川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「寅次郎頑張れ」平戸

2013-07-30 09:47:39 | 映画  音楽 美術など

7月29日(月)雨

 夜、珍しく「寅さん」を見た。1977年12月公開の「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」。

20-post.jpg (76283 バイト)

若い日の大竹しのぶの初々しさと長崎県平戸の風景が懐かしかった。

http://blowinthewind.net/torasan/20.htm

僕らが旧友の案内で平戸を訪ねたのはほんの2年前のことだが長い月日がたってしまったような気がする。

平戸城からの眺めがすばらしかったなあ。

IMG_3178

 ●「川越だより」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/a448ac2c2c4a8e4a03e4a7a8f8240dad


we are the world ブルース・スプリングスティーン

2013-07-24 17:27:58 | 映画  音楽 美術など

7月24日(水)雨

気候の急変に体がついて行きません。昼前からコタツで脚を暖めながら数時間を過ごしました。iphonで歌を聴きました。どういうわけか

 WE ARE THE WORLD.

(歌詞の日本語訳)

今こそあの声に耳を傾けるんだ 今こそ世界が一丸となる時だ 人々が死んでゆく いのちのために手を貸す時が来たんだ それはあらゆる物の中で最大の贈り物 これ以上知らん振りを続ける訳にはいかない 誰かが、どこかで変化を起こさなければ 僕らはすべて神のもと、大きな家族の一員なんだ 僕らは仲間、僕らは神の子供たち 明るい明日を作るのは僕らの仕事 さあ今こそ始めよう 選ぶのは君だ それはみずからの命を救うことなんだ 本当さ、住みよい世界を作るのさ 君と僕で・・・ 心が届けば支えになってあげられる そうすれば彼らも力強さ自由を手に入れるだろう 神が石をパンに変えて示してくれたように 僕らもみんなで救いの手をさしのべるべきなんだ 見放されてしまったら 何の希望もなくなるものさ 負けたりしないと信ずることが大切なんだ 変化は必ず起こると確信しよう 僕らがひとつになって立ちあがればいいんだ

(1985年全米の歌手が立ち上がってアフリカの飢餓救済のために作った曲)

http://www.youtube.com/watch?v=ezzxDk_vvXA

僕はこの歌を10数年間授業で紹介してきました。15歳の生徒たちの中には「鳥肌が立った」と感想を漏らす人もいるほど強い影響を与えた歌です。「倫理」のテーマソングの一つになりました。

 今日の鑑賞でブルース・スプリングスティーンという人を覚えました。

昨日facebookで娘婿の幸雄さんが15歳のときにこの人の歌に出会って深い影響を受けたと読んだばかりだったのです。「ブルース・スプリングスティーン」。聞いた覚えはあるがどういうひと?

we are the world を何十回も鑑賞していても一人ひとりの歌手のことはほとんど知らないのです。

ああ、この人だったのか。熱唱が印象深い人だったのです。なんだか急に身近な人に思えてくるのですから不思議です。

we are the world ブルース・スプリングスティーン http://www.youtube.com/watch?v=SqneldgGIPw

we are the world は勉強したからわかりますが、英語の歌は聴いても意味がわかりません。だから学校で習ったいくつかの歌を除いて歌える歌はありません。

幸雄さんは15のときに聞いた歌の歌詞をきちんと覚えているといいます。

すごいなあと思います。どんな歌を聴いたのでしょう。

川越だより参考記事●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/6f788f86eb8edeb10307bc57788d8a71

 


スコットランド民謡?アイルランド民謡?

2013-05-26 06:03:39 | 映画  音楽 美術など

5月25日(土)晴

夢の中で三つの唄の区別がつかず悩んでいるうちに目覚めました。いずれも中高時代に音楽の時間に習ったか、ラジオで聞いたかして覚えたイギリスやアイルランドの唄です。

 原曲は同じでも日本語の歌詞がいくつもあって混乱を助長しているようです。僕が習った歌詞を紹介します。どれも青春期に心に届いた唄です。

 明治期にはこのような外国の唄がたくさん学校で教えられたようです。「大東亜戦争」敗北後の学校でもよみがえったのです。一番目と二番目は子どもを戦場に送った母の思いが共通している、のか。

<一番目の唄>

 美しき

     日本語詞:野口耽。介

1 美しき わが子やいずこ
  美しき いとしきわが子
  しるべなき身 はるかの国へ
  はるばると 旅たちにけり

2 美しき わが子やいずこ
  美しき いとしきわが子
  夢に見るは 幼き頃の
  あどけなく ほおえむ姿

3 美しき わが子やいずこ
  美しき いとしきわが子
  つつがなきや のぞみにみちて
  ゆく道の 幸をば願(ねご)

曲は●http://www.youtube.com/watch?v=ffZgMNic6DY

元は「スコットランドの釣鐘草」でスコットランド(イギリス)の民謡なのですね。

<二番目の唄>

題?     津川主一

1 わが子よ いとしの汝(なれ)
  父君の形見とし
  こころして愛(いつく)しみつ
  きょうまで育て上げぬ
  古き家を巣立ちして
  今はた汝はいずこ  よわき母の影さえも
  雄々しき汝には見えず

2 はてしもなきかの路の
  あなたに汝はゆきぬ
  むなしき我が家見れば
  亡き父君おもわる
  足もとの草むらより
  立つはさえずる雲雀(ひばり)
  ああ われも強く立ちて
  我が家の栄誉(ほまれ)を守らん

曲は●http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/03/londonderry_air_2799.html

元の唄は「ロンドンデリーの唄」でいうまでもなくアイルランド民謡です。でもこれは後に知ったことで習ったときは?。

いま、ロンドンデリーを含む北アイルランドはイギリス領のままです。この曲が「ダニーボーイ」として人口に膾炙したこともありました。次の音源は貴重です。時間が許す方は耳を貸してください。

ダニーボーイhttp://www.magictrain.biz/wp/?p=3561

<三番目の唄>

妹に

   深尾須磨子訳詩

 赤い紅い丸い林檎
 そして瞳に光る星
 年は五つ歌の好きな 
 天の使いのわが妹

 いつもいつも 歌う小鳥
 そしてげんきに 飛ぶ小鳥
 年は五つ 花の好きな
 天の使いの わが妹

曲は●http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_d16f.html

元の唄は「アンニーローリー」でスコットランド民謡。堀内敬三の訳詩のほうが一般的なようですが僕はこちらを習いました。「アンニーローリー」といわれてもピンときません。


主人は冷い土の下に

2013-03-05 05:28:20 | 映画  音楽 美術など

3月4日(月)曇り

 ちょっと疲れが出たのかこのところ脚が冷えます。妻が湯たんぽを入れてくれたベッドで一日休みました。

FM放送で「春風」という曲が流れるのを聞きました。中学の音楽の時間に習ったときは違う歌詞でした。調べてみると「主人は冷き土の下に」、フォスターの作品です。

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/arujiwa-t.html

僕が習った歌詞はこれともまったく違います。「おじいさんの墓を尋ねていけば」「風さえ侘びし」などのかすかな記憶。なかなかきちんと思い出せません。このことはずうっと心に引っかかっています。(どなたか記憶がありますか?)

次がフォスターの作詞作曲した歌だといいます。英語の歌詞と訳詩です。初めて知る元唄です。

 ●http://14.studio-web.net/~yamahisa/syujin_tutinosita.html

「スワニー河」「なつかしのケンタッキーの我が家」「オールド・ブラック・ジョー」などフォスターの作品をたくさん習いました。その割には作品理解にかけていることに気づきました。

夜、愛さんの30歳を祝福しました。15の春に出会って以来15年がたちました。節目の年を迎えて期するところがあるようです。

同級の多美子さんは第二子出産。おめでとう。

うれしい報せが続きます。春の訪れかな。今日はこれから南伊豆に出かけます。(5日朝)

 

 

 


「おしらさま」について考える

2013-02-10 07:43:19 | 映画  音楽 美術など

2月10日(日)晴

今日の午後、妻が「川越あそびの学校」で「おしらさま」について友人たちに話をするそうです。面白いので紹介させてもらいます


 

「おしらさま」について考える  

                   鈴木倫子

わたしは「おしらさま」の実物は見たことがありません。写真などで見ているだけです。それもほとんどが書物のモノクロ図版となっているものなので、実際の大きさや色などもわかりません。一体でもいいから、一度、実物を見たいものだと思ってきました。

(おしらさま 陸前高田市)

おしらさまとは何なのか。民間に古くから伝わる神様のひとつだということは、確かなことです。むかし、民俗学者の柳田国男さんが、 『遠野物語』という本の中でおしらさまにまつわる話を書きました。それは、大略こんな話です。

 昔むかし、ある家で飼っている馬とその家の娘が心を通わせ、とうとう恋仲になった。それを知った父親がとんでもないことだと怒って、馬を殺してしまった。夜になって愛馬が殺され桑の木に吊るされているのを知った娘は、馬の頭を抱きかかえて嘆き悲しんだ。その姿に逆上した父親が馬の首を切り落とすと、首は娘に抱かれたまま天空に飛び上がり、山の彼方に消えてしまった。そしておしらさまになった。おしらさまは桑の木で作られた。

娘と馬の悲しいい恋物語は、丸木俊先生の挿絵で絵本にもなっています。それでわたしは、おしらさまのことを蚕の守り神様だと思ってきました。あそびの学校の斎藤さんから「おしらさまは東北地方だけかと思っていたけど、日高市(埼玉県)でも、最近までおしら講ということをやっていた家があるんだって」と聞いたときも、「おしらさまは蚕の神様だというから、桑畑がたくさんあった日高市でも伝えられていたのかもしれないね」と話したものです。

それがまったくの間違いだということを、つい最近知りました。柳田国男さんは後になって「おしらさま=蚕の神様」説を捨てているんだそうです。その大きな理由は、おしらさま信仰が一番盛んな青森県では桑の木がなく、養蚕も行われていないからだそうです。だからおしらさまを作る木も桑ではなく、桂とか、ほかの木で作るんだそうです。また、これはわたし自身が最近聞いた岩手県の西和賀というところにある村の話ですが、むかし養蚕は行われていたけれども、おしら講はなかったし、おしらさまを祀ってあるのを見たこともないというのです。

それなら一体、おしらさまというのは何なのでしょうか。そもそも木の棒の上の方を削って顔を描き何枚も布を着せかけた神様をなんで「おしらさま」と呼んでいるんでしょう。柳田さんも、もう一人の有名な折口信夫さんも、おしらさまが人形の原型であるというところまではつきつめたけれど、呼称がどういうところに由来するものなのかということについては、解き明かしきれなかったそうです。

哲学者、宗教学者であり、日本学研究者でもある梅原猛さんの『日本の深層』という本を読んでいたら、おしらさまのことが書いてありました。それは「目からうろこが落ちる」ようなことでした。梅原さんが書いていることは、大略次のようなことです。

 アイヌの人たちがお祀りしている神様のひとつに「シランパカムイ」という神様がある。この神様は人間に一番近いところにいる神様なので、ほかのいろいろな神様への願いも聞いて、その神様のところに届けてくれる。「シランパ」というのはシリ(地)アン(在る)パ(複数を表す)つまり「地に在るものたち」という意味で、植物も動物もすべて「地に在るものたち=シランパ」なんだけれども、「シランパカムイ」と言うと、それらを代表するものとして「木の神様」ということになる。

アイヌにとっては動物も植物も、この地上に在るすべてが神様です。神様は、神様の国にいるときは人間と同じ姿をして、人間と同じ暮らしをしている。そうして、人間=アイヌの世界を訪れるときには熊や猪や楡の木や、それぞれの姿で現れる。人間=アイヌはそれを神様からの贈り物としていただく。だから頂いたあとは感謝をこめてたくさんのミアンゲ(おみやげ)を持たせ、また来てくださいとお願いしながら神様の国に送り返す。それがアイヌの祭りです。

アイヌの祭りで使うものに「イナウ」がある。イナウはシランパカムイを形にしたものです。イナウは白木の表面を裾のほうから削ってまるでテントスタイルの服を着せたように作る。そして上の方には顔を描く。だからイナウにはイナウパロ(口)、イナウシク(目)、イナウサラ(耳)がついているし、イナウネトバ(体)イナウケマ(足)もある。つまり、イナウは木でありながら同時に人間の形をしているわけです。

 (イナウ)

そこまで読んでおしらさまの写真を見たら、ほんとうに姿がそっくりなんです。しかも、青森県で今もお祀りしているおしらさまには、顔だけでなく手足がついたものもあるといいます。おしらさまはアイヌのシランパカムイだったと、梅原さんは説いています。

ところで、イナウというと、わたしには昔から気になっていたことがあります。それは、埼玉県の秩父や寄居、毛呂山、小川町などで山の仕事をする人たちがお祀りしていた「ケズリカケ」あるいは「木花」と呼ばれるもののことです。その形がアイヌのイナウにあまりにもよく似ているものですから、何かつながりがあるのではないだろうかと、ずうっと疑問に思っていました。

山の仕事というのは、日本列島に稲作農業が持ち込まれてくる以前からあったものです。それは特別な技術や知識、知恵、豊富な経験がなければできない専門職ですから、それを親から子へと伝えながら生きてきた人びと「山の民」の暮らしがあったはずです。そしてそれは事実、つい最近(昭和30年代~40年代)まで日本列島の各地で営まれていました。

弥生人たちによって稲作農業がもたらされるまで、この日本列島に住んでいたのは縄文人です。日本で発掘された縄文土器で一番古いものは、なんと1万6千年も昔のものだそうです。そんな大昔から日本列島に住んでいた人々の暮らしを伝えるものがあるとしたら、それは「山の民」の暮らしの中にあるのかもしれません。「ケズリカケ」はそうしたものの一つではないだろうかと、わたしはいま、考えるようになりました。

 (けずりかけ 国学院大学神道資料館)

日本列島に住んでいた縄文人とアイヌの人たちは、先祖が同じです。縄文人の考え方や暮らし方をいちばん最近まで大事に守り続けてきたのがアイヌの人たちだと考えられています。つまり、縄文人が祀っていた「木の神様」を、北海道でアイヌの人たちは「シランパカムイ」「イナウ」として守り伝え続けてきた。いっぽう青森県以南の縄文人は、弥生人との混血、融合(時には敵対)を重ねながら「ケズリカケ」や「おしらさま」という形で伝えてきた。そう考えていいのではないかと思います。

おしらさまは、アイヌのシランパカムイのように山の仕事や焼畑をして暮らしてきた人びとの身近にいて、ときには自分を遊ばせてくれるイタコのようなひとたちの口を借りて「この春には何を作付けろ」「夏の暑い盛りに息子を水に捕られないように気をつけろ」といったふうに教えてくれる神様であったわけです。日高市でおしら講が続けられてきたのも、日高市というところが元来山仕事をする人たちの生活圏であったからではないかと思います。


今日は「ひなたなほこ」ワンマンライブ

2013-01-05 07:46:54 | 映画  音楽 美術など

1月5日(土)晴

 寒い朝です。

昨夕、隣の昭四郎さんが「まいたけ」を届けてくれました。故郷・岩手県西和賀の親戚から送ってきてくれたばかりです。色も香りもすばらしい(と、妻は言います)。奥羽山地の贈り物です。

今日はこれから珍しく音楽会に行きます。「ひなたなほこ」は文京高校OGです。縁あって柏市で活躍しています。お母さんも僕の元生徒です。どんな活躍をしているのかちょっと遠いけれど見に行くことにしました。良子さん、菜穂子さんが同行してくれるというので楽しみが倍増です。

 柏に近い、池商や文京のOBOG・友人たちが気づいたらどうぞお出かけください。


ひなたなほこ手つなぎワンマンライブ「友だちラブソング」

日付・2013年1月5日(土)
場所・千葉県柏市アミュゼクリスタルホール
(〒277-0005 千葉県柏市柏6-2-22)
最寄り駅・常磐線 柏駅 東口より 徒歩 7分 アクセスURL http://goo.gl/maps/cm5GS
後援:千葉県柏市・千葉県柏市教育委員会
昼の部・OPEN12:00 START13:00(小学生から高校生まで無料)同伴保護者無料

夜の部.前売り2800円/当日2900円
OPEN16:00 START17:00

出演:ひなたなほこ
サポートメンバー:伊藤辰哉(pf)/notch(perc)/網岡良亮(Bass)/笠間洋平(Guitar)/岩田慶子(Violin)/原 永里子(Cello)
ゲスト:Nozom(Psalm)/是方貴美子/鹿島裕介/岩切洋輔
~あらすじ~
海賊船ひなた号の乗組員は、みんな陽気!
楽しいピアノ、パーカッション、ギター、そしてクラッシックのように流れるメロディまで…。
船長ひなたの歌は今日も海に響きます。
ある日、大きな波がひなた号を襲い、船はたちまち波にのまれました。
そして、たどり着いた場所は…。

ひなたと、野球少年おさむが織り成す、友情の物語。
ひなたなほこだからこそ、できるワンマンライブ。
代表曲、「柏シワ」だけじゃない!
ひなたなほこの歌詞の世界を、ストーリーに乗せて是非、お楽しみください!


当日券だします。
「ひななっちゃん」●http://ameblo.jp/hinamagic/


『喜びも悲しみも幾歳月』  塩屋崎灯台

2012-09-02 09:12:57 | 映画  音楽 美術など

9月2日(日)晴れ

昨夜雨が降ったので涼しくてさわやかな朝です。

きいちご移動教室が「いわき」と決まったので近く下見を兼ねてこのあたりを訪ねてみようと思っています。地図を見ると波立寺のあたりに<06・4・4>とメモがあります。最初の抗がん剤治療終了後、無性に海が見たくなってつれていってもらったのです。6年ぶりです。

移動教室は11月17日です。例によってそれまでこの地域にかかわる記事を書きます。行ってみたいなあと思う方が出てくるといいのですが。

ファイル:Shioya kitagawa.jpg

(塩屋崎灯台からの眺め・震災以前)

塩屋崎灯台。「喜びも悲しみも幾歳月」という映画やその主題歌とともに思い出す灯台です。

若山彰「喜びも悲しみも幾歳月」●http://www.youtube.com/watch?v=xJjWPfmoF78&feature=related

 

「喜びも悲しみも幾歳月」       

「喜びも悲しみも幾歳月」
  作詞・作曲:木下忠司

1)俺ら岬の灯台守は
 妻と二人で 沖行く船の
 無事を祈って 灯をかざす
          灯をかざす

2)冬が来たぞと 海鳥啼けば
 北は雪国 吹雪の夜の
 沖に霧笛が 呼びかける
         呼びかける

3)離れ小島に 南の風が
 吹けば春来る 花の香便り
 遠い故里 思い出す
        思い出す

4)星を数えて 波の音きいて
 共に過ごした 幾歳月の
 よろこび 悲しみ 目に浮かぶ
            目に浮かぶ

 

僕がこの映画を見たのは高一のときですが「おいら岬」はいまや人生の応援歌のようなものです。移動教室でも妻と二人で声を張り上げることがあります。そんなときには自分もまた燈台守になっています。「沖行く船」はもちろん出会うことができた生徒たち。私たちは「二人で一人前」。無事を祈る気持ちだけは燈台守と一緒です。

映画に塩屋崎が出てくるわけではありません。この灯台の台長だった方の奥さんの手記が映画化されたという縁で記念碑がここに建っているのです。

僕は室戸岬で育ったので灯台とは縁があります。台長の息子だった子安麟吉くんとは仲良しだったので時々遊びに行っては灯台に登りました。子安くんのお父さんの前任地は伊豆大島、最終任地は観音崎。大学で再び一緒になって観音崎灯台を訪ねたのが懐かしく思い出されます。父上が案内してくれました。

僕はやがて伊豆大島の高校に就職します。岡田の乳ヶ崎灯台にも行きました。この頃から子安くんの消息が途絶えてしまいました。近年、室戸岬小学校の同窓会を開くにあたって八方手を尽くしてみましたがわかりません。

昨年の3・11で塩屋崎灯台は点灯できなくなったと聞きました。近くの集落は大打撃を受けたに違いありません。一年半がたって再生への歩みが着実なものとなっているのでしょうか。

ちなみに現在では塩屋崎といえばむしろ「美空ひばり」です。碑の前に立つと「みだれ髪」がかかります。ひばり音楽歌碑

みだれ髪●http://www.youtube.com/watch?v=9g0TT96DrPc

参考資料●http://srkanemaru.at.webry.info/200901/article_16.html

 

   

 


「月の沙漠」  みんなで歌おう会

2012-06-24 04:39:29 | 映画  音楽 美術など

6月23日(土)☼

 自転車を漕いで小畔川をさかのぼり、10時過ぎに伊勢原公民館につきました。2階の音楽室に行くと「一周年記念 13回みんなで歌おう会」はすでに始まっていて、顔なじみの大橋さんの挨拶が終わるところでした。続いていつかお会いしたことのある島崎?さんが指名されて超満員の参加者のただ中で感謝の言葉を述べました。原発事故のため南相馬市小高から川越に疎開されているおばあちゃんです。

 11時半過ぎまで次々と歌いました。同世代、またはやや上の人たちばかりです。隣近所で一生懸命に声を出す女性の姿に小学校の同級生たちを重ね合わせていました。みんな元気かな。

 たくさんの歌の中で僕が思い切り歌ったのはどういうわけか「月の沙漠」。歌詞を見なくても歌うことができます。小学生の頃、焼き付けられた記憶が鮮やかに蘇ってきます。

 御宿海岸の銅像 

「月の沙漠」
作詞者 加藤 まさお   作曲者 佐々木すぐる

 

1 月の沙漠を はるばると 旅の駱駝(らくだ)が 行(ゆ)きました

  金と銀との 鞍(くら)置(お)いて 二つならんで 行きました

 

2 金の鞍には 銀の甕(かめ) 銀の鞍には 金の甕

  二つの甕は それぞれに 紐(ひも)で結(むす)んで ありました

 

3 先の鞍には 王子(おうじ)さま 後の鞍には お姫(ひめ)さま

  乗った二人(ふたり)は おそろいの 白い上着(うわぎ)を 着(き)てました

 

4 広(ひろ)い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう

  朧(おぼろ)にけぶる 月の夜(よ)を 対(つい)の駱駝は とぼとぼと

  

  砂丘(さきゅう)を 越(こ)えて 行きました

  黙(だま)って 越えて 行きました

 

 歌っているうちに涙が滲んでくるようです。こんな感じは初めてかもしれません。なぜだろう?

帰ってからパソコンで調べてみるとこの歌について考察している方がいました。

 「月の沙漠に秘められたものは?」●http://blog.zaq.ne.jp/demian/article/13/

いろいろな歌手が歌っていますが僕には小林旭の歌が似合っています。

 「月の沙漠」小林旭●http://www.youtube.com/watch?v=fGvNe0p3Qk0&feature=fvwrel

散会時に主催者がばらの花を持たせてくれました。どなたかが一周年の祝に会場に飾ってくれたものです。

そのバラの飾られた部屋で駄文を綴りました。「歌おう会」の世話をしてくださった方々に感謝します。

次回は7月28日。10時。同じ場所。


一本の鉛筆

2012-04-22 08:03:36 | 映画  音楽 美術など

4月21日(土)☁

 はだ寒い日が続き一日中ベッドに入っています。窓ガラスのすぐそばに咲き誇るこりんごの花が見えます。木苺も白い花をたくさんつけています。

 朝一番に高知のコニヤンが入院・手術と聞きました。自然の神さんが暇をくれたのでしょう。ゆっくり休んで欲しいものです。僕の大切な後輩ですが不登校を体験した人々にとってはこれ以上の人はいない頼りになるオンチャンです。

 夕方から食事時を挟んで寝る時までパソコンで「美空ひばり」ショーを見ました。 (YOUTUBEというのはありがたいですね。)

生前からひばりのファンであったわけではありません。年をとってから、凄い歌手だったなあとひばりを愛する人たちの列に加わっています。 

「一本の鉛筆」という歌を初めて聞きました。74年、広島で歌ったとのことです。

教育大学新聞会の先輩が伊豆高原で同名のペンションを経営しています。先輩はひばりのファンだったのでしょう。

 

「一本の鉛筆」美空ひばり●http://www.youtube.com/watch?v=2iennv9YhlA

 

  作詞 松山善三
 作曲 佐藤 勝

あなたに 聞いてもらいたい あなたに 読んでもらいたい
あなたに 歌ってもらいたい あなたに 信じてもらいたい

一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く


あなたに 愛をおくりたい あなたに 夢をおくりたい
あなたに 春をおくりたい あなたに 世界をおくりたい

一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
  一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く


一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く


新おけら歌集(04/01/15) / 楽譜:ビーさん(2004/09)

■1974年、第1回広島平和音楽祭で実行委員長を務めた古賀政男のプロデュースで美空ひばりのために書き下ろされた曲。
■♪~一本の鉛筆があれば…。第1回広島平和音楽祭(1974年8/9)で、美空ひばりがうたった歌。自身の好きな曲ベスト10にこの歌を挙げている。
 美空ひばりは6歳の時、横須賀の海兵隊に行く父親の壮行会で「九投の母」を歌った。その後、母子5人は横浜大空襲から辛うじて命長らえる等を体験した。
 戦後、歌手、俳優として大スターの道を歩んだ美空ひばりだが、平和音楽祭の前年、弟の不祥事、暴力団との関係等のためNHK紅白歌合戦に落選。マスコミのバッシングに晒されていた。音楽祭では自分の戦争体験を伝え、「一本の鉛筆」を歌う前に「茨の道が続こうと平和のために我歌う」と語った。大腿骨骨頭壊死と肝臓病で入院の翌88年、第15回同音楽祭でも楽屋で点滴を打ちながらこの歌を演奏した(翌年、死去)。
うた新「歌の小箱」160(**/**/**)

 

 


丸木俊さん 怒りと祈り

2012-04-20 08:27:15 | 映画  音楽 美術など

丸木美術館の理事でもあった吉武輝子さんが亡くなられた。学芸員の岡村さんのブログで追悼記事を読んだ。

その中で吉武さんがある集会でほら貝を吹く俊さんを追想する文章が紹介されている。丸木位里と丸木俊は水と油に例えられてきたが、俊さんが二人の関係についてしゃべっているところが「面白い」。

 「みなさん、位里と私のことをおしどり夫婦だとおっしゃる。でも本当は仇敵同士。原爆の図を二人で三十年近く描いてきたけれど、彼は日本画、私は洋画。手法の違う二人が共同制作をするのだから当然ぶつかり合うものがある。絵のほうは歳月を重ねるうちに、日本画、洋画を融合させた新分野を作り出していくことができた。
 でも、位里の女性観は終始一貫変わらなかった。位里は絵かきであり続けたが、私は家事や生活費稼ぎに時間を取られすぎた。私が絵に打ち込みすぎると、位里はぐんと遠ざかる。そして必ず女の影がちらつく。若くして夫に死別した三岸節子さんを、うらやましいと思ったことが何回かあった」
 七歳先輩の洋画家の先駆者三岸節子の伝記を書きたいと私が言ったとき、ふと真情を吐露した丸木さんの言葉が鮮明に蘇ってきた。

 旧姓赤松俊子が十二歳年上の丸木位里と結婚したのは四一年のこと。位里は三度目の結婚だった。俊は北海道生まれ、位里は広島生まれ。原爆投下直後に位里の両親の安否を求めて広島を訪れ、悲惨な光景を目の当たりにしたのが、夫婦で十五部の大作「原爆の図」を描き続けるきっかけだった。
 人の命を無惨に奪う戦争への怒りと、二度と同じ過ちをくり返すことがないようにとの祈りとを、俊は塗り込めていったのだろう。そして同時に、戦前と変わらぬ夫位里の女性観に対する怒りとよきかかわりへの祈りをも。祈りはかなわなかった。それを怒り、また祈る。その切々たる思いがほら貝の音となって響き渡ったのだろう。今も耳を澄ますとあの日のほら貝の音が聞こえてくる。
 だがこの水と油のような男女が夫婦にならなかったら、「原爆の図」は誕生することはなかったのである。 

出典●http://fine.ap.teacup.com/applet/maruki-g/msgcate3/archive 

俊さんがふくほら貝の音を僕も聞いたことがあるがこんな思いが込められていたとは‥。

丸木美術館では「丸木俊 人間を描く」展が開催中である。30日にはぼくのガン友夫妻が見に来てくれるという。案内がてらもう一度鑑賞してみようと思う。

 

丸木俊さん 足跡たどる 原爆の図美術館 作品100点超並ぶ(2012年4月1日東京新聞)

モスクワ、南洋群島、そして広島。人間を描き続けた丸木俊さんの画業を、ゆかりの人の作品とともにたどる展示=東松山市で

写真

 夫と共作した「原爆の図」で知られる洋画家・故丸木俊さんの創作活動を百点以上の作品で振り返る「生誕100年 丸木俊展」が原爆の図丸木美術館で開かれている。夫の日本画家・故丸木位里さんの作品のほか、俊さんに師事した絵本作家いわさきちひろさんの作品十点も展示して丸木夫妻から受けた影響も探る。五月十九日まで。 (中里宏)

 俊さんは一九一二年、北海道生まれ。女子美術専門学校(現女子美術大)を卒業後、外交官の子どもの家庭教師としてモスクワに滞在したり、日本統治下にあった南洋群島を回ったりしながら創作活動を続けた。四一年に位里さんと結婚。四五年八月、原爆投下直後の広島市に入り、後に共同制作した「原爆の図」で世界に知られることになった。

 同美術館の岡村幸宣学芸員は俊さんの画業を「人間の本質を見つめ、鋭い観察眼と卓抜した技量で人間を描き続けた」という。

 ゴーギャンの絵を見て感動したことがきっかけで訪れた南洋群島では、色使いにゴーギャンの影響を感じさせる作品も残した。労働争議を題材にした「広島製鋼事件によせて」(四九年)や、六〇年安保闘争で亡くなった樺美智子さんにささげた「犠牲者」(六一年)など社会的な主題を持つ作品も多い。

 四六年から十七年にわたって丸木夫妻と交流した、いわさきちひろさんの作品には一室が設けられ、ベトナム戦争下の子どもたちを描いた絵本「戦火のなかの子どもたち」や広島で被爆した子どもの手記に絵を付けた「わたしがちいさかったときに」などから十点の復元作品が展示されている。

 岡村さんは「いわさきちひろの初期のデッサンは丸木俊によく似ている。画家としての基礎技術を俊から学び、『にじみ』や『ぼかし』など水墨画の技法は位里の影響を受けた」と話している。

 同美術館は月曜休館(四月二十四日~五月六日は無休)。問い合わせは同美術館=電0493(22)3266=へ。

 
 

「人が人を想う」凄さ 『寅次郎相合い傘』

2012-02-25 18:25:02 | 映画  音楽 美術など

2月25日(土)☂☁

入院5日目。昨日とったX線撮影では右肺の癌は着実に小さくなっていると医師から伝えられた。タルセバ服用開始からわずか3日である。副作用らしきものは血液検査にも現れていない。このまま行ってくれればいいが‥。

病院暮らしは暇で寂しいので連日「寅さん劇場」を開催している。

今日はシリーズ第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘 』。1975年8月封切り。マドンナは浅丘ルリ子、ドサ回りの歌手・リリー役。見るのは2度目か、3度目か?それでもたいていのことは忘れているので飽きるということはない。

  

心に染みわたる名作だ。

印象深い場面に事欠かないが一つ挙げるとすれば寅さんが一度はリリーを歌舞伎座か国際劇場の舞台に立たせてやりたいとその夢を熱弁する場面だ。

寅さんシリーズの優れたウォッチャーの方の批評に共感する。心から人を想うことができる、人生結局はそれが全てだ。

 


見事な抑揚。口跡の良さ。そしてそれらを遥かに凌駕する渥美さんのその姿。有り方。
何事も大切なのは姿なのだろう。姿はその人そのものをあらわす。

渥美さんが何に感動し、何を憎んできたか。何をしようとし、何をしようとしなかったか。
彼の生きざまが全てなのだと、今更ながらに人間関係の葛藤をも含めたその傷だらけの
壮絶な役者人生を思い、戦慄さえ覚えた。
あれだけの姿。ただで済むわけはないのだ。


今から、何十年後になるだろうか…。恐ろしいほど地味で控えめなこのシリーズの、
真の価値が世界中の人たちによって認められ、そしてなによりも渇望される時が来るかもしれない。

そして、その時、渥美さんの一世一代のこのアリアを聴き、
人々は、人が人を想う柔らかな気持ちをもう一度知る。
また一から歩み始めることはできるのだと。

それは、映画の勝利。物語の勝利。
そんな日がほんとうに来るのではないかと、このアリアを見ながら思っていた。

人が人を想う。 ただほんとうにそれだけ。
それだけのことがこの世界の全てなのだろう。
他には何ひとつ大事なものはない。

そんなことに気づかせてくれるアリアだった。
かつて、このアリアによって私の人生は変わった。
人の人生を丸ごと変えてしまう力をこのアリアは持っていた。

あとにもさきにも、東にも西にも、こんな切ないアリアは
世界のどこにもない。


その場面とは‥

 


⑨【寅のリリーへの想い。切なく美しいアリア】





寅「あ~あ……。オレにふんだんに銭があったらなあ…

さくら「お金があったら…どうするの?

寅「リリーの夢をかなえてやるのよ。たとえば、どっか一流劇場

さくら「うん

寅「な!  歌舞伎座とか、 国際劇場とか、そんなとこを一日中借り切ってよ、

             


寅「あいつに…、好きなだけ歌を歌わしてやりてえのよ

さくら「そんなにできたら、リリーさん喜ぶだろうね!

寅「んんん…!

さくら、茶の間に座る。

寅「ベルが鳴る。 場内がスー…ッと暗くなるな」 
                      
  皆様、たいへん長らくをば、お待たせをばいたしました
  ただ今より、歌姫、リリー松岡ショウの開幕ではあります!

  静かに緞帳が上がるよ… 」

さくら、嬉しそうに笑う。

寅、立ちあがり

寅「スポットライトがパーッ!と当たってね

               

寅「そこへまっちろけなドレスを着たリリーがスッ・・と立ってる

おばちゃんも上がり口に腰掛ける。

寅「ありゃあ、いい女だよォ~、え~。ありゃそれでなくたってほら容子がいいしさ

おばちゃん「うん

寅「目だってパチーッとしてるから、派手るんですよ。ねぇ!

おばちゃんたち頷きながら「うんうん、フフ…

寅「客席はザワザワザワザワザワザワザワザワってしてさ
  綺麗ねえ…。 いい女だなあ…

さくら、おいちゃんたちと「フフフ…」と笑いあっている。

寅「あ!リリー! 待ってました! パン!日本一!

                

寅「やがてリリーの歌がはじまる…


寅「ひ~とぉ~りぃ、さかぁばでぇ~~~……、

  ~む~け~は~~~…

                                           
                                  

寅「ねぇ…。

  客席はシ…ンと水を打ったようだよみんな聴き入ってるからなあ……

  お客は泣いてますよ~…

メインテーマがゆっくり入る。 ー クラリネット ー 

寅「リリーの歌は悲しいもんねぇ……

                                       
                  

寅「……

寅「やがて歌が終わる…。
  花束!  テープ!   紙吹雪!

  ワァ―ッ!と割れるような拍手喝采だよ

              


寅「あいつはきっと泣くな…。

 あの大きな目に、涙が
いっぱい溜まってよ…


                

寅「……

寅、堪えきれず、後ろを向き…そして座る。

寅「いくら気の強いあいつだって、きっと泣くよ…




出典●http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi16.htm#310


星落秋風五丈原

2012-02-19 06:57:11 | 映画  音楽 美術など

2月18日(土)☼

日差しはあるが冷蔵庫の中にいるような寒さです。それでも何日ぶりかで外に出てベーグルを買ってきました。昼前には「ふるさとの湯」に連れて行ってもらいゆっくり温まりました。

どういうわけか高校生の時に習った土井晩翠の詩が声になって出てきました。

家に帰って黒い箱で調べると全体はこんな感じです。声に出して何回も読んでみました。

高校生の頃、意味は良くはわからなくてもこの長詩を朗読するのは好きだったのです。よかったらみなさんも声に出して読んでみてください 

星落秋風五丈原

 

              土井 晩翠

一、
  祁山(きざん)悲愁の風更(た)けて
  陣雲暗し五丈原(ごじょうげん)
 
 零露(れいろ)の文(あや)は繁くして
  草枯れ馬は肥ゆれども
  蜀軍(しょくぐん)の旗光無く
  鼓角(こかく)の音も今しづか
  丞相(じょうしょう)病あつかりき
  丞相病あつかりき

 

二、
  夢寐(むび)に忘れぬ君王の
  いまはのみこと畏(かし)こみて
  を焦(こが)し身をつくす
  暴露(ぼうろ)のつとめ幾とせか
  今落葉の雨の音
  大樹ひとたび倒れなば
  漢室の運 はたいかに
  丞相 病あつかりき

 

三、
  四海の波瀾収まらで
  民は苦しみ 天は泣き
  いつかは見なん 太平の
  のどけき 春の夢
  群雄立てり ことごとく
  中原(ちゅうげん)鹿を争ふも
  たれか王者の師を学ぶ
  丞相 病あつかりき

 

四、
  嗚呼(ああ)南陽の旧草廬(きゅうそうろ)
  二十余年のいにしへの
  夢はたいかに 安かりし
  光を包み香をかくし
  隴畝(ろうほ)に民(たみ)と交れば
  王佐(おうさ)の才に富める身も
  ただ一曲の梁歩吟(りょうほぎん)
  丞相 病あつかりき

 

五、
  成否(せいひ)を誰れかあげつらふ
  一死尽くしし身の誠
  仰げば銀河影冴(さ)えて
  無数の星斗 光濃し
  照すやいなや英雄の
  孤忠の胸ひとつ
  其壮烈にじては
  鬼神も哭(な)かむ 秋の風

 

六、
  嗚呼(ああ)五丈原秋の夜半
  あらしは叫び 露は泣き
  銀漢清く星高く
  神秘の色につつまれて
  天地微かに光るとき
  無量の思(おも)い 齎(もた)らして
  千載の末 今も尚
  はかんばしき 諸葛亮(しょかつ・りょう)
  名はかんばしき 諸葛亮

出典● http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-efda.html 

歴史を学ぶには●http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-aa31.html(この方のブログは深い学識にもとずく現代社会批判が展開されています)

「荒城の月」の詩人・土井晩翠の長い長い詩の六番までに曲を付けて歌い継がれてきたといいます。歌は初めて聞きました。創価学会の「学会歌」にもなっているとか。弾圧に倒れた牧口常三郎と諸葛孔明を重ねているのでしょうか。僕の生徒だった創価学会の友人たちはうたっているのかな?

「星落秋風五丈原」の歌●http://www.youtube.com/watch?v=0ygkqq3DLGY

この長詩に解釈を付けてくれている方がおられます。「解釈」と詩を続けてどんどん読んでみました。まるで歴史のただ中にいるようです。諸葛孔明に寄せる晩翠の深い敬意が伝わってきます。

「星落秋風五丈原」解釈

 

 

Photo_23星落秋風五丈原1

 

三国志の雄大なロマンの世界。中でも、その知略、軍略の巨人・諸葛孔明・亮にスポットを当てて、その後半生を余す処無く描ききった、土井晩翠の「星落秋風五丈原」の詩を、解釈してみたいと思う。
劉備に三顧の礼で迎えられた孔明は、その才知を駆使し、劉備を蜀の皇帝に就かせ、劉備亡き後、息子の劉禅をよく守り立て、宰相として蜀の国を統治していたが、隣国・魏の国と五度、五丈原で覇を競い、終に、その陣中で病に倒れたのである。
劉禅以下、蜀の国の人々は、嘆き悲しみ、その行く末の危惧を感じていたのであった。              

           祁山悲秋の風更けて
           陣雲暗し五丈原
           零露の文は繁くして
           草枯れ馬は肥ゆれども
           蜀軍の旗光無く
           鼓角の音も今しづか

           丞相病篤かりき


日本で云えば、天下分け目の天王山、或いは関ヶ原と云った有名な地が五丈原である。
その五丈原の横に祁山がある。
祁山に吹く秋風は、孔明が倒れたとて、嘆き悲しむ様に、益々強く吹き荒んでいる。
蜀軍が、野営をして陣を張っている処には、不吉な暗雲が垂れ込めて来た。
秋の夜明けは、草葉に玉為す露を織り成している。
この戦陣の真直中にあって、戦備は万端抜かり無けれども、何故か、我が蜀軍の旗は、弱々しく、垂れ下がっているばかりだ。
鼓の音も、角笛の音も、今は鼓舞する事無く、鳴りを潜めている。
それもこれも、丞相の病が、相当重い為であろうか。


            清渭の流れ水やせて
            むせぶ非情の秋の声
            夜は関山の風泣いて
            暗に迷ふかかりがねは
            令風霜の威もすごく
            守るとりでの垣の外

            丞相病篤かりき


秋も深まり、あれだけの清き川の流れも、今は、水量も枯れなんとしている。
こんな大事な時に、孔明に病を与えるとは、非情極まる運命かな。
夜は夜で、風さえ嘆きの声を立てている。
この暗澹たる事態に、我が蜀軍も、路頭に迷おうとしている。
風に誘われて、明方には、四囲は一面、霜の色だ。
ああ、この冷気が、孔明様の御身体に障らなければよいのだが…


            夢寐に忘れぬ先王の
            いまはの御こと畏みて
            心を焦がし身をつくす
            暴露のつとめ幾とせか
            今落葉の雨の音
            大樹ひとたび倒れなば
            漢室の運はたいかに

            丞相病篤かりき


我を三顧の礼で、ここまで見出してくれた、今は無き劉備様の事は、夢にも忘れた事は無い。
その劉備様が、死の床で、我に語った遺言を思い起こすに、身が引き締まる。
以来、常に、劉禅様の事を想い、全身を投げ打って、事に当たって来た。
戦陣にも、幾度か、活路を見出して来た。
されど、今この陣中は、病葉が秋雨に打ち叩かれている。
孔明様が病に倒れたならば、蜀の国の行く末は、一体どうなってしまうのであろう。
我等の嘆きを他所に、孔明様の病は、芳しからず。

(ここまではまだ入口です。あとは「出典」にあたってください)

 出典●「歴史は人なり」http://rekisinton.cocolog-nifty.com/blog/cat3932585/index.html



『雲ながるる果てに』 映画ブログ紹介

2012-02-16 05:53:57 | 映画  音楽 美術など

「ふらり道草ー幻映画館」という優れたブログがある。 京都の高校教員OBで僕よりは一回りは先輩の方が主(あるじ)である。

ふらり道草―幻映画館―

映画が最大の娯楽だった時代があった。昭和20年代から30年代に掛けてである。田舎の小学校の講堂で、固唾を飲んで熱中した巡回映画。場末の映画館で熱くなった3本建ての4番館・5番館。フィルムに雨が降っていても、途中で何度も切れても、スクリーンに映る名画は変わらない。 

 僕は昭和23年(1948年)小学校入学、昭和29年(1954年)中学校入学、昭和32年(1957年)高校入学である。このブログに紹介されている映画のいくつかも確かに見た。

小学校の講堂で上映された『きけわだつみのこえ』は怖くて見られなかった。先輩兵にいじめられる場面に耐えられなくて、ひとりこっそり会場を抜け出して帰った、確か。

『雲ながるる果てに』は昭和28年の制作だというから僕は6年生。記憶はうっすらとしていて定かではないが似たような映画を見ていることは確かだ。

   「雲ながるる果てに」タイトル②

自分の死を無理やり正当化しなければならない先輩たちの運命を見せつけられて緊張しっぱなしだった。どんなことがあっても戦争だけはしてはならないと、自分に引きつけて思うようになった。

映画の影響か、高校生ぐらいまでは戦没学徒の手記の類をしばしば読んだものだ。

「どんなことがあっても戦争だけはしてはならない」。これは僕の信仰のようなものであらゆる政治的思考の前提になっている。思考が停止していると非難されても仕方がないのかもしれない。

こんな「非戦」意識を作る上で少年期から青年期にかけての映画の影響は結構大きかったような気がする。

同年代の他の方々はどうだったのだろう?

時代が流れてのちの世に育った人々は?

この貴重なブログを参考にしてこの時代の映画を鑑賞してみるのもいい勉強になるのではないか。

『雲ながるる果てに』●http://blog.livedoor.jp/michikusa05/archives/51762767.html


大島・藤倉学園 寅さんのおばちゃん逝く

2012-02-15 08:56:10 | 映画  音楽 美術など

2月14日(火)☂

寒い。一日ベッドで寝たり起きたり。三崎千恵子さんの訃報があった。

「男はつらいよ」のおばちゃん 三崎千恵子さん死去、90歳

三崎千恵子さん
三崎千恵子さん=1997年撮影 
Photo By 共同 

 映画「男はつらいよ」シリーズの「おばちゃん」役などで知られる俳優の三崎千恵子(みさき・ちえこ、本名宮阪トシ=みやさか・とし)さんが13日午後7時15分、老衰のため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。90歳。東京都出身。

 葬儀・告別式は19日午後1時半から神奈川県藤沢市藤沢493のカルチャーBONDS藤沢で。喪主は長女柴順子(しば・じゅんこ)さん。

 女学校卒業後、白木屋(現、東急百貨店)に入社。コーラス部に所属し、それがきっかけで歌手となった。戦後、劇団民藝を経て、60年代映画デビュー。後にテレビ、映画で人情味のある役を演じた。

 69年(昭44)スタートの映画「男はつらいよ」シリーズでは、故渥美清さん演じる車寅次郎のおばちゃん役として全作品に出演。シリーズに欠かせないファミリーの一員となった。

 

      車つね●http://www.tora-san.jp/about/cast_tune.html

 

 

 

 

三崎さんは1920年豊島区西巣鴨生まれだという。寅さん(渥美清・台東区下谷生まれ・96年歿)逝きて15年、おいちゃん(下條正巳・釜山生まれ・04年歿)もおばちゃんも居なくなってしまった。寂しい限りである。

 

御前様(笠智衆・熊本・玉名生まれ 93年没)もタコ社長(太宰久雄・台東区浅草生まれ・98年歿)も‥。

 

葛飾・柴又は寅さんの帰るところだったが私たち多くの寅さんファンの帰るところでもあった。三崎さんをはじめ、倍賞さん(北区滝野川生まれ)を含めて東京の下町生まれの方が多いことに気づく。これらの俳優陣にとっても心を許す「ふるさと」であったのかもしれない。

 

 

  妻は会議で東京に出ているので観客ひとりの「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」(1974年)の追悼上映会を行なった。

 

今回のマドンナ・吉永さゆり(歌子)は夫を失った傷心のただ中で伊豆大島の障害者施設・藤倉学園での再出発を期す。

 

映画の終わり近くに歌子から虎屋に手紙が届く。

 

歌子の手紙


心や体が不自由な子供の面倒を見るのは
想像していたよりも遥かにに大変な仕事です。


大島の施設で歌子がたくさんの子供と働いてる。

歌子の手紙


朝、目が覚ましてから夜寝るまで、
子供たちを相手にまるで戦争です。
毎日が無我夢中の内に過ぎてしまうのです。
皆さんと幸せについて語り合った夜のことを
時々懐かしく思い出します。


歌子、敷地内の農園で茄子を子供たちと一緒にとっている。


                       



歌子


今の私は幸せかどうか
そんな事を考える余裕もありませんが
でも十年先二十年先になって今のことを思い出したときに
ああ、あのころは幸せだったと、そう思えるようにと
願っています。


ところで寅さんはどうしていますか? 今旅先ですか?
私は寅さんがいつかヒョィとこの島に来てくれるような
気がしてなりません。
ああ、本当に来てくれないかなあ

 

出典● http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/13saku.htm 

 

藤倉学園は僕の初任校・都立大島高校の道一つ隔てたところにあった。大島に3年間(66年~69年)世話になったが、藤倉学園について知ろうという精神が僕の中では生まれることはなかった。

後に僕の生徒だった栄光くんが不慮の死を遂げたとき、お姉さんが働いていた藤倉学園を初めて訪ねた。

 

その頃からでももう20年になる。寅さんはヒョイと歌子さんの住む大島を訪ねたのかなあ。栄光くんの姉さんは元気かなあ。

 






「寅次郎わが道をゆく」

2012-02-06 05:01:06 | 映画  音楽 美術など

2月6日(月) 

 21-post.jpg (70514 バイト)  昨夕、届いたばかりの『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』(1978・8 第21作)を見た。

マドンナは木の実ナナ、SKD(松竹歌劇団)の踊り子役。芸名は紅(くれない)奈々子。

この映画の圧巻は恋に生きるか、芸に生きるか、悩みに悩んだ奈々子が浅草国際劇場の最後の舞台で「道」を歌う場面だろう。 


そして…奈々子は舞台で『道』を歌う


脇で踊ってくれるのは春日宏美さん千羽ちどりさん。

               

♪ひとつのセリフも無くて 泣いた日もある
人がきれいに見えて、自分を恨んだ日もある。
でも、さあ立ち上がり 夜空の星を見つめて
つらい涙ふいて この道を歩き続ける
あたしを愛してくれる 人たちがいるから
あたしは心のすべてを、信じたこの歌に託し、生きて来たの



なんと…寅が最後部座席で奈々子さんの歌を聴いている。

          


奈々子が気丈夫に舞台に立っているのを見届けた寅は
歌の途中で国際劇場を出て旅に出発する。


          


奈々子の歌を聴いているさくら。

スタッフたちや後輩たちが舞台の影から最後の公演の奈々子を見守っている。

                   

♪まぶたを閉じれば今も 今よみがえる
遠くさすらう日々の 幾人かの懐かしい人たち
時には叱ってくれた 優しい言葉であなたは
時にはつつんでくれた 温かい腕にあなたは
できるならもう一度巡り逢いたい
空を流れる雲を見つめ
若い日の夢を一緒に語りたいの


あたしを愛してくれる 人たちがいるから
もう泣かない あたしは
選んだこの道を歩き続けたいの


涙を潤ませるさくら。 

出典●http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi18.htm#316

 

 僕も30数年前の国際劇場の座席にいる気分で聞いた。

覚書

①SKDの華麗なる表舞台と汚い(?)裏舞台がともに映し出されている。SKD出身の倍賞千恵子の古巣だ。SKDも浅草国際劇場も歴史の彼方に消え去った今となっては「文化財」級の映画。一度は実演を見てみたかったなあ。

 

出典「浅草国際劇場」●http://vintaka.fc2web.com/kokusai.html

②SKDの舞台に「よさこい鳴子踊り」が登場したのには驚いた。寅さんシリーズでついにロケ地に選ばれなかったのは高知県だけと聞いたことがあるが、正調「よさこい」がきちんと記録に留めおかれていた。何となく嬉しい。

 

 

 

『男はつらいよ』●http://www.tora-san.jp/toranomaki/movie21/index.html