川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

相模原に遊ぶ

2013-01-31 22:26:48 | 東京・関東

1月30日(水)晴れ

善助さんの葬儀の夜は相模原の功子ちゃん夫妻の家に世話になった。

翌日は快晴無風で近隣の麻溝公園のグリーンタワーに登ったあと坂東33観音めぐりに連れて行ってもらった。

 (1)相模原市立麻溝公園

グリーンタワー相模原展望台と子供の広場

家族連れが弁当を持って遊びに来ている。タワーからは丹沢の山並みが良く見える。目の前に女子美術大学があった。

 (2)坂東33観音⑧星谷寺(しょうこくじ)座間市

市街地にあるが閑静。

 (3)⑥長谷寺(ちょうこくじ)(飯山観音)厚木市

厚木の市街を遠望する丘の上の寺。宏大。花の名所らしい。今度はゆっくり歩きに来たい。


室戸岬の青年たちの快挙 昭和18年明治神宮大会

2013-01-31 09:23:48 | ふるさと 土佐・室戸

1月29日(火)晴れ

 昼前から安田善助さんの「野辺の送り」。大阪から参加の遠戚の顔もある。葬式の度にあう縁である。

 精進落しの食事会で「献杯」の発声を頼まれたので、ちょうど一年前のこの日、おんちゃんに聞いたオリンピック選手(西野恭正さん・後に歯科医師)に勝った水泳競技の話を披露した。どなたも初耳のようだった。

 会の終わり近くに熊野一貫(かずつら)さんという善助さんの一年後輩になる方との出会いがあった。ぼくが聞いた話の直接的な証人の出現。早速、参会者に熊野さんを紹介した。

後方右が熊野さん。前列は中谷(山村)さん・国恵さん・浜口(由井)さん。

 熊野一貫さんのお話。

昭和18年8月、第14回明治神宮国民錬成大会(水泳)に室戸岬青年学校(後の室戸岬水産高校)の4人が高知県代表として出場、800mリレーで全国優勝した。2位との差が20mはある圧勝だった。安田善助(主将)、前田米造(のちに山崎)、増井啓二、熊野一貫。

 その大会には満州国代表として西野さんも来ていた。室戸に帰り着くと出迎えの人の波で「避病院」のところで車を降り、学校まで「優勝パレード」をした。

 4人は小学生の頃から水泳の大会が高知であるたびに優勝していたので神宮大会には予選無しに出場した。引率は浜田先生。

 昨夜、熊野さんに電話でお聞きしてわかったこと。

お宅にそのときの表彰状とメダル、写真が保管してある。「表彰状」の日付は昭和18年8月22日で大会総裁は「正三位勲一等 小泉親彦」。種目は青少年団体・府県対抗800m。

 善助おんちゃんがかつて熊野さんを訪ねたとき、安田家では表彰状や写真は占領軍の目を恐れてお母さんが燃やしてしまったと語っていたとのことだった。また、横浜で行われた「遠泳」の部でも一番に目的地の根岸の浜に着いたとのことである。


黒い箱で調べてわかったこと。

①第14回明治神宮国民錬成大会 昭和18年(1943)8月21日22日

 会場 明治神宮外苑水泳場(水泳)

     横浜市海洋道場(遠泳など)

②小泉親彦

 軍医の最高位に昇り、近衛内閣・東条内閣の厚生大臣。敗戦時に自決。


 戦時体制が強化される中で「国民体育大会」は「国民錬成大会」となり、競技場は姿を消して「尽忠報国」の皇国臣民錬成道場となった。

敗戦時に、小泉親彦は連合国軍の「戦犯」訴追を前に自決している。善助さんのお母さんはこのような時代の動きを見て「小泉親彦」名義の表彰状を破棄・焼却したのであろうか。

「大東亜決戦」下で「体育」も否定された時代だが、荒海で育った室戸岬の青年たちが800mリレーで全国優勝した事実には変わりがない。

戦後、小3と小4の担任だった升井京子先生は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進が少年期に浜名湖か遠州灘で精進したというお話を読んで聞かせてくれた。だが京子先生も「日の丸」「君が代」を絶やすことがなかった中谷義高校長も室戸岬の先輩たちの活躍に触れたことはなかった。なぜだろう?

それでも小学校の二間廊下に飾ってあった「安田善助」の表彰状群の記憶が僕の頭の中に残り続けて、おんちゃんの葬儀の日に全容?が解明された。

熊野さんのお宅には当時の写真が保存されているという。三浦三崎の船をはじめとして鮪漁船に乗り続けてきた熊野さんのお話を伺いがてら、19歳の善助おんちゃんにも会いに行こうと思っている。

 


2・2さよなら原発 川越デモ

2013-01-29 06:30:59 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

衆議院選挙後、初めてデモに参加する予定です。フクシマの後始末もままならないのに原発再稼動を語る人の情も理も僕には理解ができません。

北朝鮮の核実験を許すな!原発の再稼動反対!

地球を汚染して動物も人も住めなくして「強盛大国」も「美しい日本」もない。右も左も中道も力を合わせて金王朝と「原子力村」に鉄槌を下そう。


2013年2月2日(土)15:00~
さよなら原発川越デモ
 
 
子どもたちの未来には、原子力発電所はいらない。それを実現するのは大人の責任。

 【日 時】2013年2/2(土)15:00集合・川越駅東口・緑地公園(川越市駅よりの踏切脇)    

デモ(出発 ~解散予定(17:00)
【デモコース】15:30緑地公園出発⇒本川越⇒連雀町交差点右折⇒新富町通⇒クレアパーク⇒川越駅東口・緑地公園16:30(解散予定)
【持ち物】メッセージを書いたプラカードや風船・のぼり等、音の鳴るもの、
楽器など。もちろん手ぶらでもOKです。
団体名の入っているものや、主旨にそぐわない幟旗プラカード、チラシの配布また宗教団体の機関紙配布等はお断り致します。次に繋げる為にも、法令遵守をお願いします。
【主 催】さようなら原発川越の会(連絡先:田中重仁法律事務所・049-226-6171)
 

善助おんちゃん逝く

2013-01-29 05:56:51 | ふるさと 土佐・室戸

1月29日(火)

今日はこれから横須賀に向かい安田善助さんの告別式に参列します。土佐・室戸岬生まれの海の男でした。僕の母の従妹のお連れ合いです。

善助おんちゃんの死去で僕の周りでは一つ上の世代の男性はいなくなってしまいました。

ちょうど一年前の今日、安田家を訪ねて人生の話を聞かせてもらいました。また、そのうちにと思っているうちに逝ってしまわれました。

一年前の訪問記を再掲して、おんちゃんの長い人生に敬意を表し、冥福を祈ります。


 

(2012年) 1月29日(日)☼

12時過ぎ、京急野比駅からタクシーで安田善助・國恵さんを訪ねました。

國恵さんは僕の母の従妹です。91歳になられたということです。先年、妹の桂子さんに先立たれ気弱になっていますが、近くのスーパーなどに買い物にも出かけ家事をこなしています。

善助さんは4・5歳年下です。脚の自由が効かないといいますが時にはバイクで出かけることもあるようです。元々がスポーツマンですから自由に歩け回れないことが悔しくてたまりません。

ご夫婦がそれぞれにたまりたまったお話を間断なく聞かせてくれました。

備忘録・あれこれ

①善助さんは競泳の選手として高知県代表として度々全国大会に出た。ヘルシンキオリンピック(1952年)に出場した西野恭正さん(高知市出身)に100m背泳で勝ったこともある。

練習場所は室戸岬港だったからターンの練習ができなかった(岩壁には牡蠣殻がいっぱい)。大会が近づくと40数km離れた安芸高女のプールで練習した。渡辺格先生が同道して自転車で往復した。

宿毛高校で西野さんの講演を聞いたことがある青年が善助さんが漁労長をしていたマグロ船に乗ったことがある。西野さんは「安田に負けたのが悔しくてたまらなかった」と話していたという。

(室戸岬小学校の二間廊下に飾ってあった善助さんの賞状の正体が解明された)相撲も強く国体で活躍した。

②安田家は軍人一家。長兄(海軍航空隊)はフィリピンで戦死。特攻隊の一員として台湾に待機していたとき、フィリピンに赴く兄とはからずも面会。兄は死ぬのは嫌だが国の命令だからやむを得ないと言ったという。善助さんは鹿屋に配属替えとなって終戦。

 次兄はシベリア抑留中に病死。上官からお母さんに送られてきた最期の様子を知らせる手紙がある。「憎きはロシア、この仇は必ず取る」とあった。

軍人の妻となった國恵おばさんのあの時代に対する嘆きは深い。

③生き残った三兄は敗戦後、海難事故で殉職。パトリシア台風に巻き込まれたマグロ船「みさご丸」、全滅。1949年10月末。

(この時のことはこども心に覚えている。伯父の「三号富佐丸」も全滅。船長は旧安田家の前隣りの森さんだった。)小学校の岩貞先生が作った歌を時々歌った。「時は10月 秋深く 故郷遠く 三崎沖 行く手を阻む 台風は 恨みぞ深き パトリシア」

 

④父の作った通知簿。

 次兄の安田安彦さんの遺品として小学校時代の通知簿が仏壇に保管されている。昭和11年3月27日付となっている津呂尋常小学校高等科一年の通知簿。今で言えば「オール5」。父が担任だったが数字ばかりで通信文を書く欄はない。(父の作った通知簿を初めて見た)

善助さんはそろばんを習った。「よく噛んで食べろ」「味噌汁は三杯飲め。バカの三杯汁と言うのは嘘だ。こればあ栄養のあるもんはない」と教わったらしい。

おばさんは松本先生に裁縫を習ってその道の達人になった。松本先生は「ブルさん」と呼ばれていた。僕にもかすかな記憶がある。

父は昭和7年(1932年)から27年まで津呂の学校(今の室戸岬小学校と旧室戸岬中学校)の教員(戦後は校長)だった。室戸岬の慰霊碑に刻まれている父の生徒だった人の名前は百数十名にのぼる。いつの頃からか自分は戦犯だといっていた。前途ある青年を侵略戦争に送った責任について語り、平和教育の大切さを説いた。安彦さんの姿も思い浮かべていたのか。

⑤海の男

戦後はマグロ船(僕の伯父の船)の漁労長をした。漁獲に恵まれた。その後は水産庁の取締船などに乗った。去年の津波で壊滅した三陸の漁港の惨状を見るのが耐えられないという。

4時前においとました。またお会いできる日まで達者でね!

  出典●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4b9a4a47f4bf0a364b7b69155db46260


「黄海道で大量餓死」 アジアプレスが伝える

2013-01-28 08:10:27 | 韓国・北朝鮮

1月28日(月)晴れ

川越はうっすらと雪化粧。寒い朝です。アジアプレスの石丸次郎さんらの活躍で北朝鮮の飢餓の実態が伝えられてきました。

北の穀倉地帯で飢餓・餓死とは信じられません。王朝が栄華を装うための収奪の結果です。隣国の首領交代劇の影で進行する人びとの苦しみに目を閉ざしてはなりません。 

 

【朝鮮半島ウオッチ】

飢餓地獄の北朝鮮で人肉食相次ぐ 親が子を釜ゆで 金正恩体制下で大量餓死発生

2013.1.27 18:00

 

 北朝鮮南西部の穀倉地帯、黄海南北道で昨春来、数万人規模の餓死者が発生していたことが、北朝鮮の内部情勢を独自報道してきたアジアプレスの石丸次郎氏が率いる取材チームの調べで分かった。金正恩第一書記デビューの舞台となった首都平壌建設や、北朝鮮人民軍の掌握のための食糧調達を、穀倉地帯から強制収奪した結果の飢餓発生だったもようだ。目撃証言は一家自殺や人肉食など凄惨(せいさん)な内容で、石丸氏は飢餓の実態と背景について報告書にまとめ、今月中にも国連など国際機関に提出する。(久保田るり子)

麗しい首都平壌と穀倉地帯の飢餓地獄

  北朝鮮は昨年4月、金日成生誕100年祝賀行事と「祝砲」のミサイル発射で金正恩氏の新体制を内外に誇示した。ミサイル発射には世界からの21社170人もの外国メディアを受け入れて指導者デビューを飾ろうとした。ミサイルは失敗したものの、首都平壌は高層ビルの建設ラッシュ、その夜空は花火で彩られており「平壌は発展している」などと報じた外国メディアも少なくなかった。

 しかし、石丸氏らの取材は、その平壌の繁栄が虚構であることを暴き、「人民の生活向上を重視」などと年頭に演説した金正恩体制の“正体”に迫ろうとしている。

 石丸氏によると、取材チームが穀倉地帯の異変をキャッチしたのは昨年3月ごろ。以来、中朝国境に出てきた黄海道の住人取材や、チームのメンバーであり石丸氏が養成してきた北朝鮮人記者による潜入取材などを敢行して証言を集めた。

『私の村がもっともひどかったのは昨年4月と5月でした。飢えて全滅した一家もあれば絶望して全員が自殺した家もあった。毎日5世帯、6世帯と死人が出た』(黄海南道、農村幹部)

 『目を覆いたくなるような状況でした。青丹郡というところでは住民の何割が死んだかわからないほど。空腹でおかしくなった親が子を釜ゆでして食べて捕まる事件があった』(黄海道の農村に党の方針を伝達するため域内を回った党中堅幹部)

 石丸氏が衝撃を受けたのは、取材した黄海道住民の全員から人肉食の証言が出たという凄惨な事態だという。親子殺人や人肉の密売流通などで、多くは保安部(警察に相当)に通報され処罰されているため住民の間で公然化していたという。

権力による計画的な食糧収奪と強奪

 

 「国中が疲弊するなかで平壌と軍の安定だけは金正恩体制の至上課題だった。黄海道から収奪されたのは、首都再開発事業に全国から動員された学生や青年同盟(金日成社会主義青年同盟)などを養う食糧と、平壌市民への配給用の『首都米』、軍部隊を維持するための軍糧米だ。地方幹部や警察など権力側がチームを組んで農村から強奪していた。一方、軍用は軍糧米の名目で、収奪は収穫前に田畑に入るケースや収穫後に持ち去るケース、さらになけなしの食糧を隠している住民も、家宅捜索までされて強奪された」(石丸氏)

 約20年間、国境取材などで北朝鮮をウオッチし、約10年前から北朝鮮内部に記者を育成、潜入報道を行ってきた石丸氏は、黄海道が5、6年前から軍による収奪が行われていたことに注目していたという。

 「しかし、昨年から始まった飢餓は明らかに金正恩氏デビューに伴う莫大(ばくだい)な浪費によるものだ。新しい指導者が出たのに『軍に配給もない』では体制は保てないため穀倉地帯に負担を強制したのだ。われわれが取材した証言には、銃を持った軍人が脱穀所から食糧をすべて奪取した目撃談や、上部からの命令でノルマを課され暴力的に奪取する以外に方法がなかったと語る地方の党幹部などの話が少なくない」(同)

 取材チームは、入手した複数証言の分析から餓死者は数万人と推定した。黄海南北道は中国国境に遠いこともあり、中国への脱出者が全土で最も少なく情報が外部に出にくいという。

北朝鮮の食糧事情は好転している?

 

 欧州連合(EU)は2012年秋に北朝鮮に調査団を派遣、食糧事情を調査した結果は「緊急支援は必要なし」とされ、今年のEUによる対北食糧支援は打ち切られている。また国連の世界食糧計画(WFP)と食糧農業機関(FAO)が昨年11月に発表した報告書も2012-2013年の穀物生産予測は前年対比コメ11%増、トウモロコシ10%増で食糧事情は好転したとしている。

 しかし、北朝鮮は政治的な理由から調査を捏造(ねつぞう)データでごまかすことが多い。このため慎重なクロスチェックが求められる。「作柄が好転すれば幸いだが、農村への収奪については国際機関が本格的に調査する必要がある」(石丸氏)

 調査を続ける同取材チームのもとに現地からは、国際機関の報告とは全く逆の「今年の不作」の予測と生活の不安を訴える声がいまも相次いでいるという。

出典●http://sankei.jp.msn.com/world/news/130127/kor13012718010001-n1.htm


胤賓くん来宅

2013-01-27 09:43:36 | 友人たち

1月26日(土)晴れ

昼前に胤賓くんが来てくれた。北高校を卒業して20年くらいになる。台湾生まれの中学生が来日してからの波乱万丈の物語。高3のときに僕がHR担任。

 広州やヴェトナムに活路を求めた数年間を含め、起業に挑戦し続けてきた日々であったようだ。何があってもゼロから立ち上がるたくましい精神力はすごい。

近頃は仏教と道教が融合した?「九蓮聖道」という宗教活動にも力を割いていて暇というものがなさそうだ。

 新しい会社が所沢にあり、これからはたまには寄ってくれるという。僕も自転車で訪ねられる距離だ。楽しみが増えた。

 夜、遠戚(祖母が姉妹)の亜子ちゃんと交信。この4月には娘さんが独り立ちする。川越を訪ねるといってくれた。うれしい春の日が待たれる。

 


月 昼前 TBSラジオ 小山省吾くん

2013-01-26 09:30:22 | 友人たち

大島高校OBの小山くんからFAXがありました。

28日(月)のTBSラジオ 永六輔・えんどうやすこの「誰かとどこかで」(AM11時35分~11時45分)で省吾くんの手紙が紹介されるということです。

省吾くんのメッセージ

「年とって、よかったこと」 「永六輔さんが病にも負けず、人の在りよう、文化とは?を問いかけてくださっています。そんな永さんへ わたしからのエールとして投稿させてもらったものです。聞いてください。」

小山くんは70年3月、都立大島高校卒業。茨城県(旧)八郷町に住み着いて大工さんをやっています。

川越だより「小山くん」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/36d5151b474df4b499a045e5e91a9e45


土佐高校 甲子園へ

2013-01-26 08:42:56 | ふるさと 土佐・室戸

1月25日(金)晴れ

甲子園のセンバツに土佐高校が出場するとのニュース。「21世紀枠」で被災した「いわき海星」などとともに選ばれたとのことです。甲子園への関心が薄れていたところですが「母校」が20年ぶり出場ということで曼荼羅主人(元応援団長)と喜びを分かち合いました。

 大会は3月22日からです。甲子園の応援と故郷土佐訪問の旅を組み合わせたらどうかと考え始めました。

 「川越だより」は6年前の3月、「室戸高校の甲子園」から始まりました。

  ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/m/200703

故郷室戸の人びととの出会いが僕を励ましてくれ、その喜びを発信したのです。土佐高校の後輩たちの活躍が今度はどんな楽しみをもたらしてくれるのでしょう。

 【センバツ】21世紀枠にいわき海星、土佐など4校 出場校決まる

「高知新聞」の号外です。●http://www.kochinews.co.jp/img/gogai13012501.pdf

 一緒に選ばれた「いわき海星高校」は元の「小名浜水産高校」だとわかりました。昨年、「きいちご移動教室」で訪ねた三崎公園からよく見える学校です。3・11大津波の直撃で校舎も体育館も使えなくなったようです。

クリックすると元のサイズで表示します

先日(23日)、三崎港に係留されている「福島丸」を城ヶ島から遠望したばかりです。いわき海星高校の実習船です。東日本大震災直後には「障害」を持つ人びとを神奈川県に避難させるなど大活躍をしたといいます。

いわき海星の野球部は乗船実習のため昨秋の大会には主力を欠いたまま出場、ベスト16になったとか。震災被害に立ち向かう力強い歩みが評価されたのでしょう。

土佐高校は何から何まで恵まれた学校です。専用の野球場を持ち、野球部の寮もあります。経済的にも不自由のない環境で育った子どもたちが「右文尚武」の「エリート教育」を受けています。何が評価されたのかはわかりませんが、時代の課題を背負って立つ強い意志を持った人に成長していってほしいものです。

 

 


三浦三崎 三浦半島の旅(下)

2013-01-25 10:42:58 | 東京・関東

1月23日(水)晴れ

午前中に鎌倉方面の観音さんを歴訪・参詣。

坂東33観音②岩殿寺(逗子)①杉本寺(鎌倉)③安養院(鎌倉)。④長谷寺は他日を期す。

観音めぐりを思いつかなければ訪ねることのなかった寺寺である。最初に訪ねた岩殿寺で妻は「納経帳」を買った。住職が「おまけ」だといって「干支お守り・巳」を付けてくれた。

ウィークデイだが杉本寺付近を歩く人の姿が目に付いた。

葉山の磯魚料理店で昼食。同席した女性たちの中に四国88箇所を巡った方が居られた。近頃は高野山に詣でたあと中国・インドと巡礼の旅をするのが流行っているらしい。西域・チベットをとおるのだろうか?

旅の終わりは城ヶ島。北原白秋詩碑。

「雨がふるふる 城ヶ島の磯に 利休ねずみの 雨がふる」●http://www.youtube.com/watch?v=g7BQc5XgB8Y

 

46年前の今頃、わたしたちは浦賀に住む平野の祖母(母の叔母)を訪ねた足でここに寄った。

同じようにして写真を撮った。

白秋記念館の職員の方が遠い昔の話をしてくれた。

短大を出て三崎漁協に就職したのが68年4月、鮪漁の活況で働くことの喜びを体で感じた。友人には徳島や高知の人が多く、四国の言葉が飛び交っていた。父は鯖漁の船主で今では想像すらできない豊漁が続いた。

いま、対岸の三崎港に係留している船はいわき海星高校の実習船だけである。街は年寄りだけになった。この急変振りには驚くばかりだ。

それでも7月中旬の土日の海南神社の夏祭りは賑わうらしい。近隣から若い人たちも帰ってきて神輿を担ぐのだろう。ぜひ、来てくださいといってくれた。

三浦三崎は小さいときから聞きなれた港町。1949年10月、パトリシア台風のため伯父の「三号富佐丸」が遭難し、全員が死亡した。岩貞という先生が「時は10月秋深く ふるさと遠く三崎沖 行く手を阻む台風は 怨みぞ深し パトリシア」という歌を作って教えてくれた。

川越だより「水掛地蔵」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/581e21f2e58f7670c399224b933fdc65

 

 

 

 


称名寺の浄土庭園  三浦半島の旅(上)

2013-01-24 10:07:36 | 東京・関東

1月22日(火)小雨 曇 晴

 ①9時過ぎ 「弘明寺」参拝。坂東33観音の14番。駅のすぐ前だとわかったので突如下車。

 ②金沢文庫 駅からタクシー。「法華経の世界」展。

   お釈迦さんの10大弟子像や椰子の葉にびっしり書かれた細字のお経が印象に残った。お経はこうやってインドから中国に伝えられた、のか。

 貝葉経(ばいようきょう)●http://asiaplan.main.jp/baiyo.htm

 

 「金沢文庫」を出ると、「極楽浄土」の世界が広がっていた。北条氏の建てた称名寺。

③お昼過ぎ、三浦海岸に着き、「カサゴの煮付け」の昼食。美味。

レンタカーを借りて伸子さん(旧姓・中屋)を訪ねる。

小学校の同期会を横須賀で開いて以来30年ぶりか。突然のことでびっくりされていたが喜んでもくれた。こんな風に対話するのは人生71年目にして初めて。焼津の妙子さん(旧姓・竹本)とも交信。このお二人とは家が遠く離れていたり、同級になったことがないので、小さいときの記憶がよみがえるわけではないが、共通の友人たちには事欠かない。浩昭くん、訓子さん、治雄くん、公夫くん、鬼籍に入った友人たちを偲んだ。浦賀に住む訓子さんのお姉さんとも久しぶりに交信。

 ④京急油壺・観潮荘

早めに旅装を解き、隣接の「マリンパーク」見学。陽がさし始め、海の風光が良い。

アシカショーを楽しんでいるうちに一身上に浮かび上がっていた不安のようなものもどこかに行ってくれた。

宿の露天風呂は海洋深層水を暖めたものらしいが、海の眺めもよくつい長湯をしてしまった。

マリンパークつきで8800円。気に入ってしまった。

 


タルセバは効能尽きるか

2013-01-22 08:27:46 | 病状
1月21日
癌研有明病院の西尾医師の診断あり。「抗がん剤の効き目が弱くなったのか左肺のガンが少し大きくなった。」
もうしばらくタルセバを服用して次の対応を考えることとする。

午後は川崎で息子のお連れあいの両親と交流。夜は横浜の招福堂に移る。
今朝(22日)は雨もようだが三浦半島に向かう。j本文




「ふくしま再生の会」 田尾陽一さん

2013-01-21 05:24:38 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

1月20日(日)晴れ

よく晴れたが吹く風が冷たい。一日、陽光の暖かいベッドですごす。

遠い昔(1973年夏)、北海道池田町の農村での生活をともにしたことがある田尾陽一さんが福島の飯館村を根拠地にして「東北復興」の活動に地道に取り組んでおられることを知った。うれしくなってブログ「愚者の声」を読ませてもらった。

東大闘争を闘った人で、「物理」だった。お連れ合いは僕の同僚で当時、非常勤講師専任化闘争の渦中にあった。

3・11以後、「フクシマ再生の会」というNPOを作ってその責任者として精力的な活動をされているようだ。

震災直後の「愚者の声」に田尾さんの思うところが書かれている。


 ■ 首都移転と東北復興

 東日本大地震、津波、原発事故は、日本の原子力技術の信頼性を根本的に失わせたとともに、日本の社会機能の安全性への疑問を世界に植え付けたと考えられる。私たち日本人は、この不信感を今後、長期間にわたり払拭する努力を続けなければならない。今後の東海大地震の予感を胸にする時、私たちは、社会的機能の分散配置を考えなければならないのではないだろうか?
 

 すなわち、東京集中の首都機能の大胆な分散である。東京でメルトダウンしている政府(中央行政機能)と国会、最高裁などを、那須ないし関西へ皇居とともに移転する。ついでに愚昧で不必要な国会議員を100人以下に減らして移す。

 東京は、皇居、国会、議員会館、官庁街を再開発地域として、徹底した安全設計の下に、国際化特区とする。

 
 東北地方は、自己決定権を持つ国際的な地域として復興をはかる。すなわち、農林水産業や観光や新しいエネルギー技術開発などを、アジアの人々とともに推進し、人材とノウハウの共有を推進していく。中央政府に集まる偏狭な政治屋や省益にしがみつく官僚群、復興資金に群がる狡猾な企業の排除を原則として、真にオープンでまじめで人にやさしい東北人の良い面を伸ばすモデル地域として、東北地方の自立を図る。

■福島の自然と生活の再生に向けた調査・交流・実験・行動のために、全国の人々の共同作業所を開設する

この21世紀初頭に、大自然の大きな力の前に人間が翻弄され、さらに安易に自然をコントロールできるという慢心の上に敗北した原発事故と言う三重苦の福島地域において、自然の力の前に謙虚に学びつつ長期間にわたり、自然を構成する空気・土・水・海・植物・動物そして人間の営みの本来の姿を復活させていかなければならない。

 このためには、被災を自分のものとして自立的に考える諸個人・諸国民、農林水産・牧畜などの知恵を持つ人々、自然を観察し分析するさまざまな技術を持つ人々が集まり、被災住民とともに学びつつ、本来の自然とそれらと共生する人間の生活を復活させる必要がある。この中で、長期にわたる原発の廃炉過程を看視し、最終的な自然の姿にもどる姿を見届けたいと思う。


 

 心ある人、力ある人は違うなあと思う。思ったこっとをしっかりと実践に移しておられる。

「ふくしま再生の会」●http://www.fukushima-saisei.jp/

思うことだけは僕にもできる。田尾さんの思いに僕は心から共感する。とりあえずゆっくりHPを読ませてもらおう。

 個人ブログの「愚者の声」の最新版には「原子力政策の欺瞞性」という論説が掲載されている。

「原子力政策の欺瞞性」●http://gusha311.blog55.fc2.com/


桜宮高校入試中止もやむをえない

2013-01-20 06:20:14 | こどもたち 学校 教育

 1月19日(土)晴れ

 昼前に川越公園の林を歩いた。木が生えている部分の雪はすっかり消えているが日当たりのいい、斜面などに残雪がある。予期せぬことでちょっと?。病後の散歩だという方が入間川に鯉が泳いでいるのを教えてくれた。ただぼけっと眺めているだけの僕は7年間気づかなかったことだ。


 

 大阪の市立桜宮高校の入試中止を求める橋下市長の言動に批判が強いようだ。市議会のみならず、僕の知る人権派の古い知人たちもこれに和している。

 バスケット部やバレー部の「顧問」なる男たちの所業を読む限り、これは「体罰」などというものではない。「暴行」「処刑」などの言葉が浮かんでくる。大阪府警が今日に至るまで「暴行」「傷害」容疑で逮捕状を請求しないのが不思議なくらいだ。

 「バレー部でも体罰 生徒が克明に記録」 ●http://news.tbs.co.jp/20130115/newseye/tbs_newseye5232214.html

 この顧問の周りに蝟集する保護者や同業者、実態を知りながら黙認を続けてきた校長・府教委に重大な責任があることは言うまでもない。

 このような学校にいかなる存在理由があるのか、設置責任者である市教委の見解を聞きたいものだ。

 大阪の教員たちは「人権教育」の本場を自認していたのではないのか。このような顧問や学校のあり方はまさに「糾弾」されなければならない。どうなっているのか?人ひとりが死を強いられたというのにあまりにもノーテンキではないのか。

 橋下市長の強力なリーダーシップの下に進められてきた大阪市教育基本条例制定などの動きに僕は反対だが、ことここに及んで市長が提案している「桜宮高校体育科の入試中止」は責任あるものの当然の行為ではないかと思う。事なかれ主義でごまかされるのはもうゴメンだと心あるものは思うだろう。

 市長のtwitter での発言を読んでみた。


 

1月15日

桜宮高校体育科の入試中止については賛否両論がある。ただ、これは子どもに責任を取らせたわけではない。桜宮高校体育科が生徒を受け入れる状態ではないということ。実態解明も済んでおらず対応策も何も決まっていない。こんな状況で生徒を受け入れることはできない。

顧問の暴力を誰も止めることができなかった。周囲の教員も、生徒も、保護者も。そして生徒が死に至った。この実態解明、原因究明せずしてなぜ新入生を受け入れることができるのか。体育科を目指して頑張ってきた受験生には申し訳ない。しかし、今、桜宮体育科は新入生を受け入れる状態ではない。

中学校の現場から特に中学校長から、「受験生のことを考えているのか!」と声が上がっているらしい。そのままそっくり返す。桜宮高校のこの現状を、どこまで中学校の現場は知って進路指導していたのか。桜宮高校に求める生徒や保護者の期待の在り方そのものも問題だった

受け入れ態勢が整っていない学校に新入生を受け入れるわけにはいかない。在校生についてはそのまま継続。そして受験生には普通科枠の増員。これが混乱回避のギリギリのところ。生徒や受験生に責任を取らせたわけではない。

 なによりも実態解明。なぜ桜宮高校がこのような状態になってしまったのか。生徒や保護者意識も含めて解明する必要がある。その上で対応策。それができて、初めて活動再開。それまでは活動は停止だ。それが子どもたちのためである。
 

 
 

追悼 大鵬逝く

2013-01-19 21:09:28 | 政治・社会

元横綱・大鵬の納屋幸喜さんが19日午後、死去されたとのことです。

72歳だったとか。偉大すぎたせいか、同世代だという印象がありません。判官びいきのきらいのある僕がどういうわけか大好きになった相撲取りでした。(白鵬にも似たような感じを持っています)。

読売ジャイアンツは大嫌いですが王貞治さんは尊敬の対象でした。王さんのメッセージを読んで両雄に交友があったことを知りました。

大横綱の逝去を悼み、ご冥福を祈ります。

王会長大鵬さん悼む「同じ時代生きた」

2013年1月19日

元横綱・大鵬の納谷幸喜さんとの思い出を語る王氏

元横綱・大鵬の納谷幸喜さんとの思い出を語る王氏

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 1966年11月、巨人の王貞治選手(左)と対談する横綱大鵬

 元横綱大鵬の納谷幸喜さん死去に関して、ソフトバンク・王貞治会長が球団を通じて以下のコメントを出した。

 同い年で、同じ時代に世の中に出ただけに、様々な場面でご一緒しました。現役時代に面倒をみてもらっていた接骨院で、正月に一緒に金杯でお酒を飲み、自宅にまでお連れして新年会をした事が、いい思い出として残っています。

 巨人・大鵬・玉子焼きと言われた時代、私たちはチームでしたが、親方は一人で国技である相撲を支えてこられました。歴史に名を残す偉大な人であり、同じ時代を生きて来ただけに、寂しいです。ご冥福をお祈りします。

出典●http://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2013/01/19/0005681511.shtml