川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

開拓三代  栗駒・耕英地区

2012-05-31 13:29:53 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

昨日は国道16号に沿った安全な道を探索して大宮公園に行ってみました。広大な公園の一角にある歴史と民俗の博物館を見学したあと数キロ南の勝義さんの顔を見てきました。近く家を処分して横浜に住む娘さんの近くに住むことにしたといいます。こうやってひょっこり訪ねることができなくなるのですから、僕としては寂しくなります。つい話し込んでしまって川越についたのは7時前になっていました。

被災地訪問の旅のメモ最終回。26日に書いた「栗駒山耕英」の付け足しです。

5月25日(金)

 くりこま高原耕英地区の熊谷養魚場でお会いした方々の写真です。

      熊谷泰子さん 昭さん 昭市さん 菅原輝人さん (妻)

 熊谷泰子・昭さん夫妻は開拓2世、息子の昭市さんは3世、菅原さんは1世です。

 

イワナを焼きながら話をしてくれていた昭市さんが1世のおじさんがみえられたと教えてくれたので、飛んでいって入植時の様子などをお聞きしました。菅原さんは昼食に立ち寄ったところだったのです。今は下の町に家があり、雪が溶けると軽トラで「山」(耕英地区のこと)の仕事にでかけてくるようです。大正15年(昭和元年)生まれといいますから、今年は86歳になられます。やがて店主の昭さんも話に加わってくれました。

 耕英の開拓は満州から命からがら引き上げてきた耕野開拓団の人たちが母村(今の丸森町耕野)には住めず、この地で再開拓に挑んだのが始まりだ。駒の湯温泉の主人がこれに協力し宿舎を提供したという。菅原さんは登米の人で満州帰りではないが昭和22年(1947)の開拓開始の年の入植者だ。

 栗駒山の中腹、海抜600mのこの辺りはブナの原生林だった。巨木をノコギリ一つで切り倒してゆく。一日一本がやっとだったとか。炭を焼いて下の町に売りに行った。何俵かを背負って3時間の山道をおりた。道路もなければ電気もない。雪と寒さという過酷な自然条件。去っていく人も多かった。

 昭和33年(1958)に道路が開通した。電気が灯いた時のことを聞いてみた。意外な回答。「電気代が高いので参った」。ランプ生活の灯油代の方がはるかに安かった。現金収入の乏しい開拓地の生活がほんのちょっと想像された。

 昭さんによれば菅原さんは森の芸術家でもあるらしい。森の素材を活かして民芸作品を作っているのだろう。

震災の被害から再起した「しらかば食堂」はその室内全体が民芸作品だ。明さんの手になるものだが菅原さんに教わったと聞いた。

  写真: 栗駒山耕英 菅原輝人さん

 昭さんはお店の裏側にある自宅を見せてくれた。裏山の銘木を活用した見事な家だ。大自然のただ中で自然の恵みを享受する生活を楽しんでおられるのだろう。店に来るお客さんにもその喜びを分かちたいと店作りにも丹精を込めているのだ。

 被災から4年にもならないが栗駒・耕英の復興は順調に進んでいるように見える。地域の人々の協力の賜物だがその核になったいるのが1世たちの「開拓者魂」とでも言うものではないか、と思った。大災害に遭遇してめいったには違いないが三世代が力をあわせて復興に取り組んだ。

 お別れに菅原さんに握手してもらった。小柄な方だががっしりとして力強い。

お店に『山が動いた 岩手・宮城内陸地震と栗原市耕英地区』と言う冊子があったので「山脈ハウス」に戻って手に入れた。「くりこま耕英震災復興の会」(0228-46-2220)が2010年6月に発行した。¥1000。

 三世代、それぞれの人々の震災と向き合う姿が紹介されている。こういうことができるというところにこの地区の人々の並々ならぬ精神がうかがわれる。

 雑誌『仙台学』8号には「開拓地<耕英> 被災者たちの昭和史」という特集記事がある。

ぼくはこれらを読んだらまたいつか栗駒に連れていってもらおうと思っている。今度は栗駒山(1627m)にも登れるかもしれない。車道の終点「イワカガミ平」(1113m)からの中央コースは「遊歩道」となっていて「初心者・ファミリー向け」だという。3Km、一時間30分とか。普通の人の二倍はかかるが、なんとかいけるだろう。麓から見ると穏やかでゆったりとした山だ。

(付けたし)

写真: 分校閉鎖

栗駒小学校耕英分校は入学者が昭市さんのお子さんだけになり閉鎖になったという。

 

 

 


「原子力ムラの解体こそ」菅前首相の国会事故調での発言を支持する

2012-05-30 07:19:27 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

5月28日午後偶然、インターネット中継で菅前首相の国会事故調での発言を聞くことができた。僕は菅前首相が国のトップとして体験した原発事故対応の証言は極めて重要な判断材料だと思う。まして国民主権下の国会での証言だ。NHKをはじめとするマスメディアがなぜこれを中継しなかったのか、怒りに近い感情をもった。今もNHKに視聴料を払っている友人たちに抗議の不払いをすすめたいほどだ。 

終わりの4分間あまりに菅前首相の今の認識が語られている。NHKが中継しなかった理由がよくわかる。読者はどう思われるか。4分の時間を割いて視聴されたい。

国会事故調における菅前首相の発言「締めくくり」部分●http://www.youtube.com/watch?v=werYuEFu-qk&feature=related

 

国会事故調聴取 菅前首相 情報上がらず手詰まり 

2012年5月29日 朝刊(東京新聞)

 菅直人前首相は二十八日、国会の事故調査委員会に参考人として出席し、東京電力福島第一原発事故で水素爆発など危機的な状況が続いていた発生当初、経済産業省原子力安全・保安院や東京電力から「上がってくるべき情報が上がらず、これでは手の打ちようがないという怖さを感じた」と証言した。事故で国が崩壊しかねなかったとの認識を示し、「最も安全な原発は脱原発」と訴えた。 

 菅氏によると、発生した昨年三月十一日から東電本店に乗り込む同十五日まで、東電や保安院、原子力安全委員会から、必要な情報がほとんど上がってこなかった。特に、事故対応を主に担うはずの保安院が、東電から積極的に情報を集めないなど「平時の対応しかしていなかった」と苦言を呈した。

 ただ、菅氏が直接、事故対応に動いたことで、現場対応を遅らせたとの批判も根強い。この日の菅氏への質問もそうした観点の質問が多かった。

 発生翌日、ヘリで福島第一に乗り込んだことについて、菅氏は1号機のベント(排気)が進まない理由を、官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェロー(当時)に尋ねても「分からない」と言われたことなどを証言。「現場の責任者と話すことで状況が把握できるのではないかと思った。顔と名前が一致したことは大きい」と述べた。

 菅氏が昨年三月十五日朝に東電に乗り込んだ際、社長らを叱責(しっせき)する様子が、テレビ会議システムを通じて現地対策本部にも流れ、士気を下げたとの指摘には、「叱責するつもりはなかった」。直前まで東電が撤退する意向との認識だったため、声が大きくなったといい、「厳しく受け止められたとしたら申し訳なかった」と謝罪した。

 官邸から現場に電話が何度もあり、作業の邪魔になったとの指摘に対しては、「私は吉田(昌郎(まさお))所長とは電話で二回しか話していない」と説明した。

 事故の責任については、「原発を認可したのも、推進したのも国だ。国策民営。そういう意味で国の責任」と指摘し、東電だけでなく国にも大きな責任があると認めた。

 一方、国が原発再稼働を急ぐ現状に対しては、電力会社を中心とする「原子力ムラ」が「深刻な反省もないまま、原子力行政の実権を握り続けようとしている」と指摘。「原発の確実な安全性確保は不可能だ。最も安全な原発(の対策)は、原発に依存しないこと。脱原発だと思った。野田首相や全ての人にそういう方向での努力をお願いしたい」と述べた。


石巻・水澤屋旅館女将さん

2012-05-30 05:18:08 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

5月24日(木)☼

穏やかな万石湾岸の素敵なホテル「華夕美」(女川町)でゆっくりしたあとはいよいよ石巻へ。

09年10月に世話になった水澤屋旅館の女将さんにお会いできるだろうか?

 旧北上川に近い旅館は跡形もなかったが女将の水澤もり子さん、お元気だった。(左側の方です)。ご家族も全員無事とか。旅館あと近くの住まいを修築して住んでおられる。

 地震の後、近所のお年寄りを載せて近くの日和山(公園)に避難したという。石巻高校での避難生活も「楽しかった」とおっしゃる。

上がってお茶でもとお誘いを受けたが今日は前途が遠い。ご挨拶だけで辞した。「旅館をやってきてよかった。再開は無理だが、小さな食堂くらいはまたやってみたい」とのことだ。石巻の復興が進んで女将さんの店ができたら、こんどはゆっくりお話を聞かせてもらおう。

 奥に入るとドリンク剤などを袋に詰めて車まで届けてくれた。またまたとんだことになってしまった。

 水澤屋さんの消息を教えてくれた商店街の店主の話。

石巻の人はチリ地震の津波で膝あたりまでの浸水は体験している。今回もその程度だろうと避難しなかった人が多い。前の町内会長が地震があったら松栄ビルに避難しろとよく言っていたのでこの町内では死者が出なかった。

 海に近い街はみはるかす廃墟。石巻市立病院が見える。

 旧北上川・中洲の自由の女神像は下半身をえぐられている。

昨日訪ねた大川小学校の対岸を通って北上川河口から南三陸町、そして気仙沼。39年ぶりの気仙沼港は埋立地に出来た巨大な水産加工業団地が壊滅していた。高度成長期以来の「発展」が無に帰したことになる。元々が無茶な埋め立てではなかったのか、とも思った。

南三陸町伊里前福幸商店街

 


髭面(ひげづら)の言い訳

2012-05-29 11:14:29 | 父・家族・自分

一昨日の夜からFacebookは1Gのクラス会の写真が乱舞している。お互いに再会がよっぽど嬉しかったのだろう。

僕が教員生活最後のHR担任だと丹精込めて育てたクラスだ。

まっすぐに育った子どもが多かった。仲の良いクラスが出来たと自己満足もしていた。クラスが解体して13年が経った。大人になって初めて改めて「出会う」人同士もあるに違いない。それをぼくも心から喜ぶ。

写真を見ていると自分の髭面がなんともみっともない。「なかなか似合う」と人はおだててくれるが‥。

言い訳。

抗がん剤「タルセバ」の副作用で皮膚が弱くなり湿疹が出来やすくなった。抗生剤の服用で事態はすっかり改善されたが、ひげそりは難しい。そろそろ3箇月、「縄文人」に近づいてきたかな。

 妻が時々ハサミを入れてくれる。今回もそのつもりだったが旅の(運転の)疲れでダウン、それができなかった。自分ではヒゲは好きではない。でも近頃はこれも運命と受け入れるようになっては来ている。

効果がある限り、そして副作用が限定的である限り、タルセバの服用はつづく。

そんな事情なのです。何卒ご寛恕ください。

(Facebookの様子は「川越だより」の「Facebook」というところをクリックすると見られます?)


大川小学校

2012-05-29 07:00:26 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

5月23日(水)☼

仙台から石巻郊外の高福寺を訪ねる。慶子さん(86年・池商卒・フォーク部)と夫の裕昭さんが出迎えてくれた。この寺も地震の被害を受けた。山門近くの灯籠は倒れたままだ。

 

 夫妻は周辺の避難所を回って「カフェ」を開店して人々の交流の場を作る活動、傾聴活動など今も忙しく立ち働いている。被災地にも「復興」の動きが始まる中で悩みや苦しみを語るのをはばかる雰囲気があるという。「傾聴」という活動はこれからますます大事になるということだろう。

 息子さんの近影を見せてもらった。凛々しい雲水姿。この春大学を出て永平寺(福井県)で修行中だという。お二人も心強いことだろう。昼食の接待を受けたあと慶子さんが車を運転して被災地を半日案内してくれた。

 北上川河口近くのあの大川小学校。その惨状はガレキ処理が終わった今でも見るに耐えない。

全国からの弔問者が絶えることがなく祭壇に「高知県田野町議会」の献花もあった。廃墟となった校舎の裏側に回ってみた。裏山がすぐそばなのになぜそちらに避難させなかったのか?集団でよじ登るのには確かに不向きだができないというほどではないように見える。(校長をはじめとして教師たちに津波に備えるという発想がそもそもなかったのではないか?我が身に引きつけて考えてみても思い当たるような気がした。)

裏山近くの何かの施設にこどもたちの手になる壁画が残されている。宮沢賢治のあの言葉があった。

 「世界が全体に幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない‥」。先日の移動教室の締めくくりの演説で僕はこの言葉を紹介したばかりだ。このように思うことができるこどもが育っていたのか。

北上川河口近くの山道を通って雄勝~女川。女川~鮎川浜。美しい風景の合間合間にであう村里や街はどこもかしこも「壊滅」。

牡鹿半島の先端「御番所公園」。展望台は毀れて「立ち入り禁止」。芝生に腰を下ろして震源地の海を眺めた。

 万石橋のたもとまで裕昭さんが奥さんを迎えに来てくれた。これからも忙しい日が続くのだろう。被災地のお寺の活躍時と心得ているお二人にあえて嬉しい一日だった。


98年文京高校1G

2012-05-28 05:01:13 | 友人たち

5月27日(日)☼

 11時半から文京区向ケ丘の馥苑(ふうえん)で1Gのクラス会。10年ぶり。前回は僕の定年退職時だった。15才で出会った人々が今年は皆30になるという。

 集う者24名(プラス1)、それぞれの10年に耳を傾けた。まさに黄金の3時間。最後にぼくも演説した。力が入った。

馥苑主人の峯男くんが撮ってくれたクラス写真。

 

(出席者)賢太郎 次郎 健介 真佑子 桂子 佑一 

      多美子 愛 晋 啓介 智子 希世 

       剛 沙雪 友紀 恵美 佳代

      勇助 崇浩 翔平 美保 由水 賢一 綾子 康弘 

(欠席者)17名

 


村の消滅 荒浜・閖上

2012-05-27 03:52:53 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

5月22日(火)曇りのち雨 

昼過ぎレンタカーで仙台を出発。荒浜の学校辺りから風景が一変。何もかも消滅してしまった。

 3年前と同じように堤防にあがって見た。どこまでも続く砂浜、なんの変化もない。堤防はしっかり残っている.松林も頑張っている。しかし、これらが何の役にも立たなかった。

 村あとを歩いた。菜の花の咲いている畑がある。絹さやも植えてある。人の営みの確かな証拠。こんな看板があった。

貞山堀にさしたる変化はない。江戸時代の人の仕事はすごい。

 仙台市若林区荒浜

 

 

名取市閖上(ゆりあげ)も同じ。住んでいた人びとは何処へ行ったのか。綺麗に分別された巨大な瓦礫の山が幾つもあり、トラックが動いていた。

阿武隈川をわたるあたりから雨。鳥の海の海岸沿いも壊滅していた。 

 


栗駒高原 熊谷養魚場

2012-05-26 05:25:50 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

5月25日(金)☼☁☂

 夜10時前川越の自宅に帰りました。22日からの陸前(宮城県)の被災地を訪ねる旅が無事終了したのです。仙台南部・女川・牡鹿半島・石巻・気仙沼と東日本大震災の被災地を訪ねたあと、25日は栗駒山の中腹にある耕英という村。

 ここは満洲開拓から帰ってきた人々などが戦後開拓に挑んだところ。08年6月の「岩手・宮城内陸地震」で壊滅的な打撃を受けました。あれから4年、復興を果たした人々とゆっくり交流するひとときを過ごすことができました。

 熊谷養魚場の食堂「しらかば」でとってもらった写真です。真ん中右が菅原輝人さん、大正15年(1926)生まれの開拓一世。左が熊谷昭さん。開拓二世で養魚場の主(あるじ)。

 素敵なお店です。どんなふうに素敵かは行ってみなければわかりません。短期間に「壊滅」から立ち上がった人々の底知れぬ力を感じます。自然の凄さを知り尽くした人の優しさを感じます。

 機会を作ってみなさんも訪ねて見てください。ぼくたちの心にしまって置くだけでは役割を果たせないので今度は友人たちを案内したいものだと思っています。おいおい駄文も書いていきますが‥。

 栗駒山耕英 熊谷養魚場食堂「しらかば」

 

 移動教室、被災地訪問旅行と「多忙な」日々でした。あすは文京高校「1G」のクラス会。黄金の五月はまだまだ続きます。レポートが追いつかない学生みたいな感じもします。

 


スカイツリー開業というが‥

2012-05-22 05:05:39 | 病状

5月21日(月)☼

 午後3時前、癌研有明病院の西尾医師の診断がありました。(予約は1時半)。

 「血液検査に目立った異常はない。タルセバ服用を続けよう。生活はいつもどおりで良いが直射日光に留意。」

初夏の風情になってから体の動きもまあまあです。食欲は旺盛?。タルセバで皮膚が弱くなっているので注意が必要です。日焼け止めを塗ったりはしています。自転車漕ぎや散歩の時は長袖にしなければならないか。

 次回は一箇月後、しばらくはまた病気を忘れて生活を楽しむことができます。

 今日は仙台に向かいます。3・11から1年2箇月、仙台南部から陸前高田までの海岸部を見てきます。帰りには08年に被災した栗駒山麓にも寄れるかもしれません。

 先日、富士山麓の再開拓に生涯を賭けた熊谷さんにお会いしたばかりです。栗駒の耕英地区も同じように満州から命からがら逃げてきた人々の営みがあったところです。地震でめちゃくちゃにされてから4年です。開拓2世の復興に取り組む力強いメッセージが印象に残っています。

 川越だより「栗駒山麓 耕英地区」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/d4ddc8f0e304976e3c545a8c77af8316

 1000年に一度の大災害であってもそれが自然の摂理である限りは「復興」ということがいつかは出来ます。人間にはそういう力が備わっているようです。しかし、原発事故はそうはいきません。放射能の半減期は半ば永遠です。

 今日は東京スカイツリーの開業だといいますが浮かれていていいのか。高知の小倉さんの警世のブログを読んで考えさせられています。

 

東京スカイツリーは砂上の楼閣

 http://www.janjanblog.com/archives/72012

 


移動教室無事帰着

2012-05-21 08:20:58 | 父・家族・自分

昨夕、6時45分、日暮里到着。第14回きいちご移動教室は無事終了しました。川越着は8時前。今回も新たな出会いに恵まれて僕にとっても楽しい旅になりました。

 今日は検査のために癌研有明病院に行きます。旅のメモは他日を期すことにします。元気はいっぱい。


富士山とコノハナサクヤ姫

2012-05-19 05:06:48 | 出会いの旅

 昨夜、妻と娘は遅くまで旅立ちの支度で大わらわでした。妻は今日からの旅のごちそうづくり。娘は新居に送る荷造り。10時半頃に迎えの三河の君が到着。乾杯して僕はおやすみ。

 今日、娘は荷物を山ほど積んだワゴンで三河に向かいます。背の君と一緒ですから心強いと思います。

 92年4月、息子が就職して家を離れ夫婦だけの生活が始まりました。94年暮れに北海道での学生生活を切り上げて娘が帰ってきてからは三人になりました。今日からは18年ぶりにまた私たち夫婦だけの生活になります。

 別れの朝ですが出発の朝でもあります。娘たち夫婦の前途に幸あれと祈るばかりです。

 

 私たちは今朝、6時に川越を出発、東京の日暮里でみなさんを迎えて富士山麓の河口湖を目指します。IC近くのビジターセンターで富士山のお勉強をしたあと浅間(せんげん)神社にお参りします。

 浅間神社の本部?は静岡県の富士宮にある富士山本宮浅間大社で冨士山頂に奥宮があります。山梨県の富士吉田に鎮座しているのは「北口本宮冨士浅間神社」です。

 

 富士山麓は度々訪れてもこれらのお宮にお参りしたのは去年が初めてです。

浅間神社に祀られているのはコノハナサクヤ姫という神様です。

 富士山は古来信仰の対象でしたが庶民が旅をしてお参りするようになったのは江戸時代になってからのようです。元々は山そのものが神様だったと考えられますが、この頃から祭神はコノハナサクヤ姫になったようです。天皇家の祖先神(天照大神)に連なる神様ですから国学の興隆と関わっているのかな?

 富士山とコノハナサクヤ姫との関わりについて書いたブログがあります。僕のように神話の世界に弱い人間にわかりやすい文章です。ひとつの説として読めばいいのではないかと思います。興味と暇のある方はどうぞ。

 コノハナサクヤ姫●http://www.e-kakutani.com/?mode=f7

川越にも浅間神社はあります。また、周辺のあちこちに富士塚というものがあります。富士山までは行けない人々のために小さな塚を作って浅間様を祀ったのです。江戸時代の冨士信仰が人々の生活に深く関わっていたことが分かります。自転車の散歩をしていると否応なしに富士塚にいきあたるくらいです。

 埼玉・富士塚●http://www7b.biglobe.ne.jp/~fujisan60679/saitama.html

田子山富士塚

(志木の田子山富士塚)

 昔、関東平野のどこからでも富士山はよく見えたし、時々は噴火して恐ろしい災害をもたらしました。今よりもはるかに富士山は人々の意識の中にもあったのでしょう。伊勢講・大山講などと並んで富士講も盛んだったようです。

今ではたった2時間のバスの旅でお参りできます。信仰心があるのかどうかはよくわかりませんが中国から帰ってきた残留孤児とその家族の人たちはお寺詣りやお宮参りが結構好きなようです。

 僕の旅は昔から神社や寺院めぐりといっていいぐらいですが、信仰心が篤かったためではありません。それが年をとるにつれて少しずつ「祈る」という気分に変わり始めて来たようです。

 

 

 

 

 

 


中華料理店「高社郷」

2012-05-18 04:47:36 | 父・家族・自分

5月18日(金)

 娘と一緒に生活するのは今日が最後になります。あす、早朝に私たち夫婦は「きいちご移動教室」に出発、その留守に娘夫婦はありったけの荷物をワゴン車に積んで三河に向かうことになっているのです。

 このところ、娘は部屋の片付けに余念がありません。覗いてみたら、本が詰め込まれたダンボールが部屋に山のように積まれています。今日のうちに専門業者に引き渡され処分されるということです。我が家には財産らしきものは何もありませんが、娘も妻も本には親しんできたのでどの部屋も本の山です。僕の本はだいぶ処分したつもりですがまだまだ‥。自分の人生と関わってきた本たちを処分するのは誰にとっても大仕事です。

 昨夜は妻が手作りの餃子を食べさせてくれました。今夜は‥?娘との我が家での夕食はこれが最後なので?妻にはあれこれと考えがあるようです。今夜遅く、三河の君がワゴンで到着するということです。

 昨日の「川越だより」に森さんという方がコメントを寄せてくれました。

板橋区大山に「高社郷」という中国料理店があるようです。その名前の由来を調べているうちに「川越だより」にたどり着いたといいます。

こんなふうに読んでくれる方がいて本当に嬉しい。

 高社郷開拓団の生き残り高山すみ子さんとは3年前にお会いして以来、お付き合いをさせてもらっています。東京の荒川に同じ開拓団にいた方がおられます。おばあちゃんに連れてきてくれと頼まれたことがあるのですが、おじいちゃんも高齢でおいそれとはいきません。

 同じ東京の大山(板橋区)に「高社郷」があるというのは驚きです。灯台もと暗し、というのか。(清瀬市にも同名の店舗があるようです)。

50年も大山銀座でやっているとか。どういう人が?近く訪ねて見るつもりです。HPには「高社郷とは開拓者精神」とあります。

高社郷●http://blog.livedoor.jp/yuza04e009/?p=2

    ●http://www.hotpepper.jp/strJ000233496/

このぶんではあすから一緒に旅をする方の中に「高社郷」を知る方がおられるのかもしれません。

 

 


ふじの山

2012-05-17 05:20:30 | 出会いの旅

富士山麓への移動教室がいよいよ明後日に迫ってきました。天気がよさそうなので一安心。今回の参加者は49人、中国残留日本人孤児とその配偶者が大半で、超高齢者集団です。初めて参加する人が多く、手続きが完了するまでに時間が掛かりました。今までの参加者が知友を誘ってくれるのですから嬉しい限りですが、郵便振替などの経験が無い方が多いのです。

 昨日は保険会社への名簿提出の後、名前プレートの作成、部屋割りなどをしたあと資料作りに取り掛かりました。

恒例のテーマソングは

「ふじの山」作詞 巌谷小波 作曲 ?(明治44年文部省唱歌 小3)

一、
  あたまを雲の上に出し、
  四方の山を見おろして、
  かみなりさまを下に聞く、
  富士は日本一の山。
二、
  青空高くそびえ立ち、
  からだに雪の着物着て、
  霞のすそを遠く曳く、
  富士は日本一の山。

曲は→ ●http://www.youtube.com/watch?v=g1Ehepc4nU8

僕は富士山というと「背くらべ」の方が好きなんだけどちょっと難しいような気がする。粽・羽織の紐‥。同世代といってもほとんどが異郷で生まれ育った方々なのです。

 

「背(せい)くらべ」

海野厚作詞・中山晋平作曲

 

(はしら)のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ
(ちまき)たべたべ 兄さんが
(はか)ってくれた 背のたけ
きのうくらべりゃ 何(なん)のこと
やっと羽織(はおり)の 紐(ひも)のたけ

柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ
雲の上まで 顔だして
てんでに背伸(せのび) していても
雪の帽子(ぼうし)を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山

 

古賀さと子の歌●http://www.youtube.com/watch?v=sHoit9X3nio&feature=related

 大島高校が初任校だったので土佐生まれのぼくも富士山には縁ができた。学校の教室からも海を隔てた秀峰が朝に夕に見えたのです。一回だけ登りました。

 1966年夏、学校の行事「富士登山」。信州上田の出身の森さんがリーダーになって生徒たちを連れていった。山中湖畔にキャンプを張って、5合目までバスで行き、夜9時ころから登り始めたのではなかったか。御来光を拝めた記憶はないが頂上はただただ寒かった。

 「引率」に加えてもらったのだろうがついて行くのが精一杯。辛くて「二度とくるものか」と思ったものだ。須走口へだったか、「砂走り」だけは開放感があった。湖畔のキャンプに到着するや眠り込んでしまった。忙しく立ち働く同僚や生徒たちにはこっそり隠れて‥。

そんな恥ずかしい記憶があります。そんな僕でも生涯にただ一度「日本一」の山に登ることは出来たのです。森さんたち同僚のおかげです。

 「砂走り」●http://www.youtube.com/watch?v=_JvQJ9a_jyE&feature=related

 

 


被災地を訪ねる旅・計画

2012-05-16 05:47:18 | 出会いの旅

月15日(火)☂☁

 寝たり起きたりで門外不出。娘の勤務が今日で終了。知人から贈られた豪華な花がワニの花子の前に飾られた。コデマリ・ユリ・‥。こけしと並んで夕食の部屋が華やいでいる。 

 東日本大震災の被災地を訪ねる旅の概要が決まり、旅館などの手配が終わった。

5月22日(火) 大宮=仙台 レンタカーで名取市・仙台市南部の海岸地帯を訪ねる。仙台の都市型H泊。

 05年3月、阿武隈川の河口・名取川の河口から貞山堀に沿った旅をした。

 「荒浜の壊滅を聞く」川越だより●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/28a6a7cb2acb71570319794793e23595

 

23日(水) 石巻市の各地。石巻郊外に住む慶子さん(池袋商業86年卒)が同行してくれる、とか。女川温泉「華夕美」泊。

 09年10月、息子夫婦と訪ねた。

 「石巻・日和山公園」川越だより●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/def419571d917a98a953efb6e01c08fe

 牡鹿半島・鮎川にも行けるか?96年以来。

 「金華山・鮎川・石巻」地震と津波の記録●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/4b23ecfd18c83199528c451234411f0a

 

24日(木) 南三陸町・気仙沼市・陸前高田市。「一関簡保の宿」泊。

 73年3月、義弟と二人でこの地方の朝鮮人強制労働による鉄道建設の現場を訪ねた。今回はいけないが宮古の北の田老では津波の怖さを知った。39年前のことだ。

25日(金) 栗駒高原  仙台=大宮

 ここは08年の地震でやられた。復旧は進んだか。


一度は訪ねて何かしら愛着のある地の人々が被災した。足でまといにならないように被災地の様子をこの目で見ておきたい。慶子さんに会えるのが楽しみだ。


 

 


こけしの贈り物

2012-05-15 07:05:53 | 友人たち

5月14日(月)☼

 娘の職場のお二人と新河岸の「曼陀羅」で昼食会をしました。

丸木美術館に予告もなく自転車を漕いでは現れる僕をいつでも笑顔で迎えてくれる人たちです。ご自分の弁当を分け与えてくれて楽しい昼食会になったこともあります。一度は僕の行きつけの曼荼羅に案内したかったのです。

 

 店主の井上さんがしばらく前に美術館を見学されていたのでもうみんな顔見知りです。事務局長の中野さんは店主と年頃も同じです。ジャズ喫茶が懐かしそうです。亡くなられたお連れ合いが熱烈なジャズファンだったとかでなおさらのようです。

 曼荼羅は何から何まで井上さんの手作りです。テーブルや椅子は言うまでもなく、あれこれの調度品から料理の野菜まで‥。お二人が井上さんの世界を気に入ってくれてぼくも嬉しい。

 実花子さんは今度お連れ合いを連れてきたいと言ってくれました。山仕事に忙しい日々ですがサーフィンが趣味の人です。サーファーの大先輩になる主人との会話が弾むことでしょう。

 帰りに中野さんからこけしをプレゼントされてびっくり。故郷・鳴子温泉の名産です。娘を嫁にやって寂しくなる父親を思ってくれたのでしょう。

 昼食会に招いて日頃の付き合いに感謝しようと思ったのだが、思わぬ展開になってしまった。ありがたいことである。

   

  遊佐妙子さんの作品。存在感のある大きなこけしである。部屋に飾った。