建物を登る。目の前に広がるのは大島海峡。加計呂麻島。その向こうに徳之島が見えるというが今日はかすみの中。陽光燦燦、風もなし。
 この絶景の展望台で昼食。4人がすわればいっぱいになる。さっき、「つきあげ」を買った古仁屋の上原かまぼこ店が眼下に見える。展望台のすぐ下に、ヘゴの木が大きく葉を広げている。これから葉になっていく新芽のふくらみが柔らかそう。こうやってヘゴの大木を俯瞰する醍醐味。僕たちはただただ感動。油井岳展望台を経て今度は一気に下る。篠川湾に壁のようにそそり立つケーソン運搬船を見る。

 高知山展望台 http://amamicco.net/panorama/pan_kouchi.html

 役勝川の出口に広がるマングローブの森を訪ね、カヌーに乗る。妻と義母は遊覧船に。大島高校の卒業生だと言う青年が船頭とガイドを務めてくれた。
 カヌーは初めてだが流れに任せて漕ぐと自由自在に進む。やがてメヒルギの芽が川面に顔を出しているところに来る。発芽した種子が枝から落ちて泥に着床して成長するのだという。
 漕ぎ進むとトンネルのような所に出る。両岸に亜熱帯の森。
 数年前、西表島でもマングローブの森を見た事があるが、カヌーで水面から見るとまた格別の感じがする。
 このまま流されて太平洋に出てもいいかと思うくらい、気分のいい汽水域の風景である。自然と一体になった気がした。

(途中で腕時計を川の中に落としてしまった。拾おうとすればカヌーが転覆してしまうのであきらめていたら、船頭の青年が拾ってくれた)

 マングローブ茶屋 http://amamimangrove.blog62.fc2.com/blog-da200802.htmlte-
 古仁屋高校に勤めたことがあるTくんからホテルに電話を頂いた。今は鹿児島に住むが、かつて大島海峡の素晴らしさを教えてくれた友人である。
 昨日のことを話すと、とても喜んでくれた。

奄美大島(1)田中一村

2008-02-18 08:51:04 | 出会いの旅
 17日(日)11時奄美空港着。近くの鹿児島県立奄美パークの田中一村美術館見学。この人の絵はかつて栃木市で見たことがあり、晩年を過ごした奄美に行って見たいと思わせてくれた。南国の風景と植物を曼荼羅に仕立てたような渾身の作品があった。芭蕉やクワズイモがいい。奄美に来る前にさまよったという旅行の途次、室戸岬にも立ち寄っていて、岩の向こうに見える海を描いている。1955年のことであるという。室戸の皆にも見せてやりたい。
 貧窮のうちに無名のままでこの地で死んだ一村。この豪華な美術館は彼に似つかわしいとは思えないが、奄美の人々の思いを込めたプレゼントだろう。

 孤高の日本画家 田中一村    http://www.ne.jp/asahi/yoshida/gaia/tanaka/frm.htm
 


  昼食は鶏飯(けいはん)。ご飯に鶏のささ身などを乗せおつゆを掛けて食べる。コレがなかなかおいしい。
 一路南下して、南端のヤドリ浜というところにあるマリンステーション奄美というホテルにつく。目の前に大島海峡を隔てて加計呂麻島が見える。離れの五右衛門風呂。ポンプで水をうまえながらはいる。海面が数メートル先。ゆっくりゆっくり夕日が落ちてゆくのを待つように。

 義母、私たち、娘。春の気配を尋ねての奄美の旅の始まりである。昨夜は12時間近く休んだ。今日も好天。どんな一日になるのだろう。

 マリンステーション奄美 http://www.marinestation.jp/

「母(かあ)べえ」

2008-02-16 16:46:30 | 映画  音楽 美術など
 
15日午後、定期検診のあと、池袋で『母べえ』を見てきました。1940(昭和15)年、日中戦争(当時は「支那事変」)が行き詰まり、「大東亜戦争」に向かう頃の東京が舞台です。(やがて四国の片隅でぼくも生まれます)。治安維持法違反で捕まり、獄死するドイツ文学者の家族の物語。
 母べえ(吉永小百合)と二人の娘(初べえ・照べえ)に注ぐ山田洋次監督の目が優しく、寅さんを見ているような心地よさがありました。母べえがその臨終に際し、「もうすぐ父(とう)べえにあえるね」という照べえに対し、「生きている父(とう)べえに会いたい」というところが繰り返し思い起こされます。そうだっただろうな、と。信頼で結ばれた妻と夫、父と子、母と子。
 馬鹿正直にしか生きられない人々への山田さんのラブコールに涙があふれる。

 明日から家族で奄美大島を訪ねます。3泊のうち、2泊は南端のヤドリ浜というところ。大島海峡を渡って加計呂麻島にもいけるかもしれません。そういえば寅さんのロケ地もあります。
 と、いうわけで明日から4日間はブログを休みます。一足早い春の便りをどうぞご期待ください。

六十路の会

2008-02-13 18:17:20 | 友人たち
 小池さんのコメントをいただいて、六十路の会を思い出しました。在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会の世話人にはどういうわけか1941(昭和16)年生まれが多く、50になった祝いを自分たちでやったのが始まりです。還暦を祝って六十路の会をやって6年がたちました。
 今回は70年代に世話になった佐藤勝巳さんが昨年限りで『現代コリア』(月刊誌)を終結させたと聞き、慰労をかねてお互いに交流しようということにしました。2月2日、川越の奥座敷「小沢屋」に集う者、佐藤さんを含めて9名。50代の方も二人。11時から夜の9時まで(2時過ぎに閉会、後は我が家に来ていただく)飽きることなく交流が続きました。こうして佐藤さんと心おきなく議論するのは四半世紀ぶりです。
 私たちが学校の中の民族差別に気づき、近くの朝鮮高校に交流を求めて話し合ったり、都教委に問題提起をしたり、差別事件の糾弾に取り組んだりしたときに、佐藤さんは常に側にいて、一緒に歩いてくれたのです。佐藤さんは一回り上の「巳」で当時40歳代、僕らは30代。日本朝鮮研究所を主宰され、月刊誌『朝鮮研究』を発行していました。この頃の主要なテーマは「民族差別との闘い」です。
 佐藤さんたちの研究は在日2世の生活現実や意識から深く学び、共に闘う道筋を明らかにしようとする、実践に基づくそれでした。在日朝鮮人に対するなんの知識も持ち合わせていなかった僕は、この十年の歩み中でいくらか想像力を働かせる力を身に附けられたのかも知れません。少しは自分の考えを持つようになったのです。
佐藤さんを抜きにして今の僕はありません。他の方々もそれぞれに濃淡はあっても影響を受けているはずです。
 80年代のある時から佐藤さんのテーマは「北朝鮮」になり、誌名も『現代コリア』となりました。90年代になると拉致被害者救出運動の先頭に立たれます。病気もされましたが立ち居振る舞いも声の張りもとても80近い人には見えません。北朝鮮の独裁政権と対峙し、被害者を取り返す闘いのただ中にいる人です。青年期、船に乗っていたときには北九州のやくざと渡り合ったといいます。その人生は常在戦場といえるかと思うほどです。
 佐藤さんが偉いのは、自分と対立する人ときちんと向かい合うことです。70年代には朝鮮高校生と対立する国士舘の学生と。さらしを巻いて出かけたと聞いたことがあります。僕であればきっとびくびくして回避したことでしょう。04年には私たちの求めに応じて、北朝鮮問題で和田春樹さんとの公開対論に出てくれました。
 六十路の会でも議論になることに期待を寄せて居られたようですが、あるはずの意見や立場の相違をはっきりさせるような討論にはならなくて、残念そうでした。問題は後輩である私たちにあるようです。ふだんは公然と佐藤さんを批判している人が、本人を目の前にして議論が出来ないのです。坊城さんの手紙に「対決の上に創造が生まれる」という言葉がありました。討論という方法が最良とはいえないかも知れませんが、相手を前にして率直な言葉を交わすことをしないというのは、他者も自分も大切にしていないということです。残念至極です。
 拉致問題、北朝鮮帰国者問題、どれをとっても衆知を結集して立ち向かわなければ解決の糸口をつかめません。佐藤さんの考えや取り組みをこれまで以上に学びながら、自分たちの考えや取り組みをささやかでも作り出していきたいと思います。

 佐藤勝巳さんの考えを知るためのブログ。<現代コリア>
 http://gendaikorea.com/20080212_2_satou.aspx

坊城俊民校長からの手紙(6)「評価」

2008-02-12 11:45:12 | こどもたち 学校 教育
 僕の手元にいまも保管されている坊城校長からの手紙の紹介は今日でおしまいです。順番からいうと今日のが一番早いものだと思われます。
 1970年度も3学期になって「成績評定」のあり方等について、僕が職員会議に提案したことがあります。評価のありかたにも問題はありますが、僕が一貫して問題にしたのは「評定」のほうです。学年末に「1」から「5」までの数字で附けます。この数字が20年間、指導要録に記録され、内申書などに転記されます。就職や進学の際、選抜の資料として今も利用されています。また、当時の池袋商業高校では一科目でも「1」がつくと進級や卒業が不可能とされていました。
 僕の提案内容は今はっきりとは記憶していませんが、自分の担当する「政治経済」は全員「5」とする、卒業に必要な単位数を99単位(全科目)ではなく学習指導要領に定める85単位とするなどではなかったかと思われます。

鈴木啓介様
 きのうの職員会議はあと味が悪かった。だから、僕の気持ちを、先生方に手紙で書こうと思う。そうして、本当のことをいえば、問題は会議以前にあると思う。日常、同じ職員室にいながら、「君の考えはまちがってはいないか」という率直な会話がおそらくないのではないだろうか。それをがまんして、日常はだまっていて、突如会議に出すから、提案理由の裏の裏が見えたりして、おもしろくない雰囲気になるのではなかろうか。
 ところで啓介さんの提案だが、教師がたとえどのような意図で成績を出そうと、それが、生徒の「人間」の評価となって、その人の運命を決する結果になることもあるというのは、事実だと思う。僕にしたところが、もしも卒論にもう少しアカデミックな方法をとっていたら、などと考えたこともたびたびある。当時は卒論に対する教授の覚えで、就職の場所がきまったものだ、教職につく場合には。
 しかし、だからといって無評価というのは、飛躍がある。なぜなら、人間というものは、自己の言動の一切を評価してほしいのだ。自立的な個性的な人間なら、一層のこと。そうして、たとえ誤った評価でもそれを欲するということが問題ではあるまいか。正しい評価というものを、人間はそもそもどの程度信頼しているのだろう。世界は誤解によって動いているとは、ボオドレエルのことばである。真理ではあるまいか。だから無評価なり、同一評価というものは、一時的な手段に過ぎないが、それは一体何の手段なのだろう。
 アテネフランセに数ヶ月通ったことがあるが、ディクテを毎日やり、毎日前回のものを、出来る方から順にかえしてくれる。実に、厳しく、非情なものだった。どうもヨオロッパの教育は、日本などより評価の点でずっとずっと保守的で(保守という言葉はヨオロッパにあるが、日本にはないのではないか。日本でつかわれているのは、意味がちがう)しかも百年以上もつづけているという。これ以外にないという、ガンコきわまりないように思えた。(日本などはまあいい加減なものではないのか。それにくらべれば)そこで、ロンブロゾオが「天才論」で、学校教育は「人間」の敵でしかないと断ずるようなことになる。この「天才論」は僕の学生時代の愛読書のひとつだった。しかし、洋の東西を問わず、学校教育なるものは、一面では、「人間」性に発した、つまり「人間」とはきってもきれないものではないのだろうか。その点、これは矛盾するが、この矛盾を克服した次元には実は何もなく、この矛盾の上にのみ、僕ら、少なくとも僕の立脚地はあるような気がする。
これは貴君の御意見に対する僕の率直な意見である。それに学科によって、事情は大変ちがうので、一概にいうことはむずかしい問題でもある。
又そのうちかくかも知れない。

坊城俊民校長の手紙(5)「対決」

2008-02-11 10:00:37 | こどもたち 学校 教育
 中国河南省の学校で日本語を教えるHさんが泊まっています。将史兄さんの従妹にあたります。飛行機の都合で、急遽上海に逗留することになり、もとの生徒さんの案内で、羅店鎮を訪ねたと写真をみせてくれました。此処は将史さんの父上・融さんが1937年に戦死したところです。羅店鎮のことはこのブログで知ったそうです。戦死から70年、将史兄さんもまもなく70歳になります。大寒波のもたらした天の贈り物です。
 明け方まで、妻や娘と話していたようです。僕は10時頃には休みました。中原と言われた河南省地方も50年ぶりの大雪とか。教室にも宿舎にも暖房というもののない学生達の生活は想像することも出来ません。親や一族の期待をしょって全国から集まる学生達の喜びも悩みも、違う世界のそれのようです。阿波踊りの発表会の様子をカメラでみせてもらいました。学生達のひとりひとりに注ぐHさんの優しいまなざしに感心します。健康を損なわないように祈るばかりです。


 坊城さんの手紙の続きです。


 けさ、ラジヲで、天文学者の人生観をきいていた。そしたら、本人の考えは、天動説のガンコ者であるけれども、そのために、本人が観察した、精密な記録は、地動説の役に立ったというような例をいくつかあげていた。……ここに問題があると私は思う。
 近代文学をかたちずくった人々は、近代と対決した人だった。君がこの間の職員会議で言った言葉をおぼえている。「山崎さんの講演をすなおにいいと思った生徒よりも、反発したり反抗したりする生徒に注目すべきである」と。こういうとらえ方は私をよろこばせた。
 
 奥様が僕の出自のことを書いた。でもそれは君のうしろに、室戸岬の太平洋の荒海があるのとおなじことではあるまいか。僕の背後には、京の風物があった。
 そうして、その出自で、得をしているかもしれないが、損もしているし、差別もかんじた。でも、それを喜んでみたところで、悲しんでみたところではじまらない。日本人として生まれたからには、日本人であるより仕方がないと同様に。
 今日はこのくらいにしておこう。又かくかも知れないぜ。返事のことは、気にしないでくれ。僕は書きたくなると書くのだ。
 僕は君の理論よりは、きみの中の、多分きみ自身が余り意識していない魂に、魂のある部分に魅力を感じるんだな。倫子さんはどうなんだろう?


 山崎さんの講演   70年度、僕は生徒部に講演係というものをつくってみずから立候補し、職場の協力を得て、2学期に山崎朋子さんの全校講演会を実施した。「日本人と朝鮮人」。東京朝鮮中高級学校の生徒と日本の高校生の日常的な暴力事件の中で「朝鮮憎し」の感情が学校中にうずくまっていた。社会科の同僚の協力を得て、この問題に体当たりすることにした。
 講師の山崎朋子さんは『サンダカン八番娼館』などで後に著名となる底辺女性史研究家。お連れ合いの上笙一郎(かみしょういちろう)さんが坊城校長の生徒だったことがわかり、おふたりとも奇遇を喜んでくれました。

坊城俊民校長からの手紙(4)「対決」

2008-02-10 05:53:20 | こどもたち 学校 教育
忠幸さんからメールをいただきました。

 かねてから鈴木さんに聞かれていた<大躍進>、<廬山会議>の本も見つけたので書きます。
○書名:『餓鬼 ハングリー・ゴースト…秘密にされた毛沢東中国の飢饉』/出版:中央公論新社 2400円 1999年7月10日初版発行/著者:ジャスパー・ベッカー、および、○『廬山会議…中国の運命を定めた日』/出版:毎日新聞社 2500円 1992年12月30日発行 著者:蘇暁康、羅時叙、陳政。
後者の訳者・辻康吾さんは岩波・現代中国事典・『大躍進』の項の執筆者です。

 早速、川越市立図書館にいって借りてきました。「三年自然災害」という名の毛沢東ー中国共産党が引き起こした人災(4000萬人以上の餓死)について1月22日に紹介しましたが、この2冊は「共産主義は天国」と歌わされた中国の農民の悲劇の根源に迫る力作のようです。カンボジアでのポルポトたちによる集団虐殺にたいする裁判に日本政府も金を出していますが、その手本とも言うべき毛沢東による「大虐殺」には政府も学者も政党も知らん顔。中国共産党と絶交していたはずの日本共産党もヨリを戻したとか。オリンピックに浮かれているばかりではなく、今もつづく隣国の農民の苦難の根源に迫る学びを遅まきながらしていきたいと思います。
 今日はこの惨劇の舞台であった河南省の学校で日本語を教えている親戚のひとりが遊びに来てくれます。

 坊城校長からの手紙。今日のは原稿用紙に鉛筆で書かれています。日付はありません。71年春先だと思われます。


 きのうはもっとゆっくり話したかった。放課後を選んだのもその為であったけれど、お客様ではしかたがない。オール5という現象面の話ではなく、その底辺の問題について話したかった。
 きのうこういう意味のことをきみは言った。「生徒は何ものとも対決していない」と。僕が言った。「そうだ。対決の上に、創造が生まれる」と。
 ただその対決ということだが、多分、きみが心に描いているものと、僕のそれでは、種類や質が違うだろう。でも同じ者もあるはずである。
 たとえば、人間対人間の対決を、きみは心に描いているだろう。たとえば真剣な討論といったものを。そのかぎりにおいては同じなのだが、人間の内容に、ぼくはかならずしも生身の人間を描いてはいない。たとえば本は、人間が生み出したものだが、ある場合は生身以上に生身である。本とのぶつかり合い、技術とのぶつかり合い、そういうぶつかり合いがない。
 例をあげてさしさわりがあるが、若人という本の三島論は大変もの足りなかった。出場者が、そのひとりひとりが、もっと、一対一で三島と対決しているなら、あの討論は面白かろう。ところがその「もと」のものがない。そういうことが、あり過ぎはしまいか。
 そうして、ひとつの人物、と対決しているとき、人はそれにとらわれて、夢中になる。とらわれること自体はいいことではないが、そういう夢中さが、ないということは淋しい。
 でもねそういう対決は、必ずしも目に見えるものではない。短時間に成るものでもない。その辺のところに、あせりがあってはなるまい。
 僕は討論というものを、それほど有意義とは思わない。なぜなら、そのもとになる、個々人との対決がない時は。三島とのことで対談会をもつことになった時、ぼくは、心の中で三島と対決したことのある人でなければ喋りたくないと言った。しかし、あの時期、あまり面白いことはなかったけれども。(つづく)


 

坊城俊民校長からの手紙(3)「このごろはこわいよ」

2008-02-09 09:27:15 | こどもたち 学校 教育
 風もなく暖かい日だったので、昨日は茨城県の坂東市というところにある自然博物館を訪ねました。丸木美術館でボランティア新聞の編集長をしているKさんが前夜、我が家を訪ねてくれた際、この施設で働いていることを知ったのです。勝義さんをさそって直ちに出かけることにしました。Kさんが僕らのスケジュール案を作って待っていてくれました。
 近くにある宿泊施設「あすなろの里」と共になかなかのもので、きいちご移動教室の一泊旅行の候補地としてふさわしいところです。菅生沼という自然の宝庫を中心とする生態系の学びが楽しくできるところです。沼に架かる橋を渡っていると頭上を白鳥の群が飛んでいきます。壮観。
 一時間ぐらい、職員の方の案内で植物探索をしました。オオイヌノフグリの花を採ってルーペで観察しました。めしべの周りにおしべが二本。ブルーの花びらが5枚。それぞれに少し色合いが違います。自然の巧みに感動するばかりです。やはり、先達は有り難い。
 茨城県立自然博物館http://www.nat.pref.ibaraki.jp/index.html


 坊城俊民校長からの手紙のつづきです。日付は有りませんが、同じ日と考えられます。

   
 追信
手紙のはじめに、「校長としては」云々と書いた。ただ、今僕が同僚だったとしても、やはり結構だとは云わなかったろう。いきり立つかも知れぬ人びとに対しては、きみを代弁したかも知れないが、きみにはやはり、もう少しおだやかな方法はないものか、といったろう。
 三十年来教師をしていて、生徒に落第点1をつけた記憶はない。2もかぞえるほどしかない。2をつけないと、人びとがびっくりする生徒に、つまりほとんどやるきのない人にやむをえずつけたことはある。大たいが3以上、大部分3で、5はほんの少々だった。
 つまり、評価というものを、あまり神聖視することはどんなものか。前にも書いたが、人間だから評価が出来るし、人間だから、評価を期待する。神だったら、おそらく評価はしないだろうし、神の評価は人間は受けたくないだろう。
 「ドイツの悲歌」を読んだことがある?むかし、リルケはいじけているようで、自分は好かぬといったら、それには答えないで、芳賀檀さんが、だまって、自分の訳した「ドイツの悲歌」を送ってくれた。
 「直視出来ないものがある。太陽と死と」とは、ラ・ロシユフコオの言葉だが「ドイツの悲歌」の冒頭も、それに近い書き出しである。「およそ天使なべて恐し」だったか。天使とは、太陽でも死でもある。人間を越えた、神性をおびた力である。
 竜之介は書いている。「人生とは一個のマッチに似ている。大切にあつかうのはバカバカしい。しかし、大切にあつかわねば危険である」……これは、何か、生意気な文章であるが、とまれ、人生を考えたことのある人の言葉ではある。

 啓介さんと室戸や高知を三日間あるいた。きみはそのあいだ一度も、同僚の悪口を云わなかった。個人名はあげなかった。それは見あげたことだと思った。とくにこの学校へ来て、職員が、たがいに人を入れるに厳しく、寛容さがないことに一驚した。いろんな思想、考え方の人がいても仕方がないというよりあたりまえである。どうして、もっとおおらかな気持ちで、人の意見をきけないのか、不思議だった。
 僕ははじめ、僕のような校長がひとり位いてもいいのではないか、ぐらいの気持ちでいた。それは甘い考えだった。校長会でも、僕のような存在を決して許容していない先輩たちがいることが感じられた。が、僕に対しては僕が反省、対処すればいいとして、何故、ああコソコソと猜疑心が深く、頑固で、抱擁力(原文のまま)がないのだろう?そんな風に思っているうちに、そう思っている自分自身が、ズルズルと同じ次元にひき入れられそうな気がして、いくたびかもがいてはい出したが、おそろしいことだと思った。
 室戸でいった言葉を覚えているか。「むかしは先生や生徒が何を言ってもこわくなかった。このごろはこわいよ」「こわい?ですか?」ときみは言った。「こわい」とは今書いたようなわけだ。そのうずにまき込まれてしまいそうになることだ。人間とは弱い者と思うよ、その意味では。
 

坊城俊民校長からの手紙(2)人間と政治の関わり

2008-02-08 06:38:51 | こどもたち 学校 教育
 国籍取得特例法案制定の動きが出てきて、僕もいくらか蠢(うごめ)き始めました。5日は国会議員会館で議員に面会して陳情、6日7日は確立協の声明案作り、3・9集会のビラづくりなど。ビラは娘が制作してくれ、昨夜印刷所に入稿しました。
 10年来の課題がようやく、表舞台に出てきたのですから、やり甲斐があります。是が最後のチャンスと心得てやれることをやります。3・9に予定がない方は是非とも在日韓国YMCA(2月6日のブログ)に足を運んでください。ビラなどが必要な方は連絡してください。
 市民の一人一人が立ち上がらなければ、民主主義は機能しません。誰か頼み、お上頼みではダメ。今回は特に、在日コリアン、コリア系の人々が立ち上がる秋(とき)です。国籍を獲得すると言うことは市民権を獲得するということです。忍従に終止符を打ち、ともに闘いましょう。


 坊城さんからの手紙(1971・2・16)の続きです。校長は53歳、僕は30歳の春。「東京都」の便箋に万年筆の字。配達は坊城校長。


 生徒というものは本来、もっと自発的に、自ら学びたいと思い、自ら発見するよろこびを知り、教師はそのかたわらにあって、やはり、みずから求め、みずから発見してゆくことによって、おのずから生徒に求めること、発見することの喜びをわからせるというか、その助けをしていく、……。そんな意味のことを、きみは考えているのだと思う。その点、僕は全く同感し、岩井さんも、他の心ある人も同じだと思う。ダ・ヴィンチがローソクのほのおを見て、ほのおの中では多くの物質が、絶えまなく、ほろんでゆく、燃えて、ちがう物質に変化してゆく。その猛烈な変化にもかかわらず、そうして、それを形づくっている物質は、絶えず新しいものであるにもかかわらず、何故、ほのおは同じ形をしているのか、と考えたという。人間の細胞にしてもそうだろう。 
 ダ・ヴィンチの目で見れば、世界はまるで違ったものに、生き生きしたものにかわるだろう。そのダ・ヴィンチの目は、実は、万人の目でなければならないのに、「教育」によって、人間は容易に、結論を棒暗記することになれ、何も考えず、1プラス1=2と思いこんでいる。……こんな記事が新聞にあったが、全く、同感だと思う。ロンブロゾウはそのことを言い、あらゆる学校教育を否定した。それは公教育の否定である。この心情は自分にはよくわかる。公教育というのは、権力、つまり、政治によってささえられているものだから。ただ、一切の公教育の否定なら、話はわかるが、今の公教育の否定ということは、僕にはわからない。何となれば、別の権力、別の政治力、による別の公教育でも結果は、当然同じことになる。……それに、僕はしばしば思うことがある。親はなくとも子は育つ、と。人間性の不思議だ。

 評価についてはいつかも記した。しかし、人間は神ではないから、評価ができるのではないだろうか?
 僕はなぜ教頭になったか?北園の職場会で、一位で推せんされたことが、二年続いたから。落合校長を除いてはすべての管理職と仲がよくなかったので、その方は推してはくれなかったし、自分も、推されるまでは、そういうことは考えなかった。そうして校長になった。可能な範囲で、上からの権力を防ぐことは、僕の理想にやや、というより少しでも近い、教育を守るために、努めているつもりであるが、同時に、他のあらゆる政治的な力からも、学校を守りたいという気持ちは本能的にある。政治はあらゆる分野にシントオするけれども、それを否定することは出来ないけれども、しかしあらゆる分野の下半身にのみシントオするものではないか?
 しかし僕は知っている。自分の無力を。そうして、圧しつぶされてしまいそうな、無力を。何とかして、圧しつぶされないように、もがいている。五十を超えて、人生がこんなに苦しいとは、また、迷いがますますひどくなるものとは、想像もしなかった。このごろは自分の弱さだけを意識する。
 ある意味で、きみは僕から最も遠いところにいる。しかし、ある意味では、最も近いところにいる。これは一体どういうことだろう。とまれ、だから、敢て、思っていることを述べた。
     二月十六日                   坊城
 
 僕は先生のことを思いだし、泣きながら書き写しました。