昨日は12時半から厚生労働省前を通る短いデモに参加しました。全国各地から集まった残留孤児の方々のしっぽについて歩きました。800人の残留孤児の参加者に対し僕のような一般市民の姿はほんのわずかです。その後、日比谷公園の一角で行われた座り込み行動の前段集会に途中まで参加しました。
菅原幸助さんのお話が印象に残ります。ソ連軍が侵攻してきたとき真っ先に逃げた関東軍の旧軍人らが800万円とか500万円とかの軍人恩給を受け取ってきた、旧満州国の官僚らも戦後国内において同様の地位を占め高額の年金を得てきたというのです。それに対し、満州の地に捨て置かれてきた孤児に対しては、帰国後も生活保護を与えてよしとしてきたのです。
菅原さんは19歳の時、官僚の家族らが逃げ出すとき、その警護を命じられて、そのおかげで帰国できたとのことです。旧満州で支配層にいた人たちの戦後の歩みも見てこられたことでしょう。彼らは捨ててきた同胞に思いを寄せたことがあったのか。82歳になっても孤児の人権確立まで闘うと言う菅原さんの姿に悔しさと共に人間の輝きを見ることができます。
僕は90年代に在日韓国人傷痍軍人の陳石一さんの裁判を応援したことがあります。戦後、彼らの日本国籍を一方的に剥奪しておいて、日本国籍がないことを理由にこの国は障害年金の支給を拒否してきたのです。そのことについてかつて同じ釜の飯を食い、今は年金生活をしている人たちが何も言わず、「シカト」していることが一番悔しいと陳さんは言っておられました。
旧軍人たちのある者たちは生き残ったことが恥だと言って、あちこちに戦没者の慰霊碑を建て身の証にしているが、生きて、人としての尊厳を求めて闘っている人々に知らん振りをしてきたのです。その頂点に立ってきたのが岸信介元首相ではなかったか。僕はかつて愛知県の三ヶ根山というところで岸元首相が揮毫して、東条英機ら7戦犯の巨大な墓を建て顕彰しているのを見たことがあります。岸元首相が満州国経営の大幹部であったこともよく知られています。
三ケ根山 殉国七士廟
安倍首相が残留孤児の代表と会って、従来の政策の不充分さを認め、人間としての尊厳を保つに足る処遇策をうち立てると約束したそうです。祖父を尊敬するという安倍さんに祖父がしなければならなかったのに、しなかったことを心を込めてやるという思いが宿ったとすれば嬉しいことです。官僚どもの抵抗を断固排除してこの国に希望があることを示してほしいと思います。
日の丸のはちまきをしている方が目立ちました。各地で裁判を闘っている代表の方が次々に決意を表明されました。ほとんどが中国語です。私たちの移動教室と同じように通訳のかたが日本語にしてくれます。孤児の平均年齢は67歳だと言うことです。僕もこの4月から完全な年金生活者になりました。もうすぐ66になります。
孤児の人々に「かえってよかった」と心から思っていただけるよう、私たちなみの年金を支給するなどと言うことは、その労苦を思えば当然のことです。その労苦を理解していない人、理解しようとつとめない人々が多すぎます。理解したいという人のために僕もすこし努力をしようと思います。僕は100人近い彼らの子どもたちの教師であったのです。何もしなければ税金泥棒です。移動教室や知り合いの方々のお話を聞く会などの案内をこのブログでもしようと思います。残留孤児の人権回復の闘いに立ち上がらなければならないのは私たち自身であることを肝に銘じたいと思います。
鎌倉ユネスコ(55号)(03・12・1発行)に菅原さんの紹介記事があります。
ハーイ、こんにちは・・・・・・“人権賞”受賞の菅原幸助さん
嬉しいニュース。
鎌倉ユネスコ第二 代理事長・菅原幸助さんに、横浜弁護士会第8回“人権賞”が贈呈された。
同賞は、年一回、人権を守る活動で優れた功績を残した人や団体を表彰するもの。
菅原さんへの授賞理由は中国残 留日本人孤児の日本国籍取得を実現させた実績と、帰国後、国の支援がない ため自立が困難になり厳しい生活を余儀なくされている孤児たちが、政府に 損害賠償を求める集団訴訟を支援しつづけた、その地道な努力と行動力。
過去15年間に菅原さんのお世話で帰国した中国残留孤児は300世帯に及ぶ。
みんな就職させ自立させたつもりだった。が、彼らが定年を迎える段階になって、実際にはその7割が規制の多い僅かな生活保護で暮らさざるを得ない苛酷な現実にあることを知る。10万人の賛同署名を集めての二度にわたる国会請願は不採決に終った。
集団訴訟の弁護士探しを依頼され途方に暮れていた菅原さんの相談相手が鎌倉ユネスコの理事長職をバトンタッチした及川信夫弁護士だった。
及川さんの紹介で小野寺利孝弁護士に出会いそこから輪は広がった。
今、1,262人の原告に対し、183人の弁護団へと発展。
菅原さんを含め、みんな手弁当のボランティアだ。 一人からの出発を決意し踏み出した背景を菅原さんは「私の青春時代の罪ほろぼし」と言う。
親の反対押し切り満蒙開拓を夢見て渡満。農事訓練生としてホームステイした中国人家庭で中国語をマスター。
そこを見込まれ終戦の年3月、憲兵教習隊員にひっぱられた。ほどなく敗戦。関東軍将校や高級官僚の日本帰還任務に追われるなかで見聞した開拓団おんな子供の悲惨。
帰国後は朝日新聞事件記者で鳴らした時期もあったけど、あれが侵略戦争だったと本当に気づいたのは、横浜中華街取材で会った中国人学生との対話から。 53歳、遅い気付きだった、と。
「受賞はもちろんありがたいことだけど、孤児たちが安定した人間らしい暮しができる日が来ない限り、喜ぶわけにはいかない」と語り終えた菅原さん、三年前に病んだ椎間板ヘルニア後遺症で痛む足をかばうかのように、ステッキをつき初冬の街を去って行かれた。その後ろ姿には、2年以内の判決をめざし、勝訴の日まで粘り強く支えていくための全国100万人署名と支援募金運動の重責が懸っていた。
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菅原幸助さんのお話が印象に残ります。ソ連軍が侵攻してきたとき真っ先に逃げた関東軍の旧軍人らが800万円とか500万円とかの軍人恩給を受け取ってきた、旧満州国の官僚らも戦後国内において同様の地位を占め高額の年金を得てきたというのです。それに対し、満州の地に捨て置かれてきた孤児に対しては、帰国後も生活保護を与えてよしとしてきたのです。
菅原さんは19歳の時、官僚の家族らが逃げ出すとき、その警護を命じられて、そのおかげで帰国できたとのことです。旧満州で支配層にいた人たちの戦後の歩みも見てこられたことでしょう。彼らは捨ててきた同胞に思いを寄せたことがあったのか。82歳になっても孤児の人権確立まで闘うと言う菅原さんの姿に悔しさと共に人間の輝きを見ることができます。
僕は90年代に在日韓国人傷痍軍人の陳石一さんの裁判を応援したことがあります。戦後、彼らの日本国籍を一方的に剥奪しておいて、日本国籍がないことを理由にこの国は障害年金の支給を拒否してきたのです。そのことについてかつて同じ釜の飯を食い、今は年金生活をしている人たちが何も言わず、「シカト」していることが一番悔しいと陳さんは言っておられました。
旧軍人たちのある者たちは生き残ったことが恥だと言って、あちこちに戦没者の慰霊碑を建て身の証にしているが、生きて、人としての尊厳を求めて闘っている人々に知らん振りをしてきたのです。その頂点に立ってきたのが岸信介元首相ではなかったか。僕はかつて愛知県の三ヶ根山というところで岸元首相が揮毫して、東条英機ら7戦犯の巨大な墓を建て顕彰しているのを見たことがあります。岸元首相が満州国経営の大幹部であったこともよく知られています。
三ケ根山 殉国七士廟
安倍首相が残留孤児の代表と会って、従来の政策の不充分さを認め、人間としての尊厳を保つに足る処遇策をうち立てると約束したそうです。祖父を尊敬するという安倍さんに祖父がしなければならなかったのに、しなかったことを心を込めてやるという思いが宿ったとすれば嬉しいことです。官僚どもの抵抗を断固排除してこの国に希望があることを示してほしいと思います。
日の丸のはちまきをしている方が目立ちました。各地で裁判を闘っている代表の方が次々に決意を表明されました。ほとんどが中国語です。私たちの移動教室と同じように通訳のかたが日本語にしてくれます。孤児の平均年齢は67歳だと言うことです。僕もこの4月から完全な年金生活者になりました。もうすぐ66になります。
孤児の人々に「かえってよかった」と心から思っていただけるよう、私たちなみの年金を支給するなどと言うことは、その労苦を思えば当然のことです。その労苦を理解していない人、理解しようとつとめない人々が多すぎます。理解したいという人のために僕もすこし努力をしようと思います。僕は100人近い彼らの子どもたちの教師であったのです。何もしなければ税金泥棒です。移動教室や知り合いの方々のお話を聞く会などの案内をこのブログでもしようと思います。残留孤児の人権回復の闘いに立ち上がらなければならないのは私たち自身であることを肝に銘じたいと思います。
鎌倉ユネスコ(55号)(03・12・1発行)に菅原さんの紹介記事があります。
ハーイ、こんにちは・・・・・・“人権賞”受賞の菅原幸助さん
嬉しいニュース。
鎌倉ユネスコ第二 代理事長・菅原幸助さんに、横浜弁護士会第8回“人権賞”が贈呈された。
同賞は、年一回、人権を守る活動で優れた功績を残した人や団体を表彰するもの。
菅原さんへの授賞理由は中国残 留日本人孤児の日本国籍取得を実現させた実績と、帰国後、国の支援がない ため自立が困難になり厳しい生活を余儀なくされている孤児たちが、政府に 損害賠償を求める集団訴訟を支援しつづけた、その地道な努力と行動力。
過去15年間に菅原さんのお世話で帰国した中国残留孤児は300世帯に及ぶ。
みんな就職させ自立させたつもりだった。が、彼らが定年を迎える段階になって、実際にはその7割が規制の多い僅かな生活保護で暮らさざるを得ない苛酷な現実にあることを知る。10万人の賛同署名を集めての二度にわたる国会請願は不採決に終った。
集団訴訟の弁護士探しを依頼され途方に暮れていた菅原さんの相談相手が鎌倉ユネスコの理事長職をバトンタッチした及川信夫弁護士だった。
及川さんの紹介で小野寺利孝弁護士に出会いそこから輪は広がった。
今、1,262人の原告に対し、183人の弁護団へと発展。
菅原さんを含め、みんな手弁当のボランティアだ。 一人からの出発を決意し踏み出した背景を菅原さんは「私の青春時代の罪ほろぼし」と言う。
親の反対押し切り満蒙開拓を夢見て渡満。農事訓練生としてホームステイした中国人家庭で中国語をマスター。
そこを見込まれ終戦の年3月、憲兵教習隊員にひっぱられた。ほどなく敗戦。関東軍将校や高級官僚の日本帰還任務に追われるなかで見聞した開拓団おんな子供の悲惨。
帰国後は朝日新聞事件記者で鳴らした時期もあったけど、あれが侵略戦争だったと本当に気づいたのは、横浜中華街取材で会った中国人学生との対話から。 53歳、遅い気付きだった、と。
「受賞はもちろんありがたいことだけど、孤児たちが安定した人間らしい暮しができる日が来ない限り、喜ぶわけにはいかない」と語り終えた菅原さん、三年前に病んだ椎間板ヘルニア後遺症で痛む足をかばうかのように、ステッキをつき初冬の街を去って行かれた。その後ろ姿には、2年以内の判決をめざし、勝訴の日まで粘り強く支えていくための全国100万人署名と支援募金運動の重責が懸っていた。
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