川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

中国残留孤児の人権回復を

2007-05-31 07:41:12 | 中国残留日本人孤児
 昨日は12時半から厚生労働省前を通る短いデモに参加しました。全国各地から集まった残留孤児の方々のしっぽについて歩きました。800人の残留孤児の参加者に対し僕のような一般市民の姿はほんのわずかです。その後、日比谷公園の一角で行われた座り込み行動の前段集会に途中まで参加しました。
 菅原幸助さんのお話が印象に残ります。ソ連軍が侵攻してきたとき真っ先に逃げた関東軍の旧軍人らが800万円とか500万円とかの軍人恩給を受け取ってきた、旧満州国の官僚らも戦後国内において同様の地位を占め高額の年金を得てきたというのです。それに対し、満州の地に捨て置かれてきた孤児に対しては、帰国後も生活保護を与えてよしとしてきたのです。
 菅原さんは19歳の時、官僚の家族らが逃げ出すとき、その警護を命じられて、そのおかげで帰国できたとのことです。旧満州で支配層にいた人たちの戦後の歩みも見てこられたことでしょう。彼らは捨ててきた同胞に思いを寄せたことがあったのか。82歳になっても孤児の人権確立まで闘うと言う菅原さんの姿に悔しさと共に人間の輝きを見ることができます。
 僕は90年代に在日韓国人傷痍軍人の陳石一さんの裁判を応援したことがあります。戦後、彼らの日本国籍を一方的に剥奪しておいて、日本国籍がないことを理由にこの国は障害年金の支給を拒否してきたのです。そのことについてかつて同じ釜の飯を食い、今は年金生活をしている人たちが何も言わず、「シカト」していることが一番悔しいと陳さんは言っておられました。
 旧軍人たちのある者たちは生き残ったことが恥だと言って、あちこちに戦没者の慰霊碑を建て身の証にしているが、生きて、人としての尊厳を求めて闘っている人々に知らん振りをしてきたのです。その頂点に立ってきたのが岸信介元首相ではなかったか。僕はかつて愛知県の三ヶ根山というところで岸元首相が揮毫して、東条英機ら7戦犯の巨大な墓を建て顕彰しているのを見たことがあります。岸元首相が満州国経営の大幹部であったこともよく知られています。
    三ケ根山 殉国七士廟

 安倍首相が残留孤児の代表と会って、従来の政策の不充分さを認め、人間としての尊厳を保つに足る処遇策をうち立てると約束したそうです。祖父を尊敬するという安倍さんに祖父がしなければならなかったのに、しなかったことを心を込めてやるという思いが宿ったとすれば嬉しいことです。官僚どもの抵抗を断固排除してこの国に希望があることを示してほしいと思います。
 日の丸のはちまきをしている方が目立ちました。各地で裁判を闘っている代表の方が次々に決意を表明されました。ほとんどが中国語です。私たちの移動教室と同じように通訳のかたが日本語にしてくれます。孤児の平均年齢は67歳だと言うことです。僕もこの4月から完全な年金生活者になりました。もうすぐ66になります。
 孤児の人々に「かえってよかった」と心から思っていただけるよう、私たちなみの年金を支給するなどと言うことは、その労苦を思えば当然のことです。その労苦を理解していない人、理解しようとつとめない人々が多すぎます。理解したいという人のために僕もすこし努力をしようと思います。僕は100人近い彼らの子どもたちの教師であったのです。何もしなければ税金泥棒です。移動教室や知り合いの方々のお話を聞く会などの案内をこのブログでもしようと思います。残留孤児の人権回復の闘いに立ち上がらなければならないのは私たち自身であることを肝に銘じたいと思います。
 
鎌倉ユネスコ(55号)(03・12・1発行)に菅原さんの紹介記事があります。

ハーイ、こんにちは・・・・・・“人権賞”受賞の菅原幸助さん
嬉しいニュース。
鎌倉ユネスコ第二 代理事長・菅原幸助さんに、横浜弁護士会第8回“人権賞”が贈呈された。
同賞は、年一回、人権を守る活動で優れた功績を残した人や団体を表彰するもの。
菅原さんへの授賞理由は中国残 留日本人孤児の日本国籍取得を実現させた実績と、帰国後、国の支援がない ため自立が困難になり厳しい生活を余儀なくされている孤児たちが、政府に 損害賠償を求める集団訴訟を支援しつづけた、その地道な努力と行動力。

過去15年間に菅原さんのお世話で帰国した中国残留孤児は300世帯に及ぶ。
みんな就職させ自立させたつもりだった。が、彼らが定年を迎える段階になって、実際にはその7割が規制の多い僅かな生活保護で暮らさざるを得ない苛酷な現実にあることを知る。10万人の賛同署名を集めての二度にわたる国会請願は不採決に終った。
集団訴訟の弁護士探しを依頼され途方に暮れていた菅原さんの相談相手が鎌倉ユネスコの理事長職をバトンタッチした及川信夫弁護士だった。
及川さんの紹介で小野寺利孝弁護士に出会いそこから輪は広がった。
今、1,262人の原告に対し、183人の弁護団へと発展。
菅原さんを含め、みんな手弁当のボランティアだ。 一人からの出発を決意し踏み出した背景を菅原さんは「私の青春時代の罪ほろぼし」と言う。
親の反対押し切り満蒙開拓を夢見て渡満。農事訓練生としてホームステイした中国人家庭で中国語をマスター。
そこを見込まれ終戦の年3月、憲兵教習隊員にひっぱられた。ほどなく敗戦。関東軍将校や高級官僚の日本帰還任務に追われるなかで見聞した開拓団おんな子供の悲惨。
帰国後は朝日新聞事件記者で鳴らした時期もあったけど、あれが侵略戦争だったと本当に気づいたのは、横浜中華街取材で会った中国人学生との対話から。 53歳、遅い気付きだった、と。
「受賞はもちろんありがたいことだけど、孤児たちが安定した人間らしい暮しができる日が来ない限り、喜ぶわけにはいかない」と語り終えた菅原さん、三年前に病んだ椎間板ヘルニア後遺症で痛む足をかばうかのように、ステッキをつき初冬の街を去って行かれた。その後ろ姿には、2年以内の判決をめざし、勝訴の日まで粘り強く支えていくための全国100万人署名と支援募金運動の重責が懸っていた。


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肥前の旅・メモ(3)

2007-05-29 11:02:02 | 出会いの旅
24日(木)  ホテルのすぐ横から出島道路という長いトンネルをくぐって諫早に向かう。干拓の里というところに寄る。時代がかったテーマパークになっているようだがそちらには寄らず、一パック100円也の莓を買って食す。美味。
 有明海沿いに佐賀方向に進むとギロチンの刃が落ちるような映像で有名になった潮受堤防が見えてきたので近寄ってみる。北部排水門の基部である。「許可」を受けてないと入れないと言う。工事事務所からおじさんが出てきて「諫早湾干拓事業の概要」という色刷りのビラを渡される。近く誰でもこの堤防を渡って雲仙側に行けるようになるという。今でも行けるがやっぱり「許可」がという。どうやってその許可をとるのか教えてはくれない。
 数千億円をかけた干拓地に土地を買って入植する人は居ない。すべて賃貸で、その青写真が図になっている。ほとんどが野菜畑の予定。本当に借りて百姓をやる人がいるのだろうか。色々質問しようとしたが、このおじさん自体、疑問の固まりみたいで「遠くからごくろうさん」といいながらさっさと事務所に帰ってしまう。
 こんな姿勢はいかがなものか。昨年、雲仙側の牛口名に立ち寄ったときにはもと漁師のおじさんが家に入れて冷たいお茶までご馳走してくれ、潮受堤防ができるまでの漁村の生活や自分の人生航路を語ってくれた。
 そんなことまでは期待しないが、まじめに見学したいという市民に説明する義務というものが九州農政局にはあるのではないか。高潮や洪水に備えるためにこの広大な調整池をこしらえたと書いてある。海を殺してまでこの干拓を推進していいのかという市民の初歩的な疑問に答えようと言う姿勢がどこにもない。僕の田舎には兼山の阿呆堀というのがある。野中兼山がたいへんなカネと労力を投入して港を造ったが役に立たず、放置されてきたのを人々がからかってこう呼んできた。
 佐賀県に入ったところに竹崎城址展望台の標識があったので訪ねる。コンクリート製の立派な「城」から有明海がよく見える。夜灯鼻灯台跡の小道をおりていくと有明海に手が届きそうな所に出た。漁帰りの船が疾走する。昼近くのおだやかな風景である。弘子さんがくれた日和続きの肥前の旅の終わりである。
 国道に出る途中で異様な風景に出会う。干上がった港に漁船が並んでいる。なにかの遺跡かと思った。近くにこの町のキャッチフレーズが掲げられていた。「月の引力が見えるまち」。なるほど、そうか。
 戴いたパンフレットをひらくとこうある。
「月の引力がもたらす潮の満ち引きから生まれた有明海の広大な干潟。干満の差が約6Mにも及ぶこの有明海は、私たちに大いなる海の恵みを与えてくれる母であり、太古の昔から、この町の人や文化を育ててくれた。」
 まことにその通りであろう。どんな人が育ち、どんな文化が育まれているのだろうか。また、いつか、この太良町を訪ねて見たい。

肥前の旅・メモ(2)

2007-05-29 06:05:59 | 出会いの旅
 お知らせ 中国残留孤児国家賠償請求訴訟原告団の方々などが30日から厚生労働省前で座り込みをするそうです。1日まで。30日0時30分から厚生労働省包囲デモ(日比谷公園霞門出発)、1時からの開会集会(日比谷公園)に参加要請がありました。「生活保護に代わる孤児独自の給付金制度の創設」「孤児との協議の場の設定」を要求しています。僕も参加するつもりです。ご都合のつく方がおられたらぜひ、協力お願いします。さて、肥前の旅です。昨日、完成原稿を消失してしまい、再挑戦です。
 
 23日(水)野母半島に向かう。右手に伊王島、高島、端島が見え始める。端島は近づけば近づくほど軍艦にそっくりで異様。無人の炭住アパートが艦橋のようだ。長崎から伊王島、高島には定期船が出ており気楽に行けるが他日を期す。軍艦島には上陸できないようだ。海底炭坑の資料館が高島にあるという。
 野母崎の権現山展望台に登る。本島等前市長らが造った鐘がある。「まごころのかねは のろしと なりわたり さかいなきくに おこらんとする」と丸い石に刻まれている。例によって、遠慮なく撞く。ホトトギスの初鳴きも。
 反対側の樺島灯台公園。地元の方と出会う。今は瀬戸内の伯方島に住み回漕業に従事している。還暦を迎えた野母崎中の同窓会があり162人のうち69人が参加したという。いくら団塊とはいえ、同窓の多さに驚く。海が豊かで漁が盛んだったらしい。今はとても想像できない。昨年、天草で廃業して干物屋をやっているもと漁師の嘆きを聞いたのを思い出す。中国や韓国の船も加わった東シナ海の漁場は乱獲のため貧弱な海に変貌している。
 目の前に見えるはずの天草は見えない。黄砂のためらしい。中国大陸の人々と運命共同体であることを実感。川越の菊池実市議のことを思う。何十年も内モンゴルの砂漠の植林に励んでいる。長江をせき止めるなどという自然の摂理に挑戦してまで、日米などの資本を導入し、「近代化」に突き進む社会主義の看板を掲げた独裁政権のことも思う。東アジアの人々の未来への展望は利かない。見るからに美しい近景に心をいやされながらうっとうしい気持ちになる。
 海の健康村で昼食。煮魚がおいしい。隣接の陽の岬温泉に入り、昼寝。これで元気回復。目の前の港から軍艦島方面への観光船がでている。長崎への帰路、「香焼」という地名に気づき、細い道にはいる。迷い迷って人気のない展望台に出る。途中に廃墟のような炭住があった。目の前に高島や三菱の造船所。
 ホテルで休憩のあと、夕暮れのオランダ坂を歩く。昨年,会津を旅したおり、偶然、春日八郎記念館に寄って以来、すっかりファンになってしまった。『長崎の女』でなじみの観光地。
 スカイロードというものに乗り、グラバー園の裏口に出る。ここはもうしまっているが、長崎のまちの展望が利く。港を取り巻くどの山も頂上付近まで家でぎっしり。スカイロードという名の山岳エレベータがなければこの付近の人は生活ができないのである。
 おばあさんが嘆いていた。修学旅行生でいっぱいになるとぎゅうぎゅうで重い買い物をぶら下げた身はけっこうつらいらしい。僕はなぜ長崎に県庁を置いたのかと思った。およそ、平野のないまちに多くの人が住めるはずがない。肥前は佐賀県一つでなぜ悪いのか。 
 見ると、小さな木札に「鍋冠山展望台へ400M」とある。登ることにする。狭い民家の間を通り抜けると尾根道に出る。花盛りの丘の下に長崎港が広がる。「月見草」の唄が口をついて出てくる。
 やがて急な階段の連続。休み休み登る。頂上はきれいな公園に整備されている。どこからか、鉦と太鼓が聞こえる。展望台に登る。左側に伊王島、女神大橋、右側に暮れなずむ長崎のパノラマ。息をのむ景観である。山腹のマンションに灯がついて、ホタル籠のように見えた。
 ホテルの前の「武蔵」という居酒屋で野母鯵の造りとムツの煮魚をいただいた。これはおいしい。おばさんの実家のものだというびわを3パック土産に買った。一パック200円。
 

肥前の旅・メモ(1)

2007-05-27 16:24:46 | 出会いの旅
5月21日(火)
早朝、嬉野温泉街を長崎街道にそって散歩。昔の温泉町の風情が残っている。東彼杵町の道の駅(近くに高知に案内したAさんの姉さんが住んでおられるはずだが、さすがに訪ねるのは憚られた)に寄ったあと、大村湾に沿って佐世保へ。
 妻が<海軍基地>の標識を見たというので、小道を入ってみると「佐世保東山海軍墓地」にたどり着いた。佐世保港を望む丘の上に軍艦ごとの合葬碑と佐世保鎮守府管内(九州・沖縄と四国)の戦死者の個人碑が所狭しと並んでいる。
 一周してみると「美しき天然」の作曲者田中穂積や杉野孫七の墓があった。中学生のころ、下宿の老夫妻に教えてもらった「広瀬中佐」に出てくる「杉野は何処、杉野は居ずや」の杉野兵曹長の墓を日露戦争から100年後にたずねたことになる。手元にある『日本唱歌集』(岩波文庫)によればこの歌は大正元年(1912)に『尋常小学唱歌』になっている。僕が教えてもらったのは55年ごろのことだが忘れずに覚えている。歌の教育力はすごい。
 管理員の方から見せてもらった写真には日本海海戦に勝利して佐世保港に凱旋する連合艦隊の後ろに続く白いロシア艦の群れが写っている。ロシアから分捕った船で後に改装して日本の軍艦にしたという。このようなことは国際的な常識であるらしく、日本の敗戦に際しては中・米・英などが生き残った艦船を持っていったらしい。こんなことも知らなかった。嬉野の海軍病院といい、佐世保は海軍の町であることを改めて印象付けられた。
 管理員さんに教えてもらった「はな一」という和食料理屋で昼食。九十九島を展望する絶景地にあり値段も手ごろ。お勧め。
    「はな一」ウェブサイト

近くの石崎展望台に上る。田中穂積の銅像の前で記念写真を地元の人にとってもらう。船越の展望台と展海峰にも行く。黄砂のためかぼんやりとした風景。先日の上州の空がほしい。
 新しい西海橋の歩道を真ん中まで歩いた後、西彼杵半島の西岸を南下。中浦ジュリアン記念公園による。住人の方が案内してくれる。丘の上に記念館が建てられていてジュリアンの生涯がわかるようになっている。ここの豪族の子として生まれたとされている。昨年夏、天草河浦町を訪ねたとき、ローマから帰った少年たちが帰国後学んだというセミナリヨ跡を歩いたことを思い出す。ジュリアンはマカオに留学後、九州各地でキリスト教の布教に努めたが、1633年長崎で穴吊の刑により殉教したという。65歳。
 夕刻に道の駅「夕陽が丘そとめ」に着く。東シナ海に落ちる夕日の名所。遠藤周作の記念館もある。僕は買ってもらった地元産のビワをいただきながら海の景観に魅了される。日が長くなって落日を見るのはあきらめる。
    道の駅「夕陽が丘そとめ」ウェブサイト
 大浦天主堂に近いホテルどまり。
 

弘子さんを見舞う

2007-05-26 10:50:55 | 友人たち
「きいちご移動教室」の翌21日朝早く、新幹線で博多に向かいました。弘子さんの病「篤し」と聞いたからです。

昨年7月、天草への旅のはじめに佐賀県武雄市の郊外のお宅にお見舞いしたときには余命幾ばくもないと宣告されながら思ったより元気で、私たちをあれこれともてなしてくれました。
ここ犬走(いぬばしり)の里は弥生期以来、人々の営みがあったところで水清いところです。ホタルの乱舞が見事だと言います。
別れに際し、僕は来年夏、ホタルの頃にまた訪ねることを約束しました。水田の広がる丘の上の庭先で、弘子さんは遠ざかる私たちの車にいつまでも手を振って見送ってくれました。

博多から妻の運転するレンタカーで嬉野医療センターを訪ねました。夫のYさんが病室に案内してくれます。弘子さんは遠慮深い人で、親戚の方たちともあまり面会してないと聞いていたのですが、会ってもらえるということで、ともかく一安心。Yさんが私たちの訪問を知らせてくれます。
僕は闘病仲間としてその健闘をたたえ、約束を果たしに来たことを伝えました。私たちのことがわかったようです。うっすらと涙がにじんだように感じました。

土産に持ってきた写真を見てもらいました。4月29日の『<多文化共生をめざす>在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会終結記念の集い』の集合写真です。今朝、僕は当日の参加者にこれを発送して来たばかりです。
7年前に一緒に訪ねたことのあるTさんやかつての同僚であるKさんが写っています。Yさんが「みんな年をとったねー」といいながら指さして弘子さんに教えます。
昔話をしていると看護士さんが検温に来たのでYさんと別室で話をすることになりました。

この病院はかつて佐世保鎮守府の管轄下にあり海軍の専用だったということで、温泉町の西北の公園の中にあります。
病状について説明を受けていると「さっきの二人と会いたいといっている」と看護士さんが伝えてくれました。何を話すというわけではありませんがしばらくの時を過ごしました。
弘子さんが「水が飲みたい」とか短い言葉を発するたびにYさんはかいがいしく働きます。この部屋に寝袋を持ち込んでもう2週間にはなるようです。眠りから覚めたとき、Yさんが居ないと心配するので朝の4時頃には枕元に控えていると言います。
別れの時が来ました。Yさんが自分で摘んだ新茶を土産に持たせてくれました。今まではずうっと弘子さんが手塩にかけてきた嬉野茶です。「遠いところありがとうございました」とYさんが言うと、弘子さんが「遠いところありがとうございます」とはっきり挨拶してくれました。

その夜、私たちは嬉野温泉の和楽園という宿に泊まりました。窓の外に大きな樗(おおち)の木が枝を張り、花を咲かせています。昨日のバスの旅のテーマソング『夏は来ぬ』の一節にある風景です。
  樗散る 川辺の宿の 門遠く 水鶏(くいな)声して 
                  夕月涼しき 夏は来ぬ  
新茶の匂いのする温泉に浸り、昨日からの疲れはどこかに行ったようです。犬走の里で一緒にホタルを見ることはできませんが、弘子さんのおかげでこんな思いができたのです。

Yさんと僕は1969年に都立池袋商業高校に赴任し、文字通り苦楽を共にしました。全都ではじめて「主任」を廃止し、誰もが自分を生かせる職場づくりに取り組みました。
カリキュラムの改革で学校独自の「社会」の時間を作り、教師も生徒も時代の課題と向き合う努力も始めました。
そうした改革の中心にいたのがYさん・Nさん・僕の「はなの41年組」です。
速球一本槍で次々と難題を提起するのが僕だったとすれば職場の合意を形成するために地道な人付き合いを心がけたのがYさんたちでした。
非常勤講師組合の講師専任化闘争を巡って職場が分裂し、私たちが少数派になり、旧秩序が復活してからも、一人一人の生徒の生活現実を見据えることから教育活動を作っていこうとする私たちの営みは続きました。
「考える会」もそのような積み重ねの中から生まれたのです(75年)。
80年代の半ばに佐賀の実家に帰るまでYさんは一緒に歩いてくれました。僕にとっては人生の疾風怒濤期を共にしてくれたかけがえのない友人です。独特の節を持つ授業で生徒たちを魅了しました。

弘子さんとは職場も違い親交があったとはいえません。
Yさんの帰郷に際し、相談(?)を受けたことがあります。何でも控えめで我慢強い(ように見える)弘子さんも教職を辞して夫君の故郷に帰るについては大きな決断が必要でした。
どのような意見を言ったか、よくは覚えていませんが僕のことですから、自分の人生が大事だとますます困らせるようなことを言ったのではないかと思われます。

還暦を迎えた01年の8月にTさんを誘ってはじめて佐賀を訪ねました。
私立高校の夏期講習で忙しいYさんに代わって、弘子さんが有田や武雄を始め、あちこちを案内してくれました。
この15年の間に地域の人々の間にしっかり根を下ろし、女性団体の役員を務めるなど欠かせぬ人になっているようでした。この地方の名物“皿踊り”を披露して私たちをもてなしてくれました。
ここまで来るには並大抵の努力ではなかったと思います。
僕が肺ガンの手術をしたことを知り、激励を受けた後、まもなく弘子さんの病状が伝えられてきました。寝耳に水のことです。余命幾ばくもないと宣告されたと聞き、僕は一人泣いてしまいました。

体力が回復して、天草への長旅に挑戦する最初の日にお見舞いしたのは先に書いたとおりです。
天草でお会いした文京高校の生徒のおばあちゃんは私たちの想像を絶する人生をくぐり抜けてきた愉快な方で、ガンとの闘いでも大先輩でした。僕は戴いたエネルギーの大きさを思い、できることなら弘子さんを天草に案内してあげたいと思ってきました。
それはもはやかないそうもなく、今はおだやかな日々が友人たち夫婦の間に続くことを祈るばかりです。

夏は来ぬ――きいちご移動教室

2007-05-17 07:40:56 | 中国残留日本人孤児
「希望はどこに」の続編を書かなければと思いつつすこし疲れ気味なので、閑話休題。11日に池袋商業高校の定年組OB教師たちの会に出たほかはずうっと川越です。ときどき、鳩山という町の里山を歩いて、都幾川の温泉に入ります。水くみをして帰ります。この数日は<きいちご移動教室>の準備で暮れて行きます。
 6回目になる今回は20日に群馬県の後閑にある、如意寺と高山村の牧場を訪ねます。午前中はフィールドワーク、午後は自然の中での交流というのが定番です。「大東亜戦争」末期、利根川の岩本発電所建設工事に動員され犠牲となった中国人の慰霊碑を如意寺に訪ね、法政大学の高柳俊男さんの講義を聴いたり、住職さんの話を伺います。高山高原牧場で昼食のあとゆっくりと緑の中で過ごします。「中国残留孤児」とその家族を中心に49人が参加する予定です。日本語が充分でないため、家に閉じこもりがちな人々を誘って、素晴らしい日本の自然を満喫し交流を深めるのが目的です。
 昨日は今回のテーマソング「夏は来ぬ」の歌詞のプリントを作りました。「卯の花の匂う垣根に…」と一字一字、書き写していくのですが、佐々木信綱の詩の世界を理解することの難しさを実感します。卯の花こそ我が家でも咲き誇っていますがホトトギスもホタルもクイナも縁がありません。田植えにしても様子がすっかり変わってしまって、早乙女を見つけることはできません。この唄が「教育唱歌」となったのが1896年ということですから、仕方がないのかもしれません。
 僕は幼少の頃、麦わらでホタル籠を編んだり、蚊帳の中にホタルを放したりした思い出があります。小2の時、早世した弟がまだ赤ちゃんの時だったと思います。田植えをした記憶はありませんが、家族みんなで稲刈りをしたり、千歯という物を使って脱穀した楽しい労働の日を思い起こすことができます。                                               
 ホタルといえば今は中学生の母となったSさん姉妹が高校生の時、一緒に「残留婦人」のおばあちゃんの故郷を訪ねたときのことが忘れられません。鳥海山の中腹のキャンプ場で闇の中を乱舞するホタルの群に心を奪われたのです。ここに連れて行ってくれたのは同僚のIさんでした。Sさん母子はこのバスの旅の常連ですがIさんはこの数年姿をみせてくれません。心が疲れていたとき、自然の治癒力のすごさを僕に教えてくれたのは山の達人であるIさんです。また、いつか、そんな日のあることを願っています。
 さて、65になる僕にしてこんな遠い、貧しい記憶しかありません。都会育ちの若い人や外国から来た人たちに佐々木信綱の世界を想像してもらうにはどうしたらいいのでしょう。そんなことをあれこれと考えていると旅の楽しみがじわじわとわいてきます。
 今回初参加のF君はピアノの名手ですがカラオケのチャンピオンになったこともあると言います。朝鮮人学校の育ちですが「夏は来ぬ」は愛唱歌でもあるとか。Fくんのリードのもとで参加者の声が響く20日のバスの風景が意欲をかき立ててくれます。
 この旅に次回から参加してみたい方がおられたら、遠慮なく連絡してください。主催はきいちご多文化共生基金。参加費は100円(旅行保険料)です。自然に親しみ、隣人と仲良くしていこうという方のすべてに参加資格があります。年間、1000円程度以上のカンパで会員になることもできます。

 
 僕が懐かしい唱歌などを思い出すときお世話になるブログがあります。皆さんも訪ねてみてください。
    なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡

ケサ子おばあちゃん

2007-05-13 12:46:50 | 出会いの旅
 信州の旅の二日目(5月9日)は飯山のはずれにある菜の花の丘公園を訪ねました。丘の上にある飯山市立東小学校から千曲川にかけて菜の花畑が広がっています。北信の山々を背景にしたこの風景が大好きで、いつか「残留孤児」の人たちを案内したいと思いながら、今年の春も過ぎていきます。
 午後はいつものように小布施町にKさんを訪ねます。ここにはケサ子おばあちゃんが住んでおられます。僕が都立文京高校に転勤した年(05年)に出会い、ASIAN同好会というサークルを作ったSさんのおばあちゃんです。小布施の北斎館で働いている元気なおばあちゃんだと聞いて、Sさんの卒業直後に、僕の家族やSさんの友人たちと共に会いに来たのです。それから10年、私たちは春と秋、このお宅を訪ね、おばあちゃんの手作りの料理の接待を受けてきました。一緒に小旅行を楽しんだこともあります。妻の母と3人で信州にできた新しい <親戚>を訪ね、一族の人々と交流するのが私たちの年中行事になったのです。
 数年前、おばあちゃんが病に倒れてからは長男のKさんが会社を退職し、付ききりで看病してこられました。Kさんは庭造り、盆栽づくり、に凝ってきた方です。家の庭ばかりか、千曲川の河川敷や近所の畑にも庭を造り続けています。仕事柄、旅をすることが多かったせいか、仏像や人形などのコレクションもただならぬものがあります。私たちは訪ねるたびごとにこれらの作品を鑑賞し、目を肥やすことになります。
 おばあちゃんの病状が進行し、介護施設に入所してからはもっぱらKさんがもてなしてくれます。今回は僕の入院などのため2年ぶりのお宅訪問です。親戚や友人の方から届いた野菜料理やおいしい漬け物で久しぶりに酒が進みます。Sさんは東京で看護師勤めをしながら、今は二人目の赤ちゃんの出産に備えています。僕としてはまたみんなで食卓を囲みたいところですが、しばらくはこうしてうわさ話を酒の肴にすることになるのでしょう。
 まちなかにある明るく快適そうな介護施設におばあちゃんを見舞いました。2年のご無沙汰のうちにすっかり痩せてしまわれ、ほとんど眠ってばかりだと言うことです。妻と僕とが声をかけると目を開けてくれました。目で返事をしてくれているような気がします。Kさんが喜んで、僕らの紹介や昨日、お見舞いに来てくれた方々の名前などをお母さんに知らせています。きょうはめずらしく調子がいいのです。Sさんに二人目の赤ちゃんが誕生したら、また伺いますとお別れの言葉を伝えました。
 Kさんはこのあとおばあちゃんの弟さんのNさんの家に私たちを案内してくれました。農作業を中断して、おいしいお茶を入れてくれます。古い民家の縁側に腰掛けて、お話に耳を傾けていると目の前の庭がすてきな庭園であることに気づきます。石や岩が見事に配置されています。小布施の背後に聳える雁田山の産だと言います。こちらには何度かお邪魔しているのですがこうやって座ってNさんのお話をゆっくり伺うのははじめてだったのです。
 「ケサ子姉さんは勉強も遊びも一番だった、おてんばで男の子たちも姉さんに逆らえなかった」。70年以上も昔、この家、この庭で姉さんに遊んでもらった日を思い出されたのでしょうか。Nさんの口からこぼれたのは自慢の姉さんへの賛辞でした。いいなあ、いいなあと僕は心の中でつぶやいていました。


秋和の里(下)

2007-05-12 17:27:03 | 出会いの旅
 北国街道に面した寺院に車を置き、伊良子清白の足跡を見い出そうと秋和の村を歩き回りました。養蚕の盛んだった頃を偲ばせる廃屋の前で土地の人の話を聞きました。この村の家の多くが倉を持つ立派な作りであるのは、かつて、蚕種を製造販売して全国的に名をとどろかせたことによる、当時は塩尻村といったという。小さいときは家業を手伝って桑摘みに精出した僕と同世代のこの方の記憶の中に「秋和の里」にまつわる話は残っていないようです。昔の公会堂のあとが学童保育や老人のセンターになっていて、賑わっていたので寄ってみましたがやっぱり手がかりはありません。しかし、子どもたちと交わる大人たちの振る舞いが好ましく感じられ、いい気分になって帰路に就きました。
 車に乗る前に念のため寄った酒屋の主人との会話が事態を一変させました。主人は何事も言わず、私たちを古色蒼然たる旧家に案内し、滝沢宗太という<高原大学学長>に取り次いだのです。滝沢さんは私たちを先祖の写真が並ぶ表の間に招じ入れ、遠来の客としてもてなしてくれました。見るからに精悍な偉丈夫です。幾つに見えるかと問われたので、その貫禄ぶりから、90代に見えるとこたえました。1914年生まれの92歳でした。
 『滝沢秋暁著作集』(1971年刊)という大冊と『高原大学報』(153号・07年2月刊)を戴きました。この本をめくるとP516に「秋和の里」が載っており、サブタイトルとして「秋暁に贈る」とあるではないか。秋暁とはこの方の祖父であり、明治28年(1895)からの一時期、『文庫』という文芸誌の編集に関わり、河井酔茗、伊良子清白、横瀬夜雨ら文庫派といわれる文人を結びつけた人であるらしい。病を得て帰郷してからは蚕種製造の家業を継ぎながら作品を発表し続けた。
 清白は明治35年(1902)の秋、越後への旅の帰りにこの先輩を秋和の里に訪ね、月明の下を秋暁と二人で歩いた時の感興を詩につくり書き送ったのです。滝沢さんは清白からの書簡のコピーをみせてくれましたが、達筆で僕にはとても読めません。著作集に収録されている書簡によれば、「五日午後七時三十三分上田着、夜中御伺申上、六日午前十時三十三分上田発にて上京」と記されています。わずか15時間の滞在です。短い時間でも尊敬する先輩に会いたかったのでしょうか。「夜中甚だ恐入り候得共ここまで参りてお伺いせざるもいかが、且は今度何時都合良き時機到来するやも難計致につき是非御訪問申度と存候」とあります。
 訪ねる清白、迎える秋暁。僕はこういう交友が好きです。(川越まで遊びに来ても「啓介さん、居るかい」と声をかけてくれないと友だち甲斐がないと思ってしまいます)。清白の詩をこのような歴史の中において読むと詩人の喜びがひしひしと伝わってきます。
 これで「秋和の里」に関わる謎はほとんど解けました。上田あたりを佐久の平と言うのは無理があるがこれは蓼科山に対する詩人の言葉であろう、「酒うる家」は上田からの途中にあった「米万」という居酒屋のことだと滝沢さんは補足してくれました。上田駅で旧友と再会した二人は一里あまりの田舎道をどのような会話を重ねながら秋和へと歩いたのでしょうか。
 本をめくっていると佐藤春夫が1947年10月6日に秋暁に書き送った詩が出てきます。

 亡き清白が詩に恋ひ
 思ひ久しき里に来ぬ
 時に秋和の秋まつり
 里の翁を見まく欲り

 この翁こそそのむかし
 詩あげつらひ文を説き
 口利き人と知られしを
 世にかくれ住み老い給ふ
 
 観潮楼の大人に似る
 いかめしき髭白くして
 いとなごやかに物言へど
 かくれがたなしその才は
 
 酒うる家のさざめきに 
 まじる夕の雁の声
 そは聞かねどもめづらしき
 言のかずかず聞けるかな
 
 桃山屏風なつかしく
 芳年の帖 晩霞の絵
 つきぬ絵がたり詩がたり
 むかしがたりもまじりたる  
 
 清白が旅 夜雨の恋
 都に見たる古沼の
 今はたありやあらずやと
 且つ問い語る主ぶり
 
 思ひそぞろぐ客人の
 時を忘れしその間に
 あるじまうけの温かき
  茸の飯や烏賊の菜

 これも翁がもてなしか
 かへるさの途 月澄みて
 興尽きざりき 忘れめや
 秋和の里の 秋一日
 
 僕は佐藤春夫が訪ねたその部屋で、60年後、滝沢秋暁の孫に会っていただいたのです。築400年にはなるという古い民家の表の間で今、宗太さんが座っておられるところにかつて、秋暁が座り、清白を迎え、佐藤春夫を迎えたのでしょうか。高校の教科書で記憶に残された一編の詩がこのような出会いを作ってくれたことに僕は言いしれぬ感動を味わっています。
 宗太さんの高原大学学長としての活動も興味深いものがありますが、また機会を作ってお話を伺いたいと思います。別れに際し、大きな手で力強く握手をしてくれました。

 僕がインターネットをはじめて間もない頃、「佐久の平のかたほとり」をネット検索していて出会ったブログがあります。
    『ふらり道草』
 2006年9月の記事「旅の詩「信越Ⅲ」」のコメント欄に記された伊良子清白の詩「秋和の里」にたどり着いたのです。
 「道草」さんに改めてお礼申し上げます。

秋和の里(上)

2007-05-11 06:46:21 | 出会いの旅
秋和の里  伊良子清白

月に沈める白菊の ・
秋冷(すさ)まじき影を見て
千曲(ちくま)少女(をとめ)のたましひの
ぬけかいでたるこゝちせる ・

佐久の平(たひら)の片ほとり
あきわの里に霜やおく ・
酒うる家のさゞめきに ・
まじる夕(ゆふべ)の鴈(かり)の声

蓼科山(たでしなやま)の彼方にぞ
年経(ふ)るをろち棲むといへ
月はろ/″\とうかびいで ・
八谷(やたに)の奥も照らすかな

旅路はるけくさまよへば ・
破(や)れし衣(ころも)の寒けきに
こよひ朗(ほが)らのそらにして
いとゞし心痛むかな
 
 妻の仕事が一段落したので、8日から療養をかねて信州・東御にある友人の別宅に世話になりました。あいていればすぐに貸してもらえるので、自分の別荘のように気楽に使わせてもらっています。
 8日夕、早速、秋和の里の探索に出かけました。上田市の北郊に秋和という地名を見つけたのでここだろうと勝手に目星をつけたのです。
 この詩は高校の国語の教科書に載っていたものです。50年が経ってうろ覚えだったのを、インターネットという怪物が鮮やかに蘇らせてくれました。高校生の時と同じように声を出して読んで見ました。千曲川、佐久平、蓼科山…今はお馴染みの風景です。この詩が作られた100年前を想像しながら朗誦すると懐かしさが染み渡ってくるようです。

 日本の近現代史を紹介するウェブサイトがあります。
 ≪日本の近現代詩≫
 このサイトで伊良子清白の詩を読めます。
 「伊良子清白 【いらこ せいはく】」

希望はどこにあるか?

2007-05-07 11:12:26 | こどもたち 学校 教育
 4月29日に「<多文化共生をめざす>在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会」の『終結記念の集い』があり、32年にわたる活動にピリオドを打ちました。僕にとっては自分の教員生活と共にあった活動で、小さいとはいえ、その社会的責任を自覚しながら友人や家族と共に歩んできました。その夜、遅くまで語りあったせいか、ひどく疲れてこの一週間寝てばかりでした。こんなに疲れてしまったのはおそらく体験のないことです。
 「川越だより」が届かないので心配された方もおられたことでしょう。5月5日の<原爆の図・丸木美術館>の開館40周年のお祝いにも行けず、せっかくの機会にお会いできなかった方もおられるかもしれません。ごめんなさい。たぶん、もう大丈夫です。

 先の『集い』の冒頭の挨拶で僕は最後の生徒の一人であるF君のノートの一節を紹介しました。
  <希望はどこに?③we shall overcome!>
以前、私は「希望とは仏様の慈悲である」とノートにかきました。確かにそう思っているけれど、人間同士がお互いに協調し、「希望とは何か?」と話し合い、議論することが大切だと思います。私にとっての希望は確かに仏様のご慈悲であるけれど、他の誰かにとっては、全く別の形をとるかもしれない。私なんかもそうなのだけれど、日本の学生は割と議論すると言うことに不慣れなんじゃないかと思います。それは「仲良きことは美しきかな」なんて言葉があるくらいですから、いきなり議論しなさいといっても無理があると思います。…でも、人の考えに触れずに育つというのはあまりにもったいないと思います。本や教科書でなく、面と向かって人と対峙する勇気を持ちたい。
 「私はこう思う」という意見に対し、「私はこう思う」という別の意見があるのはごく自然なことで、どちらか一つが正しいわけではなく、二つの異なった価値観が確かに存在するという事実があることです。人類が地球に誕生してきてから、個人個人で発達、発展してきたわけではありません。互いに協調したり、敵対しながら、お互いに影響を与えながら発展、発達してきたはずです。今の時代にだって、この原理、原則は充分に通じるはずです。
 自分とは違う思想に直に触れることで、まず、違う価値観が存在することに気づかされる、それだけでも大きな刺激になるはずです。
 議論したり、話し合うことは共通した希望を見つけだすためにも必要な作業だと思います。もしかしたら、そこで友情が生まれるかもしれないし…。ここまでは自発的に自らが意見を主張する必要性を書きましたが、人間には口があれば、“人の意見を聞き入れるための”耳があります。
 認められたいのなら、まず、相手を敬う必要があるのではないでしょうか?希望を“共に”探す、一緒の、希望を夢見る大切さを感じました。
 
 新宿山吹高校における僕の最後の授業のテーマは「希望はどこにあるか?!」でした。地球・生態系の危機、戦争、圧政、拉致、差別、いじめによる自死、親殺し・子殺し…。これからを生きる青年にとって、自分を確立し、生かしつづけていくことは並大抵のことではありません。アンネ・フランク、につながる人々、アメリカの公民権運動、ネイチブアメリカンの闘いなどを唄や映画を通して紹介しました。F君の意見は今、この困難な時代を生き抜くために、青年だけではなく、僕の友人たちに贈りたい言葉だったのです。(つづく)