川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

きいちご花見バス

2008-03-31 22:26:40 | 出会いの旅
 思ったよりも早く、雨模様になりました。バスのフロントガラスに雨滴のようなものがつき始めたのです。大房岬がもうすぐの所です。
 どうなるかと心配しましたが、岬の散歩は予定通り楽しむことができました。満開のサクラのもとを歩き、展望台から浦賀水道の景観を望みます。崖を下った海岸では磯の生物の観察。黄さんが大きなたこが泳ぐ姿を発見して教えてくれました。海の側で少年期を過ごした僕にもこんな体験はありません。中国の黒竜江省や青海省から来たひとびとにはとくに嬉しい一時だったことでしょう。この頃には雨がやみ、ゆっくり海の気を吸うことができました。
 昼食は展望塔の一階のひろばにシートを敷いて、家族、グループごとにかたまってとります。周りのサクラをながめながら。このころからまた雨。昼食後、展望塔に登って見ました。上から見る雨に打たれるサクラもなかなかのものです。忠幸さんと精さんが代わる代わるに写真を撮ってくれました。
 予定を早めて、2時に帰途につきました。道の駅や海ほたるに立ち寄りながら、5時半には日暮里着、解散。
 今回のバスの旅でとくに嬉しかったのは、都立北高校90年卒業の李さんが通訳として活躍してくれたことです。残留孤児二世として小学生の時来日した彼女が、様々ないきさつを経て、4月1日からは特別職の公務員として、残留孤児の方々の世話をする仕事に就きます。その仕事始めに先駆けて、通訳の任を果たしてくれたのです。この日のバス旅行の参加者のほとんどは残留孤児とその家族です。
 忠幸さんの活躍も目立ちました。私たちの最長老ですが、学生の時以来身につけてきた中国語を駆使して、細かい心使いをされます。生き生きとしていました。北高時代に馴染んだ李さんと一緒に仕事をするのが嬉しいのかも知れません。
 忠幸さんが選曲してきた中国の歌曲をいきなり歌わされた黄さんには驚きました。在日コリアンの青年です。いかにこの道のプロ(ピアノの演奏家)とはいえ、渡されたばかりの楽譜を見ながら、中国語で歌うのです。しかも、それをみんなに指導するのです。美しい歌声に魅了されながら、誰もが尊敬の念を深めたのではないでしょうか。「海よ、我が故郷」。ぼくもメロディにはなじみがあります。
 最近、中国から来日した花嫁、花婿を紹介し、祝福しました。花嫁さんのひとり、吉林省延吉から来た劉さんがお返しに「海よ、我が故郷」を歌ってくれました。
 雨の日暮里で参加者の方々と別れたあと、忠幸さん、精さん、私たち夫婦で李さんの就職祝いをしました。李さんに卒業以来の歩みを語って貰いました。中国山東大学に留学して「人生の師」と仰ぐ夫君と出会ったことが、この人の人生を豊かなものにしています。この人ならその愛情を残留孤児の人たちにも注ぐことができるに違いないという私たちの目にも、狂いはありません。きっと。
 川越に着いたのは真夜中。疲れ果てて、ひたすら眠りました。


『川越だより』一周年

2008-03-29 11:39:03 | 父・家族・自分
 川越は花盛りです。花粉に怯えて閉じこもっていた僕も昨日は勇気を出して、満開に近いサクラの下を歩いてきました。入間川の土手を自転車で30分ぐらいさかのぼったところに県立川越公園(水上公園を改称)があります。ここのサクラがもう壮年期を迎え、みごとな咲きぶりです。入り口に自転車を置いて、一キロはある桜並木の芝生の道を歩いてみました。午前中のこととて人影はまばら、隣の池の鳥たちものんびり泳いでいます。
 平和っていいなー、と思います。こどもの表情に見とれていて、父が僕たちの息子に「紹平」と名付けてくれたことを思います。平和を「つぐ」という意味です。戦争の時代を生きたひとびとにはこの平和、永久(とわ)にという思いが強いのでしょう。
 小学校の卒業式の日にみずから死を選んだこども、北朝鮮の収容所で保衛員の子どもたちから「革命の敵」として半殺しにされるこども。いろいろなこどもの姿が浮かび上がってきます。平和の時代を生きてきた僕は、いま、なすすべもなくこれらの人の平安を祈るだけなのです。

 ブログというものを始めて、一年が経ちました。一年前の今日、娘から突然いわれて書き始めました。僕はその仕組みや約束事を何も知らず、身辺雑記をただ書きつづるだけです。一年経った今も、大してかわりません。完全退職と同時でしたから、暇はたっぷり、お陰で退屈するということはありません。
 一日、数十人のかたが読んでくれるようです。60~70人台が多いのですがたまには90人台になります。読んでくださる方がいるかと思えばやはりはりあいがあります。ありがとうございます。
 体力や気力が衰えているせいで、コメントをくださる方々に自分の考えを書いて伝えることがなかなかできません。そのうち元気が出ればなどと思っているうちに日が経ってしまいます。どうぞ、勘弁してください。気には懸かっているのです。いつか、書きたくなるかも知れません。
 明日は「きいちご花見バス」の日です。52人で房総半島の大房岬に行く予定です。きのうから天候が気になって仕方がありません。曇り空の予報です。何とか夕方までもってくれますように。
 

「こにやん」

2008-03-27 09:34:26 | こどもたち 学校 教育
 今日は朝から嬉しい気持ちになりました。大崎博澄さんの文章を読んでいて、高知市教育研究所で働いている「こにやん」に出会ったからです。不登校の子どもたちの相手を長くして居られます。高校の3年間、僕のHR担任だった竹村一水先生を尊敬して、数学の教員になられた方です。高校の名簿で調べてみると僕よりも13年若く、田内瑞穂先生が担任です。僕は数学が苦手でさけてばかりでしたから、一水先生の生徒とはいえません。国語は好きでしたから、田内先生はよく覚えています。「こにやん」が後輩であることが解って、さらに親しみと尊敬の気持ちがあふれて来ました。
 
 卒業式の季節です。「こにやん」たちは「出発式」といっています。教育とは何か、学ぶとはどういうことかを深く考えさせてくれます。一年前の「こにやん」の記録です。


    『出発へのメッセージ』(2007.3.14版)

①Aさんへ
3年間のつきあいだったよね。一番上のお兄さんを担当した時とちがって私は若くなかった。腰も痛かった。それで時々「コニジーサン」と呼ばれていた。「コニヤン」と呼ばれたら逆にうれしかったりした。研究所の生活に悔いはないと言っていたよね。金子みすずが好きだったね。たまにやさしいコトバをかけてくれるけなげさにハッとした。「前向きに生きる」ということをいつも教えてくれてありがとう!

② Bさんへ
2年半のつきあいだったよね。ここに来て人間関係をすごく学んだよね。兄からギターを勧められて始めたバンド。研究所まつりでのステージを見て、ずいぶんとうまくなったなあと感動したよ。自分の心模様の表現の仕方がすごく繊細だった。いつも「感性の鋭さ」を教えてくれてありがとう!

③ Cさんへ
O先生から引き継いだ。2年間のつきあいだったよね。3年生になって通所ができるようになった。2学期からは毎日通所した。びっくりしたよ。ピッチャーでデビューしたあの市営球場。涙がとまらなかった。「人間の成長」を長い時間のスパンで見ないといけないということを教えてくれてありがとう!

④ Dさんへ
1年間のつきあいだったよね。学習に力を入れてやり始めた。数学も漢字もパワーアップ。集中力がすごかった。自分の目標をもったらすごいんだよね、人間は。「意欲」ということをいつも教えてくれてありがとうね!

⑤ Eさんへ
M先生、A先生とのトリプル担当。1年間のつきあいだったよね。トライの事前学習で浦戸湾一周の途中を今でも思い出すよ。ついには足が痛くて泣いてしまったよね。実は私も腰が痛かったんだ。内心は私も泣きそうだったんだ。でも本番は快調だったもんね。いつも笑顔がステキだったよ。「誠実に生きる」ということをいつも教えてくれてありがとう!

⑥ Fさんへ
毎週公園でのキャッチボール。K先生から引き継いだ。1年間のつきあいだったよね。「80球のココロのキャッチボール」今でも再生できるほど印象に残っているよ。2月20日の軟式野球大会。君のピッチャーデビュー戦。感動した。涙が出たよ。すごく球が速かった。「コトバにならない言葉を聴く」ということをいつも教えてくれてありがとう!

⑦ Gさんへ
1年間のつきあいだったよね。T先生とのダブル担当。私の家のオモチャギャラリーに来てくれたのを今でも覚えているよ。子どもらしい純真な顔つきが印象的だった。これからも好きなことをどんどんやっていこうな。「好きなことがあれば人間動くんだ」ということを教えてくれてありがとう!

⑧ Hさんへ
1年間のつきあいだったよ。T先生とのダブル担当。夏のコニヤンカップ、テニスで優勝したときの試合、今でも焼きついているよ。いつもマイペースな君。それでいいと思うよ。これからも自分のペースでやったらいいからね。「人間にはそれぞれのペースがある」ということを教えてくれてありがとう!

⑨ Iさんへ
10ヵ月のつきあいだったよね。初めて来た時に無人島に遠足に行ったよね。イラストを描いたり、ボランティアに参加したり。感性豊かな君。訪問に行くといつも私もくつろいでいた。君の部屋に入るとなぜかゆったりできたんだ。「癒しの空間」についていつも教えてくれてありがとう!

⑩ Jさんへ
7か月のつきあいだったよね。訪問のたびに新しい知恵の輪をクリアしていた。すごかった。後半は通所もできはじめたし、学習にも取り組んでいた。意欲ってすごいものを感じるね。「人間が成長していく」とはどういうことかを身をもつて教えてくれてありがとうな!

⑪ Kさんへ
5か月のつきあいだったよね。自分の言葉でしっかりした考えで語れる。研究所に来る前と来始めた自分の違いをつかんでいた。将来の自分の夢(オモチャクリエイター)をぜひ実現してほしい。いつも「自分の芯づくり」について教えてくれてありがとう!

⑫ Lさんへ
4ヵ月のつきあいだったよね。毎週金曜日にチョボラに参加して缶ひろいなどをしたよね。次第によくしゃべるようになってきた。心を開いてきてかなり楽になったんじゃないかな。これからだよ。あわてずにやっていこうね。人間が変わっていくとはどういうことかを教えてくれてありがとう!

⑬ Mさんへ
4ヵ月のつきあいだったよね。初めて面接練習したときに、あまりにも礼儀正しくきちんとできるのを見てびっくりしたよ。たくさんの先輩たちとのつきあいもできている。すごいことだ。社交性があるんだよね。おばあちゃん、おじいちゃんを大事にしろよな。人間のつきあいの大切さについていつも教えてくれてありがとう!


[コニヤンからのメッセージ]

 今年は、3年生をなんと13名担当した。
不登校の担当になってこんなに3年生を受け持ったのは初めてのことだった。しかも、家庭訪問も多くて十分なことができなかった思いがしている。

こうして、出発する子どもたち一人ひとりにメッセージを書いていると、私は、一人ひとりの子どもたちからたくさんの思いをプレゼントしてもらっているのに気づく。
そしたら、私たちがどんなことを彼らにおくることができたのだろうか。
悩みを聴き、不安をなくして、安心できる居場所を提供し、そして、その中で共有しながら生きてきた、ただそれだけのことだったのかもしれないなあと・・・。
 ほんとうに『教育ってなんなんだ』とか、そんな大きすぎるメッセージはないなあと・・・。

 毎日の小さな、小さな『営み』。

 その繰り返しの日常の中で、私たちの営みがなされていること。
 そのことにふと気づいたとき、私は、いつも現実を前にして悩んでしまうのだ。

 でも、そんな小さな営みの中で、私たちはいつも君たちの中からダイヤモンドのような輝きを見つけることができた。それが私たちにとっては、大切な宝物なんだよね。こんな営みが、実は私たちにとっては、『生きがい』だったと思っている。

 毎年の出発生に贈る言葉は、決まっている。

 あのジェームズディーンの映画『エデンの東』に出てくるセリフ。

「人間は、他の動物とちがって星の数ほどある生き方の中から自分で選ぶことができるんだ」

ということ。

自分の生き方を自分で決めるということ。
このことを大切にしてこれからも生きていってほしい。

「今日も笑顔で元気です!」
人生これっすよ。

グッドラック!!!

ほんとにありがとう。
          (2007.3.14記)


この文章の出典 http://www.denpan.org/book/DP-48ce-95ce-1/4.html

 

大崎博澄さん

2008-03-25 15:12:16 | 友人たち
 我が家の『一応庭』にも春が来たようです。きいちごの花が咲きました。しかし、僕は閉じこもったままです。花粉の被害を避けたいためです。なんという世の中になったのでしょうか。それでも、30日の『きいちご花見バス』の準備で、気持ちは前向きになれます。中国四川省からやってきた方々からは忠幸さんを通して「今まで、海に足を入れたことがない。楽しみにしています」というメッセージが届きました。
 コメントにあるように勝義さんは今日、入院です。手術がうまくいってあの元気な声が帰ってくることを祈るばかりです。手術後はしばらく、無言を強いられるそうです。忙しく立ち働くのが性にあった方ですが、ゆっくり休むことができるのでしょうか。
 昨夜、大崎高知県教育長のことを調べたら、この月末で退任するそうです。僕はこの方の存在に昨年の夏に気づいたばかりです。なんだかとても残念な気がします。こんな教育長は二度と出ないでしょう。写真付きの雑誌の記事をを見つけました。僕よりは4歳若いのですが、苦労を乗り越えてきただけあって、人間のできが違います。こういう人のもとで働かせて貰いたいと思います。よろしかったら皆さんもこの記事を読んでみてください。僕は都会の真ん中で教員をやってきましたが、大崎さんがいわれていることと似た教育のあり方を頭の中に描いてきました。いつか、お会いできるといいなあ。長い、ご尽力に「お疲れさま」をいわせていただきます。
 
 大崎博澄さん
 http://www.ruralnet.or.jp/syokunou/200409/09_community.html
  
 
 

「自分を語る勇気」

2008-03-24 16:36:34 | こどもたち 学校 教育
       自分を語る勇気   

        「ぼく」
                戸田幸男

   せいの高さは
   男子で いちばんひくい
   ぼくは ちいさいので みんなに わられる
   はしるのは げっから 二番
   ぼくだけむねが ひっこんでいる
   みんなが わらうので はずかしい

 ぼくは幸男くんの詩を読んでたまげました。うれしかった。ぼくとおんなじだと思うたからね。ぼくには言えなかった、みんなにわられるはずかしいことを、幸男くんが勇気を出して言うてくれたからね。ぼくらはこれだけで友達になれる。
 ぼくも幸男くんとおんなじで、走るのはいつもげっから一番、やせっぽちでむねがひっこんでいました。いつもしでられました。しかも、そういう自分を、幸男君のように正直に表現することができませんでした。

 自分の思いを正直に語ることは、とても難しい。でも、そこを一歩突き破ると、ぼくらはまだ見たこともない、昨日までよりずっと成長した自分に気づくのではないでしょうか。  詩は闘いです。自分をしっかり見つめて文字にする度ごとに、ぼくらはぼくらがこれから先、生きて行くために必要な人間の本当の強さ―自分の真実を語る勇気―を身に付けていくのだと思います。
                       (高知県教育長 大崎博澄)
「げつ」 びり   「しでる」 腕力で制裁を加える

この文章の出典
   http://kazekirari.sblo.jp/category/91518-1.html


 この文章を読んで皆さんはどんな感想をもたれましたか。こどもとともに生きようとする小学校の先生の存在に励まされる思いがしませんか。僕が小学校の時にも先生方が子どもたちの作文集をつくって、そこに先生からの批評も載っているのですが、ここまでこどもの心に届く文章があったかどうか。
 大崎さんは高知県の教育長です。実質的に教育行政の責任者です。高知県の子どもたちと先生方は本当に恵まれています。僕が知る限り、東京都の教育長にこんな人はいません。教育のあり方についてこどもや教師達に語りかけることすらできない人ばかりです。
 大崎さんのリーダーシップのもとで高知県の教育はどうなっているのでしょうか。昔から「学力が低い」と批判されつづけて来たように思いますが、僕はそんなことにとらわれることなく「生きていくために必要な人間の本当の強さ」を自信を持って育んで貰いたいと思います。学力と称するものもその中で獲得されるのです。
 札束攻勢に屈することなく、原発ゴミ処分場を断固として拒否した東洋町の人々は私たちの誇りです。たとえ貧しくとも、豊かな自然の恵みの中で助け合って自立の道を歩もうとする意思はこの国のかけがえのない宝です。そんな自分に自信と誇りを持って、子どもたちを育んでほしいものです。

 久しぶりにHPをのぞいてみました。大崎さんの強い思いが伝わってきます。
 
 http://www.kochinet.ed.jp/seisaku/no,41.html

共産主義 人民公社(3)

2008-03-23 11:35:17 | 中国
20世紀の社会主義の亡霊は今も北朝鮮や中国で猛威を振るい、農民を収奪し、人民を飢餓に追いやっています。北朝鮮や中国の独裁政権の蛮行の背後にどんな思想と歴史があるかを知る必要があります。僕と同世代の左派の人たちには、これらの政権や党派(朝鮮労働党・中国共産党)に対する認識が甘く、くっついたり、離れたりを繰り返している人がいるように見受けられます。「侵略と植民地支配」に対する贖罪意識にとらわれて、批判的に研究することさえできない人もいます。こうした現実が北朝鮮や中国の独裁政権と対峙する力をそいでいます。僕自身も国共内戦や大躍進、文革などについて表面的な知識しかありません。これでよくも社会科の教員をやってきたものです。
 『餓鬼ー秘密にされた毛沢東中国の飢饉』(中央公論新社・一九九九年刊)の書き写しは今日で終わりにします。忠幸さんに教えて貰わなければ読まなかった本です。ありがとうございました。
 
 『餓鬼』p154~

 それぞれの人民公社には、どんなに些細なことでも決定権を持つ、新しい管理組織ができた。党書記は、農業、食糧およびその交換、政治、法律、軍事、科学、技術を管理するいくつかの委員会を開いた。さらに別の機関が、日々の労働計画、教育、文化、衛生、福祉を管理した。きわめて中央集権型の管理方式だったので、個人は全く無力だった。人民公社の中央指導部に許可を貰わなければ、何もできなかった。その許可が下りるのは数日後であることがしばしばだった。
 人民公社では、個々の農民に、毛沢東の命令が直接伝わる仕組みができていた。この軍事的統制構造は、中国史上でもっとも徹底したものだった。人民公社の上には、地方管理機関、県党委員会、省党委員会、そして中央に毛とその仲間がいた。28の各省、自治区、都市部は、それぞれ自主管理にゆだねられていた。すなわち、各省の党第一書記は、毛の摂政の役割を果たした。教育、保健、農業などを担当していた国の省庁のような民間管理組織はもとより、地方政治組織も、もはや機能していなかった。共産党がすべてであり、決められたことに反対することは、誰にもできなかった。ほかの権力が存在しなかったからである。
 (略)

 当初は、請負制がとられた。これは、個々の農民、生産隊、生産大隊が、国が設定した生産目標を達成するために、決められた時期に、決められた量の仕事を請け負う仕組みだった。余剰生産物は、複雑な計算方法で分配された。したがって、収入が生産量にかかわっていたために、熱心に働こうという刺激があった。しかし、一九五八年の秋、安徽省や河南省のモデル人民公社で見たことにびっくりした毛沢東は、中国は共産主義の次の段階に入った、人々は必要に応じて受け取るべきである、と決定した。安徽省視察後に毛は発表した。「無料で食べられる、という原則を一つの人民公社が実現した。ほかの人民公社でもできるはずだ。無料で米が食べられるなら、やがて、無料で衣服が与えられる時がくるだろう」。
 (略)

 こうした政策が与えた心理的影響は、また、伝統的な中国農法に照らして考えてみるべきである。自分の狭い土地を耕していた中国人の農業方法は、技術的には遅れていたが、能率の良さのお手本といえた。人民公社の出現と共に、共産主義者は、農業を工業と同類とみなし、流れ作業のように組織できると考えた。その考えの中には、土地の特性に合わせた、農民個々のきめ細やかな工夫など、入っていなかった。(略)

 もはや土地は自分のものではないと考えている農民には、長い時間をかけて最大の収穫を生み出すために、土地を丁寧に育む必要はなくなった。そのかわり、遙か遠くにいる役人からの命令に従えばよかった。できるだけ短期間に最大量の収穫をあげる、時期を早めて種をまいたり、二毛作にしたり、不適切な作物を育てようとしたりして。密植や深耕など、毛沢東が開発した方法を実践せよとの命令を、全力で実行しようとする共産党のもとでは、農民はただ、従うよりほかに術はなかった。彼らは、この方法が誤りであることがわかっていたが、今はただ、労働点数をかせぐことだけにこだわった。
 1958年から59年にかけての冬の、最初の恐ろしい飢饉のあとは、無感覚状態になった。地方幹部は農民を命令に従わせるために、いっそう力と恐怖の手段に頼らざるをえなかった。飢饉のどん底で、幹部たちは、生死にかかわる権力を行使した。穀倉を管理していたので、食糧を奪えば誰でも殺せたのである。多くの地域の地方幹部は、働く人にのみ食糧を与えるよう命じたため、病人や老人、幼児が死んでいった。四川省をはじめ、その他の人民公社では、「おなかがいっぱいになるまで食べられる楽園」から、わずか半年で、「働くか、さもなくば死か」という地獄に落とされたのである。

 『餓鬼』
 http://www.amazon.co.jp/%E9%A4%93%E9%AC%BC-%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88-%E2%80%95%E7%A7%98%E5%AF%86%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC-%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4120029158












 

共産主義 人民公社(2)

2008-03-22 16:41:55 | 中国
『餓鬼』の書き写しをもう少し続けます。p151~。僕は人民公社について何も知らなかった。
 
 老人たちは、隠居後に暮らす「幸福の家」に送られ、子どもたちは親から離されて、保育園や寄宿舎に入れられた。 …略…どの人民公社でも、地方幹部たちは家で料理し食事することを禁じて、家庭生活を破壊することに成功した。すべての公社に共同食堂が設けられ、少なくとも3年間は続いた。通常は、村で一番大きな家の台所が調理場になった。共同の会食室を持った公社もあったが、ほとんどは、地面にしゃがみこんで食べるのだった。その後、飢饉が発生して、ようやく、人々は家に帰って家族と一緒に食事することが許された。
 
 (略)

 理論上は、夢のような大収穫が農民にかつてない余暇を与えるはずだった。河北省の徐水人民公社を訪れた毛沢東は、秋に大収穫が見込まれることを聞いて次のように語った。「以前より少な目に植えて、半日だけ働きなさい。あとの半日は、文化活動に費やしなさい。科学を学んだり、レクリエーションをしたり、大学や中学校を作るのも良い」。(略)
 農民は、このころまでに、すべての私有物を強制的に供出させられていた。村中が、狂気ともいえる理想郷の幻影にとりつかれているところもあった。湖北省のある町での出来事を、党長老の薄一波がのちに記している。

 1958年10月、ほう馬の党書記は、社会主義は11月7日に終わりを告げ、11月8日からは共産主義がはじまると宣言した。会議が終了すると、全員がただちに町に飛び出し、店から品物を略奪し始めた。店の棚がからになると、個人の家に押し入り、ニワトリや野菜を奪った。人々はどの子が自分の子か、区別をしなくなっていた。妻たちだけは、こうした共有から免れていた。党書記が方針を決定できずにいたからだ。彼らは、上の機関に、自分だけの妻を持つことを継続すべきか否か、指示をあおぐことにした。

 農民の排泄物まで共有された。個人の便所はなくなり、かわって人民公社の便所がつくられた。排泄物を人民公社の田畑に使うからである。個性的な服装は許されず、男女の区別なく、みな一様に、ゆったりした木綿の上着とズボンを着た。すでに記したように、あらゆる宗教、民族文化を消し去るべく、最大限の努力がなされた。こうした政策はすべて、個人や村、県のあいだにある貧富や格式の差をなくすためだった。
 農民の生活は、管理面でも大きな変化があった。以前は、農民は、生活のほとんどを自分で決めていた。今や人民公社は、農業だけでなく、結婚、葬式、旅行、食糧その他物資の配給など、すべてを管理していた。言葉もかわった。店は「物資配給所」になった。現金のかわりに、「配給券」が使われた。現金は、公的積立金として銀行にあずけられた。陳伯達は、通貨の完全廃止を考え、まさに実現するところだった。農民は、ほとんどすべての物品を配給券を使って手に入れた。お湯さえも配給券が必要だった。

申東赫(シン・ドンヒョク)さん講演会(3)

2008-03-21 09:25:23 | 韓国・北朝鮮
 ◎記憶に残った話
①「完全統制区域は数十キロ四方の広さ」 
 申さんのいた収容所はピョンヤンを流れる大同江の上流にあるが、高知県安芸郡くらいの広さがある。「収容所」のイメージではとらえられない。ここに数万人の人が収容され、強制労働させられている。被収容者で生還したのは申さんただひとりだという。
②「親の罪を償うのは当然で収容所を悪い存在だと思ったことはない」
 親の罪は国家反逆罪だが具体的なことは解らない。朝鮮戦争の時、父の兄弟が越南したことか。
③「表彰結婚でうまれた」
 収容者の労働意欲を高めるための制度。従順に働く男女を一方的に組み合わせて5日間だけ結婚生活を認めるという。生まれた子供は母親と住む。父はときどきやってくる。親子の間に愛情というものはないという。
④「金日成も金正日も知らなかった」
 人民学校では国語・数学・体育などがあったが、強制労働に必要な知識を教えられるだけで、午後は労働。生涯、社会に出るはずのない奴隷にはイデオロギー教育は必要でない。
⑤「………」
 96年母と兄が脱出を企てたとして公開処刑された。申さんは火炙りなどの拷問を受けている。これらのことについては、証言拒否。主催者が申さんの背中の写真をスライドで写した。本には書かれているが僕はその部分をまだ開くことができない。
⑥「(韓国での生活は)精神的にはつらくなった」「(統制区域ではない)北朝鮮にいきたい」
 身も心もずたずたにされている申さんを世話しているのは韓国の人権団体である。この日も金さんという若い女性が同行していた。本の制作もこれらの方々の協力を得て行われた。これらの言葉は何を意味しているのだろう。申さんは82年生まれで25歳である。韓国で生きることに自信はなく不安のただ中にいるのだろう。「北朝鮮に行きたい」は「旅行するとしたらどこにいきたいか」という学生の質問に答えた言葉である。

 講演会終了後、アカデミーコモンという建物にあるカフェで懇親会がありました。僕が最後に勤めた山吹高校の生徒のKさんをはじめ、旧知の人々と参加することに。この日も通訳に徹していた李洋秀さんと申さんの周りに若い人たちが集まって談笑しています。僕も帰り際にその輪に入れて貰いました。
 ぶしつけなことを聞きました。「結婚したいですか」。申さんの口から確かに「結婚したい」という言葉が聞こえたように思います。洋秀さんはそう訳してくれました。僕は思わず、25歳の自分に返って、いい女性と出会えるかという不安と焦燥、思いを伝える勇気について語りました。僕でさえ、何とかなったのだから、と励ましたつもりなのです。 本のタイトルは「愛を知らない」です。学生の質問にもそのように答えていました。これはどういう意味でしょうか。洋秀さんはもちろんのこと、この明治大学でも川島さんのような人と出会って、申さんの心が励まされているのではないかと思います。精神的な安らぎを得るには大変な時間がかかると思いますが、若者に備わった生命力が申さんに自信を与えてくれるようにと願っています。



 

申東赫(シン・ドンヒョク)さん講演会(2)「この奇跡を信じよう」

2008-03-20 21:24:03 | 韓国・北朝鮮
 花粉のせいか、ここ2・3日元気が出ません。昨夜、東京都の生活福祉部から「支援・相談員」の募集要項がFAXで送られてきてから、我に返りました。応募を希望している残留孤児2世の卒業生に連絡しなければならないからです。法改正に伴い、残留孤児やその配偶者に新たな給付金が支給されるのは4月1日からです。支援相談員の仕事の一つはこの支援給付金事務を円滑にすすめることです。その募集要項が今頃になって発表されるのですから驚きです。応募締めきりは26日です。いくら新制度とはいえ、お粗末すぎます。どこに原因があるのか、僕にはわかりませんが、法改正の精神が生きてないことはたしかです。都庁を訪ねた私たちに、忘れず連絡をしてくださった担当者に感謝しながら、あちこち電話やFAXで知らせました。

 17日に明治大学でシン・ドンヒョクさんの話を聞きました。終了後の懇親会で申さんに個人的なメッセージを送ることも出来、心に残る一日となりました。

 申さんの本『収容所に生まれた僕は愛を知らない』(李洋秀訳・KKベストセラーズ・¥1600)がこの日全国の書店で発売されたということです。お話の大半はこの本に書かれていることですから、皆さんも是非読んでみてください。この日感じたことのメモ。

 ◎この日の集まりは明治大学情報コミュニケーション学部・川島高峰准教授のゼミを公開する形で行われた。僕は川島さんの申さんに対する深い愛情と北朝鮮民主化への強い意志を垣間見て感動した。参加者のために作ってくれた資料の表紙部分を紹介する。


  人間・申東赫さんに寄せる

『収容所に生まれた僕は愛を知らない』 この本を読んだ人は誰もが、「人間とは何か」、この問いに直面することだろう。

 北朝鮮の強制収容所「完全統制区」という地獄で政治犯の子として生まれ、罪人として強制労働のためだけに育てられてきた、人間・申東赫さんの体験は、私たちに人間とは何かを真に訴えかける、人類史上、かつてない心の叫びです。
 
 私たちは二つのことに驚く。
 一つは、これほどまでに非人間的で、魂の尊厳に反した社会での体験記録に、である。人がどれほど残虐で、醜い悪魔のようになってしまうのか、そして、人が冷酷なことに智恵を絞り、様々な工夫をしてしまう生き物なのか、ということに、である。
 もう一つは、これほどにまで過酷で、抑圧を抑圧とも感じずに普通に生きることを余儀なくされた空間においても、やはり、自由はかけがえのないものであり、ほんのわずかではあるが互いを助けようとする心があった、ということである。
 この「ほんのわずか」が奇跡のようにつながることで、今日、私たちは申東赫さんと出会うことが出来た。私たちは、この奇跡を信じよう。
 この世の地獄から奇跡のように脱出し、人が人であることを証明し、日本に会いに来てくれた申東赫さんの言葉に、心から耳を傾け、考えよう。

 そして、考えることはただ一つ。

 北朝鮮に存在する強制収容所が史上最悪の非人間的な空間であることを世界に訴え、その廃絶と北朝鮮の民主化を強く求めることである。

 私たちが考えることはただ一つ。
 北朝鮮による人権侵害を止め、北朝鮮を民主化することである。
      
                 2008年3月17日


 このようなメッセージを発することが出来る先生がこの学校にいて、僕らは出会うことが出来た。申さんの講演会の企画は訳者の李さんに発するが、自己のゼミの主催事業として学生達と汗を流したのは川島さんである。日本の大学でもやろうとする強い意志があればこういう授業が出来るのである。李洋秀さん、申さん、川島さんのつながりは奇跡とはいえないかも知れないが、私たちにこの上ない学びの場を作ってくれた。
 川島高峰さんという方を僕は全く知らなかった。会場で久闊を叙したIさんの甥に当たるというが、どういう仕事をしてきた方か、どういうふうにしてこんな頼もしい人格が形成されたか知りたいと思った。講演のあと、学生達から次々と質問があったが、感想や意見を聞くまでのことはできなかった。それが残念だった。

 川島高峰政治学研究室
 http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/whoetc/whoetc.htm (つづく)

盥(たらい)岬

2008-03-17 08:26:51 | 出会いの旅
 12日から伊豆高原に保養に行きました。13日は快晴で暖かく、下賀茂の河津サクラを見に行きました。前に訪ねたことのある菜の花畑を訪れるとサクラもみごとで満足して帰ろうとしたら、友達が川越で飲み屋を始めたという地元の方が少し上流に花のきれいなところがあると教えてくれました。車を移動させて行ってみました。
 青野川の両岸に今を盛りに咲き誇っています。人の気配はほとんどなく、ゆっくり散歩しました。年輩の女性がひとり休んでいるのに出会いました。板橋区大山の方で息子さん夫婦が近年ここに家を構えたので一足早い花見に来るのだと言います。羨ましい話です。きゃらという喫茶店を見つけて休みました。きれいな写真があるHPをご覧ください。

 青野川散策 http://www2.tokai.or.jp/younet24310/repo4.html

 弓ヶ浜で昼食のあと散歩道があるのに気づき、タライ岬まで行ってみることにしました。昨夜は沢山寝ているので僕は元気です。弓ヶ浜の隣りに逢が浜。白砂青松の弓ヶ浜とは対照的な磯で、土地の人が汁の実にする貝を採っています。引き潮で沖の奇岩まで岩が続いています。こんな風景です。

 弓ヶ浜・逢ヶ浜・盥岬http://kuhmso.web.infoseek.co.jp/taraimisaki.html

 南伊豆
http://www4.ocn.ne.jp/~takusen/tabi/minamiizu/minamiizu.htm

 エビ穴岩という奇岩のそばまで行ってみました。堆積岩が浸食を受けて天然の芸術作品の連続です。漁師さんが海をしっかり護っているので、岸辺まで海藻が繁っています。天然の伊勢エビ漁が続いています。室戸の海も嘗てはこうだったに違いありません。
 山道を登って行きます。ウバメガシの林が続きます。強風のせいで背の低いウマメ(室戸ではこういいます)しか知らないので、ちょっと違和感があります。展望の開けた岬端に出ました。「盥」(たらい)岬と書いてありました。タライの謎はとけましたが、なぜ、「盥」なのでしょう。
 海鵜が漁をしています。それをめがけてカモメが襲撃します。近くで人間が働いています。二人乗りの漁船が行ったり来たりして、エビ網を仕掛けているのです。見ていて飽きない風景です。

 この遊歩道は下田に近い田牛(とうじ)まで続いています。この次はそこを歩いてみようと思いました。伊豆の海岸遊歩道といえばたいてい、城ヶ崎海岸か須崎海岸と、相場が決まっていたのですが、この日、新たな道を見つけて楽しみが増えました。

 14日は小雨模様。昼食がてら稲取に行ってみました。港付近を散歩したあと、外港の方に行ってみると「愛恋岬」とあったので、登っていくと小さなほこらがあります。どんつく神社。ここのご神体には圧倒されます。皆さんも訪ねてみてください。http://f13.aaa.livedoor.jp/~photo/jinjabukaku/dontuku.html

 15日 山中湖の旧岳東寮に寄る。今は筑波大学の研修所になっている。学生の頃、夏の新聞会の合宿でよく利用した。68年に建て直されたそうで、昔日の面影はないが湖畔のたたずまいは変わらない。おお白鳥が数羽、浮かんでいる。残留孤児の方々の一泊旅行の利用も可と聞く。
 昨日の訪問者は97名で今までの最多です。

共産主義 人民公社(1)

2008-03-16 06:28:00 | 中国
 『餓鬼 秘密にされた毛沢東中国の飢饉』ジャスパー・ベッカー著(1999年 中央公論新社刊) 148pより151pを書き写します。

 飢饉の犠牲者のほとんどは、人民公社で暮らす、普通の中国人農民だった。1958年の終わりには、大躍進の制度上の骨格をなす、この奇怪な組織に、農民の総人口ともいえる五億人が組み込まれていた。毛沢東やその仲間は、人民公社は天国への入り口だと豪語し、康生は、農民が繰り返し歌うようにと、次のような詩を書いた。
 
  共産主義は楽園です
  人民公社は
  楽園にいく橋なのです
  共産主義は天国です
  人民公社は天国に続く階段なのです
  その階段が出来さえすれば
  私たちは、天国に行けるのです 

 しかし、農民は直ぐに、その人民公社が恐怖組織であることに気づいた。人民公社は、1958年の夏に急いで設立された。多くは、一ヶ月、時には48時間で作られた。この発想の源は、『共産党宣言』にあった。マルクスは、「農業都市」に基盤を置く産業軍として農民を組織すれば、都市と農村の較差を少なくすることが出来ると考えた。およそ一万の農民がひとつの人民公社にまとめられたが、所によっては、その二、三倍もの人数を抱えた公社もあった。(略)党は次のように表現した。「1958年に新しい社会主義組織が誕生した。それはまるで、東アジアの広大な地平線に輝く、朝日のようだ」。人民公社は、党の「三面紅旗」の一つとなった。他の二つは、「大躍進」、「社会主義の総路線」である。これらは中国を共産主義に導いてくれる旗印だった。私有財産をなくす、農村の工業化、党と農民を軍隊の機能を備えた、規律正しい組織として完璧に合体させる、などが目標に掲げられた。毎朝早く、農民は赤旗に従って行進した。ライフルを持って行進する所もあった。人民公社内部では、農民は生産隊としてまとめられた。時には、小さな村の労働力全部が組み込まれた。そしてこれらの生産隊は、生産大隊と呼ばれる更に大きな単位に組織された。通常は二交代制で働いたが、模範的な労働者が「突撃隊」として組織され、休みなしに二十四時間働いた。軍隊式に組織された女性の「突撃隊」もあった。

 1958年の数ヶ月間、人民公社では、男女を別に住まわせたことがある(これにはさすがの毛沢東も、子孫を残すために月に二回だけ会うことで男女は十分なのか、と首をひねった)。この男女分離は、河北省の徐水人民公社で最初に実施されたが、その後、河南省、湖南省、安徽省、さらにダムやその他建設工事に従事しているグループなど、国中に広まった(著者のインタビュー)。安徽省のある人民公社では、村の一方のはずれの宿舎に男が住み、もう一方に女が住んだ。このように分ければ、生産高向上に効果があり、結婚している人も含めてすべての男女が集団として集会に参加し、田畑の作業に従事できると人民公社の指導部は信じた(『農村の30年』)。共産党の目的は明白だった。家族という単位を破壊することである。

 何千年も続いてきた個々の家族の枠組みは、取り外された。……我々は人民公社を家族とみなすべきであり、自分だけの家族を持つことにこだわってはならない。長い間、母親の愛は尊いものとされてきた。……しかし、人間を社会的な面よりも生物的な面で見るのは誤りである。……この世でもっとも愛すべきは両親である。しかし、毛沢東主席や共産党とは、比べものにならない。……なぜなら、われわれにすべてを与えてくれたのは、共産党であり、偉大な革命だったからである。個人的な愛情は、さして重要ではない。したがって、女性は、夫の精力を求めすぎてはならない。(『中国青年報』1958年9月27日)

社会主義

2008-03-12 04:38:30 | 政治・社会
お気に入りにいれて読ませてもらうようになった中平さんの「土佐ローカリズムちや」http://genimakkoto.blog.shinobi.jp/ にこんな文章がありました。

    私たち30代は社会主義をどう見ちゅうか?


イデオロギーに対する見方はどういう時代に生きたかによって
変わってくると思う。

イデオロギー全盛期に生きた戦後世代は
イデオロギーアレルギーのような反応をする。

私たちには理解できん部分がある。

私たちはイデオロギーなき世界で育ってきた人間。

むしろ、指針・ビジョンを示さず、ぬらりくらりとお茶を濁してきた
戦後の支配層には苛立たしさを超えて憎しみのような感情さえ感じる。


ひとつの答えを正解とする軍隊のような教育制度の下で
社会に出ればバブル崩壊後でアメリカの成果主義が導入され
ここでも、まるで共に文明を支える同士ではなく
単なる利益を生み出す人材としての側面としてだけ使用され
人材派遣に至っては、スキルのないものは人間ではないかのような
プロパガンダが人材派遣会社の戦略によって日夜繰り返されている。


私たちにとって資本主義とは社会主義より絶対的なものではない。

単に人間を機械と見て、こきつかい、わりばしのように使い捨てる
そういうイデオロギーを資本主義に見ちゅう。

社会主義がどんなひどいもんであっても
今の資本主義よりはましではないか?
そんな幻想さえ見える。

機会平等なんてあるわけがない。

企業はなにかに理由をつけて人件費を抑えることしか頭にない。

これはテロではないのか?

自分の子供たちを育むがやなくて
自分の子供たちを食い荒らす。

少なくともカルト社会主義にさえ
共に戦うという連帯意識がある。

しかし、現代は個人主義化を推し進めて
共に戦うことさえ許さない奴隷社会。

若者世代の怒りはそろそろ極限に達するやろうと思う。

支配階級は気をつけちょったほうがえい。
何十年もかけて若者を苦しめてきた罰を受けないかん時が来た。

社会主義はこのエネルギーのはけ口として使われるやろう。

感受性の度合いによって感情の度合いも変わってくるとは思いますが
尾崎豊の”支配からの卒業”が現実のもんになっていくでしょう。

支配層という分断概念自体は少し本質から外れますが
それをひとつの括りとして捉えんと時代精神は生まれて来んとは思います。

いずれにしても、社会主義への反動が出ますね、これからは。

現在の資本主義はカルトですから


 30代の人々の世界認識とはこのようなものでしょうか。30代といってもさまざまな人がいます。他の人はこの文章に共感するのでしょうか。僕は彼がとらえる資本主義の現実に共感しながら、社会主義についてこういうとらえ方をする青年が現れたのかと問題提起されたような気分です。このブログを読むみなさんはどうでしょう?

 僕はといえば学生時代に世界観として進んで受け入れた社会主義(マルクス主義)と今なお苦闘中なのです。20世紀の社会主義運動のひどさが僕の中で今日もなお日々、明らかにされつつあり、そのような運動にNO!といいつつ、マルクスの思想を世界認識の方法として維持している部分があります。こういう状態が40年以上続いています。
 日曜日の集会で、鄭大均さん(首都大学東京)が僕のことを「情緒的」な人で、「秀才ではないから」、進歩派の教条的朝鮮人観から自由であり得たと言ってくれました。これはとても的確なほめ言葉だと僕は喜んでいます。秀才だったら40年も悩むことはありません。
 「社会主義がどんなひどいもんであっても、今の資本主義よりはましではないか?そんな幻想さえ見える。」とありますが、僕は社会主義を学んだとき(1960年代の学生時代)にはそう思っていました。今はとてもそんな風には思えません。現実の社会主義運動がロシアでも中国でも朝鮮でも日本でもあまりにもお粗末で、人道に反する要素をもっているからです。
 図書館で『餓鬼ー秘密にされた毛沢東中国の飢饉』を借りて読みました。そろそろ返さなくてはならないのですが、次回のブログでその一部を紹介します。
 
 今日から土曜日まで伊豆高原の保養所にいって遊んできます。


シン・ドンヒョクさん講演会

2008-03-11 06:18:58 | 韓国・北朝鮮
 友人の李洋秀さんから講演会の案内をいただきました。

     シン・ドンヒョクさん、来日記念講演会
北朝鮮の強制収容所に生まれ、そのまま23歳まで奴隷同然に生きてきた青年が、命がけで脱北するまでの阿鼻叫喚地獄をつづる衝撃の手記『収容所に生まれた僕は愛を知らない』が刊行されます。本の刊行に会わせて著者が来日し、講演会を開催します。
      「手記刊行記念講演会」
日時:3月17日(月)午後2時開演(1時30分開場)〜5時
会場:明治大学(駿河台)リバティタワー 1105号教室
パネラー:申東赫、川島高峰(明治大学准教授)、李洋秀(訳者)
入場無料

 李洋秀(い・やんす)さんは音楽家です。北朝鮮難民の支援に力を注いでいます。北朝鮮に「帰国」するはずだった人です。お母さんが日本人だったため新潟から、愛知に帰されたのです。10歳の時です。この本は読むのがつらいような気がします。昨年、日本TV系列の番組(バンキシャ)でこの著者の体験が放送されたのですが、僕には強烈すぎて正視することが出来ません。
 著者が来日するそうです。勇気を出して聞きに行かなければ、と思っています。 
     

   『収容所に生まれた僕は愛を知らない』
申東赫(シン・ドンヒョク)著 李洋秀(イ・ヤンス)訳
発売日:3月17日/定価:1600円/四六版上製/発売:KKベストセラーズ

北朝鮮の強制収容所に生まれ、「生まれながらにして政治犯」であった著者は、金日成と金正日が誰なのかも知らずに、23年間を収容所の中で暮らした。奴隷同然の過酷な労働、理不尽な虐待、家畜のように飼育されるためだけの結婚と出産。そこには、「愛、幸福、楽しさ、不幸、悔しさ、抵抗」という言葉も概念も、いっさい存在しなかった。
断末魔に喘ぐ北朝鮮に今なお存在する収容所。収容所で生まれ育ち脱北できたのは、もちろん彼しかおらず、初めて知らされる地獄絵のような実態に言葉をなくすはずだ。
【著者略歴】申東赫(シン・ドンヒョク)
北朝鮮政治犯収容所出生者。1982年11月19日、价川14号政治犯管理所完全統制区域で収容者夫婦の息子として生まれ、囚人生活を始める。1996年11月、母と兄が脱出を企て失敗、公開処刑される。2005年1月収容所からの脱出に成功。2005年2月、中国に脱北。2006年8月、韓国入国。




快い疲れ

2008-03-10 21:27:40 | 在日コリアン
 昨日の「国籍取得特例法の制定を求める緊急集会」には50人近い参加者があり、充実した意見交流を行うことが出来ました。今回僕は司会を担当。李敬宰会長の報告のあと李福子、鄭大均、青柳敦子さんなど5人のかたが法案制定への思いを語りました。続いて会場の参加者から7名の意見発表。呉副会長の集会決議提案で計14名の発言がありました。ほとんどのかたが短い時間で要領よく発言してくれ、中身の濃い集いになったと思います。僕にとっては理想的な授業のようなものです。20歳、30歳代(在日3世)の発言が充実していたことが大きな喜びです。また、台湾系の方からの提言もありました。
 外では開会前から、20人くらいの人々が集会を開き、声が聞こえますが何をいっているかは解りません。忠幸さんは帰りに「おじいさん、こんな集会には出ないで北朝鮮に帰りなさい」とハンドマイクでいわれたそうです。確立協(在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会)はコリアンだけの団体ではありません。僕が事務局長を務めていることから解るように民族や国籍は多様です。忠幸さんは鳥取県の出身です。神田警察が警備に当たっているようでした。主催者が要請したわけではありません。代表者から会長に会見の要請がありましたがこれは断りました。冷静な討論が可能とは考えられないからです。
 夕方からは20名くらいの参加で交流会。夜には二次会。4年間、不当解雇と闘って職場復帰を勝ち取ったJさんのお祝いも。コリア系金融機関の経営者と闘って勝利を得たコリアン。ここにも新たな歴史があります。うちに帰ったのは真夜中になりましたが、快い疲れを感じながらゆっくり休むことが出来ました。ご協力くださった皆さん、ありがとうございます。
 <きいちご花見バス>の参加希望者の募集を昨日で締め切りました。嬉しいことに57人の申し込みがあり、今日はバス会社と交渉して60人乗りの大型バスを確保して貰いました。大部分が残留孤児とその家族、通訳に当たってくれそうな方も2人はおられます。楽しい一日を想像して心が弾みます。
 

さて、どういうことになるのやら。

2008-03-09 08:44:31 | 在日コリアン
 
 今日は私たちの主催する「国籍取得特例法の制定を求める緊急集会」の当日です。ゆうべ、茨城県に住むK君から、顔を見に行くよと電話をもらい元気づけられました。どなたが参加してくれるのか、皆目見当がつかないのです。
 ある団体が僕らの集会に反対して、同時刻に韓国YMCAの前の道路で集会を開くとか。この方達のHPを見ると私たちは巨大な「反日」勢力です。予断と偏見にとらわれると実態が見えなくなります。もう少し冷静に対応してほしいものです。
 緊急とはいえ、やると決めてから一ヶ月です。僕らのできる限りでの広報には努めたつもりです。訴えは聞かれたのでしょうか。東京は絶好の行楽日和です。妨害に来る人より、集会参加者が少ないとやっぱり落ち込んでしまうかな。さて、どういうことになるのやら。法制定を求める人たちの声を心を込めて伝える集いにします。2時、お茶の水、韓国YMCA。