川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

N先生と僕の闘病

2007-04-28 20:58:42 | 父・家族・自分
 一昨日は癌研究会有明病院にいき、N医師から検査の結果を聞きました。転移による病変はなく、抗ガン剤による血液への打撃からも順調に回復しているとのことです。N先生は僕の12歳の時からの友人ですが、医師としてはきわめて冷静で、希望的観測はしない方です。その彼の顔がいつになく明るく、展望が開けてきたことを告げてくれました。もちろん、100パーセントというわけには行かないと言う条件付きですが。
 僕はこのところ、3ヶ月おきに、検査を受けています。先生の判定を聞く日はやはり、多少の緊張がありましたが、一昨日はもう慣れてきたのか平常心に近かったようです。それでも、N君の表情に読みとれる安堵感は本当にありがたく、嬉しく感じました。
 一昨年12月の左肺全摘手術後に僕の5年生存率は30パーセントと告げられています。関東中央病院の健康診断で二年つづけて病変が見落とされるというずさんな医療ミスのため、癌が肺門リンパに転移していたのです。脳や骨に転移する可能性が高いと言うことで抗ガン剤の投入を受けました。世界的に実験段階で、効果のほどはわからないがほかにすることはないと言うことでした。
 先生は、君の場合は2年間が大事だ、といっていました。手術からは1年と5ヶ月です。一昨日、先生はN君に返って、僕を励ましてくれたのでしょうか。
 N先生は手術に当たってこういわれました。「僕が執刀します、だけど病気と闘うのは君だ、共に頑張ろう」。先生の手術は見事なものです。輸血も必要とせず、痛みというものを全く感じさせません。術後、ふた冬を越したのですがどんな些細な痛みも体験しません。先生はたまにそういう人もいる、ラッキーだったねといいます。
 少年の頃から手先が器用で、医者だった父上から、大工になるか、外科医になるかと問われたと聞いたことがあります。彼に天賦の才能があることは僕は昔から良く知っています。しかし、外科医になってからたくさんの患者さんの運命と出会い、たぶん失敗も重ねながら技術を磨き、思想を深めて、この道の第一人者になったのだと思います。N君に世話になるとは思っても見なかったことですが、本当に「有り難い」ことです。
 僕の闘病は先生の指示に従うことだけです。やりたいことをやりなさい。行きたいところに行きなさい。食べたいものを食べなさい。飲みたいものを飲みたいだけ飲みなさい。
 手術後、会いたい人にあい、行きたいところに行って、嬉しい再会に喜び、大きな自然の恵みに心を揺さぶられました。やりたい授業をやりたいようにやり、市民としての活動も楽しんでいます。退職後、娘がこのブログを作ってくれました。(まだまだうまくいかず、この文章は公表前に2回も消えてしまいました。)僕が口舌の徒であること、寂しがり屋であることを良く知っているからでしょう。海の外からもコメントを入れてくれます。こうして皆さんの友情や励ましに支えられて過ごしているうちに、病気との闘いは知らないところで進められているのでしょう。この患者は癌について何一つ勉強しようとしません。脳天気さにガン細胞もあきれ果ててもう僕の出る幕はなくなったと思ってくれているのかなー。(そうあってほしいですね。)
 N先生は定年になりました。でも、嘱託とかで、引き続き70までは呼吸器外科の医師をつづけます。僕の行く末はキチンと見届けてくれるのです。僕は気を緩めることなくこれからも先生の指示に従って闘って行きます。皆さんも僕のことを見捨てないで応援してくださいね。
 僕には一つの夢があります。高知に帰ったときやはり医者をしている友人と語り合うのですが、「いつかまた、みんなで源氏が駄馬にのぼりたいなー。」
 高二の夏、数人で四万十川の源流部のN君の家に世話になったとき、大野ヶ原という高原の小学校に泊めてもらい、翌日、付近の山に登ったのです。松本富士雄という校長先生の優しいもてなしとなだらかな源氏が駄馬の山頂からの眺めが忘れられないのです。惣川中学校の女生徒たちのコーラスも聞こえていました。
 「Nが暇になったらみんなに声をかけよう。」70になったら、そんな日がくるかもしれません。僕もこの思いがけない危機を乗り越えて、あの四国山地の山並みをながめながら、良い友を持った喜びに浸っていることでしょう。

接待を受けて

2007-04-25 11:39:38 | ふるさと 土佐・室戸
<けんちゃん>さんから戴いた配信の中に「お接待の心が地域を救う」という見出しがありました。忘れないうちに書いておきたい体験があります。
 4月のはじめに室戸に帰り、父の様子を見て、3日の朝、Aさんを迎えに高知空港に向かった時のことです。土佐くろしお鉄道の奈半利駅前のバス停で空港方面のバスの時刻を調べている僕に声をかけてくれる方がいます。空港まで送りましょうと言うのです。妻と二人で世話になったのですが、すぐに話が盛り上がりました。
 この方は空港近くの香南市赤岡に住む方で企業倒産で退職後、四国遍路を志し、近く室戸岬から奈半利までを歩くことにしています。今日はその下見というわけです。赤岡から安芸にかけての松林の美しい海岸を毎日のように歩いてその日に備えています。在職中は大宮などにも駐在し、全国各地で働いたのですが、故郷・土佐が気に入っています。歩くときにはそれとなく声をかけて、どなたかと一緒に歩きたいようです。赤岡の町絵師・絵金のことなど紹介したい話がたくさんあるのでしょう。別れに自己紹介を仕合いました。
 戴いた「納め札」に記された66歳という年齢を見てびっくり。若々しくてとても先輩には見えなかったのです。自分のお昼に買って置いたはずのお寿司をいただいて、空港で別れました。
 Aさんの到着を待つ間、近くの高知大学の学生食堂でお昼にしました。戴いた土佐の田舎寿司を食べながら、見知らぬ方から接待を受ける喜びを満喫しました。
 僕が子どもの頃には、僕の村にも遍路宿というものがあり、またお経を上げて門付けする遍路さんに、母に言われて5円玉(?)を渡しにいったものです。僕らは「へんど」といって、「乞食」までは行かなくとも、さげすみの目で対応していたのではないかと思います。「お遍路さん」とは呼んでいなかったのです。子どもの世界だけかもしれませんが、お接待の心にはほど遠かったと言わなければなりません。病気平癒を始め、さまざまな願いを持って巡礼する人々に心が及んでいなかったのです。
 今は門付けする遍路さんも見ず、歩き遍路といっても、村の人々とはほとんど関わりのない観光客のようなものでしょうか。「お接待」という言葉を行政の関係者などがいつ頃から使うようになったのか、僕にはわかりませんが、何か、うさんくさい言葉にも聞こえます。観光産業の生み出したような。親切を売り物にして恥じない風潮とおなじものを感じてしまうのです。 
 僕たちがIさんという方から受けた親切は人を大切にするという気持ちが自然に発露しているものでこちらもまた心から感謝の気持ちを伝えました。見知らぬ人に自然にできる人助け。いつの頃からは知りませんが、四国の人が身につけてきた「お接待の心」とはこういうものかと思ったことでした。

沢山保太郎さん

2007-04-24 18:41:24 | ふるさと 土佐・室戸
 日曜日の高知県東洋町の町長選挙で沢山さんが圧勝しました。これで原発の産業廃棄物最終処理場に東洋町が選定される怖れはなくなったということでぼくもほっとしています。東洋町は故郷・室戸に隣接する県境の町です。県東部では唯一の天然の良港を持ち、漁港としても大阪方面とのフェリーの港としても栄えた町です。超過疎の進行がこのような騒動の背景にあるわけですが、沢山さんという人を得て、一つの区切りをつけたのだという感慨が僕にはあります。
 沢山保太郎という名にはじめてであったのは、1969年11月のことです。被差別出身の青年ら5人が浦和地方裁判所の屋上から「狭山差別裁判実力糾弾」などの垂れ幕をおろし、石川一雄さんに死刑判決を下した浦和地裁を糾弾すると共に、東京高裁の二審への注目を喚起したのです。そのうちの一人が沢山さんで、室戸の出身の二つ年下の青年だと新聞で読んだときの衝撃は忘れられません。
 このことがきっかけになって、川越の隣の狭山市で起きた事件の調査と今まで曖昧にしてきた問題について僕は精力的に学ぶようになりました。故郷の小学校の同級生たちとの出会いもこの学びがなければできなかったでしょう。ですから、たいへんな恩人と言うことになります。
 沢山さんの名を久しぶりに聞いたのは8年前です。彼は故郷に帰り、室戸市の市会議員になったのです。市長選挙にも2回、挑戦しています。ネットでは新左翼の活動家であった過去が暴かれています。彼の発行する新聞を読むと「」利権に群がる勢力に対する厳しい批判が展開されています。議員としての活動がどのように評価されているのか僕にはわかりませんが、保守的な室戸では格別に目立つ人なのではないかと想像しています。
 今回はお母さんの故郷が東洋町ということで、反対運動に力を入れ、結局のところ、町長に担ぎ出されたようです。この地方にとって、まさに、歴史的な非常時です。沢山さんにとってはまたとない力の見せ所、東洋町の人々にとっては得難い反権力のリーダー。時を得る、人を得るとはこういうことかとぼくは喜んでいます。
 誰もが考えるように、これからどういうふうに町作りをするか、困難の連続でしょう。究極において原発を拒否すると言うことは、貧しくとも、心豊かな共同体を回復すると言うことでしょう。徳島県の阿南海岸からこの東洋町を経て室戸岬に至る海岸は空と海としかない絶景です。遠い昔、青年期の弘法大師がこの地の果てにたどり着き、修行ののち空海と名のったというのです。
 世は乱れに乱れ、人倫、地に墜つ時代です。私たちのふるさとが、人々の魂の再生に寄与する地としてよみがえらないかと夢のようなことを思っています。沢山さんと沢山さんをリーダーに選んだ東洋町の皆さんに心から敬意を表します。

何が真実なのか

2007-04-22 07:18:57 | こどもたち 学校 教育
 cosmoss77という方の問いかけがあったのでコメント欄に「学ぶということ」という小文を書きました。文章の終わりにあるcommentというところの数字をクリックすると読むことができます。また、ここから感想や意見を書き込むことができます。遠慮なく書いてください。
 cosmoss77さんだけでなく、自分が身につけてきた知識や世界観と相容れない情報に接して、どう考えたらよいか、悩んでいる人が少なくないと思います。僕もまた、例外ではありません。そういうことの連続であるといった方がいいのかもしれません。
 僕はこの3月まで都立高校の社会科(文部省の規定に従えば公民科)の教員でした。教員になって5年目の1970年度から数年間、自分が担当する450人の「政治経済」の評定を全員「5」にしたことがあります。、何が真実であるかを判定し、その人の進路まで影響を与える権限を返上しなければ、何が真実かを生徒たちと共に考えていくことは困難だと自覚したことが、そもそもの始まりです。
 中国の文化大革命や日本の学生たちの学園闘争の生み出した言葉が、「教える」
とか「学ぶ」とかの意味を考えさせてくれました。何より、ただ勉強ができなくなったことの故に社会的差別を受ける子どもたちや、今まで考えてもこなかった、差別や民族差別で苦しむ友人たちの存在に気づいたことが僕の内部に、学ぶ意欲を喚起してくれました。水俣病の患者さんたちのチッソの江頭社長に迫る、深い人間的問いかけも忘れることはできません。
 何が正しいか、教えるなどと言うことはできません。一緒に人々の声に耳を傾け、考えていくことのほかに何ができるでしょうか。
 こんな青年教師の苦しみを坊城俊民という校長はよく理解してくれました。ほかにも一緒に考えてくれる同僚や卒業生がいました。おかげで僕は守られ、学ぶことの喜びを我がものとすることができたのです。
 敵対してきたのは右翼といわれる人たちと日本共産党です。これらの人々は平気で人を断罪します。特に共産党の攻撃は忘れられません。「不可知論者」。都議会で右派の議員の攻撃に教育委員会の役人がそれでも若い教師の問題提起を弾圧することはできないとこたえているときに、「赤旗」で攻撃してくるのです。自分たちの教条や世界観は揺るぎなく、背くもの、疑問を持つものは断罪して葬る。
 疑問を持つことから学びは始まる、といって過言ではありません。ですから、学ぶことは社会の常識や権威に挑戦することでもあります。さまざまな弾圧を覚悟しなければなりません。
 怯むところから腐敗が始まります。多数に妥協し、己を殺します。国家権力や有力な社会勢力や精神的権威に背くことは怖いことです。しかし、自分らしく精一杯、生きたいという私たちの思いを何者も押しとどめることはできません。何が真実か、どう生きたらよいのか、臆することなく考えを交流する場を、あちこちに作っていきましょう。 




本名と通称

2007-04-20 11:49:01 | 在日コリアン
長崎市長を殺害した城尾哲弥が白正哲という本名の在日コリアンであるという情報がネットで流れています。僕は友人のHPで知りました。本当かどうかは今のところわかりません。
 警察の公式発表が通称名だけということは考えにくいので城尾哲弥が本名だと僕は推定します。報道機関が在日コリアンであることを隠す情報操作をしているという人もいますが、警察の公式発表を無視して、そんなことができるでしょうか。
 民族差別の歴史の中で、この国の裏社会の構成員にコリア系の人が少なくないのは周知のことです。ですからこの犯人がコリア系である可能性は否定できないでしょう。もしかしたら、日本国籍をとったコリア系日本人かもしれません。
 最近でこそ、日本国籍を取得する際、金や李や白などの朝鮮民族の姓をそのまま日本の氏として認めるようになったのですが、長い間、法務省は<日本人らしい>氏を名乗るよう事実上、強制してきました。そのため、植民地時代に作られた通称をそのまま戸籍名として帰化申請する例が圧倒的だったのです。
 今日でも「鄭」など日本の人名漢字表にない姓を氏とすることはできません。このために国籍取得を希望しながら、あきらめている友人を僕は何人か知っています。白というコリア系の国会議員が活躍していることは良く知られていますが、ほんの少し前までは考えられないことでした。
 コリア系に対する差別の歴史があるからといって、この人が仮にコリア系であったとしても、民主主義に敵対する行為を断じて許せないことに変わりはありません。(つづく)

長崎の伊藤市長の死に思う

2007-04-19 22:08:38 | 政治・社会
伊藤さんに対する銃撃事件は僕にはこたえました。これに対する安倍首相の談話には驚きました。民主主義を破壊するものに対する怒りも、リーダーとして人々に対する呼びかけも何もないのです。長崎に飛んでいって、このような暴力と断固対決する決意をなぜ示さないのでしょうか。これは他の指導者にもいえることですが、国政の責任者には民主主義を守り、確立する最大の責務があるのです。それができなければ直ちに辞任すべきです。
 ところでかくいう僕はこの悲しみと怒りを、どのようにして力にかえたらいいのか。同じように思っている人がいたら提案してくれませんか。
 1960年10月12日、社会党の浅沼稲次郎委員長が日比谷公会堂の演説会で池田首相の目の前で殺された事件を思い出します。18歳の僕はその衝撃に耐えられず、その日は友人の下宿を訪ねて、遅くまでつきあってもらいました。しかし、体調を壊し、元気を取り戻すまでに一ヶ月はかかったでしょう。社会党などが行った「国民葬」に参加したのが僕の最初の政治参加です。「悲しみを力にかえる」という言葉を知りました。(この言葉はその後の人生の中で、親を喪い、友を喪う、生徒をはげますときに、僕の思いとして使いました。)
 社会主義を称する社会やグループの実態を知れば知るほど、いかに未熟なものであれ、私たちが先輩から引き継いだこの民主主義の秩序を大切に守り育てていかなければと思います。僕のように血を見るのが本当に怖い人間は暴力にはどうしても怯みます。異見を認め、討論の大切さを確認し合うルールをなんとしても守らなくてはなりません。いかに形骸化しているといっても、選挙は民主主義の根幹です。それに対する攻撃です。断固として、NO! という声を全国に響き渡らせなければならないと思います。
 
 

カエルの絵

2007-04-18 15:27:46 | 友人たち
 惠美ちゃんに関わる話の続きです。去年の今頃は、抗ガン剤の投与が終わって、その副作用のせいで僕がもっとも病人らしくなっていたときです。惠美ちゃんから小さな油絵が届きました。紫陽花の花の上に大きなカエルと小さなカエルが乗っています。
 何時の頃か電話があり、父上と息子さんとで油絵をえがいている。絵を贈りたいが、海の景色がいいか山の風景がいいかと言うのです。僕は海かなーと答えたのではないかと思います。その絵が届いたのです。
 毎日、側で見てもらいたいからと小さな額縁に入れて立てかけられるようになっています。カエルづくしの便せんにメッセージがつづられています。
 
 (略)先日、絵を描くと約束したものの、いったい何を描いたら良いのやら…?毎日,本屋に通い、写真集をながめてみたり、公園に行って草木を見たり…。今までは「この間は山だったからこんどは海にしよう」「風景ばかりだから動物にしよう」と漠然と題材を決めて何枚もの絵を描いていたので、いざ、だれかのため…という題材に直面したとき、私の気持ちを伝えるには何を描いたら良いのか、どう描いたらよいのかと、普段あまり使ってない頭を使ってしまいました。万人ではなく、たった一人の人のために描く絵…簡単なようで難しいものなのだと、良い勉強になりました。
 先生も長い間、そうやって、たくさんの一人一人と向き合って来たんですよね。私もその中の一人でいられることがとても嬉しく、いつまでも先生の可愛い(?)教え子でありたいと改めて思いました。
 この絵を描いていたら、高校時代のことや夏休みに連れて行っていただいた大島の風景、先生の顔、声…色々なことが思い出されて…。そのせいでしょうか。主役のカエルの顔が先生に似ていると思いませんか?描きあがった時に思わず笑ってしまいました。
 冷たい雨の中でこそ美しく映える紫陽花の花の上で雨にも負けず、風にも負けず、目立つことなく踏ん張るド根性ガエルが先生みたいでしょ?後ろから先生についてくるのは、家族・生徒・友人…。
 そして何より主役をカエルにしたのは、一日も早く、元気な先生にカエルように…!  (略)

 今回の思いがけない闘病生活の中で先輩や友人から心のこもった励ましを受けました。おかげで今までのところ順調な恢復ぶりです。本当に恵まれた患者だと思います。そしてこの間、人を励ますさまざまな形があることにも気づかされました。その一つが惠美ちゃんの絵です。
 僕は自分の似顔絵を贈られたことが2度ほどあります。大島高校に着任早々、授業中にノートの切れ端に鉛筆で描いてくれたものは今でも大切にとってあります。でも、僕のために考えて、考えて油絵を描いてくれたのは惠美ちゃんがはじめてです。たしかに、このカエルは見れば見るほど僕に似ています。惠美ちゃんの思いがこもっているからでしょう。
 山吹高校の授業に復帰してから生徒や教職員の皆さんに、機会あるごとにこの絵を見てもらいました。人を励ますということはどういうことか、その根源の力はどこからくるか、どういう形があるか。
 惠美ちゃんの魅力がどのようにして形成されてきたか。これは研究に値することです。何せ、夫であるNさんが<えみえみ教>の教祖になることを勧めるくらい、近隣の人々の信望が厚いのです。惠美ちゃんのサロンはあちらもこちらも人が寄って、Nさんが60になったとき田舎に帰ることなどとても許してもらえないのです。
 今は闘病の父上を呼んで、4人で生活をしています。広いとはいえないアパートです。高校生の息子さんも、夫のNさんも<えみえみ教>の信者になったのか、恵美ちゃんに言わすれば<我が儘きわまりない>父上を大切にして、新しい家族を作っているのです。我が儘な僕には信じられないことです。
 惠美ちゃんと出会って、もう30年以上になり、この人のことは何でもわかっていてもいいはずですが、とびとびの記憶しかなく、まだまだ、研究の成果を発表するまでには至りません。
 惠美ちゃんが「よいしょ」してくれるほどのド根性があるとは思えませんが、「目立つことなく踏ん張る」と表現してくれたことはとても嬉しいことです。緑の葉っぱに溶けこんで本当に目立たないカエルですが、「一寸の虫にも五分の魂」とも言います。生かされてある間はゲロゲロと泣き続けて行きたいものです。
  

 
 

村田さんの逝去に思う

2007-04-17 16:31:17 | 友人たち
 この一週間は疲れが出たのか、眠ってばかりでした。そんなとき村田奈美枝さんの訃報があり、じわっとではありますが大きな打撃を受けました。
 14日、中野の宝仙寺で執り行われた葬儀の最後に妹さんが、この5年間の闘病生活について語り、我慢強く優しかった生涯を紹介しました。白血病が発症したあともあまり他人には伝えなかったようです。
 村田さんは1970年代の後半、池袋商業高校のフォーク部のリーダーでした。同好会として10年近く続いてきたのをクラブに格上げすることに尽力した人です。
大島の泉山荘という民宿に合宿し、ギターの練習の合間に近くの秋の浜などで泳いだことも懐かしい思い出です。まだ、幼かった我が家の子どもたちも一緒で、みんなにかわいがってもらいました。同好会ということで正式のクラブ合宿が認められなかったので、顧問である僕のなじみの宿にみんなが集ったのです。普段は見たことのない水着姿がまぶしかったものです。
 僕が60歳になったというので、フォーク部の卒業生たちが廃校が決まっていた母校の会議室でお祝いの会を開いてくれました。それが02年4月28日のことで、一緒に撮った写真が手元にあります。村田さんと会ったのはこれが最後になってしまいました。
 このころから病気が進行していたことになりますが、この5年間、僕は何も知らず、また会える日を楽しみにしていたのです。一昨年12月には僕が肺ガンの手術を受け、フォーク部の人々にも心のこもった励ましを受けました。しかし、僕は闘病の村田さんに言葉の一つもかけられなかったのです。彼女が高校を卒業してからの人生を何一つ知りません。さびしい限りです。
 村田さんを見送ったあと、僕に訃報を伝えてくれた惠美ちゃん夫妻が昼食に誘ってくれました。この人は村田さんの一年先輩に当たり、僕とはもう30年のつきあいになります。僕は「えみ」と呼び、妻は「えみちゃん」と言います。
僕が北高で働いていた頃には、すぐ近くの彼女の家を訪ねてたびたびお茶の接待を受けたものです。しかし、お連れ合いのNさんとゆっくり話をするのはこれがはじめてです。
 Nさんは花の散り残る外堀通りを通って、赤羽のレストランに僕らを案内します。僕は島根県と山口県の分水嶺に近い山村で育ったという、彼の生家や人生について根掘り葉堀り聞きました。
今でもゴミの収集がないといいます。水は山から引き、風呂は薪で沸かします。沢山生まれた犬の子は大雨のときに川に流すとも。田舎育ちの僕にも実感しづらい話です。
でも、東京育ちの惠美ちゃんははじめて田舎ができてよかったと思っています。たまに帰ると彼の幼なじみが集まって賑わいます。その輪の真ん中にある惠美ちゃんの姿が容易に想像できます。今は高2になる息子さんは高津川の源流で、釣りの楽しみを覚えたようです。あと6年で定年だというNさんは父母の元に帰りたいようです。
 こんなふうにとまではいかなくても、村田さんとも人生の話をしたかったなーと思わないわけにはいきません。
僕は生徒として出会い、仲良しになった人と人生のどこかで再会し、その話を聞くのが趣味のようなものです。そのような機会を大切にし、自分からも作るようにしています。
そんなことができないまま、村田さんは46歳で逝ってしまいました。葬式で会うのはよそう。生きて、出会って、人生を語り合おう。惠美ちゃんと僕との確認事項です。

鯨捕り

2007-04-10 14:45:16 | ふるさと 土佐・室戸

 Aさん帰郷支援事業の二日目の夜、OくんとTくんが宿をたずねてくれました。二人は小学校の同窓生です。
私たちの頃は高知県安芸郡室戸岬町立津呂小学校(今は室戸市立室戸岬小学校)といいました。
室戸岬の尖端からやや高知方面に寄った最初の集落にあります。
今は高知市に住む二人に会うのは50年ぶりです。
大橋通りの南側にある、やはり同窓生のYさんの営む飲み屋に私たち夫婦を誘ってくれました。

O君の家は近くの高台にあってその2階で遊んだことがあります。
100歳を過ぎても元気に家事をこなしているというお母さんの顔もはっきりと思い出すことができます。
小柄で足の速かったO君は半世紀経って、精悍そのもののおんちゃんになっても昔のままそこにいるようでした。
「幸智くん」「けいやん」はじめから子どもの時と同じように呼び合います。
T君の家は室戸岬に最も近く、うちから離れていたうえ、同級になったことがなかったせいか、一緒に遊んだ日々のことを思い出せません。
でも、おっとりした風貌とおだやかな話しぶりは変わりません。

Tくんの近所に住んでいた共通の友人たちの少年期から青年期にかけてのエピソードを聞かせてもらいました。
そのうちの一人H君は横須賀市に住んでいて、私たちもときどき会うことがあったのですが、彼が幼少の時から孤児であったとははじめて知ることでした。
彼は数年前に急逝し、語り合うことはもはやできません。
O君は水産高校を出たあと極洋捕鯨のキャッチャーボートに乗り込み、南氷洋捕鯨に従事した体験があるそうです。
連日聞く鯨にまつわる話です。

前夜、私たちを接待してくれたN君のお連れ合いの口から図南丸の船長だったという父上の話を聞いたばかりだったのです。O君のことから話題がそれますが忘れないうちに書き留めておきます。

図南丸といえば私たちの世代ではおそらく誰でも知っている日本水産の捕鯨母船です。
その船長さんが捕鯨が禁止されたとき、南氷洋における捕鯨の実態―乱獲・虐殺―について語り、やむを得ないことだと述べたということです。
鯨の群を入り江に追い込み、母親も子どもも無差別に殺し、血の海にしたというのです。

室戸出身の世界一といわれる砲手に泉井守一という人がいます。
このおんちゃんは砲手から大洋漁業の重役になった人で室戸では知らない人はいなかったでしょう。
この人もそんなことをしていたのでしょうか。
室戸の金剛頂寺にこの人たちの建てた鯨の供養塔があることを思い出し、何ともいえない気持ちになりました。

僕はどちらかといえば捕鯨再開派です。日本の捕鯨に対する信頼があったからです。
室戸は江戸時代から捕鯨で生きてきました。
僕の父方の曾祖父は沿岸捕鯨組300人の大将、祖父は羽差しという鯨捕りの花形だったといいます。
一頭とれれば七浦潤うといわれた時代です。
胎児持ちの母鯨は絶対に捕らなかったと聞いています。
母鯨を捕ってしまったことにまつわる伝説もあります(「いさなの海」という映画になっています)。
また、捕った鯨は余すところなく活用し、捨てるところはなかったとも(母がたの祖父は鯨の解剖に従事したと言います)。
戴いた命を無駄にしたら罰が当たると私たちは知らず知らずのうちに教えられていたのです。
また成長期のアワビの子貝を捕ったりすれば「親がおわえてくる(おっかけてくる)」とからかわれ、たしなめられたものです。

ですから近代捕鯨が始まってからも日本の捕鯨はそういうものであると思いこんでいたのでしょう。
狩りの享楽やただ皮がほしいためにバッファローを絶滅に追いやったアメリカの白人たちが、海ではただ油をとるために鯨を皆殺しにしたのとは違うと思っていたのです。
図南丸の船長といえば船団の大将です。
その方の言うことですから僕にとってはショックでした。

七つの海を仕事場にしてきたO君の話は他日を期すことにします。
この4月、65歳にして海事事務所を創設するという若々しいおんちゃんです。
あちこちに散らばる友人たちに声をかけて、同窓の集いを計画してくれています。 


僕たちは親戚だった

2007-04-08 17:46:01 | ふるさと 土佐・室戸
今回のAさん故郷訪問の支援は高知に住むN君夫妻との共同事業でした。N君は高校3年間の同級生です。
昨年10月、帰郷のおり、同級生が僕の健康恢復を祝って、ミニクラス会をやってくれたのですが、N君と僕とはどうも親戚らしいという話になったのです。
正月になって解明作業をする過程でAさんのお兄さんが遺して置いてくれた家系図をその長男の方が提供してくれました。
そこにはA家を中心にしてたくさんの人のつながりが記録されているのですが、なんとその最下層の両端にN君と僕の名前があるのです。
何ともいえない感動がありました。
Aさんのおばあさんと僕の父の祖母とが姉妹で室戸の出身だったのです。
それにしても会ったこともない遠い親戚のおじさんが僕の名をどうして知ったのだろうと今でも不思議です。
N君とは血のつながりはないけれど親戚であることは解明されました。

この解明作業に協力してくれたのがAさんの娘さんです。
感謝の言葉を伝えた時、もし父上が故郷を見てみたいといわれたら応援しますと付け加えたのです。
これが始まりでした。

計画の進行の過程でNくんに協力を頼んだところ、ホテルとの折衝など受け入れ態勢の構築に敏速に対応してくれました。
障害を持つ高齢者の旅行に対応する施設はまだまだ整ってはいません。
娘さんはベットに柵をつけることやレンタカー探しに苦労し、一度はこの計画をあきらめたこともありました。
そんなときN君の存在は心強かったと思われます。

N君夫妻はAさんが高知に無事到着した夜、私たち夫婦を近所の焼鳥屋で接待してくれました。
高知に住む僕の従姉も呼びました。
親戚であることを確認してはじめての共同事業が順調に進行していることを喜び合いました。
私たち夫婦がNくんのお連れ合いに会うのはこれが3度目です。
女同士は初対面から気が合い、仲良しになっていることは知っていましたが、この共同事業を通じて私たちはさらに気さくな友達になれたのだと実感しました。

僕が嬉しかったのはこの人たちが昔、僕が授業を担当するすべての生徒に「5」をつけて新聞やTVで話題になったことを覚えていて、その真意を聞いてくれたことです。
互いの生き方に深く関わることをこうして語り合うことはなによりの喜びです。

翌日訪ねた五台山では従姉たちが一行におでんの接待をしてくれました。
従姉の母違いの姉が土産店を営業していたのです。
従姉は最近ここで働くようになったとのことですが、僕がお姉さんに会うのは幼児期以来です。
僕も妻も何度もこの店に立ち寄っているのに店主と従姉妹どうしなどとは夢にも思わなかったのです。
姉さんは喜んでAさんの孫のH君に満腹するまでおでんを勧めていました。

私たちのAさん帰郷支援事業はこうして終了したのですが、結果としてみれば親戚発見の旅でもあったことになります。
Aさんのおかげで私たちは結ばれたのです。

Aさんの故郷訪問

2007-04-07 08:11:30 | ふるさと 土佐・室戸
 4月1日から5日まで土佐の室戸と高知に帰っていました。
室戸はもうすぐ100歳になる父の住む僕のふるさと。高知は中高の6年間を過ごしたところです。
病気というわけではないのですが父は眠りつづけています。
妻が声をかけると目を覚まして涙を浮かべます。私たちがわかったようです。
でもまた、眠りにつきます。昨年からこんな感じです。

今回の目的は88歳になるAさんの帰郷を支援することです。
Aさんは5歳で高知を離れ、東京で生活してきた人です。文部省で視聴覚教育の草分けといわれる方だと聞いています。
昔、父が高知師範の学生だった頃、遠戚に当たるAさんのお母さんに世話になったと聞いたことがあります。室戸という田舎から高知に出て寄宿舎生活をする父にとって、週末のオアシスだったのではないかと思います。
Aさんには42年まえに1度、お会いしたことがあるだけです。
大学の5年生の時、どこにも就職が決まらない僕のことを心配して、父がAさんに会うことを勧めてくれたのです。
今は脳梗塞の後遺症やアルツハイマー症状を持つAさんの帰郷の念をふくらませたのは僕の突然の電話です。
  (中略)。
Aさんの娘さんが父上の思いを深く受け止め、その実現のため奔走しました。
結局、妻が障害者用のレンタカーを運転し、僕は道案内をすることになりました。

3日午後、高知空港にAさんと娘さん、お孫さん一行がつきました。松江からもう一人の娘さんも駆けつけました。
「おんちゃん、よう来てくれました」というとAさんはありがとう」といって涙ぐみました。
あとのメンバーは全員が初対面ですが旧知のように2泊3日の旅を始めたのです。 

Aさんの記憶がよみがえるかもしれないいくつかのスポットを案内しました。
「めずらしい」を連発していたAさんの口から「懐かしい」という言葉がでてくるようになりました。
幼少期や学生時代の帰省時を過ごした唐人町を歩いたときです。
そこには見越しの松のあるお屋敷の風景が残っていたのです。鏡川沿いの筆山を近くに見ることができる町の一角です。

松江から来た娘さんはこんなに輝いている父の顔は見たことがないと言いました。
Aさんは幼少時、父親とは疎遠でお母さんと暮らす日々だったようです。
筆山の見える庭で遊んだ遠い記憶がよみがえったのでしょうか。お母さんのことや友達のことを思いだしたのでしょうか。

ふだんからずっと父上の介護をしている娘さんの苦労は並大抵ではありません。
しかし、またその分、父上の喜びや悲しみを肌で感じていると思われます。
その娘さんから「天候に恵まれ、良い旅だった」「最高だ、こんないいことはない」「良かった」というAさんの言葉が伝えられてきました。今までで最高の感謝の言葉だったといいます。さぞ嬉しかったことでしょう。
この故郷訪問がAさんの生きる意欲を励ますことにつながってくれればサポートした私たちも嬉しい限りです。 

室戸高校の選手たちはすごい(3)

2007-04-01 07:18:10 | ふるさと 土佐・室戸
昨日、室戸高校は熊本工業に敗れ、甲子園での闘いは終わりました。
残念でした、といってくれる方もいますが、僕は、<ほんとうによくやった、お疲れさん>という気持ちです。
24日、甲子園での応援の前日、ホテルに向かうJRの車内で熊工の応援帰りのおじさんと隣り合いました。
雨の中の応援で合羽(?)は着ていてもずぶぬれだったと思います。
乗換駅の住吉でおりて、ホテルに向かう方向を教えてくれました。
長く、神戸に住む熊本出身のかたでした。
昨日は一塁側のアルプス席で熊工の応援で声をからしていたのではないかと思います。
よかったですね、と、ねぎらってあげたいほどです。

阪神地方には僕の小学校の同級生もけっこう住んでいます。
昨年秋、今は奈良に住んでおられる、6年生の担任の先生を訪ねてミニ同窓会をやったとき、何人かの方と52年ぶりに 会いました。
中学をでて、働きに来た人たちが多いのです。
室戸には室高のほかに室戸岬水産高校があり、学校には不自由しないのですが、高校には行けず、マグロ船に乗ったり、阪神地区に働きにでたりした人たちが少なくなかったのです。
そこには差別の歴史が作り出した貧困の影が深く刻み込まれています。
僕が高知市内の中高に進み、東京の大学に学んでいたとき、この同級生たちはどのような思いで、学生たちを見ていたのでしょうか。
僕は室戸高校の活躍に心躍るものを感じ、興奮しているのですが、高校に行けなかった同級生たちはどうだっただろうか、と、その心の内を想像しています。
甲子園で会うことを約束していたIさんたちを見つけることができなかったことが、残念です。

昨年のミニ同窓会に刺激されて同級生たちがこんどは室戸に集まろうといっています。
私たちは65歳になりました。
僕は昨日、41年間つとめた都立高校の任を解かたばかりです。
こんど集まったとき、何のわだかまりもなく、来し方行く末を心おきなく語り合うことができるだろうか。
そうありたいと、強く思っています。