川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

人生の友

2011-11-30 06:32:35 | 友人たち

11月も今日でおしまい。多美子さんのブログにあった写真を転載します。綾子さんが一緒に写っています。嬉しいなあ。

1998年4月、15才の彼女・彼氏らと出会って作ったのが<1G>。僕にとっては最後のHR担任ということもあってひとりひとりが自分を出せるようにつとめました。結構仲の良い、クラスが出来ていったと思います。年末には東海汽船に乗って大島の旅をしました。あれからそろそろ14年。喜び、悲しみを積み重ねて友達として心を通わせて行けるのは本当に嬉しいことです。

懐かしいお友だちたち☆

 出典●http://ameblo.jp/souta24/entry-11091574045.html?frm_src=thumb_modul 

 同じようにHR担任をしていてもまだまだ「出会った」と実感できない人も少なくありません。考えや生き方は違っても互いを大切に思い合う付き合いができたらどんなに嬉しいでしょう。夢のような話かもしれませんが「生徒」として出会ったすべての人と人生の友達になりたいと願ってきました。先日の同窓会でもそんな出会いの第一歩があって体の芯が温められたような気がしています。

 


笑顔につつまれて 

2011-11-29 05:46:38 | 父・家族・自分

11月28日(月)曇

 1時前、癌研有明病院の主治医・西尾医師の診断があった。

「右肺に転移した癌は小さくなっており、イレッサはよく効いている。しかし、副作用の肝機能障害が心配だ。」

ということで当面、肝機能を改善するために「グリチロン配合剤」に加えて「ウルソデオキシコール酸錠」を服用し様子を見ることになった。一週間後に血液検査と診断がある。

 イレッサの服用でしばらくは小康状態が保てるかと安心していたが‥。抗がん剤はやっぱり「劇薬」?だなあ。

 待ち時間に「川越だより」を読んでくれているという同病の方が声をかけてくれた。巣鴨あたりで自転車で走行中の僕を見かけたという。もう10年も肺がんと付き合っておられる。年は僕よりは若いが闘病の先輩である。僕のように「ガン」についてなんの勉強もしないものには先輩の話は貴重な情報源になる。ありがたいことである。

 「先生は社会活動をやって、若い人たちと付き合って‥。いいですねえ」と言われた。そうですねえ、元気の秘密です。ありがたいことです。

多美子さん・真佑子さんが同窓会の時の写真をfacebookに投稿してくれた。

 

 多美子さんが奏太くんにあわせてくれた。赤ちゃんの時以来だ。「世界のために役に立つ人になれ!」

 川越だより「奏太くんを訪ねて」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/9c6afff577f1eecb11af0125768187d6

     「我らこの地に奏でて燃える」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/572889de6002e36bb0ef849325d555eb

 

 旧1G組はこちらの写真が写りがいい。

 こちらには綾子ちゃんが写っている。10年経ってこんな時があるなんて思いもよらなかったなあ。ぼくも久しぶりにいい顔をしている。


懐かしい再会  都立文京高校同窓会

2011-11-28 05:59:52 | 友人たち

11月27日(日)晴れ

 文京高校の同窓会が体育館であった。卒業後10年ということで僕がHR担任をした2001年3月卒業生が無料招待され、僕も出席した。

 記念写真撮影時には沼田さんが間に合わず、僕が担任団を代表して全7クラスの写真に収まることになった。一年生の「倫理」は僕が全員を担当したので知らないわけではないが、HR担任をしたことがない人は思い出せない人が多い。ごめんね。

 西くんがfacebookに投稿した写真があるのでそれを紹介します。残念ながら写っていない人もいます。担任クラス以外の人とも沢山写真撮影をしました。届いたら適宜紹介します。

 

 出席者(敬称略)

 旧3B。新井 拓也 西 岡橋 近藤 澤瀬 須田 水沢 

 

 旧1G。(新井) 斎藤 (西) 山本 神山 清水 立花 中島 中野 真霜 宮崎

 帰ったら未来さんからのメールが届いていた。


本日は久しぶりにお会いできて本当にうれしかったです。
先生は10年経った今もお変わりなく、びっくりしました^^

先生がご出演された番組、ユーチューブで拝見させていただきました。
思わず涙が出てしまいました。
とても考えさせられる内容で、主人と一緒に見入ってしまいました。
病院の検査、対応に疑問がいっぱいですが、なにより先生がご無事で、今日お会いできたことに感謝いたします。

私の出産も間近に迫ってきましたが、産まれたら写真送りますね!
どうかお元気で、これからもご活躍ください。

 出産予定は1月9日とか。元気な赤ちゃんに会えることを楽しみにしています。久しぶりに懐かしい面々にあえて心が温められました。晃子さんは握手した僕の手が冷たいのに気づいていつまでもマッサージをしてくれました。ありがとう。


秋から冬へ

2011-11-27 06:57:29 | 川越・近郊

川越公園の高速道路側のイチョウ並木は落ち葉が目立つようになり、秋の終リを告げています。このところ晴天続きで僕も毎日自転車の散歩を続けています。

 

 24日(木) 久しぶりに越辺川・都幾川の土手の道を丸木美術館へ。

 川島町の道場橋から天神橋にかけてが堤防天端の工事中で通れません。来春からは快適な舗装道路になるのかな。完成すれば川越から松山まで砂利道を通らなくて済みます。

 越辺川の白鳥は今年もやってきています。土手の上から数えてみたら20羽はいるようです。

 稲荷橋付近で松山高校の保護者らしき人々に出会いました。「比企一周駅伝」の手伝いをしているとのことです。やがて何人かのランナーが通過していきました。

 松山高校ではクラス対抗の形で旧比企郡を一周する60数キロ、15区間の駅伝大会をもう20数年も続けているのだそうです。生徒や教職員はもちろん保護者も総動員して川島をのぞく比企郡の町を走り抜ける大掛かりな学校行事です。

 校内マラソンはあちこちでやっています。この日も坂戸高校の生徒たちが高麗川の土手を走るのに出会いました。でも「比企一周駅伝」とはすごい。

 26日(土) 河越館跡公園で「流鏑馬」が行われるというので行ってみました。

 小春日和の午後結構な人出です。僕は土の上にシートを敷いて小一時間の観覧。女性を含む騎乗の鎌倉武士が5人、三つの的を次々に射抜いて行きます。話には聞いていても目にするのは初めてです。

  河越館跡公園●http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1257393880290/index.html

 27日(日) 今日は「小江戸マラソン」が行われるとか。僕は文京高校の同窓会が主催する「ホームカミング・デイ」。卒業以来10年になる昔の生徒に会ってきます。

 


峠の国盗り綱引き合戦 秋葉街道の旅メモ③

2011-11-26 17:17:55 | 出会いの旅
10日(木)の宿は民宿「このた」。静岡県境・兵越峠(ひょうごしとうげ)に近い長野県飯田市(旧南信濃村)の山里・此田の傾斜地に建つ。夕食後女将さん・若主人との話が弾む。大屋敷さん親子。絵の上手な高校生とそのお母さんは学校に近い町でアパート住まいだという。
 遠山郷 の写真
 お話のなかに「国盗り綱引き合戦」が出てきた。
 
 毎年10月に行われる遠州軍(静岡県浜松市天竜区水窪・みさくぼ町)との戦いで今年は信州軍が勝利し、国境が1m太平洋側に移動した。信州側は遠州灘までを攻略して信州を海のある国にしたいが25回にわたる合戦は五分五分で目的達成はおぼつかないのが現状だ。此の合戦の信州軍の先鋒はこのところ大屋敷さんが務めている。
 
 これは去年の写真だがなるほど若主人の戦闘姿が写っている。
遠山郷 峠の国盗り綱引き合戦の写真 
 
 今年の戦いの様子がユーチューブに登載されている。よかったらご覧になってください。僕は参加したことがあるわけではないのにいつの間にか合戦のただ中にいるような気になった。
 
2011年10月23日 第25回 峠の国盗り綱引き合戦
 
 翌日(11月11日)は朝から雨もようだったがその昔、武田信玄が兵を進めたという兵越峠で現代の綱引き合戦の戦場を見学した。
 中央構造線が通るこの辺リは地盤がもろく国道152号は青崩峠を貫通することができず未完成のままだ。車は迂回する林道で兵越峠を超えている。思ったより広くて立派な合戦場が峠の頂上部分に整備されていた。観戦席も用意されていた。
 
 こういう合戦ならいつまでも続いて欲しいものだ。村落の少子高齢化で似たようなイヴェントが終結したところもあるようだ。
 
 このあとは雨が本降りになった。青崩峠を見学したあと傘をさして秋葉神社に詣でた。浜松の産業界の守護神なのか、参道をはじめ境内のいたるところが花崗岩張りの豪華な作りであった。これに比べると里宮は質素でどこの村にもあるお宮さん。昔からの土産屋兼食堂でお昼とした。

校歌と部落差別   秋葉街道の旅メモ②

2011-11-25 09:43:15 | 出会いの旅

9日に泊まった赤石荘の露天風呂は良かった。お湯はツルツルだし、正面遠くに宝剣岳が見える。横浜から来て絵を描いているという同世代の方と長湯した。度々来ては描いているという。

 10日(木)の午前中に中央構造線博物館とろくべん館に寄った

 ●http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/subindex01-02rokuben.htm

 「ろくべん館」(大鹿村民俗資料館)の入口近くに旧大河原小学校の校歌板が架かっていた。四周の景観が謳い込まれ、郷土愛に満ちた詩である。

 

大河原小学校校歌
    森 識作詞 

 南アルプの名を負いて
 盟主とそそる 赤石岳
 岩根洗うて せんかんと
 四時に流るる 小渋川

 山嶺遠く 天がけり 
 白雲つねに湧くところ 
 見上ぐる空の その峡に 
 我らが郷土 大河原 
 
 鳥倉山に 秋たけて 
 雪こそつもれ 青木谷 
 大西山に 春すぎて  
 夕べ涼しき 島川原 
 
 山の端近き 御所のあと 
 信濃の宮に 福徳寺 
 夕日に映ゆる 松平 
 追手かためし 堀田城 
 
 ああ 山川の霊うけて 
 古き歴史の 血をおそう 
 我らが行くて 想うとき 
 高き希望に燃ゆるかな 
 
 高嶺に花の香をさぐり 
 谷間に水の精をくみ 
 大地にめぐむ 悠久の 
 平和と文化をうちたてん

ここに名前はないが作曲したのは大河原小学校の先生だったという。その先生が「の出身らしい」という噂が流れて、先生は忽然としてこの村から姿を消した、とか。

 いつごろの話か聞き忘れたが僕の記憶に深く残った。藤村の「破戒」が世に出たのは明治の終わりころだが、同じ信州にこんな話が隠されていたのか。「平和と文化をうちたてん」と謳っている。第二次大戦後のことであろう。やりきれない話だがこれが雄大で美しい自然に恵まれた信濃の人間界の現実だったのだ。

今はどうなっているのか?

 大阪の市長選挙を前にした新潮社や文藝春秋社の雑誌の「橋下たたき」はいくらなんでもひどすぎる。「橋下の出自は」「父はヤクザで自殺した」「いとこは殺人事件に関係」‥。いくら「公人」だと言っても人々の心のなかに差別が温存されているなかでこんなことを書き散らすことが許されていいのか。

 僕は橋下徹候補に対するこの卑劣極まりない差別攻撃とそれを許容しそれに与する者たちを許すことはできない。解放同盟はどうしているのか?解放の旗を振り続けてきた大阪の教師たちはどうしているのか?

 橋下候補の政策に賛成するか反対するかとは別次元の問題だ。こんな攻撃を許しておいて「人権」を唱えてどんな意味があるのだろう。

  参考意見● http://kanrishoku.jp/column.html

 

もうひとつ、注目というより疑念に思うのは、解放同盟の対応である。

 解放新聞大阪府連版に、大阪府連が『週刊新潮』・『週刊文春』に、抗議文を送付したことが載っている。しかし、問題の性質と影響力の大きさを考えれば、中央本部で取り組むべき課題と思うが、どういうわけか大阪府連が抗議主体となっている。しかも、直接の当事者、橋下前府知事と連絡を取った形跡が無いのは不思議だ。橋下氏は、氏のツイッターで精力的に、2誌の取材記者の実名を上げてまで批判している。

 北口末廣委員長名で出された大阪府連の抗議文には、「私たちは、こうした差別をなくすために運動を進めていますが、橋下徹氏を擁護するために抗議しているのではありません。」との一文をわざわざ記している。

 どんな意図の下に書き記された一文か、意味不明だが、直接の被害者であり、当事者である橋下氏に対して、彼が公人であり、また、いかに政治的主張や立場が対立しているとはいえ、あまりにも冷酷な一文と言わざるを得ない。

 解放同盟は、差別に反対するか否かの一点で結集した大衆団体だ。

 だからこそ、差別ハガキを何百枚も送りつけられ、くじけそうになる重圧と苦しみの中から抗議糾弾に立ちあがった東京在住のUさんに、解放同盟の東京都連は全力で支え、共に闘っているのである。

 どのような立場の違いがあろうとも、差別(しかも選挙前というこの時期に差別キャンペーンが張られたことは非常に問題だろう)に抗議して正面から週刊誌2誌と対決している橋下氏を支え、この点において擁護すべきではないのか。本末転倒した一文と断ぜざるを得ない。

 政治的思惑を優先させて、橋下氏に会おうともせず、また励まそうともしない組織は、“兄弟愛”にあふれた宣言の精神とは、かけ離れていると言わざるを得ない。

  

 


三六災害から50年 秋葉街道の旅メモ①

2011-11-23 19:47:36 | 出会いの旅

11月9日(水)の午後大鹿村の大西公園に寄った。ここには三六災害の後が今もなお生々しい姿で残っていた。1961年(昭和36年)6月梅雨末期の集中豪雨が伊那谷一帯を襲い甚大な被害を出した。この辺りでは「三六災害」というらしい。

 象徴的なのがこの大西山の崩落である。

6月29日

午前9時10分、大西山西側斜面が崩壊。崩壊した土砂はすぐ下を流れる小渋川を超え、対岸にある村の中心部を襲う。分速1000mで押し寄せたとされるその勢いは、風圧で家屋や自動車が吹き飛ばされるほどであり、42名の方が犠牲となった。

 

崩落現場の一部は今もそのまま保存され自然災害の凄まじさを今に伝えている。土砂に埋まった山麓は公園として整備され今は桜の名所となっている。

 出典●http://kuzure.jp/wiki.cgipage=%A1%D6%CA%F8%A4%EC%A1%D7%A5%EA%A5%B9%A5%C8%2F%C2%E7%C0%BE%BB%B3%CA%F8%B2%F5%C3%C

F

 帰ってから高柳さんに貰ったDVDで「演劇的記録 三六災害五十年」を見た。今年があれから50年になるということで災害に学び災害に備える地域づくりの一環としてふじたあさやさんの作・演出で6月19日に飯田で上演されたものだ。劇団員の他に大鹿村の老若男女総出演という感じで大西山崩壊という未曾有の災害の下で繰り広げられた人間のドキュメントを描いた。現場に立ってみたあとだけに僕にもいくらか切実感があった。

市民演劇集団「演劇宿」と大鹿村民らが演じた「演劇的記録三六災害五十年」=19日、飯田市の飯田文化会館   

 この旅では三六災害の後廃村となった中川村四徳も訪ねた。残っているのは丘の上の神社だけだった。人々は駒ヶ根市に集団移住したという。

 今年は東日本大震災という途方もない自然災害を体験した。伊那谷に住む若い人々も50年前の災害を身にしみて捉え返すことになったのだろう。

 それでもと思ってしまう。50年も経てば悲しみは薄れ、人々のたゆみない努力の結果、被災地で花見を楽しむこともできる。

resize0774.jpg

 (大西公園の桜)

それに引き換え人間が引き起こした原発事故はどうだ。50年で何が片付くというのだろう?

 参考資料・三六災害から50年●http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/think/saburoku/index.html

 

 


シューベルト「あふるる涙」(「冬の旅」から)

2011-11-23 07:11:47 | 映画  音楽 美術など

11月22日(火)晴れ

 午前中、妻は義母が引っ越したあとの家の整理を全て終え、いつでも大家にひきわたせるようにしました。そういえば今日は義父の命日です。

 僕はと言えば久しぶりに川越公園の土手の道を歩きました。富士山が真正面。富士に向かって歩きました。河川敷の林は秋色が深まってなかなかの風景です。

 「家園」で昼食。ここ数日片付けに疲れた妻の「ご苦労さん会」。

昼寝時にFM放送から昔聞いたことがある曲が流れてきました。

  ●http://duarbo.air-nifty.com/songs/2010/05/post-0e53.html

中学か高校の音楽の時間に習ったシューベルトの「冬の旅」かな。

 「木の葉は散りて風は寒し 我が行く旅の道は遠し‥」あとは思い出せません。

パソコンで調べてみたら訳詩違いの上記の「あふるる涙」が出てきました。この曲は連作歌曲集「冬の旅」の6番目の曲であり5番目があの「菩提樹」だということを初めて知りました。失恋した若者の絶望的なさすらいの旅を歌ったものであったのです。若くして死んだシューベルト晩年の作品だといいます。なんにも知らなかったなあ。都築先生はこんなこと教えてくれたのかな?

  「冬の旅」●http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E3%81%AE%E6%97%85

ヒュッシュhttp://www.youtube.com/watch?v=LD1TarJcqD4

ディートリッヒ・フィシャー・ディースカウhttp://www5a.biglobe.ne.jp/~bunza/classic/wasserflut.htm

「菩提樹」 倍賞千恵子●http://www.youtube.com/watch?v=qgL_rJpEgc0&feature=related

 


小西豊著『ボチボチ力のすすめ』①

2011-11-23 05:18:00 | こどもたち 学校 教育

11月のはじめに高知のコニヤンが出版したばかりの自著を届けてくれました。「今日も笑顔でボチボチです」という合い言葉と似顔絵付きのサイン入りです。

イメージ 1

 旅から帰ってボチボチ読んでいるところです。読書の習慣がなくなってゆっくりゆっくりです。どういうわけか病院の行き帰りの電車の中が一番集中して読めます。

 中学校の管理職を1年で辞めて不登校の中学生と付き合う道を選んだコニヤン。彼らとキャッチボールを共にする中で身に付けた「ボチボチ力」。元気を恢復したコニヤンの思索は今や一冊の本となって私たちの眼前に現れました。

 「競争と管理」のただ中にあって希望を見失いそうになっているあなた、それでもかけがえのない「自分」を殺されてはたまらないと悪戦苦闘しているあなた。 中学生から熟年まで、そんな友人たちに僕はこの本を推薦します。心から。

 400頁近い大冊が1000円で読めるというのですから驚きです。購入申し込みは

 「たんぽぽ教育研究所」(osaki@tanpopo-k.net 電話 088-855-4546 )か、鈴木啓介(keisukelap@yahoo.co.jp  電話 049-224-4646)へ。高知の「富士書房」以外は本屋では買えません。

この本について思いついたことを時々紹介します。

 今日はこの本を編集・発行した大崎博澄さんの「あとがき」です。高知県の教育長をやめたあと「たんぽぽ教育研究所」を主宰して不登校のこどもやその親たちの相談相手になっています。僕がもっとも尊敬する友人の一人です。

編集者あとがき

 

 小西先生に自分から本を作らせてくださいとお願いして引き受けておきながら、編集作業に二年もかかってしまったこ

 

  とを、まずお詫びしなければなりません。よく気長に待ってくださいました。コニヤン、ありがとう。感謝です。


なにしろ小西先生は、毎日膨大なブログを書いておられ、そのどれもが質が高いので、本に入れたい原稿の量が膨

 

大でした。加えて、病人を抱えたぼくの家庭の事情で、作業ができる時間は、ぼくがたんぽぽ教育研究所にいる時

 

に限られました。そのたんぽぽが、ありがたいことですが、思いのほかお客様も仕事も多くてとても忙しい、というような

 

物理的な言い訳がひとつあります。


さらに、もっと大きな問題は、小西先生の日々進化する膨大な思索の成果を、どんな風に体系化するか、という

 

、いささかぼくの手に余る難事業がありました。これは、毎日届くたくさんのお便りに返信を書いているうちに、ごく自

 

然に考え方がまとまって来ました。


家庭訪問、日々の声かけ、学習支援、スポーツ交流などを通じて、子どもと教師の信頼関係づくり、子ども達の

 

心の耕し、自分づくり、肯定脳づくりを目指す、微に入り細をうがった取り組み、支援の実際の記録、小西先生の

 

活動のありのままが、まず語られねばならない。第一章は、不登校児童の支援に実際に汗をかいている現場の

 

先生方に、考え方においてもスキルの面でも、おおいに役立つだろうと思います。


コニヤンの凄いところは、そこにとどまらないことですね。そこまでなら、この本は、学校に行けない子ども達の支援に半

 

生を捧げた熱血教師の汗と涙の実践記録ということになるのですが、コニヤンは、不登校の子ども達への支援のあ

 

り方を掘り下げ、進化させていく中で、教育の本質にたどり着いているのですね。


だから、不登校の支援のあり方を援用して、学力問題の解決策を提起できるのですね。不登校もイジメも学力問

 

題も学級・学校崩壊も、すべての教育課題は別々の問題ではない。原因もひとつ、だから対策もひとつなんです

 

ね。不登校を追究することで、すべての教育課題の解決の展望を開いてみせてくれるのが第二章です。

 

 コニヤンはしかし、そこにもとどまらないでさらに進化をとげる。なんと教師としての生き方、人間としての生き方を変え

 

ていく。


 自己変革なんてことは、言うべくして誰にもできないことだけど、コニヤンは自らのウツや強迫神経症的資質を否定せ

 

ず、むしろ積極的に受け容れることで、自分に合ったペースで自分の人生を歩く、「ボチボチ力」という生き方にたどり

 

着きます。


ぼくは、森田療法の創始者である精神科医、森田正馬と重なる東洋哲学的な思想性をここに感じます。第三章

 

は、自己変革に挑み続けるコニヤンの自分史ですね。

 

 こんな風に書くと、ずいぶん難しそうな本と受け止められそうですが、コニヤンの文章はすべて実践に裏付けられてい

 

て、しかも話し言葉、語り言葉で書かれているのでやさしくて分かりやすいですね。

 

 二十五万字の大冊を校了して、ぼくは今、とても大きな幸せをかみしめています。巷に読物はあふれていますが、読

 

む価値のある本は少ない。その人にしか語れないことが、誰にも分かるやさしい言葉で書いてある本、それが読む価

 

値のある本です。この本は、コニヤンにしか語れないことが、誰にも分かるやさしい言葉で書いてある。読む価値

 

のある本の誕生に立ち会えたことが、嬉しくてたまらない。

 

 

 不登校は当事者や家族、個人の責任ではありません。今や、小中学生から高校生、大学生、社会人にまで広が

 

る社会現象、社会病理です。その背景には、弱肉強食、格差の拡大を無制限に許容する、心のつながりを失った

 

過酷な競争社会があります。


 そういう社会をどうやってもう少し温かいものに変えてゆくか。私たちみんなが問われているのが二十一世紀という時

 

代です。


 コニヤンの「ボチボチ力」は、その問いに応える確かな展望をぼくに与えてくれます。


  ああ、感謝!!

2011年9月19日たんぽぽ教育研究所 大崎博澄

 


「第3回 『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」

2011-11-22 05:11:45 | 韓国・北朝鮮

新潟集会の案内が届きました。私たちは12日(月)に出発し新潟平野の各地を訪ねたあと集会に参加します。ご一緒できる方がおられたら連絡してください。

「第3回 『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」 

日時 12月14日(水)

場所 新潟港中央埠頭

式次第

 開会             13:30
 追悼式  追悼の辞    13:35
  追悼法要 読経      13:40
         献花      13:55
         献歌      14:05
 要請文の発表       14:20
 閉会      閉会の辞    14:25


今回の追悼集会においては、日本人妻の帰国への
光明が見えてきた状況を踏まえ、別紙の要請文を採択し、
日本政府に日本人妻、北朝鮮残留邦人等の一刻も早い帰国を
迫りたいと思っています。
多数の方々の参加をお願いします。

□□◆■□□□□□□□□□□□□
JIPI 一般社団法人移民政策研究所
所長 坂中英徳
〒108-0014
東京都港区芝4-7-6     尾家ビル5F
TEL03-3453-5901/FAX03-3453-5902
E-mail   sakanaka@jipi.or.jp
URL        http://www.jipi.or.jp/
ブログ:http://blog.livedoor.jp/jipi/
(別紙)

内閣総理大臣 野田佳彦様
外務大臣   玄葉光一郎様

北朝鮮にいる日本人妻、北朝鮮残留邦人等の早期救出を求める


 一般社団法人移民政策研究所では、北朝鮮帰還事業開始から50年目を期して、2009年12月14日新潟港において帰国運動の犠牲者の霊の平安を祈る追悼法要をいとなむとともに、今も北朝鮮に幽閉されている帰国者全員の解放を目指して「『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」を開催しました。


 そして、集会において採択した鳩山由紀夫首相(当時)あての要請文「『日本人妻』の帰国を日朝の外交課題に」を中井洽拉致問題担当大臣(当時)に提出しました。その中で次のように述べました。

 〈現在も北朝鮮に軟禁されている帰国者全員を救出するため、まず「日本人妻」の帰国を日朝間の外交課題にあげていただきたい。この問題を日朝交渉で取り上げれば、膠着状態に陥った日朝関係を打開する糸口になるだろうと考えています。人質外交にたけた北朝鮮政府首脳は「日本人妻」を対日外交の切り札として温存してきたので、この話に乗ってくると見ています。〉

 私たちの要請に政治家がこたえました。2010年3月15日、当時の中井洽拉致問題担当大臣は参議院予算委員会で日本人妻の帰国問題について「あらゆる機会に、この問題を世界に認識してもらい、一日も早く帰国がかなうよう精いっぱい努力する。鳩山首相からは、北朝鮮にいる日本人の生存者をすべて救い出すよう指示されている」と答弁しました。

 それ以後、日朝間で日本人妻の帰国について水面下の交渉が持たれたようです。2011年7月2日付産経新聞の報道によると、北朝鮮側は日本側に「日本人妻の帰国」は可能と伝えたもようです。

 最近、北朝鮮政府が、生存している日本人妻をピョンヤンに集めたという情報も入っています。北朝鮮は日本人妻の出国の準備を進めているものと思われます。

 先の中井洽拉致問題担当大臣の国会答弁にあった「北朝鮮にいる日本人の生存者」の中には、在日朝鮮人と結婚して夫と一緒に北朝鮮へ渡った日本人妻のほか、もちろん拉致被害者が含まれます。さらに、日本ではすっかり忘れられた存在になってしまいましたが、北朝鮮残留邦人(北朝鮮残留孤児を含む)も救出の対象者です。

 そもそも北朝鮮帰国者問題の歴史を振り返りますと、1954年1月6日、日本赤十字社が北朝鮮の朝鮮赤十字会に電報を打ち、「終戦後も北朝鮮に残留する日本人の引き揚げが許されるならば、その引き揚げ船を利用して在日朝鮮人の帰国希望者の帰国援助をしたい」という日本政府の意向を伝えたことから始まります。

 このように、当時の日本政府の主たる関心は、在日朝鮮人の北朝鮮への集団帰国ではなく、在北朝鮮の日本人の引き揚げにありました。

 しかし、1959年12月14日から始まった北朝鮮帰還事業により在日朝鮮人の北朝鮮への帰国は実現しますが、在北朝鮮日本人の帰国は、1956年に36人が帰ってきた以外に、実現することはありませんでした。その後は、日本政府が北朝鮮残留邦人の救出に動くこともなく、多数の日本人が北朝鮮に取り残されました。

 日本に入国した脱北帰国者の数人が、北朝鮮残留日本人に会ったことがあると言っています。北朝鮮残留日本人の大半は山奥の一角に集団でおしこめられ、ジャガイモを主食として命をつなぐ、原始人のような自給自足の生活をしていると聞いています。

 私は、法務省入国管理局の行政官時代、一貫して在日朝鮮人問題、北朝鮮帰国者問題と取り組み、退職後は、移民政策研究所日本人妻等定住支援センター代表として日本に戻ってきた日本人妻等に対する定住支援を行っています。

 そのような立場から野田佳彦首相に緊急の提言があります。現在も北朝鮮に閉じ込められている日本人妻、北朝鮮残留日本人を救い出していただきたい。

 政府の助けを待っている日本人はいずれも70代・80代の高齢ですから、これは一刻を争う邦人保護問題です。日本人妻、北朝鮮残留日本人の帰国が実現した暁には、移民政策研究所が責任を持って、帰国された皆さんが祖国で天寿をまっとうしていただけるよう全面的に支援します。

 野田内閣が北朝鮮で生きている日本人すべてを連れ戻すため全力投球で臨まれるようお願いします。

 北朝鮮政府が日本人妻の帰国容認を示唆している千載一遇の機会を逃してはなりません。この絶好のチャンスをつかめば、拉致問題を含む、日朝間の諸懸案の解決につながるだろうと考えています。

    平成23年11月7日

一般社団法人移民政策研究所所長 坂中英徳


「資本主義は終わりの局面  冷静な目で考える次の世界経済」

2011-11-21 06:35:25 | 政治・社会

11月20日(日)晴れ

 妻の母が転居したあとの家の片付けを少し手伝いました。どういうわけか、押入れの中に無数の釘がうちつけてあります。亡父の仕事です。なんのためだろう?義父と久しぶりに話をしながらペンチと金づちで抜き続けました。

 あす妻と娘が廃棄物を焼却場に運ぶと片付けは終わります。

 「日刊ゲンダイ」の経済記事を読みました。私たちの生活も「大恐慌」のただ中に追い落とされる日がくるのでしょうか。まさかの「原発事故」は起こってしまいました。こちらはもっと確度の高い目前の危機です。大変な時代を生きることになったものです。参考までに紹介します。

 

資本主義は終わりの局面 冷静な目で考える次の世界経済
(日刊ゲンダイ2011/11/19)

ギリシャ破綻の次はイタリアの破滅、そしてドイツ、アメリカ、日本と連鎖する危機の実相

ギリシャ危機はアッという間にイタリアに飛び火し、その火はEU全土に燃え広がる勢いだが、どうしてこんなことになったのか。立ち止まって、冷静に考えてみる必要がありそうだ。

たかが、ギリシャのデフォルトである。小国の財政問題で、なぜ世界経済が沈没の危機に瀕するのか。ギリシャの財政危機はとっくの昔から分かっていたし、イタリアやスペイン、ポルトガル危機も予想できたことだ。イタリアの政治的な不安定さもいつものことで、何もベルルスコーニだからという話ではない。つまり、天変地異のようなことが起こったわけではないのに、世界が沈むような大恐慌になりつつあるのはなぜなのか。それをハッキリさせる必要があるのだ。

慶大教授の金子勝氏(財政学)は「欧州危機の本質は、国家の財政危機ではなく金融危機だ」と言った。

ギリシャ一国が破綻したところで、世界は困らない。欧州の金融債を保有する金融機関が困るのである。そして、金融がダメになると、連鎖で世界経済が破滅する。歪んだ金融資本主義をつくり上げてきたツケだ。それがモロに回ってきたのだ。
 

「リーマン・ショックで弱った銀行は、きちんと不良債権処理をしてこなかった。そこに欧州の国債危機が重なったため、耐えられなくなったのです。債権処理をしようにも、複雑な証券化商品は、あちこち混ざり合って、どこに何があるか分からない。何から手をつけていいかも分からない。これは市場原理主義のなれの果てです」(金子勝氏=前出)

1%のために世界が崩れるアホらしさ

ここでもうひとつの疑問。そうやって共倒れにならないように、各金融機関はリスクヘッジをしてきたのではなかったか。CDSに代表されるようなデリバティブを発行し、どこかが潰れても連鎖しないように金融工学を応用してきたのではなかったか。
 

「それがまた裏目に出たのです。高度に進化した金融工学は、コンピューターを駆使する。世界中が同じようなルール、プログラミングでリスクヘッジしているものだから、ひとつの綻(ほころ)びが生じた途端、みんなが共倒れになってしまう。恐ろしいのは、金融工学を過信して、各金融機関はリスクを平気で拡大してきたことです。ヘッジしているから大丈夫とタカをくくり、抱えきれないリスクを背負った。だから、ギリシャの小さな問題が世界中をのみ込んでしまったのです」(金融ジャーナリスト・浪川攻氏)

愚かな話だ。金融工学への過信もアホなら、それによっていい思いをしたのはたった「1%」の富裕層だけなのだ。

米議会予算事務所の統計によれば、上位1%の平均年収は96万ドル(約7500万円)で、彼らが米国資産の半分近くを保有している。富を独占しているのは、ウォール街のバンカーたちだ。コイツらのせいで、世界経済が音を立てて崩れようとしている。公共サービスはカットされ、年金カット、増税を余儀なくされる国々が続出することになる。こんなバカバカしい話はない。

マネー資本主義は完全に終わった

ハッキリしたのは、もうこのシステムは持たないということだ。マネー資本主義、金融資本主義の終焉である。福井県立大教授の服部茂幸氏(経済学)は、こう言う。

「米国発の新自由主義経済システムは、完全に行き詰まった。出口がありません。これまで、米国の『金融立国』の成功を1%のエリートが享受し、自画自賛してきました。しかし、この1%の成功でさえ、砂上の楼閣だった。住宅バブルがはじけて、楼閣はもろくも崩れ去ったのです。冷静に考えれば、いつかこうなることは分かっていた。とうとう“その日”がやって来たということです」

金融が機能しなくなれば、資本主義はもうオシマイだ。今はグローバル経済で、みんなつながっている。日本だけが助かるなんて、あり得ない。危機はやがて、フランス、ドイツに波及し、世界を巻き込み、当然、日本も直撃する。これが今回の危機の実相なのだ。

ルールなきジャングル経済に向かう世界

だとすると、資本主義が終わって、次に来るのは何なのか。欧州もダメ、米国もダメ、もちろん、日本もメタメタで、先進国は総崩れ。どこもリーダーとなり得ない。

元相愛大学長の高橋乗宣氏と同志社大教授の浜矩子氏が書いた「2012年 資本主義経済大清算の年になる」(東洋経済新報社)には、こんなくだりが出てくる。

〈ドルはいまや、世界の迷惑通貨になっている。基軸通貨とは、その国にとっていいことが世界中にとってもいいことである、ということだ。19世紀の「パックス・ブリタニカ」の時代はポンドがその役割を担った。第二次世界大戦後、「パックス・アメリカーナ」が幕開けした。今やその関係は明らかに成り立たなくなっている〉

その上で、今後の地球経済は「ルールなきジャングル経済に向かう」と書いていた。そうした混乱期には戦争や恐慌が起こる。それが過去の歴史だ。混乱期が過ぎれば、おそらく、中国やインドなどの新興国が台頭してくるのだろう。元財務官で青山学院大教授の榊原英資氏は本紙のインタビューでこう言っていた。

〈近い将来、国際社会のリーダー的存在になっているのは中国かもしれない。近代資本主義は終わり、国家資本主義の時代になるのではないか。市場経済はそのままだろうが、バックには国家がつく。そうした国が繁栄し、日本も含めて、先進国は衰退していく〉

新自由主義経済の後は中国型資本主義ということだ。一言で言えば、戦後日本の官僚主導経済に似ているかもしれない。今後は先進国が衰退し、新興国の時代になる。新興国は保護主義にならざるを得なく、国家の統制が強くなる。そこには資源ナショナリズムも絡み、世界がブロック経済化していく。

国家資本主義もおぞましい社会

問題はそれがいいことなのかどうか、ということだ。野放しの弱肉強食社会であった新自由主義の勝者は1%だったが、そこに国家の規制とコントロールが加われば、そこまで格差は広がるまい。統制された競争であれば、勝者は10%くらいに増えるかもしれない。とはいえ、それだって格差社会であることには変わらない。資本主義は格差を生む。格差は民主主義の危機を招く。世界経済が混沌とし、民主主義が危機に瀕し、民族主義やナショナリズムが台頭する。そんな時代になるのである。

金融ジャーナリストの須田慎一郎氏は「金融危機は世界経済の低迷を招く。今後は国家統制経済になり、貧者のキャッチボールの時代になる」と言う。つい最近も中国経済を視察してきた経済ジャーナリストの井上久男氏はこう言った。

「中国では教育に投資するんですよ。親戚が金を出し合って、ひとりの子どもの教育費を出す。その子が出世してくれれば、みんなが潤う。期待に応えられない子どもが自殺したりする。こうした競争社会もまた、おぞましい」

歪んだ社会主義下の競争社会もまた怖い。世界経済は本当にジャングル化し、暗中模索の時代になる。未曽有の混乱が長く続くのは避けられない。


阿佐海岸鉄道で室戸岬へ

2011-11-20 06:47:18 | ふるさと 土佐・室戸

「高知新聞」にこんなニュースがありました。徳島県南部の牟岐(むぎ)から高知県の甲浦(かんのうら)までの阿佐海岸鉄道で線路と道路を走行できる車両の走行実験が行われたということです。

 これが実用段階になると甲浦からは国道55号を一路室戸岬まで走れるようになるのでしょうか。リニアー新幹線は馬鹿げた国土破壊だと思いますがこれは四国南東部でのささやかな夢の実現です。

 僕が元気なうちに実現するのかなあ。東京~岡山~徳島~牟岐~甲浦~室戸岬。一度はこんな鉄道?の旅をしてみたいものだ。

大阪~徳島と船に乗って徳島~室戸岬と鉄道の旅もいいかな。ディズニーランドでの遊びとは違う夢のある旅をこどもたちに楽しんでもらうこともできるかもしれない。国立室戸少年の家で旅の夢を結んでもらうのがいいかな。

 

DMV四国初登場 阿佐海岸鉄道で走行試験
2011年11月18日09時30分
 徳島県や高知県、安芸郡東洋町などでつくる「阿佐東地域公共交通懇話会」は16日、線路と道路を走行できる車両「デュアル・モード・ビークル(DMV)」の四国初となる走行試験を、徳島県牟岐町のJR牟岐駅などで始めた。18日まで。運行予定はまだないが、高知県は「世界認定された室戸ジオパークまで周遊してもらい、徳島県側からの観光客誘致につなげたい」としている。 

 19日に一般公開 
 19日午前10時から宍喰駅イベント広場などで開かれる「あさてつ祭り」で、DMVが一般公開される。バスと鉄道のモード切り替えも実演。問い合わせは阿佐海岸鉄道(0884・76・3701)へ。 


                                              【写真】線路走行用の車輪を出すDMV(16日夜、徳島県牟岐町)

http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=282243&nwIW=1&nwVt=knd


川合川越市長へのお願い 学校給食について

2011-11-19 06:40:20 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

11月18日(金)曇

 寒い一日で夕方からは今シーズン初めてストーブの厄介になりました。

 市内に住む旧同僚の娘さんから電話をもらいました。3人のお子さんのお母さんで一番上の方が来春小学校に入る予定だとのことです。

子どもの内部被爆を心配して食材には気を配っているが小学校の給食が不安で市の関係者に問い合わせても木で鼻をくくった答えしか返って来ないそうです。同じ年頃の母親たちが連絡を取り合ってどうしたものか相談しているが知恵はないかというものでした。

 僕は不思議でなりません。こどものいない我が家でさえ、妻は安全な食材の確保に気を配っています。病院で医療被爆(CTやX線)の多い僕のことを慮ってくれているのです。学校長や市教委の責任者がなぜ母親たちの不安に真面目に対応しないのでしょう?

 川越市役所が被災地の支援だと言って福島産の農産物を販売したという話を聞いたことがあります。真偽の程は確かめたわけではありません。本当だとしたら困ったものです。

 福島や関東産の野菜などをなるべく食べないようにするのは安全性から考えて当然のことです。「風評」ではなく現実に放射能汚染の程度が高いと考えられるからです。

 農民の被害は東電が償うのが当然で、なぜ未来のあるこどもたちに食べさせなければならないのでしょう。行政の責任者は東電の手先になってはなりません。市民、なかんずく、子どもの健康を守るために神経を最大限に使うのが当然の職責です。

 長野県松本市の教育委員会が学校給食による内部被爆を「ゼロ」に近づける努力をしていると聞いたことがあります。さすがチェルノブイリ周辺でこどもたちの治療に関わった体験を持つ菅谷昭さんが市長をしているところだと思ったものです。

 川越の川合市長にお願いです。市民なかんずくこどもを内部被爆から守るために学校や家庭はどうしたらいいのか?行政の指針を打ち立ててください。こどもを持つ親達の心配に寄り添った施策を講じてください。特に保育園や学校の給食については万全の対策を講じてください。

 私たちは今までに人類が体験したことがないような災厄のただ中を生きています。どうしたらいいのか誰もが不安だらけです。最善の対策を講じるためにはチェルノブイリを「体験」してきた菅谷さんのような方のお話をみんなで聞いて考えるのもいいのかなと思います。市役所や市教委の方々と市民が一緒に考えるのです。

 

 松本とは国道254で結ばれています。市長が音頭をとって菅谷松本市長のお話を聞く会を開いていただけませんか。これは私が思いついた提案です。ご検討ください。

<参考資料>

松本市、学校給食で放射線測定 ウクライナ基準を採用(中日新聞・10月4日)


東京電力福島第一原発事故の影響で農作物が放射性物質に汚染された可能性があるとして、松本市教育委員会は3日、市内4カ所の学校給食センターで、給食用食材の放射性物質の測定を始めた。給食用食材の検査は県内の自治体で初めて。当面の間、汚染が懸念される地域の農作物を対象に毎日測定する。

◆県内自治体で初、当面は毎日測定

 納品時に食材の一部を対象に実施する。「サーベイメーター」と呼ばれる放射線測定機を食材に当てて計測。東北や北関東などの農作物が対象で、西日本産や食材の8割を占める県内産は検査しない。
 食品を対象にした国の暫定基準値は1キロ当たり500ベクレルだが、松本市教委はチェルノブイリ原発事故の汚染地となったウクライナの基準である1キロ当たり40ベクレルを採用した。
 この日は午前7時すぎから、西部(野溝西)、東部(原)、梓川(梓川梓)、波田(波田)の4カ所の学校給食センターで一斉に検査。
 市内の小、中学校38校、約1万9900人分の食材をチェックした。
 このうち、東部学校給食センターでは、センターの担当者が測定機で群馬産のキュウリ1箱を調べた。異常な数値は確認できなかったため、給食用として使うことを決めた。

 学校給食課の担当者は「給食で使用される食材の産地を市のホームページで公表しているが、保護者から放射能汚染を懸念する声があった。子どもの安全安心のために検査を続けていきたい」と話している。
 (出来田敬司)


日本人妻・北朝鮮残留邦人の救出を求める

2011-11-18 09:10:20 | 韓国・北朝鮮

坂中英徳さんが主宰する「移民政策研究所」が11月7日に以下のような要請書を内閣に提出したということです。

僕はこの趣旨に全面的に賛成です。助けを求めている人々は高齢で一刻の猶予も許されないところまで来ています。僕にできることは限られていますが移民政策研究所の人々に協力して行動します。12月14日には第3回目の「『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」を開催し、犠牲になった人々を追悼すると共に救出への決意を内外に示します。

 拉致問題の解決・帰国したコリアンの日本への自由往来の実現への道を切り開く第一歩でもあります。皆さんの協力を呼びかけます。

 

内閣総理大臣 野田佳彦様
外務大臣   玄葉光一郎様

北朝鮮にいる日本人妻、北朝鮮残留邦人等の早期救出を求める


 一般社団法人移民政策研究所では、北朝鮮帰還事業開始から50年目を期して、2009年12月14日新潟港において帰国運動の犠牲者の霊の平安を祈る追悼法要をいとなむとともに、今も北朝鮮に幽閉されている帰国者全員の解放を目指して「『あの日を忘れない』新潟港追悼集会」を開催しました。


 そして、集会において採択した鳩山由紀夫首相(当時)あての要請文「『日本人妻』の帰国を日朝の外交課題に」を中井洽拉致問題担当大臣(当時)に提出しました。その中で次のように述べました。

 〈現在も北朝鮮に軟禁されている帰国者全員を救出するため、まず「日本人妻」の帰国を日朝間の外交課題にあげていただきたい。この問題を日朝交渉で取り上げれば、膠着状態に陥った日朝関係を打開する糸口になるだろうと考えています。人質外交にたけた北朝鮮政府首脳は「日本人妻」を対日外交の切り札として温存してきたので、この話に乗ってくると見ています。〉

 私たちの要請に政治家がこたえました。2010年3月15日、当時の中井洽拉致問題担当大臣は参議院予算委員会で日本人妻の帰国問題について「あらゆる機会に、この問題を世界に認識してもらい、一日も早く帰国がかなうよう精いっぱい努力する。鳩山首相からは、北朝鮮にいる日本人の生存者をすべて救い出すよう指示されている」と答弁しました。

 それ以後、日朝間で日本人妻の帰国について水面下の交渉が持たれたようです。2011年7月2日付産経新聞の報道によると、北朝鮮側は日本側に「日本人妻の帰国」は可能と伝えたもようです。

 最近、北朝鮮政府が、生存している日本人妻をピョンヤンに集めたという情報も入っています。北朝鮮は日本人妻の出国の準備を進めているものと思われます。

 先の中井洽拉致問題担当大臣の国会答弁にあった「北朝鮮にいる日本人の生存者」の中には、在日朝鮮人と結婚して夫と一緒に北朝鮮へ渡った日本人妻のほか、もちろん拉致被害者が含まれます。さらに、日本ではすっかり忘れられた存在になってしまいましたが、北朝鮮残留邦人(北朝鮮残留孤児を含む)も救出の対象者です。

 そもそも北朝鮮帰国者問題の歴史を振り返りますと、1954年1月6日、日本赤十字社が北朝鮮の朝鮮赤十字会に電報を打ち、「終戦後も北朝鮮に残留する日本人の引き揚げが許されるならば、その引き揚げ船を利用して在日朝鮮人の帰国希望者の帰国援助をしたい」という日本政府の意向を伝えたことから始まります。

 このように、当時の日本政府の主たる関心は、在日朝鮮人の北朝鮮への集団帰国ではなく、在北朝鮮の日本人の引き揚げにありました。

 しかし、1959年12月14日から始まった北朝鮮帰還事業により在日朝鮮人の北朝鮮への帰国は実現しますが、在北朝鮮日本人の帰国は、1956年に36人が帰ってきた以外に、実現することはありませんでした。その後は、日本政府が北朝鮮残留邦人の救出に動くこともなく、多数の日本人が北朝鮮に取り残されました。

 日本に入国した脱北帰国者の数人が、北朝鮮残留日本人に会ったことがあると言っています。北朝鮮残留日本人の大半は山奥の一角に集団でおしこめられ、ジャガイモを主食として命をつなぐ、原始人のような自給自足の生活をしていると聞いています。

 私は、法務省入国管理局の行政官時代、一貫して在日朝鮮人問題、北朝鮮帰国者問題と取り組み、退職後は、移民政策研究所日本人妻等定住支援センター代表として日本に戻ってきた日本人妻等に対する定住支援を行っています。

 そのような立場から野田佳彦首相に緊急の提言があります。現在も北朝鮮に閉じ込められている日本人妻、北朝鮮残留日本人を救い出していただきたい。

 政府の助けを待っている日本人はいずれも70代・80代の高齢ですから、これは一刻を争う邦人保護問題です。日本人妻、北朝鮮残留日本人の帰国が実現した暁には、移民政策研究所が責任を持って、帰国された皆さんが祖国で天寿をまっとうしていただけるよう全面的に支援します。

 野田内閣が北朝鮮で生きている日本人すべてを連れ戻すため全力投球で臨まれるようお願いします。

 北朝鮮政府が日本人妻の帰国容認を示唆している千載一遇の機会を逃してはなりません。この絶好のチャンスをつかめば、拉致問題を含む、日朝間の諸懸案の解決につながるだろうと考えています。

    平成23年11月7日

一般社団法人移民政策研究所所長 坂中英徳




川合川越市長の「教育基本条例」見解を支持します

2011-11-16 20:47:52 | こどもたち 学校 教育

昨日届いた11月10日付の「広報川越」に川合善明川越市長の「教育について」という一文が載っています。その中で川合市長は大阪府の橋下前知事らが推進する「教育基本条例案」に「大きな危惧」を表明されています。

 穏やかで極めて常識的な見解だと思いますが、僕は心から同感し、市長に敬意を表します。学校や教育の抱える歪みは頂点に達しているのかと思うほどです。ひとりひとりのこどもと向き合う原点からの取り組みが教員や親に求められています。行政はそれを支援しなければなりません。

 川合市長の見解は抽象的ではありますが教育の原点を確認し、関係者の「不断の努力」を励ますもので時宜にかなっていると思います。

 大阪府市はこの条例案をひとつの争点として首長選挙の真っ最中です。大阪府教育委員のほぼ全員がその職をかけて「反対」の意思を表明しています。こんなことを許したら学校は知事の私塾になってしまいます。

 全国各地の自治体の首長や教育委員はどう考えているのでしょう。今こそ「大きな危惧」を表明して市民の教育への関心を呼び覚ます時ではないでしょうか。

 

 

市長からの手紙(17)教育について

(略)ところで最近、「教員を査定して最低ランクの評価を 

2年連続して受け、更に一定の指導等の手続きをしても

、改善見込みがなければ分限処分で免職できること」や

「高校の校長をすべて任期付きの職員とし、マネジメン

ト力の高さを基準に選任すること」などの内容を定めた

条例を作ろうとしてる自治体があります。

 最近の新聞にこの条例案の作成者のインタビュー記事 

が載っていました。その発言を見ても、この条例は「教

育とは知育に尽きる」という極めて割り切った、単純な

考えに基づく条例案のように、私には思えます。

 確かに知育は重要です。しかし、学校が単にテストで 

良い点を取れる子どもをつくる場であるべきではないこ

とは誰でも分かっていることです。知育偏重体制の学校

を、しかも、少々強引な手法で作ろうとしている状況に

、大きな危惧の念を抱きながら注目しています。

 本市の学校では、将来の川越を担う子どもたち一人ひ 

とりが、知育だけに偏らずバランスよく豊かな人間性を

育んでいけるような教育に取り組んでいます。

 

 関連「川越だより」・「大阪府教育委員の見解」http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/2bad10f083897481413b62f7f8154958