僕はこのところ、3ヶ月おきに、検査を受けています。先生の判定を聞く日はやはり、多少の緊張がありましたが、一昨日はもう慣れてきたのか平常心に近かったようです。それでも、N君の表情に読みとれる安堵感は本当にありがたく、嬉しく感じました。
一昨年12月の左肺全摘手術後に僕の5年生存率は30パーセントと告げられています。関東中央病院の健康診断で二年つづけて病変が見落とされるというずさんな医療ミスのため、癌が肺門リンパに転移していたのです。脳や骨に転移する可能性が高いと言うことで抗ガン剤の投入を受けました。世界的に実験段階で、効果のほどはわからないがほかにすることはないと言うことでした。
先生は、君の場合は2年間が大事だ、といっていました。手術からは1年と5ヶ月です。一昨日、先生はN君に返って、僕を励ましてくれたのでしょうか。
N先生は手術に当たってこういわれました。「僕が執刀します、だけど病気と闘うのは君だ、共に頑張ろう」。先生の手術は見事なものです。輸血も必要とせず、痛みというものを全く感じさせません。術後、ふた冬を越したのですがどんな些細な痛みも体験しません。先生はたまにそういう人もいる、ラッキーだったねといいます。
少年の頃から手先が器用で、医者だった父上から、大工になるか、外科医になるかと問われたと聞いたことがあります。彼に天賦の才能があることは僕は昔から良く知っています。しかし、外科医になってからたくさんの患者さんの運命と出会い、たぶん失敗も重ねながら技術を磨き、思想を深めて、この道の第一人者になったのだと思います。N君に世話になるとは思っても見なかったことですが、本当に「有り難い」ことです。
僕の闘病は先生の指示に従うことだけです。やりたいことをやりなさい。行きたいところに行きなさい。食べたいものを食べなさい。飲みたいものを飲みたいだけ飲みなさい。
手術後、会いたい人にあい、行きたいところに行って、嬉しい再会に喜び、大きな自然の恵みに心を揺さぶられました。やりたい授業をやりたいようにやり、市民としての活動も楽しんでいます。退職後、娘がこのブログを作ってくれました。(まだまだうまくいかず、この文章は公表前に2回も消えてしまいました。)僕が口舌の徒であること、寂しがり屋であることを良く知っているからでしょう。海の外からもコメントを入れてくれます。こうして皆さんの友情や励ましに支えられて過ごしているうちに、病気との闘いは知らないところで進められているのでしょう。この患者は癌について何一つ勉強しようとしません。脳天気さにガン細胞もあきれ果ててもう僕の出る幕はなくなったと思ってくれているのかなー。(そうあってほしいですね。)
N先生は定年になりました。でも、嘱託とかで、引き続き70までは呼吸器外科の医師をつづけます。僕の行く末はキチンと見届けてくれるのです。僕は気を緩めることなくこれからも先生の指示に従って闘って行きます。皆さんも僕のことを見捨てないで応援してくださいね。
僕には一つの夢があります。高知に帰ったときやはり医者をしている友人と語り合うのですが、「いつかまた、みんなで源氏が駄馬にのぼりたいなー。」
高二の夏、数人で四万十川の源流部のN君の家に世話になったとき、大野ヶ原という高原の小学校に泊めてもらい、翌日、付近の山に登ったのです。松本富士雄という校長先生の優しいもてなしとなだらかな源氏が駄馬の山頂からの眺めが忘れられないのです。惣川中学校の女生徒たちのコーラスも聞こえていました。
「Nが暇になったらみんなに声をかけよう。」70になったら、そんな日がくるかもしれません。僕もこの思いがけない危機を乗り越えて、あの四国山地の山並みをながめながら、良い友を持った喜びに浸っていることでしょう。